クラウディア・フォン・ヴェールホフは、著書「世界システムと女性」の中で、ローザ・ルクセンブルクの「資本蓄積論」について、マルクスの「本源的蓄積」という概念を再び新しい文脈で経済学的分析に浮かび上がらせたことを特筆している。
「まもなく私はローザ・ルクセンブルクにぶつかった。その時に私は彼女を新しい目で読むようになっていた。彼女の資本主義分析、とくに植民地と農業セクターにおけるその作用の分析は、私を一度ならず興奮に引き入れた。彼女は本源的蓄積という概念を、明示的に、次のような意味で用いていたのである。すなわち、決して終結していない社会的過程、少なくとも農業セクターと植民地にふりかかっているそのような過程としてである」
ただ、ローザ・ルクセンブルクは、原始的蓄積primitive Akkumulation という概念を資本蓄積論の中で使っていても、マルクスのDig sog.ursprüngliche Akkumulation いわゆる、本源的蓄積という概念は使っていない。この用語上の違いに意味があるのかどうかわからないが、ローザ・ルクセンブルクが、マルクスのいわゆる、本源的蓄積に焦点を当てながら経済学の前提である資本家と労働者からなる純粋資本主義という経済学の虚構の前提を批判していることは間違いない。
クラウディア・フォン・ヴェールホフは、経済学のこうした前提に対して「こうした視点からでは説明出来ない問題がある。それは世界の大多数を占める膨大な人口が、今日にあっても「近代的生産者」の二つのカテゴリーのいずれにも属さず、また「姿を消す」傾向を示していないのはなぜか、という事だ」と。
「これは特に「主婦」としての女性、「農民」としての農業生産者、それに都市と農村における「周辺化された」生産者一般について言える」
そして、クラウディア・フォン・ヴェルールホフは次のように問う
1、かくも多くの人々、世界中の生産者が、どのようにして、なにゆえに、そのような「非近代的」で、「低開発」で、不自由なもっとももっとも惨めなものと思われる条件下でー働き、生活しているのか?
2、マルクスが「本源的ないし原始的蓄積過程」と呼んだものは、たしかに資本主義発展の前提であるに違いないが、しかし、それ以上の条件ではなかったはずである。資本主義が世界システムとして数世紀にわたって膨張し続けたにもかかわらず、この過程が未だに終了していないということは、どのように説明できるのか?と!
そして、ローザ・ルクセンブルクの業績を次のようにたたえる。
「直接的生産者の、生産手段からの強制的分離過程」、ひき続いてこの生産手段が新たな一階級たる資本家の手中に、ないしは「指揮下に」集中する過程、かつての生産者が生産手段から自由になるとともに、自らの労働力を自由に処分しうるようになり、この二重の意味で自由な賃金労働者へと転化する過程、これは実際に起きたことである」と。
マルクスによってその過程は主にイギリスを中心に考察され、ローザ・ルクセンブルクによって世界の植民地化過程の中で再度考察された。
まず、ローザ・ルクセンブルクの「資本蓄積論」の考察に入る前にマルクスの「いわゆる、本源的蓄積」について最初に考察してみたい。本来ならばラシャトル版から引用するべきだが、僕の趣味でドイツ語初版から引用する。ラシャトル版こそマルクス最終校正の資本論であり、また本源的蓄積章は編に格上げされ、にもかかわらず、エンゲルス版で無視された重要な改訂がなされているが、僕が常に読んでいる資本論はぼろぼろになってしまった初版で、読み慣れた本から引用するのがいいと思ったからだ。ラシャトル版での重要な改訂については引用文を同時に置くこととしたい。