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 朝日記210606 わが家のあふれいづる泉はさきの片山総理にありと今日の絵

2021-06-06 13:20:04 | 自分史

朝日記210606 「わが家のあふれいづる泉はさきの片山総理にありと今日の絵」です。

随想と絵画です。この随想は、NP法人「人間環境活性化研究会[HEARTの会]」会報夏季号

への寄稿予定のもの、つまりロードショーです。

ここでの絵7点は、今回 日本画家である橘樹住香氏の選定よる作品でわたくしも気に入っているものです。

会報にもそのままで使われます。お楽しみください。

 

徒然こと ―随想― わが家のあふれいづる泉はさきの片山総理にあり

                       会員 荒井康全

 


    Flhueling     康全

 

片山 哲さんの政権の昭和23年は私は小学校4年生でした。終戦で食べるものに事欠き、学校は、ガラス窓は紙で補修され、机も二人かけを三人かけで授業を受ける状況でした。

父は電機会社にあって労組の初代の委員長であり、この年に社会党から川崎市議に当選しています。その関係で、わが家は、片山さんを尊敬しており、イギリス労働党を範とする社会主義、そしてキリスト教的な倫理をもつこの方にこれからの日本人の在り方を学ぶ想いでした。

政権は、GHQ支配とはいえ、その後の日本の基本枠組みを決定づける法制をすすめ、こどもごころにも、こころ踊る新生日本をおもわせたものがあると思います。

政治力学からみれば議員数が過半に満たず、内閣のなかみはガタガタであったことを後に知りますが、短命であったことに落胆をおぼえました。「グズ哲」というあだ名になにか不可解なもの、そしてそのあとの政権が「反動」とよばれた日本の政治位置回転の不安定さを肌に感じたことを思い出します。

しかし、わが家の片山さんへの敬意はその後も底流で生きていたとおもいました。 秀才で、東大法学部で、大抵は役人か大企業にて自らの将来を選ぶであろうなか、一円料金の社会派弁護士として、実践的キリスト教伝道を社会改革運動という形で無産党に身を投ずるというのはなみの人ではない。明治開国以降、日本にはこのような出世主義と一線を画す高潔なる人たちの群像があったことをもっと知っていてよい。また、誇りとして称揚してよいと思いました。

 

そういえば高校時代に学校が藤沢にあり通学の湘南電車二等車の戸だまりに乗車すると、あとから、しずかに乗車してくるハットの紳士があった、あっ、片山さんだと、ひそかに身に緊張を感じたことを昨日のようにおもいだします。

     

Water in shade   康全

われおもう、ゆえにわれあり

西洋近代の啓蒙思想の出発です。存在の根拠を考える自分においた。考える対象はなにか、なにか天上からおくりものをすでに手にしてるような前提の洞察ですが、それは伏せて、自分が出発原点とする。結局知っているものしか表現できない。それでも、天才の発言は立派で、時代を動かす。啓示の内容は実際にはどうなのか、あるのか。その実在性(存在性)は問わない。これがルネサンス時代での知です。ナポレオ
ンはその意味の天才でした。

   Keikoba of Hakone 康全

 

ところがその存在性を問うたのがカントでした。何が存在しているかはもともと人間には判断する根拠がない、ただ考える自分があることだけが根拠で、そのなかみは分からない。カントは、ものがあるかないかは経験によらなければ知りようがないから言いようがない。認識批判論の出発です。経験を思考のなかで類似事象の概念へまとめ上げ、それをものの知識とするものでした。あるかないかは人間には証明でき

ない、ただなにか共通の現象を経験して、これを認識させて概念、つまりそれが知識の存在を主張します。もともと抽象化された、ものの理解のしかたを意味します。

このこととの理屈の成り立ちを可能にする前提としてカントは哲学のコペルニクス的大転換をします。これはアリストテレス以来、時間と空間と、ものの形象などは、世界をつくるものの「基体」を構成するとし、その形象要素という言う考えであったのですが、カントはデカルトのわれ思うことを思考の礎とするためにはその「基体」から、時と空間を人間の観念のなかの固有にあるものという仮説を立てたのでした。

 


芦ノ湖       康全 

 

これによって、人間の思考が自立・自由になり自分の意志でものごとの認識の仮説をたて、これを経験・実験・観察で整合させそして概念を知識として、一往の確立を保証したのでした。


ニュートン物理のめざましい成功が、カントをして科学の哲学的保証をあたえたのでした。

           Still 康全

西欧近代はこれで、人類歴史上最強の武器、自由意志とそれによる科学、そして世界を制覇する技術・武器を獲得したといえます。


その世界史的進展で、人間活動の一方の能力である芸術や文芸は、感性の所属となり


いかにベートーベンが、いかにシェイクスピアが優れようとも、論理思考中心の理性にたいして、脇役としての地位に甘んじてきたともいえます。

 

     赤富嶽    康全


ところが、この理性、つまり「われ考える」その考えの中身よりも、「われあり」のわれ、身体やこころの側が所有しているもののわれのほうが、圧倒的に大きいのではないかという主張がでてきました。ニーチェやハイデガーらの実存哲学のながれです。つまり人間個人はうまれたところ、国など、人間の生きる知恵、文化の巨大な塊を抱えていることに気が付いるということになります。

    Summer coming    康全

いま、Michell Foucaultを読んでいますが、かれは文化からくる認識体・エピステーメという概念を提唱しておもしろい。

 

 View about kitakmakura station   康全

もうひとつ面白いのは、二十世紀のはじめのオーストリーの哲学者Alexius Meinongというひとです。 かれはものごとを知るときに非存在性のものを思考のなかにとりこんで考えることの積極的意味を語ります。シャーロック・ホームズは現実には非存在であるが、それを語ることは積極的な意味があるという流れです。この流れは人間活動としての詩や絵画などの、それ自体としては非存在のもの(オブジェクト)を取り上げていくものです。そうです、オブジェクト論です。これによって人類はさらに認知の幅と奥行きをもっていくことになります。ところで、日本は明治開国して、「和魂洋才」というすごい発想転換を先手をとって持ったのでした。日本の近代は、人類の未来をひらく文明パラダイムを抱えているようだということになります。これについてさらに紹介していくつもりです。

Tea leaf farming land-scape 康全


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