実は私は歴史も結構好きでして、今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも結構ハマっています。
鎌倉時代は今から800年ほど前の時代ですね。私が学生時代には「良い国(1192年)造ろう鎌倉幕府」という語呂合わせで記憶していたのですが、最近では「良い箱(1185年)造ろう鎌倉幕府」という語呂合わせで記憶されていると言います。私が若い頃には源頼朝が征夷大将軍に任官された1192年が幕府設立と教えられて来ましたが、近年では源頼朝が全国に守護・地頭を置いた年代(1185年)を実質上の幕府設立と見る考え方になったそうです。
一口に鎌倉時代と言っても、私はあまり細かい事を理解していません。日本史上で初めて「武家政権」が誕生じた時代だという事と、「承久の乱」により武家が朝廷を越える力を持った時代だという事は理解していました。また当時の日本各地では荘園の管理者と鎌倉幕府の設置した地頭が、それぞれ土地争いをしていたという事もあったようで、日本国内では武家と朝廷という二つの支配構造が存在したんだろう、という事と理解していたのです。
ただ謎なのが、源頼朝か作り上げた鎌倉幕府で、源氏嫡流が三代で途絶えたのは何故か、そしてその後の執権政治はどの様に始まったのか、という事はあまり理解しておらず、今回の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、そのあたりがドラマの物語として描かれているので、個人的にはとても興味深くみています。
◆三島大社
実はバイクを購入する前、今年の3月にドライブを兼ねて次女を連れて伊豆の史跡を少し巡ってきました。まあバイクの記事ではありませんが、少し内容を書かせて貰います。
今乗っている車はトヨタのVOXYで、もう八年ほど乗りまわしている車です。これで自宅から箱根越えをしてまずは三島大社へ向かいました。
この日は天気も良く、多くの人が参拝をしていました。この三島大社は創建年代は不詳と言う事ですが、大山津見神(おおやまつみのかみ)を主祭神としている神社だそうです。この「三島」は伊豆大島を始め、三宅島などの伊豆諸島に由来する言葉と言われていますが、この周辺には伊豆国の国府が置かれていて、伊豆方面の中心地として昔からあった町だと言われています。
この日は三島大社で朝市なのでしょうか。幾つかの露店も出ていて、そこでは干物や瀬戸物類などが売られており、次女としばし見て回りました。次女はおみくじを引いて「中吉」だったと少し残念そうでしたが、境内をぶらつくと趣きのある神社であると感じもしました。
いま日本国内では宗教団体が多くあり、その信者数を合計すると裕に二億人を突破すると言われています。しかし最近感じるのは、日本人の心の中には「アミニズム信仰(精霊信仰)」が根強くあり、しかも八百万の神々を長きに亘り信仰してきた民族でもあるので、こういった神社も未だ多くの人が参拝するのではないでしょうか。
この三島神社から南、伊豆の国方面へ向かうと北条氏の館跡があるので、そこへ向かいました。
◆北条氏の館跡
三島大社から出て、国道136号に乗ってひたすら南下する事30分、そこに「守山西公園」があります。ここは北条氏館跡(円成寺跡)と言われていて、狩野川のすぐ脇にあります。周囲はとも静かな場所だと思いますが、ちょうど行った日は関東方面に「春一番」が吹き荒れていて、風が結構強い日でした。
今年の大河ドラマで取り上げられている事もあってか、この場所は良く整備された公園になっていて、今では単なる広場なのですが、往時の館はどの様になっていたかを説明する設備も展示されていました。
鎌倉幕府では「御家人」と呼ばれていましたが、要は源頼朝と主従関係を結んだ武士をその様に呼んでいました。ここには「御恩と奉公」という関係性があり、御恩とは幕府がその武士の所領を認め安堵する代わりに、武士は幕府に対して奉公する事で忠義を尽くすという関係です。
つまり簡単に言えば利害関係でつながっているという事ですね。
私なんかは「武士」と聞くと、ついつい戦国時代以降の事を想像してしまいますが、鎌倉時代当初の武士というのは「豪族」と言われ、それぞれの地に住みついている有力者の事を指していたのではないでしょうか。そして有力者はその領地に住む領民の中から兵士を起用し、また土地の領民から税収を取り土地を治めていたのでしょう。この館跡についてもけして豪奢な建物とは思えませんし、どちらかというと土地の農民の中心者であったのかと感じました。そしてそれが「豪族」と呼ばれていたのでしょう。
武士と聞くと忠節とか所謂「武士道」的な事も想像したりしますが、この鎌倉時代初期には、その様な道徳観というか考え方もまだ固まっておらず、「鎌倉殿の13人」で佐藤浩市氏の演じた上総介広常が言っていた「素直な男」という様に、それぞれの豪族は自分の一族の損得勘定で動いていた様です。
また当時の日本は、それまで奈良や京都が政治の中心地であり、今の関東地方、当時は坂東と呼ばれていましたが、今の神奈川県の足利峠、長野県の碓氷峠より東の地域は、未開で粗野な人達の住んでいる場所であると蔑まれていた様です。過去には「平将門の乱」があった坂東ですが、やはり京都方面の西日本に対しては、坂東の豪族たちは対抗意識もあった様で(対抗意識という表現が適切かは置いておいて)、そんな坂東武者が源氏を担ぎ上げて出来たのが鎌倉幕府であったと言えるでしょう。
この北条氏の館跡地を見ていて、私はそんな事に想いを巡らせていました。
このあと、伊豆スカイラインの令川ICを通り抜け伊東市に向い、伊東市役所脇の物見塚公園にある伊藤祐親像を見に行きました。この場所からは伊東市内を見渡す事が出来ましたが、当然の事、鎌倉時代往時の姿を垣間見るものはとても少ない感じでした。
まあ800年も経てば、当たり前なんですけどね。
伊東祐親は、平家を後ろ盾にしてこの伊東から伊豆一帯を支配していた豪族です。彼が平清盛から言われ源頼朝を預かりましたが、その娘の八重姫との間で子供が出来てしまった事から、北条一門を巻き込んだ一連の騒動が始まりました。歴史というのは様々な点で面白いものですね。
帰り道は道の駅伊東マリンタウンで少し遅めの昼食を取りました。この時たのんだのはキンメダイの煮つけとアジの干物のセットでしたが、結構おいしかったです。
この帰路に箱根にある「ししどの窟」を見ていきたかったのですが、そこは結局、時間の関係で諦めました。そこはまだ何時の機会に行ってみたいと思います。