うろうろとする日々

(読書メモ)「ビックリハウス」と政治関心の戦後史(富永京子)

 

「ビックリハウス」と政治関心の戦後史

――サブカルチャー雑誌がつくった若者共同体 富永京子 著 四六判上製 332頁 定価:2,750円(本体2,500円) 978-4-7949-7436-5 C0036〔2024年7月〕 ほんとうに若者たち...

晶文社

 

いつものごとくとても精読とはいえないのだが、ひとつ意外だったのは小生にとってビックリハウスは「広告批評」と微妙に近接した雑誌だと思っていたのだが、あまりそこには言及がなかったことだ。

世代的にはちょっと上のひとたちがやっていた雑誌という感じはあるが、たしか、1年先輩にこの雑誌への投稿者としれ知られているひとがいて、尊敬を集めていたような気がする。

そういう意味では当時のこの雑誌の周辺にあったのは、むしろ、例えばやっぱり坂本龍一とかRCサクセションとか、また、企業で言えばPARCO的な感じでしょうかね。

どうしても著者の手法は政治関心なので、カルチャーというよりは政治関心に絞っているところがあって、そこはないものねだりなのか。というか、逆に小生にとっては、キーになったのは、まさにPARCO文化の総帥堤清二氏であって、例えばCDなども、かんかんぽあだったかに行くといろいろ売ってたし、ついでに言うと小生が本物の「水牛新聞」をみたのもそこだった。でも堤氏はかなり意識的に消費者文化を考えた人だし、彼の政治的なスタンスは明らかであって、そういった中に踊らされた人たちによってつくられたのが”ビックリハウス”かという気もしている。したがって、当然前衛とはちょっと違った”カルチャー”と政治意識といっても特定の政党に結びつかない、ノンセクトラジカルのような感じかなあ。

今にして思うとそれは学生運動の破壊という側面もあって、例えば当時の重大なイッシューだった成田空港の問題などについて、結局国民が意識を合わせることはなかったような気がするし、原爆の問題も、結局分裂してしまった団体によって運動は国民的にはならなかったと。ついでに言えば、総評が同盟と組んで連合になるというちょっと信じがたい流れも”ビックリハウス”が生み出したのかもしれない。しかし、もしかすると、それが、野党の大きなバックアップ団体になると思っていたのかもしれないけど、結局今の状況です。そういう意味ではそこに一番ビックリハウス的な政治意識が生んだ問題があったのかもしれないと思ったりもしますが、富永氏の筆致はそこには向かわないと。もちろん彼女の方法論からはそちらに向かいようはなく、それは彼女の社会学者としての堅実なスタイルということなので、納得はしているのですが。

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