R's/ Field Research 地域歴史・文化資源

地域の歴史・文化資源の再発見ブログです

全日本博物館学会での感想

2012-06-20 07:01:28 | 地域博物館

地域博物館への期待①


 今週の土日(6月16.17日)に明治大学で全日本博物館学会が開かれました。私は日曜日のみの参加でしたが、年々若い人たちが多くのレポートを発表するようになり、学会がここ数年非常に活性化してきていることは何よりと思います。残念ながら私は今まで博物館の運営側に立つことなく過ごして参りましたが、一人のユーザーあるいは博物館が好きで博物館に期待を寄せる一個人として議論の動向に関心を持ち続けております。


 さて、当日の様々なお題の中で私が関心を持った幾つかの話題をヒントに私も博物館について考えてみます。ここでは「パブリックヒストリー」と博物館について考えてみます。 「パブリックヒストリー」とは個人史を含む市民の歴史をコミュニティーの形成の歴史と併せて検討する領域と考えております。Publicは実態として日本では充分成熟しおらず、日本におけるパブリックヒストリーの展開という実践には若干違和感は覚えますが、博物館との関係で言えば、従来の言い方で言う地域博物館は地域史の拠点で有り、地域の所在する文化財や歴史・自然を通して地域の形成を考え、地域アイデンティティー確立の場とするような考え方とは違いがあるように思われます。パブリックヒストリーの考え方の延長には継続的な地域コミュニティーを作り上げていくための実践的な課題も内包しているように考えるからです。(現状の博物館がまちづくりの核となるかについては、一度留保しておきます。)日本では地域における教育活動を社会教育として位置づけ、就業支援や余暇や趣味の向上に力点が置かれていたと考えています。地域では何より公民館活動がその先端を担ってきたのですが、生涯学習という方針の下に再編成がなされて今日に至っていると言えます。実は公民館と地域社会の議論ではすでに30年ほど前から議論が戦わされてきたように記憶しています。1970年代から80年代にかけて、私の周辺では公民館をコミュニティーセンターと呼び換え、社会教育主事の業務は住民の自発的な活動をサポートするないしは場所を提供するためのサービス機能の仕事となり、公民館の存在は現在の生涯学習路線や自主学習グループへの場所貸しへと機能を変化させていったと言えるでしょう。最近、地域の拠っては自主自治の拠点(集落を越えた広域住民自治機能のセンター)としても機能しているようです。


 博物館の話題に戻ります。博物館活動にとってパブリックヒストリーの担い手は誰かと言うことになると、その中心はやはり市民と言うことになるのだと思います。数年前の事になります。長野県の北信に牟礼村という飯縄山の麓に展開する地域の博物館を訪れたときのことです。現在では町村合併で隣接する三水村と合併をして飯綱町となっていますが、「むれ歴史ふれあい館」と呼ばれる地域博物館に於いてある企画展を行っていました。企画展は地域の「区」と呼ばれる集落がおのおの展示の企画から制作までを担当し、学芸員がその展示内容についてサポートするという仕組みで行われており、その準備作業を目撃することが出来ました。館ではすでに数回にわたり継続しており、今回の担当地区はかつて農家の副業として行われていたマッチの製造についての展示をメインテーマとしていました。企画展示にあたって、ジオラマ風の制作状況の人形を伴う実代模型再現から、展示資料の取捨選択・解説などすべてが地区住民の手によって制作設置が行われたのです。私はこの展示を目の当たりにして一種の興奮を覚えました。展示はある種のコミュニケーション手段であると考えている私にとっては、伝達しようとする意思の強さを感じたからに他なりません。前年度は別の「区」が地域の伝統的特産品の一つである「信州鎌」の展示であったそうです。館の学芸員のお話によると、信州鎌についてはすでにいろいろ研究もされており、充分な成果もあるテーマではありますが、地区住民の手による展示は一般の研究者が開示できない別な重要な課題を提起したと言うことです。 詳しくはここでは述べませんが、研究の側面からもこうした展示の方向性は期待出来るのではと考えられます。私はこのような活動においても「展示で表象する史実・証言は、歴史家に証明された歴史ではないが、事実と思われることが学的に証明される時間を省略し、一般の人々の展示テーマに対する認識を問いかける働きがある。」(秋山かおり 全日本博物館学会第38回研究大会発表要旨集 所収2012・6/17) と考えています。

 
 パブリックヒストリーといった場合、私は「個人史も含んで」と記しました。定義に合致しないかもしれませんが、地域博物館が地域の総合的な記憶装置であるならば、その基礎要素である家族史の問題も視野に入るべきだろうと考えています。博物館のユーザー側から見れば、図書館にレファランスという機能があるように、地域博物館においては、個人としての市民が自らの歴史を叙述する為のレファランス(叙述支援)のような機能をもってしかるべき、であろうと考えるのです。たとえばいわゆる団塊の世代は社会現象としての核家族という実態を過ごしてきました。是はそれまでの成長過程の地域とは別の地域に居住・生活をしてきた経験の総和をもっており、その総和を誰にどのように伝達しうるかと言うことです。祖父母からの伝承や地縁経験は途切れざるをえません。当該世代以降私たちの多くは、核家族という生活スタイルを「理想」とし、自らの出生・生成の地域(ふるさと)とは別に生活域を設けて暮らしてきたわけですが、いわゆる平成40年問題(墓地業界で言う大量の墓地需要・子孫係累に墓守としての継承を望まない自己始末)の前で、自分史を地域史の延長で捉えることが困難になっています。地域や家族紐帯からの「解体」(姓氏の解体)を自ら望んだといえばそれまでです。「公」が地域の集合記憶装置であるならば、「私」は「自伝」すなわち今風に言えばプロフィールのタイムライン化を通した個人的な記憶(自伝)の中でとどめておくべきであると言うことになるのでしょうか。一般に「公」が「私」を取り込む場合は 「私」が「公」として認知される必要があります。従来で言えば「某氏記念館・偉人館・先人館」や「文学館」などがそれに該当すると思いますが、それは一般に望んで出来るというものではない事は事実です。ですから「自伝」は「個人の責任の範囲で勝手に叙述すればよい、ただあなたの履歴に関心のある人はごく僅かで有り、その僅かな身内ですら私の自伝に関心を向けることがないかもしれない」という言説があるならばそれは正しいとも考えます。それでもなおパブリックでないプライベートも存在しないのも事実であろうと考えています。


 午後のセッションでは、本年新設の平和祈念館の実践報告がありました。一般的にこの種の施設はその性格から言って先のアジア・太平洋戦争(十五年戦争)下での市民の労苦を知り、今日の繁栄の感謝と平和への希求を行う目的で設置されたと言えるでしょう。従って行政立では教育部局よりは厚生・総務市民部局などが主管となることが多いようです。私はこの種の施設の活動を歓迎する立場にはいます。これもまた可能性としてのパブリックヒストリーの現場であるからです。報告にあった滋賀県平和祈念館の今後の活動に期待しております。私は発表の後一つの質問をさせていただきました。それは私が直接、ある学芸員から聞いたことですが戦争下の遺品を持ち込まれても博物館としては受け入れることが出来ないという傾向についてです。すなわち「軍服」などのような軍装品など故人が「大切にしていた」物を、遺族が博物館に持ち込んでくると言うことを指しているらしいのです。遺族にしても処分に困ると言うこともあるかもしれませんが、少なくとも亡くなられた故人も含め、それらのものが「公的なもの」という認識を持っていると考えるから寄贈の申し入れをするのだと考えています。「軍歴」を示す軍隊手帳や関連する遺品などは故人にとってかけがえのないものと考えると同時に、公的に返納するという意識が働いているからなのだろうと思います。的確な質問ではなかったと後から反省はしたのですが、資料受け入れ原則の再度の説明と受け入れにあったては資料を吟味した個別対応というご回答で了とさせていただきました。パブリックヒストリーとしての地域戦争体験(それは加害や被害の区別無く)は「公」として避けられない課題だと思います。郷土部隊としての活動や戦時下の暮らしは家族の同時進行の歴史でもあったのだと思います。

(未完)
2012/6/19


考古学教育への期待3

2012-06-01 20:08:36 | 考古学教育

(1) 私は、学生時代より教育委員会や財団直営の発掘から、遺跡調査会という任意団体さらには民間コンサルタント(文化財事業部門)での調査を経て、現在は展示を主な業務とする会社を経由しました。発掘現場からは既に20年近く遠ざかっていることから、現場での状況については熟知しているものではありません。しかしながら、遺跡調査現場からは離れたものの、この20年間、幸いなことに考古学(文化財)周辺にいて、史跡整備から博物館・財団の収蔵庫や展示施設など計画・立ち上げに参加・支援という形で関わることができました。こうした経験から「埋蔵文化財」と地域の置かれている問題点について考えてみました。

2)調査組織について

発掘調査の組織運営は、一つのプロジェクト管理に例えてとらえることができます。すなわち有限の期間と資源を使い、ある目的を達成する行為という性格を持っていると思われます。遺跡の記録保存を動機とした発掘調査にあっては、発掘調査行為の対応(タスク)を経て、「保存」を完了、文化財としての認知・登録を行い、活用に向けて計画と実行に移行することが一般的であると考えます。埋蔵文化財に対する行政事務の範囲は、この全てにわたって関与し、国民が負託する文化財保護の実現向けて評価・行動することが求められています。一方で現行埋蔵文化財保護制度における問題点は、行政を支える法律的な仕組みが充分に整っていない、その結果体制が不十分であることが指摘されています。このことは行政事務担当者ばかりでなく発掘調査担当者を初め、事業者(発掘者・原因者)にとっても諸問題を生起せざるを得ない点であろうと思います。

 事業者は事業の実行に当たっては、事業計画のリスクマネージメント(※)を周到に行う必要があり、支出(発掘調査費など)を含め全ての事項に説明責任が求められています。これは保護行政側ばかりでなく、原因者側の行政を含む法人・企業法人にとっても同様です。とりわけ企業においては内部統制を含む業務標準化が課題となっていて、全ての事項に文書による説明可能である状態が課せられています。いちど開発プロジェクトが立ち上げれば、プロジェクト管理者はリスク分析を行うことが必須となります。周知の包蔵地に対しては、協議・調整の過程でリスク分析に関する詳細な事項につて説明を求めてくることになります。その場合、行政側においても、対応するリスクについての分析が迫られます。とりわけ発掘調査準備段階でのマネージメントは、事前協議を行い、経費・組織・工程・結果などの各分野において、意志決定が迫られることになります。発掘調査におけるリスク分担(各ステークホルダーの分担)に対応する管理能力もまた問われることになります。「文化財を保存する」という大前提があるとしても、業務の進捗から、調査の全工程で予測されるリスクから社会的損失を発生させない、あるいは極小とすることも調査能力として業務評価の対象となるでしょう。少なくとも相互の暗黙の善意を期待することはできないといえるでしょう。

※リスクはJISQ2001に示す定義TRQ0008  3.2危害の発生確率及び危害の組み合わせ。とする。

3)発掘調査者に求められる能力

 発掘調査者に求められる能力については、専門職としての学術的知識を当然のこととし、同時に公的に奉仕する意志を兼ね備えなくてはなりません。これについては、近縁の領域では国際博物館会議における職業倫理規定(1986)を私自身の職業観の参考としています。しかしここでは別の角度から検討を加えてみたいと思います。近来継続的に考古学協会等で議論されている課題として、「資格」要件の議論があります。考古調査士や埋蔵文化財調査士などの資格が実際稼働して任意認証されていますが、法的にも慣習としても現行は何ら根拠を持っておりません。その議論についてはまた別の機会に譲りますが、参考とすべき排他的ではない資格のうち議論の参考のために技術士制度についてみてみたいと思います。技術士は「技術士の名称を用いて、科学技術に関する高等の専門的応用能力を必要とする事項についての計画、研究、設計、分析、試験、評価またはこれらに関する指導の業務を行う者」(技術士法)と規定されています。専門性があり様々な技術分野(21部門)で、その職業倫理を含め規定されています。このうち平成12年に新たに作られた総合技術監理部門は、発掘調査部門でも考古学調査の専門領域に加えて、大いに参考となると考えます。実際技術士法の所管も文科省であるので、既に検討されているものとは思いますが、発掘調査を一つのプロジェクトとしてとらえるならば、示唆的な知識習得領域が多いといえます。技術士の教育認定機構(JABEE)では、技術者教育の社会の要求水準に応えて、学習・教育目標を定めています。(www.jabee.org)これを参考にして、考古学における発掘調査技術者の求められる基礎能力をまとめると以下のようになるかと思います。(これはあくまで個人の感想です)

a) 地球的視点から多面的に物事を考える能力とその素養(発掘調査者としての歴史哲学)

b) 調査が社会や自然の及ぼす影響・効果に関する理解力や責任など、調査者が社会に対する責任を有するという自覚(発掘調査倫理)

c) 発掘調査にかかる周辺技術(保存科学・修復技術・標本学・博物館学など)に関する基礎知識と応用できる能力(学際・共同能力)

d) 該当する分野の専門知識と、記録・公開する能力(研究能力)

e) 種々の科学・技術・情報を利用して社会の要求を解決できるデザイン能力(社会性)

f) 日本語による論理的な記述力、口頭発表能力、討議などのコミュニケーション能力(コミュニケーション能力)

g) 自主的・継続的に学習する能力((学習能力)

h) 制約の下で計画的に仕事を進め、まとめる能力(プロジェクト完遂能力)

これは一つの理想型とも思いますが、職業観及び教育学習の指針として自らに課し、努力を続けたいと考えております。


考古学教育への期待2

2012-06-01 19:58:17 | 考古学教育

考古学教育への期待2

1 考古学を通して歴史を叙述するに際して、どのような時代を対象とするにせよ常にある限界を持ち続けている。それは対象とする遺構・遺物がまさに「遺」であり、「物」であることに起因する。研究者は「遺」の状態を所見する事により、さらに「物」を通して「事」を解釈する。遺跡に対して所見を獲得する行為は、層位(時間)と型式(行為と空間)の分析を駆使した歴史認識の過程である。科学として歩んできた近代考古学は、実証精神を拠り所として、また、その固有の方法論を以て例えば先史社会を論じようとしてきた。文字による記録対象でもなかった人間の重要な営みは、その想像力の導き手として、確かな記録や民族・俗事象を援用して、思考の補助を行ってきた。その営みは続いている。この営みに時代対象の限定がないのは、「土地に刻まれた歴史」(古島敏雄・1967)を示すまでもなく、土地(陸)は地の塁層を増減させながら現代に続いているのだから。
2 さて、子供達に考古学を説明する際に、以前には、発掘をある犯罪事件の現場を警察が検証を行うことにたとえた。捜査は、現場に残された痕跡や遺留品などの物的証拠から犯罪性を検討し、犯人を類推する。発掘もそのような物である、と。子供達への説明はここで終わる。しかし事はこれからである。仮に犯人を特定して、罪を明らかにしたとしても罰を与えることはできないであろう。犯行に至った経緯や動機、また結果に対する認識等が加えられ、ある基準の中で本人の再生にかかる意志や被害感情、社会の意志などから裁判が行われ罰が加えられる。これが一つの物語である。事の顛末である。同じ犯罪行為でも、場合によっては軽重が生まれ、時としてえん罪という別な物語も生じる。発掘はこの物語の発端の一部に過ぎない。物語を完成させるためには、例えば地震災害を示すの町屋においては、極端な言い方を許していただければ、ゴミ坑に集積された遺物を見て、住民の再生への意志なのか、悲しみの中での片付けなのか、あるいは都市計画におけるように命令があり住民の意思とは別にあるのか、どのように見るかでシナリオにおける住民の表情は変わってくる。物は廃棄・遺棄・埋納・持ち去りによる欠品など様々である。そしてそれは生活の物質文化の全てではない。それぞれの行為におけるいわば心性も含んではじめて物語となるのであろう。
3 (略)
4 江戸遺跡研究会が編纂した『災害と江戸時代』(2009・吉川弘文館)において、古谷尊彦は工学の立場から「自然災害と考古学」と題して、示唆的な提言を行っている。古谷は、考古学を「土層断面と各層の面の広がりに内包する物証によって、人の思考を経由せず、文字に書かれていない、過去の人と自然が関わった歴史を把握、考察できる学問領域」と認識し、「その場所」における遺跡化のプロセスは「(自然の営為による)現象と人間の側との相互関係」とみてとる。さらに災害史の研究において「自然のマイナス要因に対処する技術の獲得が安定な生活の保障につながり、その技術が具体的にどのようなものであったか、検出する必要がある。」ことを取り組む課題として提起する。古谷の提起することを私なりにとらえるならば、「その場所」、つまり遺跡発掘現場とその四囲は「定点」であり、その定点に依拠して、自然との類的存在としての人間の歴史の解明である。いわば定点観測なのである。災害を乗り越え継続して生活を再構成する人間の営みである。
 私自身の調査例で言えば、東京近傍三浦半島の漁村の近くに立地する遺跡での経験がある。(1990)調査地に乗り込んだとき、棚田状の畑地の耕作は既に放棄され、丘陵鞍部の土砂が大部分削り取られ、残っていた平地は荒れ地となっていた。斜面部に路頭する基盤は風化泥岩の層で、地滑りにあった痕跡を残していた。かつての斜面部は地滑りによって階段状の平場が形成され、人は耕作地に変えた。詳細に検証すると、地滑り災害が発生した以降、事業面を形成し、段差を利用して家を建て、柱穴の観察から少なくとも建て替えも行われた。居住したのは判出遺物から16世紀頃と考えた。段差の中間部には集石溝が施され排水を意識した構造を呈していた。残念ながら地滑りの発生時期を特定するには至らなかったが、記述にない土地の歴史に一石を投じることができた。同時に地滑り跡地を利用した生活態様に光を当てることができたのである。
5 江戸遺跡といった場合、江戸を空間として措定する都市を意味する事のようである。近世考古学のうち都市江戸を定点として、都市江戸を構成する人々の生活や観念を、考古事象から検討し東京再開発の今を見ようとする。その契機は戦後復興の都市東京が新たな展開を見せたからである。これは1970年代から起こる都市民俗学なども期を一にしながらとも思える。江戸は17世紀以降、「普請」と 「復興」を繰り返してきた。近世考古学は都市江戸をフィールドとして、変貌のレイヤーを描いてきた。一般に言われる「都市と農村」の問題は、江戸と近郊、天領下の村や宿場の実態、同時に地方都市(藩政下の都市生活)課題を拡大して行くに違いない。同時に昭和19年から20年にかけて行われた米軍による都市無差別爆撃以前の近代遺跡へと対象時代の拡大を進めている。定点における歴史層の叙述は文献・民俗・考古学の方法論も含めて境界領域を拡大しながら進められて行くに違いない。
2010年1月23日レポート初稿。2012年5月23日FB用改訂