R's/ Field Research 地域歴史・文化資源

地域の歴史・文化資源の再発見ブログです

考古と環境教育

2012-05-31 23:29:40 | 考古学教育

縄文文化と環境教育(抄)

 ここ数年縄文文化が多くの人によって、また場面で注目を集め語られています。青森県三内丸山遺跡には何百万人という人々が訪れたということですし、新聞紙上でも縄文文化の新しい「発見」が相次いでにぎわしています。また考古学者だけでなく作家や評論家、哲学者による縄文に関する単行本の発行も多くなっています。この現象はある種の「縄文ブーム」の感を呈しているといえるかもしれません。これほど多くの人が、それぞれの立場で縄文文化を語り、期待している要因はどのようなところにあるのでしょうか。
 縄文文化を引きつける要因を環境の側面から考えるとどうでしょうか。現在国を挙げて環境教育の問題が叫ばれています。学校教育の現場では、理科や社会あるいは生活科などの教科において、従来の授業のプログラムとは別に環境教育の様々な実践例が報告されています。実践例にみられる共通の特徴は、学校を取り巻く地域の環境について体験的に授業を行っている点にみられます。またその発展として地域の生涯学習と連動していく事例もみられます。このような動きは現在様々な分野で急速に広まりつつあります。
 環境教育に関するプログラムは元々欧米に端を発しています。そこにおける実践例は行政を含むあらゆる分野で執り行われ、都市計画を始め地域開発の指針に生かされています。このような動きは当然世界各地で噴出している環境の劣化に、呼応するものだと思います。そこに流れる基本的な考えは、地球を一つの生命体として認識し、生活の効率化や便利さのみを追求するのでなく、自分たちの暮らす地域での生活様式を転換させることが地域の環境のみならず、地球規模の問題の解決につながるという視点であると考えます。「地球規模で考え、足下から行動しよう」というスローガンはこのことを端的に示していると思われます。
 環境をとらえる見方に、自然との共生という言葉があります。現在いろいろな場面で語られますが、この共生思想は、人間は自然を一方的に消費するのではなく、また一方的に自然によって押しつぶされるのでもなく、なにより調和を大事にしようという考え方だと思います。しかしこれは言葉とは裏腹に大変難しい生き方なのだと思います。こうした生き方を再度日本人として取り戻し発展させるには、「資源の開発から心の開発へ」という視点がなにより重要になってくるのではないかと考えられます。
 そのためにはやはり、「人間を知り自然を知る」ことが重要となってくるはずです。縄文人は、自然を知る達人であったと多くの人が指摘しています。生きるという基本的な動機から自然界の多くの生物相の中から、自分の食料として糧になるもの有効に利用できるものを巧みにわけ、その全てを周囲に環境から取り込んで生活してきたという指摘があります。現在の日本人の食料的伝統の多くは、縄文人たちが作ってきたともいわれています。そうした自然への知識は同時に、自然に対する畏怖や尊敬につながっているとも指摘されています。これは縄文人が自然に対する絶対的優位性をついに認めようとはせず、むしろ本源的には同位であるという観念に他ならないと思えるのです。現代の人たちが縄文文化を従来にない熱い思いで期待しているのは、そうした縄文人たちの生活観念に対する同調があるのかと思います。
 自然の不思議さはいくら科学的に分析しても、不思議さはさらに拡大します。その不思議さを美しさとして感じる心は、科学の先端でも認められます。たとえば電子顕微鏡度みられる命の形態の美しさは、グラフィックとして展示されますし、宇宙に飛び立った飛行士や科学者は地球の美しさや危うさを実感すると同時に、生命の不思議さに感動して地球に降り立つといいます。環境教育の基本的な目的は次のように語られます。「自然のもつ美しさ、不思議さ、神秘さに目をみはる感性を子供時代に育むことが、他者と共感する豊かな感性と想像力を生み、時間的にも空間的にも視野を広げることが出来るのである。」と。

 

 


考古学教育

2012-05-31 18:39:41 | 考古学教育

(本紙は10年ほど前に群馬県埋蔵文化財事業団『発掘情報館』の定期刊行物「遺跡に学ぶ」に投稿した原稿をベースにして再掲載する。)

 「遺跡に学ぶ」は「学校及び教職関係者向けの埋蔵文化財情報誌」という主旨で発刊されており、最新の遺跡情報や成果が一般向けに報告され、同時に学校現場の先生方が埋蔵文化財を教材として取り組んだ実践例が数多く報告されている。埋蔵文化財を積極的に学校教育に取り込む活動は各地で行われてはいるものの、私なりの評価で言えば本格的かつ持続的な成果としては、県埋蔵文化財調査事業団の一連の活動が嚆矢といえる。とりわけ同事業団が主催して開かれた「考古学教育を巡る国際シンポジウム」('01年11月開催)とその成果の公表('03年3月公刊)は、英国における考古学教育との紹介や県内における実践例を持ち寄って討議するという画期的な場であった。 私は観光目的ではあったが、英国に足を運び博物館や遺跡を見学する機会を2度持ったことがあり、その都度各博物館や史跡整備において、運営設置者側の観覧者に伝えようとする意志の豊かさや態度の深さに感銘を受けた覚えがある。また博物館においては教師に引率された生徒たちが熱心にノートをとる姿もしばしば目撃した。博物館教育が日常的にごく普通のこととして組み込まれている姿にうらやましくもあった。

  さて、考古学が対象とする資料は一般的に様々なアプローチは可能である。実際、美術音楽から始め、国語・算数など歴史社会のみならず学校各教科からのアプローチも示されており、生活事典としての資料や遺跡を見る総合学としての面目躍如たるものも感じる。その点は今回おくとして、考古学が基本とする方法は、分類:型式、層位:編年、分布:比較などを通して歴史的事項を解釈し再構成するものであると考える。このような学の思考回路を体験することも重要な考古学教育の課題でもある。分類は他の研究領域でも重要な方法であり博物学では基本である。考古学では発掘現場から得られるおびただしい量の遺物を分類し個体を抽出、接合・計測・比較などを通して同定し、出土状況などの検証を行い歴史的に意味づける作業を行う。博物館などではその結果としての資料の展示が行われ、博物館教育ではその意味づけた結果をいかに的確に伝達しうるかという事に関心が向けられる。しかし結果に至るまでの工程についてはなかなか展示にはなじまないのか、発掘再現や業務紹介の展示などは見受けられるものの基本的には余り行われていない。分類や登録行為は考古学に限ったことではなく、私たちは日常業務の中でも数多く行っている。たとえば周りにはおびただしい数の商品カタログがあり、設計や製作を行うものは常に商品知識を自ら登録し、引き出していている。私の手元にある工具カタログにはハンマーだけで用途・機能・形態・材質などから分類されるもので24形式、さらに寸法や重量を加味すると実に59種に分類登録されている。このような例を引くまでもなく、分類・登録は日常生活でも様々な場面で行っている重要な行為である。(分類の意義や歴史については吉田政幸著「分類学からの出発」中公新書1148参照のこと)考古学においてはある層位や地点から出土したおびただしい土器などの破片資料を、その部位や形状・文様などの情報を読みとり経験知や学習をすべて動員し的確に個体識別にいたり、復元を行うのである。分類の過程で形式認知が行われていく。子どもたちがこのような作業のプロセスを体験することは大変意味のあることである。

 この場合当初からたとえば土器の細かな属性を教える意図で事を進める必要はなく、子どもたちにとって身近な資料を対象にすることでよい。たとえばジュースやお茶の缶やペットボトルでかまわない。現代では飲料の容器として缶やペットボトルはもっともなじみのあるものである。後世の人が缶やペットボトルの「堆積」を発見したとしたら、私たちの時代を「缶・ボトル文化」と呼称するかもしれない。冗談はともかく、安全が配慮され技術的に可能なら、複数のメーカーの様々な飲料缶などをそれぞれ50ピースくらいに分解して一緒にまとめてしまう。子どもたちは各部品を分類し「接合」を試みる。プルトップの形状は?底部は平底かくぼんでる?ロゴやデザインや文字情報は?組み合わせるとどうなるか。各部品から様々な情報を読みとりながら復元を行う。最後には完成型とともに情報を整理する。そしてその各について調査を行う。調査は文献・聞き取り・ウェブ検索など様々な方法を駆使する。缶の種類や歴史を学ぶと、ブリキ缶などは800年の歴史があり、用途によって実に様々な缶があり、飲料缶で慣れ親しんでいるプルトップは10年前に現在のようになった(ちなみにステイプルトップというのだそうだ。東洋製罐より教示)、事などを知る。そして素材や成分、形状の理由や缶そのものもの意義を語り合う。歴史や飲料、環境について話は展開する。このような認知行為は土器を見るときにも同様である。

 実はこうした考えはイングリッシュヘリテージ発行の教師用のガイドブック「資料から学ぶ(learning from objects)」(1990)など一連のテキストの中で示されていて、特に「資料から学ぶ」に掲載されるマクドナルドの「ビックマックの容器の50通りの見方」などは実に示唆に富むものである。かつて「暮らしの手帖」で行われていた商品テストとまでは言わないにしろ、私たちの日常に溢れかえっているもの、それを読み解く力を求められているのではないだろうか。 考古学教育にとって対象とする歴史的文物の知識の獲得や時代背景について学習することはもちろん重要なことではある、しかし同時に観察や分類など思考の方法を獲得する方法として学習する魅力を考古学は内包していると思えるのである。

 文物ばかりではない。 別なアプローチも想定してみよう。たとえば死者の記憶について考えてみる。縄文時代の死:狩人の墓、集落と共同の墓、埋甕 弥生時代の死:再葬墓・集落と隔絶した墓・戦闘死 古墳時代の死:大王墓と殉死・不老不死と道教 奈良平安時代 仏教と浄土の教え・生の希求と死の恐怖 中世の死 災害死・武士の死 江戸の死 近代の死(戦死) 現代の死:家族やペットの死・無縁の死などなど。人々が死と向き合ってきた歴史を解きほぐしていく。埋蔵文化財として死の痕跡は各所に見いだせるものである。加えて歴史資料や民俗文化財などの資料から構成することは、死について向き合う契機として生きる意味を模索することにつながると考える。こうしたことは学校教材としてなじまないことかもしれないが、家族の墓から解きほぐしていく歴史のようなテーマ設定は案外子どもには通じるのではと思う。

 いずれにしても、埋蔵文化財(資料や遺跡)を使って様々な接近は可能である。さらに地域の景観や空間を把握するための学習法としての考古学もまた有効であることは授業実践報告でも明らかである。また子どもたちが調査した内容を他者に伝えるための様々な技法の獲得もまたスキルの向上にとって有効である。考古学を通じた学習計画は多様な試みが可能なのであり、一つ歴史の学習だけでなく、文化財を遺産として大いに活用願うものである。  総合学習が「生きる力」の獲得を目指して推進されるという大枠は、細かな是非は別としても、対象を一線的に学ぶことから、始点を自由にして学ぶことと理解する。私にとって学校教育は生涯学習の基礎階梯であり、生涯学習の目的は私にとって「生きる場の哲学」(花崎皐平 1981)を獲得するための持続的営為にすぎない。発掘情報館ならびに事業団の諸活動と学校教育との切磋琢磨を熱く期待するとともに、生涯学習機関としての発掘情報館そして交流誌「遺跡に学ぶ」の充実を願ってやまない。                                                             2003年6月30日(2012年5月21日FB用改訂)                                                     (東京都在住 関塚英一)