Yassie Araiのメッセージ

ときどきの自分のエッセイを載せます

朝日記130601 日本の散文 そして 「ほんね」と「たてまえ」について

2013-06-01 08:41:18 | 絵画と哲学

朝日記130601 と今日の絵をおおくりします。

おはようございます。
きのうにつづき、梅雨の間の晴れですね。

徒然こと その1 日本の散文proseについて
Percey Byssche Shelley、スペルをおぼえるために
つづりましたが 友人の英国人が自分も和文詩を遣る覚悟のようです。 come をcomethと書くように、クラッシクな英語(文語)の文体を あえて現代英語訳を披露してくれました。 これは 私に原詩の意味を教えてくれるためでもあります。
*和訳をしたこちらの文体をみて、かれは 'prose' 散文(詩)と位置付けてきます。多分 Shelleyのもそうい位置づけにあるのでしょう。かれの方からみると これまで日本の詩歌は俳句と和歌に接するのがおおかったようで、日本文での散文詩形を知ったことは 日本語の表現法のひとつを獲得することになるので 新鮮なおもいを抱いたようです。 

徒然こと その2 「ほんね」と「たてまえ」について

*このところTVは朝の体操だけしか見ていないのですが、新聞(日経)とネットやラジオでニュースを得ます。
*橋下徹大阪市長の海外記者クラブで彼が読み上げたメモをよみました。彼の言いたいことの内容は 出しているとおもいます。 評価は半々ですね。
彼の 性問題に関する発言で、国のそとからは、彼を越えて日本の人の意識の根底にある道徳観が 特殊であるという印象を与える状態をあたえているとみます。
*慰安婦の問題は すでにこれまでに外交的にも 政治的にも 済んでいる問題であることを 蒸し返していることへの指摘をしました。 

* 「風俗業」の存在の事実を、積極的な制度認知(制度としてのインフラ化)を提案したことについて
かれは、戦場での性問題について 各国が抱えている共通の問題という形で 国名をあげて 相対化し 自らを弁明した形にしました。 
* これに付け加えて 彼自身が 基本的人権 自由と平等 民主主義を原則としていると明言します。
* 外国人記者のなかで「頭のいいひとだ」というコメントも読みました。 
*橋下氏は、これで完勝したことになります。
(いかがでしょうか。そう言い切れますかな)

*自分への弁明で もっとも有力な手段は ものごとを相対的に対象化してしまうものあることが効果があるようです。
もう十年以上まえのことですが、京都大学の森 毅さんという数学の先生です。かれの「私の履歴書」であったとおもいますが 喧嘩の必勝法は、徹底的に問題を相対化するに限るということで 例をあげていました。
*しかし おわりに ただ勝つためというのは空しいということも添えられ、多分これが「ほんね」かなあと 思ったものでした。
*橋下氏にもどると 今回の問題は、彼自身の根底にある道徳観が問われていていると思います。
*さきにあげた 事実(そこにあるから;da-sein)であるから それを 当為(あるべきもの; sollen)にしてしまう短絡的な価値観についてです。 かれは、その間を、なんら言及していない。 その国の指導者になりうべきひとの資質としてひとえにそこが焦点があるのに なんら触れていないことです。
*そして、言葉をかさねれば 重ねるほど 救いがたい人間性の欠如が露呈していくことになりそうです。彼のなかまの政党が本能的に これを感じて もうしゃべるなという形になってきます。
*さて、観点をかえます。
現代は 政教分離で宗教は政治に入ってきませんが、その接点では 政治と宗教と無言の約束があるとおもいます。これは 特にキリスト教の場合としておきます。
合理主義にしても 経験主義にしても 基本は理性主義です。(「理性信仰」というのもあります)
*ところで、その「理性」はどこからくるのか、どのくらい信頼がおけるのかは、ホッブスにしても、なにもふれていません。「前提」の共有という 「無言の約束」とおもいます。
(当時、ここに触れられない宗教的圧力があったことも事実です。したがって ここを出発点とする共通価値として置いたことになります)
つまり、神からのおくりものという一種の宗教観のものと考えられます。 
*これが あるかないかと いっても証明のしようがない。 結局 彼らの精神文化であるキリスト教が暗黙裡の前提にならざるを得ないわけです。
*たとえば、グロチウスの国際公法の基本は キリスト教国が前提であり それ以外は対等に考えられない。
*理性主義の基底をキリスト教においているからです。
* 先日「旧約をよむ」の自由質問として、 橋爪大三郎先生に「ほんね」と「たてまえ」を社会学として どうとらえるかという質問をしかけました。
* これ自体が 旧約にどうかかわりがあるか、これこそおもしろいのですが、基本は このふたつの間に概念としての一貫性がないとは 一神教の世界では、基本的に非道徳的であるとし、 おそらく国際的(つまりキリスト教世界)には まったく説得力がないという見解が帰してきました。
*中国では 韓国では、タイではという話しにもおよびますが時間はありません。 ただ中国人は 理解できるかもしれないと 加えておられました。
*ちなみに この「ほんね」と「たてまえ」という二元概念は 日本では この60年くらい前からでてきたらしいです。
*わたくしは、時代劇などは この二元論で終始しているように見えます。 しかし、そのふたつの一致のために 切腹など命をかけ責任をとるということをするので、一元論の道徳観としてみることができます。 (そう簡単でもない感じもしますが)
*ふたつが ばらばらで 平然としているところに
どういう社会をつくるかという本質的な理想も理念がなく、「道徳」欠如として、それを(キリスト教徒によって)指摘されたということになります。(言いすぎでしょうか。)
(Kato Norihiroさんという 東大の文学部を出たひとが これを研究されているということでした。ネットでちょっとあたっただけで まだ調べていません)

*この問題は、憲法の論議も 安易なものであってはならず、国民次元にまで至る必然性があることを 指摘しておきます。





***

徒然ことおわり


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