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朝日記241209   AI Copilotとの哲学会話 VIIとVIII 随想ふたつ 絵画「しずかな港」

2024-12-23 17:50:51 | 自分史

朝日記241209   AI Copilotとの哲学会話 VIIとVIII 随想ふたつ 絵画「しずかな港」

(朝日記241129  目次gate AI Copilot氏との哲学的会話 目次へ帰る)

 

随想ふたつ 絵画「しずかな港」


あらいやすまさ 2024年12月9日

概要;随筆ふたつは絵画「しずかな港」、絵画から哲学、そして「乗り物」におよびます。
鍵語: 絵画「しずかな港」Port of Silence, カントとハイデッガー、「乗り物」、見えてくるもの


Abstract: Two of essays in a focus on “Port of Silence” and “Vehicle” are talken to you here.
Keywords: Port of Silence, Kant and Heidegger, Vehicle, Ereinigen

目次

随想 そのI 絵画「しずかな港」(AI Copilotとの哲学会話 VII)

 カントの認識論からハイデガーの存在論への思い 


1 ハイデガーのことば
2 ハイデガーの「存在と時間」、「存在了解」、「現象」そして「世界内存在」
3カントの認識論とハイデガーの存在論
4 世界内存在 
5 比較制度論について
6 Institution理論と、Heideggerの現象論
7.Ereignis

随想 そのII 絵画「しずかな港」(AI Copilotとの哲学会話 VIII)

「人は死ぬとどうなるか(究極の難題)・・」その1からその5まで、

1.継承性と保存性
2.「vehicle」(乗り物)
3. 無限連続組み合わせ
4.自由意志
5.「静かな港」
 

~~本文~~
随想 そのI 絵画「しずかな港」
 カントの認識論からハイデガーの存在論への思い  

絵画「しずかな港」
親愛なる畏友安部忠彦氏はげまされて、介護予防月間応募落選のポスター題名「しずかな港」を町田文化祭絵画展(2015)に出展しました。 絵画コラージュでデジタルA1版でしたので、クラシックな絵画のなかでは、やはり衝撃を与えたようですが、
お祭りという雰囲気のなかで好意的でほっとしています。

(町田市文化祭絵画展出展 コンピュータグラフィックス size;A1 60cm x 90cm)

~~~~~
「しずかな港」、展覧会に出したものは、いろいろ試行錯誤したあげく、結果的には業者にA1サイズにしました。描画以外は全部デジタルで、地のブルーは成功でした。
クラシックな展示のなかでの出展でもあり、話題を提供して口コミで見にいかれたひともあったようです。

随想 その1 絵画「しずかな港」
~「しずかな港」からの連想すること~

1 ハイデガーのことば
2 ハイデガーの「存在と時間」、「存在了解」、「現象」そして「世界内存在」
3カントの認識論とハイデガーの存在論
4 世界内存在 
5 比較制度論について
6 Institution理論と、Heideggerの現象論
7.Ereignis

1 ハイデガーのことば
唐突ですが、ハイデガーのことばの引用を掲載します。
彼の晩年の境地であるかもしれません。
~~~
「しずかな、充実した港」にあること、すぺての存在するものと物のうちで、このいまのときのもとで輝きある存在
、そして、もっとも 優しく受け入れてくれる「法」のもとに、われらに、あらわれる「発現」としての存在、その関係において、そこにあること。」
Serene being-at-home, in relation Being as temporal shining-forth of all beings and things and who speaks about Being as Ereignis as "the most gentle of laws"

 これは、David F.Frellというアメリカの哲学者の最近の著である
”「Ecstacy, Catastorphe:Heidegger from Being and time to the Blacknote”という哲学新刊本があって、Richard Capabiancoという人が書評したものの翻訳です。ノートルダム大学の哲学書レビューからです。

2 ハイデガーの「存在と時間」、「存在了解」、「現象」そして「世界内存在」
 目下、ハイデガーの「存在と時間」に集中していますが、大変おもしろいです。
カントの認識批判哲学は、厳然として彼のベースになっていますが、デカルトの「我考える、故に我あり」の「あり」というのはいったいなにが「ある」のかという問いです。
たとえば、「病気のあらわれ」というのは、病気そのものは私ではない、しかしその私でない病気というものが私の場を借りて、病気を告げる。
これを「現象」と定義します。それでは、その’あらわれ’というのは、本当に存在するのか、これを如何に証示するのかがでてきます。
おもしろいのは、彼は「存在了解」という概念を導入します。
そういう「病気」が「あらわれる」ひろい世界、つまり「世界内存在」があるという仮定です。ざっくり、そういうものがあるという共通認識をひとは持っていて共有しているとする。 (個人の認識論から集団の認識論への超克で、これを「現存在」と定義してもよいと理解します)
その点では、「世界内存在」は「神」とおなじ超越論になり、カントの形而上学的な直観という超越論と
とともに観念論として位置づけられます。むしろ相互に相補的な関係になるとおもいます。意味があるとか、分かるとかは認識論的事実であるからです。(むしろアフィニティがあり、そこからの思考の発展が期待されます)
ともに、証明のしようのないものは、それをひとまず前提にして思考をすすめ得ざるを得ないのです。)
「存在」そのものも、とことんなんだ?と問い詰めると まさに超越論的なものとなります。
 
3カントの認識論とハイデガーの存在論

 カントの認識論は 大体以下です;主観(主体)による
経験→現象→概念⇔理念⇔普遍性 (存在への認識)

一方、ハイデガーは むしろ「存在」=「現象」ととらえます。
主体は、現にそこにあって、経験としてある現実的自体に身をおいている、そこで主体が「現象」を経験していく。その場は空間ですが、そのなかにいるという知覚(認知)することになります。この関係で存在と付き合うということになります。この主体を「現存在」(Da Sein)とよび、そこでの存在了解を「実存」(Exsistenz)とよんでいます。ここで重要なファクターは「時間」になります。この時間によって、現象があらわれてくるとします。主体はいつも現象に関与していることが前提です。したがって「現存在」(Da Sein)です。
 2014・11の作品2

4 世界内存在 
 余談ですが、時系列解析で エルゴート性というのを思いだしませんか。
ある区間の道路で、自動車に振動計測機を乗せての測定結果のスペクトル分布は、
同じ区間の任意の地点に測定器を固定して、その点での測定の繰り返し測定アンサンブルから得たのスペクトルと同じという確率仮説を言います。

 主体つまり「現存在」は、かれが関与している時間の経過のなかでの「現象」つまり「実存」自体が世界を表現しているという意味で世界を語るとします。それを「世界内存在」と称し、ひとは、これを通じて普遍性を窺がう。
この辺りで カントの認識哲学との理論的接合性が見えてくるようです。私は、ここにつよい興味をもちますが、これはまた別に論じたいと思っています。しかし、ハイデガーは、この普遍性へとは急ぎません。この現象界での人間のつよい眼差し、つまり「現存在」と「実存」で存在の意味を捉えることに専念しようとします。この思想の流れは、フッサール、その弟子であったハイデガー、フランスのメルロ・ポンティ、サルトルへと展開して、現在「現象論哲学」として地位を得ています。
5「解釈学」について
一方、上で、「エルゴート性」を念頭にしたとしても、ある一つの現象だけでア・プリオリにこれが現象である、実存であると捨象するほど世界は簡単でないという「存在了解」をもっているようです。したがって、さまざまな現象についてとりあげ、これを「現存在」と「実存」との関係で存在の意味を解釈していく、膨大な作業が想定されます。これを「解釈学」とよんでいます。 人文科学の主要な活動はここにおかれることになります。私は、この「解釈学」は、大切な学術活動と理解していますが、システム情報科学など工学系生業としてきた人間にとっては、なにか、落ち着かないようです。それは、行動につなげる思考の「地平」が見えにくいからです。

5 比較制度論について
まったく別の観点で、先日亡くなられたスタンフォード大学の経済学者である青木昌彦さんの 比較制度論を学ぶ機会を得ました。彼の業績は、たとえばグローバル経済市場のもとでは 日本もアメリカも経済の構造の行き着くところが、同一モード帰着化(equi-reaching mode)構造になるという仮説を覆したことを知ります。安定構造はいくつもあり、帰着構造はパラメータ値のわずかな変化で、結果の状態モードがいつくもあるということ示した。これをポリマーや合金でび多相構造への安定性という力学モデル過程から証左しています。

わかってしまえば、ああそうかということですが、これは現象論モデルをつかってのゲーム理論の勝利です。 こういう発想の哲学がきっとあると動物的勘をはたらかすと、彼はスタンフォードの哲学の先生に John Searleというひとがいて、Social Institution Theoryという現象論と認識論との接合展開理論につよく影響を受け、彼の哲学を賞揚していたことを知りました。アメリカはプラグマティズムの国ですから、理論と行動とを品質管理のPDCAのような思想体系を目指します。そういう意味でのEvolutional Epistemologyのパラダイムも登場してきてにぎにぎしいです。

6 Institution理論と、Heideggerの現象論
そのような、Institutionまでにいくと、Heideggerの現象論が,時代に先導し、もしかしたら、そおっと英米系制度論へと時代的な開花をしているようにおもいました。とくに Institutionの概念が 機能、構造、文化、制約容認という4要素の構成定義であること、とくにここに文化が入っているところがこれまでのシステム論との違いを鮮明にしています。その機能構造として agency とinstitutionの二元構造が特徴的です。
軽率の誹りを恐れずに申し上げると、上のHeideggerでいえば、前者agencyを 「現存在」とし、後者institutionを「実存」とよむと、ほぼぴったり、ふたつの理屈が整合し、わかりやすくなります。
(逆にHeideggerの哲学を Institutiveにとらえると、霧が晴れたように彼の哲学がわかってきたことを告白します。)

 これからの日本人を、日本国を考えるうえで、とうしても、哲学に裏付けされた広い意味の制度論的設計が、国民の生活や社会のあり方において見直され、present of institutionである必要があって、absent of institutionを丁寧に消去していくべきことを痛感しています。
7.Ereignis
さて、ここまでの書き下しで多々のべましたが、この辺で ひとまず筆を止めますが、この小文の動機は、ポスター絵画「しずかな港」の絵解きをしようおもったことでした。 自分で気ままに絵を描いて、それを絵解きとはいい気なものです。
 Heideggerの後記の哲学は、この「現存在」と「実存」の哲学からら、人生としてなにが見えてくるかという問いかけの応えとしてこのEr-Augenという言葉を登場させます。これは、 「目をじっと開いて招きよせる」、異なる次元での「現存在」と「実存」という意味ですが、名詞としてEreignisと表現します。 実存としての異界つまり研ぎ澄まされた卓越(であろう)さらなる先の超越からのEr AugenつまりEreignisです。邦訳では「性起」?ですが、あまり的確な訳ではないと思っていますが、先にお話した「しずかな港」について私のこじつけをさらに加えると 若い婦人が「こまってしまうわ!!」手を拡げています。傍にいるの老人達は顕わには応答しない、またじっとしています。しかしながら、静かに、無言でなにかを見つめ、なにかを語っているのではないか、つまりEreignisがある。そんな勝手な事後解釈となりました。
どうも お付き合いいただき恐縮です。
荒井


随想 そのII 絵画「しずかな港」
~「人は死ぬとどうなるか(究極の難題)・・」その1からその5まで、  ~

 facebookにて私が賢人として敬する友人関口益照氏 のところに留まりました。  このひとの渾身の思考足跡に、率直に感動と共感を覚えるものでありました。理解のレベルは別として読ませていただきました。
関口氏は、人間の死生について、形而上学的考察を基盤に置いて、その思考素材として仏教思想、特に業、縁、因果法を使われて、 人間の死と生による意識の継続存在性について、二分法論理手段で四段階層まで命題展開していかれました。
これを読者としての私の理解のながれを極力そのまま keywords列挙型で述べてみることにしました。 
読後感でのKeywordsを敢えて5つあげ、この順序で話をすすめます。

「人は死ぬとどうなるか(究極の難題)・・」その1からその5まで

1.継承性と保存性
2.「vehicle」(乗り物)
3. 無限連続組み合わせ
4.自由意志
5.「静かな港」
 
付録1 付録1 関口益照氏からのコメント(2018/9/4) 
付録2 荒井康全自己紹介

~~~本文~~~
「人は死ぬとどうなるか(究極の難題)・・」その1からその5まで

1.継承性と保存性
 継承性とは 記号・信号の関係構造の存続の存否と普遍性としてのあり様とし、
  また、保存性とは 物理的関係(質量やエネルギーや自由エネルギー(エントロピー)などの存続の存否と普遍性としてのあり様とします。
 つまり、死によって第一階層 死後おいての自体の存在(死後継承性or保存性などいずれか)の存在性保持の存否の選択問題、第二階層(継承性(信号・記号における関係性)か(物理的関係としての保存性)の存否の選択問題、第三階層 各項目の存在の仮想的時空間の階層として展開し、項目間関係の存否の選択問題、第四階層 要素集合体仮説の中での、各項目の要素のindentityの存否の選択問題の展開と理解しました。
かれのもっとも注目したい論理分岐は以下で、とくに②-2-2と判断しました。
②-2-2人類の通常の認識機能(≒意識?)では知覚できない位相世界(宇宙)があって、その位相世界における一要素として一定の法則の下に存続する。
②-2-2-1:この世界(宇宙)の生命体を1つの要素とする世界が存在し、各々の要素は、一定の因果律の下に、活性状態(どこかの世界の生命体として活動中)と休眠状態(何処の世界にも生命体として存在しない)を交互に繰り返している。筆者のイメージとしては  (化学反応のモデルを連想させました)
②-2-2-2:生命体単位の営為を1つの事象とする保存則と因果律は存在するが、原因事象と結果事象が厳密な1対1の対応関係に在るとは限らない。(化学反応のモデルを連想させ たとえば重合反応おもしろいとおもいました)

(質問) 保存則(物理的保存性)と因果律(信号・記号的継承性)と区分を第二段階層にとるなら、「保存則と因果律」でなく、ここでは「因果律」のみの表現になります。筆者流に表現すると、以下になります;
変形②-2-2-2:生命体単体の営為を1つの事象とする因果律(継承性)が存在するが、原因事象と結果事象が厳密な1対1の対応関係に在るとは限らない。
 この証明が実証できる可能であるという保証はないと考えられます。
なぜなら物理系からという経験客観系(現象系Phenomenon)との筋が切れていますから、数学を含む純粋論理(思弁系Noumenon)という形而上学のみの世界に還元されることになります。
特に 生命体の物理的な死を経過したあとの単体の信号・記号の継承性の論理は、実証系から外されます。 形而上学命題ですから、それ自身で論理が完結することをひとは要求します。しかし成功するかどうかは別ですが、記号や信号を使って生命の継承性を数学モデルを使って論じることには可能性があります。 より上等な神話をつくることです。思弁系での論理が閉じていれば、形而上学論理それ自体としては完結です。
 
2.vehicle」(乗り物)
 残るのは物理的に実在系の人間の存在のとらえ方があります。綿々と子孫が生き続けるということを如何に考えるかです。
関口さんの紹介されます曹洞宗教典―修證義―で、「善悪の報に三時あり。一つには順現報受、二つには順次生受、三つ順後次受」。 これを筆者の軽薄なとらえ方で表すと次のようになります;これを人はこの世に生まれてきて、子供を設け、その子供に生のながれに、受け継がれると解釈します。これは、リンクのなかの生命の継承・保存であり、際立って物理系(現象系)であります。肉体という「乗り物 vehicle」の列車に乗っていく人間(being)、その結合(「縁」)で因果がつながり、存在し続ける。 つまり生命体のDNAメッセンジャーのなかで継承していく。通常の個体での個別的次元での生と死のとらえ方はとは異なる時空間系です。人間の場合、この「乗り物」でのある個人のidentityは文化や生活においては記憶(信号・記号)の関係形態でのこされます。そして特に、時間とともに埋没し、消滅します。 ソクラテスは、時が経過してもidentityが認めうるほどに顕著な記憶として存在を示します。その個別としてのソクラテス自身は、この現在どこにいるかが問われます。 その答えのひとつは、誰かが彼に関心をもったときに記述体を経て、意識内に存在すると答えるかもしれません。 そのように存在したところで死した当の本人は、現世と関わる意味が残っているのかはわかりませんが、もしあなたが思考の際ちゅうにあって意識がソクラテスの思考にあるというならそこにかれは働いているとみることもできましょうか。
 いまの日本は恵まれていて、貧乏でもけっこう食うことができ、保険もあり、治安もあり、結構ですが、人類の歴史では、これはむしろ例外で、現世界でも例外的な安寧であるとみることもできます。 四苦で、呻吟して、できれば早くこの世から去れればうれしいと待ち望んでいるひとも常態的であったろうとおもいます。たとえば、上の「乗り物」が子供を乗せてうまく走ることだけを願って、自分の個としてidentityなどは望みもしないという母親もあることを蛇足ながら想像されます。次の世代へのvehicleが動いていけば、それで十分であるという結論もあります。
 
3.無限連続組み合わせ
関口さんの仏教の話しで、「人身」と「最勝」というところにたち留まりました。 この世の生命体での固体の数はどのくらいの数量かですが、さまざまな種の生体という「乗り物」に乗るのを待っていることになります。「人身」という「乗り物」にのるチャンスは幾兆分の1の確率と説くひとがいます。 つまり人間としてこの世にあるというのは、生き物にとっては「最勝」ということになります。 その恩恵にある人間の価値に考えを及ばすことは意味があります。 「無限連続組み合わせ」といっても、見えざる固体は、連結を繰り返す「列車」に乗り移りながら進んでいると考えることもできます。この辺の死生観の論理が完結していて、最高度に納得するものであれば、それで意味のある思考成果といえます。
「旧約」の世界では、生命体は神の息もしくは風の無機質への吹き込み(spirit)であり、それによる想像とされるます。 神がそのspiritを引き取れば、もとの無機質・土(アダム)へともどる。キリスト教では、イエスの再来の日まで、その死しても、identifyされうる個人として存在しているという仮説です。 
4.自由意志
 人間が考えることは 思弁だけでもなりたちます。たとえば数学のパズルは完全な思弁系で、外界の客観的なもの存在の感知を必要としません。自分が置かれた環境つまり自然を知るためには現象系での経験的な感知が必要です。 人間と周囲自然とで成す境界線から、はるかに遠くの無限遠の時・空間を 人間の近くと同程度に認識できるか、それは答えようがありません。ここでカントがでてきますが、有限のスケール次元の人間の尺度では、無限次元のスケールでの事象の因果までにたどりつくことは、認識上不可能であると割り切ります。
ただ彼は、人間は、自由意志を宿命的に持つ特権から、自然に対して働きかけ・実験することができるとします。話は前後しますが、そのつじつまを合わせる必要から、時間と空間は人間の主観にあるという、哲学史上のコペルニクス的転換をします。
こうして 思考実験と物理実験との接合を与えます。科学の承認です。
何をいいたいかというと、人間の自由意志と死後の世界との葛藤はなんであろうかという問題です。 なぜ死生観を考えるのか、生きる意味や、死後を考えるモデルでシミュレーションを自由意志が可能にするからです。もちろん存在を実証できません。
そして、死するとそのひとの自由意志はどうなるのかという問いが出てきます。
それが 多分 関口さんの変形②-2-2-2であろうとおもいます。
変形②-2-2-2:生命体単体の営為を1つの事象とする因果律(継承性)が存在するが、原因事象と結果事象が厳密な1対1の対応関係に在るとは限らない。
つまり自由意志という単体が漂うということにしておきましょうか。
 
5.絵画「静かな港」
 このような題名のポスターです。ご覧ください。
 上は、急ぎの書き下ろしでした、思考に穴だらけです。論理破綻がないとよろしいですが、いかがでしょうか。


絵画「しずかな港」I へ

付録1 関口益照氏からのコメント(2018/9/4) 
2018-09-04 23:12:02
関口さんからのコメントです。(2018/9/4) 

関口⇒荒井
関口益照
わたしの意図するところをきれいに整理していただいて、ありがとうございます。
冒頭に書いたように、論理的に完結される知力も体力もないのは承知の上での試論でもあり、形而上の概念を論理モデルの極限値として表現できないかという一つのアプローチを提案した次第ですが、お蔭さまで、少なくとも私の意図した提案内容を論理的に破綻のない命題として表現していただけたと思っています。
これを機に第2、第3の論者がこの問題に取り組んでくれることを期待したいと思います。

末尾に書かれた自己紹介を拝読し、紆余曲折を経て研究職にたどり着かれたことなど、私自身の身の上に通じるものがあって、不思議な ”縁” を感じております。

荒井⇒関口
関口さん、これを書いたときは、思考が軽いとおしかりをうけるのではないかと危惧していました。いまよむと、そうであるかなと、感心したありして、どうもいい加減なものです。
phenomenonとnoumenonとの境界もさることながら、noumenon(形而上)とその隣り合わせの超越世界との境界。関口さんがかなり、緻密に論を展開されておられました。個人としては、安らぎを感じます。向こうの世界からそっとこちら側にみせてくれているようなものです。ハイデガーが上手い表現をしていましたが、度忘れしました。今後ともよろしくご友誼のほどをお願いします。

付録2 荒井康全の自己紹介
最低限の自己紹介をもうしあげます;
(ごく最近の私:自己紹介)
 2011年に甲状腺癌の摘出と治療を受け、しばらく、深く思考すること意欲も自然に失せていました。ただ、入院の数か月まえに始めた絵画が、うまく合っていてくれて夢中で絵を描いていました。これがやさしく時間を満たしてくれて小康状態に至ったので、そうだとおもい、私なりに死生観との付き合いをしてきました。
 死生観とつきあうために、なにか思考の土俵があればと思っていたところ、当時東工大の世界文明センターの教授であった橋爪大三郎先生の公開講座「旧約を読む」に目をつけ、ここで5年ほど通いつめました。
橋爪先生の計らいで、彼の理論社会学、軍事社会学、と宗教社会学の聴講をゆるしていただき、期末試験も受けさせてもらいました。
 
 「旧約」では、紀元前1千年ころのユダヤの人の苦難がつまびらかであり、それを通じて、人が正しく生きるということ、そのなかでの超越者との契約、律法と生活との矛盾葛藤などが生き生きと描かれ、飽きさせませんでした。それらが近代の西洋思想との根底と思われる人間の自由や理性などとの関係を質疑として繰り返しております。 その過程で、トーマス・ホッブスやカント、そのあとでハイデガーに焦点を当てていきました。 テーマとしては、「システム思考による目的論理の構造と社会倫理について」という大枠を設定しました。これは技術系の人間が、社会科学系への思考ルートとしてなじみ易いものを考えたことによります。
 2012年から「総合知学会」(会長小松昭英氏)の研究例会にて、以下の研究発表をし、学会誌に論文発表をしています。
(2013年度)総合知学会誌 ISSN 1345-4889
1.論文 序論 システム思考での目的論理の構造と社会倫理について 
2.研究ノート 目的論理の構造としての「自由意志」と「因果性」を考える
 
(2014年度)総合知学会誌 ISSN 1345-4889
3.」論文 システム思考での目的論理の構造と社会倫理について II
 ―目的性論理の価値認識の上限境界線を考える
4.巻頭言 「形而上学」への意識
 
(2015年度)総合知学会誌 ISSN 1345-4889(投稿受理)
5.論文 システム思考での目的論理の構造と社会倫理について IV
   価値の共約不可能性と多元主義について
6.論文 システム思考での目的論理の構造と社会倫理について V
   制度(論)からみたシステムの多元的目的論理
7.巻頭言 アダム・スミス問題と道徳性について
 
(私の略歴)1938年生まれ 神奈川県
明治学院中学校卒、東京都立一ツ橋高等学校(一年一学期まで)、神奈川県立湘南高等学校卒、東京商船大学機関科卒、東京大学大学院数物系機械工学修士、米国ウィスコンシン大学大学院化学工学修士
昭和電工株式会社(1964年~1998年)
武蔵工業大学五島育英会(1998年~2002年) 国際・産官学交流センター長
東京工業大学資源化学研究所(2002年~2004年) 特任教授
(趣味)絵画、哲学、音楽
 
わたくしは、機械工学大学院から昭和電工に入り、特に技術者として、化学プラントやプロセスの開発や研究に携わってきました。高校時代での転校やらで、当初、学問基礎素養に歪をのこしていたとすれば、数学と物理でした。 生涯、このコンプレックスの克服に妙に拘ったてきました。 米国ウィスコンシン大学大学院化学工学では、化学プロセスや現象のコンピュータ数学モデルの研究でした。 そこでの開眼が大いにあって、曲折はありましたが、会社に数理技術の研究所を作り、経営・技術解析専門として横断的な技術活動を展開しました。1987年には、研究支援用システムの導入を企画・開発を富士通と契約して実施導入しました。また、当時通産省の産学連携プロジェクトして、公益法人・新化学発展協会のもとで高分子材料設計開発支援プラットホーム(土井正男OCTA)プロジェクトを立ち上げています。 これは名古屋大学開発プロジェクトと富士通との契約で進められ、プロジェクトの成功例として高い評価を得え、現在でも生きています。 特に営業本部の佐藤晃氏や佐藤芳男氏とは、長い付き合いでありました。 


 (マルグリット・砂粒)
 (凱旋行進・マルグリットオマージュ)

(朝日記241129  目次gate AI Copilot氏との哲学的会話 目次へ帰る)

 


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