山極壽一さんの講演
2022年12月10日(土)
5日の赤旗です。
山極壽一さんの講演が報じられています。
山極さんは、「人間社会の本質は、言語以前に『共食』と『共同保育』を通じて生まれる『共感能力』にあり、それを音楽が支えている」と指摘しています。
「音楽が支えている」って、え~っ!どういうこと?って思いがしました。(笑)
この記事では、「音楽が支えている」ということについての具体的は記述はありません。ヴォリュームの制約のためかと思います。
それで、山極さんの本の一部を紹介したと思います。
三・言語以前のコミュニケーションと社会関係資本
人間はだいたい150万年をかけて集団規模を15人から150人に増やした。それは言葉が登場する以前にできた社会である。ではいったいどういうコミュニケーションで集団をまとめていたのだろうか。
(中略)
社会関係資本(Social Capital)は、人びとが暮らしを営む上で助けとなる人びとのことを指し、何か困ったこときに相談したり、頼みごとができる人の資本である。言葉ではなく、身体を通してつながった間柄であることが重要だ。
これらの規模の異なる集団を日常の暮らしに当てはめてみると、10~15人は家族、その家族が集まる最大150人規模の共同体が浮かび上がる。これらは言葉というより、音楽的コミュニケーションでつながっている。地域に特有なお祭り、お囃子、歌を踊り、方言による調子、そして食事や服装、礼儀や作法で身体を共鳴させることに
よって暮らしを整えている。言葉の論理によって頭でつながるというより、身体のリズムを合わせることによって調和しているのが、地域共同体なのではないだろうか。
この音楽的なコミュニケーションは人間の赤ちゃんが生まれてすぐに出会うものである。おとなしいゴリラの赤ちゃんと違って、人間の赤ちゃんは生まれた直後から大きな声で泣く。これは自己主張である。ゴリラの母親は生後1年間、赤ちゃんを腕の中で育てる。不安になったり気持ちが悪くなったら、ゴリラの赤ちゃんは身体を動かすか、低い声を立てるだけでいい。直ぐに母親が気づいてくれる。一方、人間の赤ちゃんは重いし、自力でつかまれないため、お母さんは赤ちゃんから手を離して置くか、人の手に委ねる。母親から離れるから、赤ちゃんは泣くのである。その赤ちゃんを泣きやまそうとして、周囲がこぞってやさしい声を投げかける。その声を
IDS(Infant Directed Speech=対幼児音声)と呼び、ピッチが高く、変化の幅が広く、母音が長めに発音されて、繰り返しが多いという世界共通の特徴がある。絶対音感の能力を持って生まれてくる赤ちゃんは、言葉で話しかけられてもその意味を理解することはなく、声のピッチやトーンを聞いて安心するのだ。そして、その声は習う必要はなく、誰でも出すことができる生まれつきの能力である。実際、この声の出し方を親から教わったことはないし、学校で習ったこともないはずだ。
この赤ちゃんに対して発せられる声が、音楽として大人の間に普及することになったという説がある。その音楽的な声によって、赤ちゃんとお母さんの間のように、互いの境界を越えて一つになり、喜怒哀楽をともにするような感情世界をつくり上げたのではなかと言われている。つまり、言葉が登場する前に、人間は共同育児を通じて音楽的なコミュニケーションを発展させ、共感能力を高めたことが示唆されるのである。
(以下略)
↑
「音楽は共感能力を高める」が結論でしょうか・・。確かに、コンサートホールで聴衆が一体になるって感じありますね。「一体感」は「共感」の主要な要素と思います。
この本の第1章では、山極さんが総長になった経緯が書かれていて、面白かったです。以下一部引用します。
↓
そのうち、学内に変なビラが回り始めた。山極という文字が大きく書かれ、「投票しないで!」という言葉が続く。要するに、山極を総長にするな、という呼びかけである。大学構内の至るところの掲示板に大量に張り出されていて、あちこちにビラが散乱している。ふつうなら、これは反対派のビラ、あるいはいやがらせということで大学側が撤去するはずなのだが、一向に取り外される様子がない。ビラの内容が私への批判ではなく、私の研究者、教育者としての活動が総長になるとできなくなることを憂える学生の声だったようだ、後に聞いたところによると、私の研究室の学生が中心になってビラづくりをしたらしい。何ともありがたいことで、とんだお騒がせになってしまったが、これで私の出番も幕を閉じると確信した。
↑
結果は総長になってしまった。「しまった」と思っても後の祭りでありました。(ハハハッ)