Yassie Araiのメッセージ

ときどきの自分のエッセイを載せます

朝日記231214 橘樹住香 ―ゑこころとうたこころ―乃木坂46とその絵

2024-12-14 17:05:52 | 自分史

朝日記231214 橘樹住香 ―ゑこころとうたこころ―乃木坂46とその絵

―ゑこころとうたこころ―
乃木坂46


会員 橘樹 住香

 
N響のハーピスト桑島すみれは時の美智子東宮妃の師、その弟オーボエの桑島裕直がニュージーランドオーケストラに決まり羽田に見送りにいき旅立つ。家に帰ると あれ 花が枯れてる さみしさが漂う。あとは頭で仕上げる。羽田で悲しむ顔に桑島はすぐ帰るから…ほどなくして遺骨で帰ることとなる。ウエリントンにイギリス系アメリカ人の奥さんと娘を残す。美智子東宮妃が家までなぐさめに訪れしと。嫁と娘はウエリントンから東京へ、東京でお会いし、ニューヨークに帰り アメリカの人となる。 

 

 

 

福井爽人はこの時 國立藝大の助手として吉田善彦教授のもと、法隆寺金堂壁畫 六号壁再現にたずさわりしころ。
また、講師の下田義寛も岩橋英遠教授のもと、壁畫再現に加わり、才能を発揮し、時代の寵児、朝日の論調でも絶賛され、時の人となる。
助手の福井は講師の下田を招き、われ

のこの繪から、この人はどのような方と、下田は非常に色感のいい方です。
こののち福井は國立藝大の教授となり、下田は国立藝大助教授、時をへて倉敷藝術科學大學名誉教授と知る。
福井は、すごくかたちがいいね、かたちの人と 常日頃。日本畫の技藝をさずかる。
 

 

乃木坂46
秋元康はAKB48をしのぐグループを作らんと、2011年乃木坂46のオーディション、熊本の14歳の少女、吉本彩香をセンターにえらぶも上京が条件、親の反対で一か月ほどで熊本に帰る。
引継ぎ生駒里奈がセンターに、地味で猫背、いじめにあい自信のない15歳の少女ながら、父親がその才能に気づき、秋田からひとりで上京し転校、センターに選ばれ逃げ道をなくし、AKB48をしのがんと責任の重さをにない、名を知らしめんがため、数千個のポケットテッシュを駅前で配り、仲間がそれに気づきみんなで配る。「君の名は希望」という曲を秋元康が生駒里奈のために作る。後を白石麻衣がセンターとなり、乃木坂46が2017年18年連続にてレコード大賞、年末の紅白にて歌い、露払いとしての生駒里奈の存在は大きい。2018年 日本武道館で生駒は卒業コンサートをするほどに、そして白石麻衣、齋藤飛鳥、松村沙友里、西野七瀬、生田絵梨花、橋本奈々未、秋元真夏など第一期生のメンバーは卒業後もそれぞれに活躍している。
ある年の國立藝大の卒業コンサートを聴き、皆たいへんな才能の持ち主ながら、音楽で身を立てられるのはほんのわずか、音楽とは関係のない仕事につき、才能をうもれさせてしまうのか。そのころ2005年AKB48が結成、若さあふれる少女たちが群像の歌と踊りをはじめ、秋元康はうもれた才能を敏感に感じ取り、開花させることに力を尽くしていたのかもしれぬ。
そしてアイドルグループは短時間に燃焼し、25歳ぐらいで入れ替わっていく。 

15歳ごろの少女たちは神々と人のかけはしになっているような年ごろ、メンバーが入れ替わることで、命の連続性を生み出しているのか。そして古き良き時代を懐かしむだけでなく、きら星のごとく生まれ、若いエネルギーをはじけさせ、これから始まる何かを求め、ひとびとへの応援歌としての役目を担い、今という時代を歌のなかから読みとろう。歳を重ねると若さのほとばしりにうとく、見逃すことが多い。
「太陽にノック」秋元康 乃木坂46へ

何か始めるいいきっかけだ
熱くなれる季節にOpen the door

ねえ 夏の強い陽射しに
街が乱反射しているよ
もう 君が影に隠れてても
誰かにすぐ見つかるだろう

一人きり 閉じ籠ってた
心から飛び出してみよう

太陽ノック
誘っているよ
空の下は自由だと言ってる
何か始めるいいきっかけだ
熱くなれる季節に
Open the door

ああ 光り輝いてても
やがて 夏は過ぎ去って行く
そう 君はその時の寂しさ
感じ取って臆病になる

未来とは 今が入り口
見逃せば前に進めない

太陽は味方 
いつも変わらず 
すべての人 照らしてくれるんだ
不安な雲も 切ない雨も 
また昇って微笑む Grab a chance!

流れ出す汗の分だけ 
その夢がかたちになるんだ

太陽ノック
誘っているよ
空の下は自由だと言ってる
情熱ノック 
外に出ようよ
眩しいのは晴れ渡る未来だ
何か始めるいいきっかけだ
熱くなれる季節
にOpen the door
秋風が吹いても
Grab a chance!

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朝日記241214―歴史逍遙―橘樹 住香  日の本のたからの山にてたからをさかすとその絵

2024-12-14 16:14:44 | 自分史

朝日記241214―歴史逍遙―橘樹 住香  日の本のたからの山にてたからをさかすとその絵

(初出し:  HEARTの会 会報No.119, 2024年秋季号)

 

―歴史逍遙―
日の本のたからの山にてたからをさかす
会員 橘樹 住香 
 

大正十三年國立美校の國家事業 平安朝 山水圖屏風復元に 國立美校首席吉村忠夫が選ばる 一月から六月まで京都に出張 正倉院をもとに屏風を復元 今の屏風は紙の蝶番 正倉院は金具の蝶番をもちいており 正倉院にならふ 位置関係も復元 なれど原本の國寶修理は一扇一扇の位置をあやまり吉村の修復を學ばず配置 吉村の復元する能力はきわめて天才
今様の京都中心の修復におごりを思ふ 
日本畫家真野満のお屋敷を訪ねし日のこと 京都の心地よいひびきは いいものがたくさんあるようにおもわれているがまるでない すぐれたものはすべて東京にあると そこから推しはかると 優秀な人も頭脳も東京にあるということか 真野の遺言となる

 

東京國立博物館    復元 山水圖屏風 吉村忠夫 
 

 
 

國寶 宇治上神社 拝殿


 
 
本殿は千年前 日本最古の社殿 拝殿は九百年前 藤原時代のおもかけを唯一宇治にととめ ともに世界遺産となる
貴族の邸宅をしのふ このような檜皮葺を何百もつらねると平安京となる 
何百年も守りつつけし宮司の のこさんとの あつきおもいの たふとさよ                                          
  宮筥根杜  御神躰

 

鶴ケ岡八幡につたはる後白河上皇から源頼朝へおくられし小袿(こうちき) 原寸にしたて きせてみる

源將軍實朝の伊豆山権現 筥根権現二所詣にて祈りしか

 

     

正倉院 聖武天皇飾劔(かさりたち) 

 

 


時の玄宗皇帝もこれとおなじ飾劔を
古代エジプト・ペルシャ・古代ギリシャ・ローマへ 長安へ 飾劔は大唐のみやこ長安にて華ひらく 遣隋使遣唐使により倭國(やまと)朝廷へ 
聖徳太子の飾劔はいまにつたはらぬも この流れは藤原道長から鎌倉まで 
室町には高貴な姿を失ふ      これは秀麗な基準作

 
 
大正という時代は日本文化の奇跡
大戰前は文化財審議委員會は確かなものなれど 大戰ののち いまの國寶重文の選定はいかがなものか 恩師鈴木敬三も審議委員會のなかにおり 数で押しきり話をきかぬと ひとむかし前のこと
時の衆議院議員 曾禰益がわれに 多数決は小學校の教室に例えると 五十人中頭のいいのは二・三人 わるい数の方が圧倒的に多く 数がまかり通る
時の衆議院議長秘書官から議事堂の建物の仕組みを見せていただき 國會の會期中なれど たまたま議事がとまり 秘書官が機転を利かせ なんと衆議院議長を呼んで下さり 議長室へ通される ここは数がものを言いますから 全て数ですからと 
数で押し切ると 頭のわるいものがまかり通り 数は欲がからむ デモクラシーとは欲望主義なのか

文化財審議委員會は文化庁の 建築・絵画・彫刻・工芸等の専門技官にくわえ 國立東京奈良京都の博物館館長 副館長博物館の研究技官だけの選定委員がのぞましい 大戰前の岡倉天心のもと 日本畫の安田靫彦をはじめ そうそうたる見識の方が的確に國寶の選定に携わるも 大戰ののち 戰前の仕組みはちゃらとし
新たに教授たちの好みにかたよってゆく

今樣のしくみはいつのまにか わびさびが日本文化との思いが強く 大学は縄張りとなる

時は大正 國立美校にて一大事業として十二世紀 平安朝の神護寺の日本最古の山水圖屏風復元を 若き吉村忠夫にたくされ見事になしとぐ この山水圖は日本美術が華ひらくもっともたいせつな國寶 復元圖はいま國立東博にあり 早急に國重文に 
國寶原本は屏風をいく度も位置を取り替え 新しい絹に取り替えるうちに圖柄をうしなう
安田靫彦、前田靑邨らにより法隆寺金堂壁畫を再現 また前田靑邨のもと高松塚古墳壁畫を再現し文化庁にあるも 原本はあっというまにいたむ 原本をしのぐこれらの復元圖は國重文として指定を早急に  われにゆかりの日本畫家 河津光浚の醍醐寺五重塔壁畫等の原寸はすでに重文
國博・國立大學など國の機関は本来の國立に戻し じっくりと研究できる土壌に戻しては
平安鎌倉を中軸とした古代に重きを置く文化庁長官を
家康の鉛筆の遺物が國重文の流れはほどに
 

 
日本畫家河津光浚からおくらる

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朝日記241214  橘樹 住香歴史逍遙 比叡 東山三十六峰とその絵

2024-12-14 15:45:49 | 自分史

朝日記241214  橘樹 住香歴史逍遙 比叡 東山三十六峰とその絵

(初出し:HEARTの会 会報No.119、2024年秋季号)

―歴史逍遙―
             比叡 東山三十六峰


                               会員 橘樹 住香


 

 


 
 
 比叡 無動寺

 
比叡無動寺にて祇園の呉服屋のつてで阿闍梨にお目通りかなう ならず者の少年がこの山でひと晩過ごすとすっかり治る 山の力はすいごよと おにぎりで腹ごしらえして 夜中の十二時にたつ 千日回峰の阿闍梨のあとを 懐中電灯をたよりにお経を唱えながら 草生いしげる険しいけものみちをゆく 闇のなかから掃除地獄のお堂にこもる僧の読経が だんだん近づき遠ざかる 明け方 坂本のあたりで驟雨となり ふたたび無動寺にかえりつく 
 

 
 やまとの奥座敷 室生 宇陀川沿いに摩崖佛がある 藤原から鎌倉時代のはじめころに彫られしか 山と川のせせらぎにふれると 魂がきよらになる むかしの人も ここまでいのりをささげにくるには なかなかの覚悟がいる 


 
吾妻下りの道行文 落下の雪にふみまよふ 交野の春の桜狩り もみちのにしきをきてかへる…都をはなれるせつなさを たうたうとうたふ 
冬は比叡おろしのひえにふるへ 身のいたき寒さ その寒さをしのぐため 重ね着し 寝るときはその装束を上にかけ 布團となる 十二単衣の装束の寸法は 布團や雪國のかいまきの袖にのこる 
夏の京は汗のしたたりやまぬ暑さ 清少納言のころ 女房はまだ小袖ではなく 首のまはりはゆったりとはだけ 今の着物は首まはりが洋服の着方をとりいれ 窮屈となり あつくるしい 袴をはき素肌に単衣(ひとえ)のうすい絹をはおり 腰紐は装束の重ねの仮留めとして 引き抜きながら重ね着し 紐は残さぬ のちの世まで帯はつかはぬ 
男の狩衣は肩から腰まで闕腋(けってき) 指貫(さしぬき)は腰から膝の下へきれこみ 風通しよく股は縫い付けず あいたまま また絹はうすく生絹(すずし) 
應仁の大亂で装束の袴や表の絹を燒かれ すっ裸となり布團をなくす 男物の小袖を代用に 小袖に紐の着流し 今の着物のはじまりとなる 
鎌倉のころの庶民は はだけないやうに湯巻を腰にまき 立ち膝やあぐらのくらし 室町になると 小袖や湯巻に辻が花染めの爛熟期をむかへ 安土桃山になると上の小袖に刺繍をほどこし綺羅をつくす 汗でよごれぬやうに袖をぬき 紐を前にたらし腰巻姿となる 淀殿の繪すがたにのこる 下の小袖もおしゃれな染め 日本の装束はらっきょう   
苛酷な夏冬の季節は こりごりするほど住みづらい なれど春秋の このうえなきうるわしさに そのつらさを忘る 
西洋化の波に 京もどこにでもある町並みにかはりつつある 日本中 気がつけば どこの國でもない一見西洋風にみえる町並みに つまらなく 異国のひとは こんな日本は見たくない ほんとの日本をみたいといふ

美濃の郡上八幡は 江戸時代までの日本があり 異国の人がもとめるのはこれ 深い山々をみはるかし 清き水の流れがどこにいても聞こえ かつてこの溢れる水を汲み 路地をあるき暮すおもかげをのこす 

日本は行く先をまちがえたのであろうか まだ たばこをしらぬ南蛮貿易前の日本にかえろう いとこひし   


守屋多々志      住香庵

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