①先日、用事があり父に電話した。携帯からいきなり「斉藤幸平はどう思う」と声が漏れて、返答に窮した。どう思うもこう思うも読んでいないのだからなんとも言えないのだが、父は斉藤幸平教授の本で学習会をしていたらしい。父はひと言正しいと思わないと言った。
先日から後期マルクスを集中して勉強しており、ついでに「人新生の資本論」を手にとった。以前ブックオフで売っていて、少し読みかけて、本自体が行方不明になっていたが、本棚の本の間に挟まっていた。それで、マルクスについて書いてある箇所だけ読み返した。いかにも秀才という感じのひとで新MEGAの編集もやっている。ただ、結論的に言うとマルクスについて誤解があるのではないかと思った。
マルクスは、革命家である。それと同時にヴェラ・ザスリーチについても誤解があるのではないかと思った。彼女は1876年にトレポフ将軍にピストルから銃弾をお見舞いし、当時、スイスに亡命していた今で言うところのテロリストである。ザスリーチ宛の手紙にしてもマルクスはその点を考慮して推敲に推敲を重ねたと思われる。最終的にザスリーチに出された手紙が簡素な文面になったのもザスリーチの身を案じた結果ではないかと思われる。マルクスが革命家であり、ザスリーチはトレポフ将軍に銃弾をお見舞いした同じ革命家であったという事実は些細なようであるが、この点を実感出来ない斉藤教授は、奇妙なことを言い出す。「
「では、いつ生産力至上主義から脱却して、変貌を遂げたのか。マルクスの理論的転換に大きな役割を果たしたのは、第一章で触れたあのリービッヒだ」。リービッヒを読んだからマルクスはヨーロッパ中心主義から複線的な歴史観に立ったというわけだ。いかにも優秀過ぎる先生の発想だが、違うだろう!
1853年当時マルクスは「なるほどイギリスは、ヒンドゥースターンにひとつの社会革命を引き起こしたさいに、低劣この上ない利害にもっぱら突き動かされていたし、その利害を追及するやり方もおろかであった。だが、そんなことは問題ではない。問題なのは、アジアの社会状態における根本革命なしに人類は自らの使命を果たせるかということである。果たせないのであれば、イギリスはどんなどんな罪を犯しているにせよ、この革命を実現することでそれと意識しないままに歴史の道具となったのである」筑摩マルクスセレクションと書いていた。
しかし、数年後セポイの反乱に遭遇する中でヨーロッパ中心主義から徐々に離れていく。
「このセポイの行為がどれほどいとうべきであるとしても、それはイギリス自身が、その東方帝国の建設期ばかりではなく、長い統治を経た後の最近の10年間においてさえ、インドで行ってきた行為の圧縮した反映に過ぎない……フランスの君主性に加えられた最初の打撃は、農民からではなく貴族からやって来た。インドの反乱を始めたものは、イギリス人から苦しめられ辱められ身の皮まで剥ぎ取られたインドのライヤトではなく、イギリス人から衣食住を受け可愛がられ肥え太らされ甘やかされたセポイからであった」マルエン全集12巻271
セポイの反乱に接する中でマルクスはマルクスのそれまでの歴史観を変えていくきっかけを見いだす。マルクスにヨーロッパ中心主義の限界を気づかせたのはイギリス植民地支配に対するインド人民の闘いなのである。マルクスはリービッヒやフラースを読んだからその歴史観を変えたわけではなく、インド、中国、アイルランド、あるいはポーランド、カフカズの山間の要塞のムスリムのロシアに対する闘いが、マルクスがリービッヒやフラースの問題意識を吸収していくきっかけになるのである。後期マルクスといえどもマルクスの念頭にあったのは常に「階級闘争」なのである。
②さて、本論に入る前にさらに述べておかなければならないことは、斉藤教授は新MEGA云々と言う割には、その資料の扱いが雑であることである。
まず、氏が引用する資本論は現行版である。が、現行版はマルクスが公刊した最後のドイツ語資本論、二版をベースにエンゲルスがマルクス死後再編集して刊行したものだ。しかし、マルクスは二版刊行後資本論第一巻の全面的改訂版と言えるラシャトル版資本論(フランス語版)を出している。エンゲルスが資本論3版、4版を出す中でラシャトル版のマルクスによる改訂作業をことごとく無視したことは二つの資本論を並べて読めばわかる話しだ。が、なぜ、資本論一巻にすらエンゲルス版とマルクスが生前刊行したドイツ語初版、二版、ラシャトル版があることを述べないのか?新MEGAについては相当な紙数を割いて書かれているが、なぜマルクスが自身で公刊した主著資本論が、長年隠されてきたのか、その事実には触れようともしていない。
氏の資本論からの引用は、二カ所。しかし、どちらもラシャトル版から引用するべき箇所である。
「産業のより発展した国は、発展の遅れた国に対して、ほかならぬその国自身の未来の姿を示している」斉藤167
しかし、ラシャトル版ではこの箇所が大きく改訂されている。
「産業上最も発達した国は、産業規模の上でこれに続く国々に対し、それらの国々自身の未来の姿を示しているに過ぎない」邦訳フランス語版資本論
Le pays le plus développé industriellement ne fait que montrer à ceux qui le suivent sur l’échelle industrielle l’image de leur propre avenir.
ラシャトル版10
斉藤教授は前記の資本論からの引用をマルクスが資本論公刊時にもヨーロッパ中心主義に陥っていた証拠として引用されているが、二版刊行後同時的に薦められていたラシャトル版の刊行作業の中でのマルクス自身の改訂はどう考えるのか。マルクスは、ラシャトル版では初版序文のヨーロッパ中心主義的歴史観に対して限定を付している。
もう一点、資本論からの引用は、「この否定の否定は、生産者の私的所有を再建することはせず、資本主義時代の基礎とする個人的所有を作り出す。すなわち協業と、地球と労働によって生産された生産手段をコモンとして占有することを基礎とする個人的所有を作り出すのである」
Die kapitalistische Produktions- und Aneignungweise , daher das kapitalistische Privateigentum, ist die erste Negation des individuellen, auf eigne Arbeit gegründeten Privateigentums. Die Negation der kapitalistische Produktion wird durch sie selbst, mit der Nothwendigkeit eines Naturprocesses , producirt. Es ist Negation der Negation. Diese stellt das individuelle Eigentum wieder her, aber auf Grundlage der Errungenschaft der kapitalistischen Aera, der Kooperation freier Arbeiter und ihrem Gemeineigentum an der Erde und den durch die Arbeit selbst producirten Produktionsmitteln.ドイツ語二版793
コモンと訳せるドイツ語はない。gemeinsame がそう英訳できるようだが、無理な意訳と言わざるを得ない。全体の論調に決定的に影響を与える引用であるだけにここで意訳があるとご苦労さまーと言わざるを得ない。Gemeineigentum も共有財産でコモンとしてしまうのはどうか?
「資本主義的生産様式および資本主義的奪取様式は、したがって資本主義的私的所有は、自分の労働にもとづく個体的私的所有の第一の否定である。資本主義的生産の否定は、この生産そのものによって、自然過程の必然性をもって生み出される。それは否定の否定である。この否定は個体的所有を再建するが、資本主義時代の成果に基づいて、すなわち自由な労働者の協業なり、土地とか労働そのものによって生み出せる生産手段とかの、自由な労働者の共有なりに基づいて、個体的所有を再建するのである」江夏訳邦訳887
次回はラシャトル版ではどうなっているのか?
L’appropriation capitaliste, conforme au mode de production capitaliste , constitue la première négation de cette propriété privée qui n’est que le corollaire du travail indépendant et individuel. Mais la production capitaliste engendre elle même sa propre négation avec la fatalité qui préside aux métamorphoses de la nature.C’est la négation de la négation. Elle rétablit non la propriété prive du travailleur, mais sa propriété individuelle, fondée sur les acquêts de l’ère capitaliste, sur la coopération et la possession commune de tous les moyens de production, y compris le sol.ラシャトル版342
資本主義的生産様式に適合する資本主義的奪取は、独立した個別労働の必然的帰結にほかならない私的所有の、第一の否定である。しかし、資本主義的生産はそれ自身、自然の変態を支配する宿命によって、自己自身の否定を生み出す。これは否定の否定である。この否定の否定は、労働の私的所有を再建するのではなく、資本主義時代の獲得物にもとづく、すなわち、協業と土地を含めたあらゆる生産手段の共同占有にとに基づく、労働者の個体的所有を再建する。フランス語版資本論下457
フランス語はよくわからないが、commune がそう読めるかも知れないが、しかし、コモンによる占有などとわかりにくい表現を使うよりも共有もしくは共同所有でいいのではないか。むしろ、ここにコモンを無理に入れることにより、アソシエーションもそうだが、コモンを「新しいコミュニズム」の原理にするつもりなのであろう。が、その発想こそがソビエトマルクス主義への逆戻りであることをここで指摘しておきたい。要するにマルクスが拒否した西欧中心主義の宿痾である普遍主義をもう一度蘇らせる結果になるからである。しかもコモンによる占有というがやはりコモンの誰がどういう形で占有ないし管理するのかという問題があることも指摘しておく。
③もう一点、マルク共同体について書いているのはエンゲルスであってマルクスではないだろう。マルエン全集旧版の事項索引を見てもエンゲルスの書いたものしか乗っていない。新MEGAにあるというならば典拠を示さないと読者に失礼だろう。新MEGAは、われわれ一般の読者には触れることもできない高価な本でしかも大学の図書館にしか置いていない。そうであるからこそきちんと出典を明らかにしないと新MEGAからと言えばどんな出鱈目でも書けることになる。
この「マルク」に出てくるゲノッセンシャフトリッヒという言葉が、「協働体的富」という意味で、普段この用語を使わないマルクスがゴータ綱領批判で使っているらしい。しかも、ゴータ綱領批判では「協働的富」であったものが「協同体的富」として訳され直している。そして、それを論拠として斉藤先生が構想するエコロジー社会主義の論拠とされる。「コミュニズムによる社会的共同性は、マルク協同体的な富の管理方法をモデルにして、西欧においても再構築されるべき」であるという。
ゴータ綱領批判には確かに「労働そのものが、第一の生命欲求となったのち、個人の全面的な発展に伴って、またその生産力も増大し、協働的富のあらゆる泉が湧き出るようになった後、ーその時初めてブルジョア的権利の狭い視界を踏み越えることができ、社会はその旗の上にこう書くことができるー各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて」全集19、21
ゴータ綱領批判はもともと出版を目的として書かれたものではなく、エンゲルスが1891年の出版の際に序文で書いている通りブラッケに送られ、ベーベルやリープクネヒトの間で回し読みされた手紙のようなものである。しかも、エンゲルス自身が序文で断っているようにエンゲルスが再編集をしている。
もし、ゲノンセンシャフトリッヒという言葉を普段マルクスが使わないのであれば、「マルク」はエンゲルスが書いたものなのでエンゲルスが手を入れた可能性が高い。どちらにせよ、ゴータ綱領批判のこの箇所は共産主義の高次の段階が述べられている箇所なので富の管理やコモンやアソシエーションもなくなった日のことの話し。斉藤先生の引用する目的には役に立たないと思われる。