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小父さんから

ミーハー小父さんの落書き帳

日活同窓会  宍戸錠(俳優)

2008年01月15日 | 
 
アキラがいる、ルリコがいる。『嵐を呼ぶ男』の井上梅次監督、「渡り鳥」シリーズの斎藤武市監督の姿もある。渡哲也もここではぐっと後輩の部類。ちなみに私ことエースのジョーは日活ニューフェイス一期生である。『殺しの烙印』(主演はご存知宍戸錠である)で、「訳のわからない映画ばかり撮る」と日活を追い出された鬼才、鈴木清順監督も酸素ボンベを携えて登場した(その『殺しの烙印』をはじめとする清順作品は、いまや海外でも高い評価を受けている)。好きなのだ、こういう集まりが。

 
 二〇〇七年十一月十七日、京王プラザホテルで、“日活同窓会”が開催された。スタッフの「旧友会」と、俳優OBの「俳優倶楽部」が合同で集まるのは十四年ぶりという。

 みな調布の日活撮影所で、時を共有した連中ばかりだ。一九五四年、日活の映画製作再開にあたって建設された白いカマボコ型のステージと長方形の本館からなる映画の工場は、なにもかもが新しかった。ステージは冷暖房完備、撮影機材もおろし立て。そこに若い俳優、スタッフが集まってきたのである。

 パーティー会場に入ると、笹森礼子、香月美奈子が声をかけてきた。「ジョーさんいづみさん連れてきたわよ」

 芦川いづみだって。ずいぶん久しぶりじゃないか。日活OBの俳優たちの会はしばしば開かれるが、芦川さんが顔を出すのはこれが初めてだろう。「俺たちの日活」が映画製作を中断、幕を閉じたのが一九七一年九月だから三十六年ぶりになる。しかし、俳優たちはすぐに囲まれて、記念撮影とサインの嵐。話しもろくに出来ない。

 会の冒頭、石原裕次郎の声が流れた。八六年に開かれたパーティーを病気で欠席した裕ちゃんが吹き込んだメッセージだった。

 「みんながお酒飲んでいるのに、私だけウーロン茶しか飲めないので、行きません」。懐かしいあの声だ。「日活は私の青春の場所でした」と続く。ここにいる奴はみんなそうだよ。裕ちゃんは「日活大学の卒業生」と言っていたという。酒も、遊びもみんな撮影所で学び“研鑽”した。

 裕ちゃん、遊びでもトップマネージャーだった。日活撮影所では午後五時までが定時。しかし、粘る監督は夕食休憩を挟んで、延々と夜まで撮影を続ける。これでは夜遊びにさしつかえる。

 「定時以降は(撮影を)絶対やらせねえからな」と監督に交渉するのが、裕ちゃんだった。裕ちゃんが言う分はカドが立たない。

 「銀座にいく人この指とーまれ」で十人、二十人とまとまると、車に乗り込んで、銀座並木通りへと向かう。もう時効だろうが、なかには無免許の奴もいたっけ。

 銀座に着くと、クラブの女給さんたちが出迎えてくれる。彼女たちが持ってくるお弁当をつまんだり、みんなで映画を見にいったりしてから、お店へ。午後十一時四十五分の閉店後は、今度は横浜山下町だ。スマイリー小原のバンドなどが演奏していたナイトクラブ「ブルースカイ」で、それぞれ決めた相手と踊ったり、口説いたりして、最後は逗子の渚ホテルに流れる―。これが定番のコースだった。

 そんなとき、裕ちゃんは実にまめにみんなの面倒をみた。相手決まった?朝飯、何食うの。洋食、和食?洋食ならトーストにミルクとコーヒーだよ。懐具合に応じて、割り前を集めるのも裕ちゃんが買ってでた。いたれりつくせりの名幹事だったのである。

 今のご時世ならば、一晩でマスコミの餌食になっていただろう騒ぎもしょっちゅうだった。「映画の黄金時代」と誰もが言うが、タガが外れたような夜遊びも、撮影所の活気そのものだったことは忘れてほしくない。

 途中、主催者から挨拶してくれと頼まれた。「今すぐにでも撮影を始められそうなメンバーが集まってくれた。久しぶりに会ったんだから、大いに撮影所時代の話しをしよう。みんな墓の方が近くなってるんだから、今のうちに騒いどけや」

 ハイヴィジョン、CG全盛の二十一世紀には、おそらく撮影所というシステムは存在の余地がないだろう。しかし、映画が二十世紀最高の娯楽だったとするならば、それを生み出してきた撮影所が、どんな輝きを持っていたのか、誰かが語り残す義務がある。そう思いつつ、水割りを十二杯ほど流しこんだ。(文藝春秋)

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