朝日記220613c こころの内容と対象、対象理論、非存在性対象、目的論的価値観、
朝日記220513 研究ノート価値客観主義と価値主観主義の相克について
2.3. 研究メモ
(こころの内容と対象、対象理論、非存在性対象、目的論的価値観、その他)
2.3.1 「言説のDisposition(晒し)」ということについて(その1)
いずれの時代でも同様であるが、ひとが住む社会や国が、平和安寧であることは本来まれである。家内安全。商売繫盛・災難免除・国家安寧等の祈念のもと、ひとは経世済民、安全保障、健康厚生、文化教育等政治に対して 英断果敢なる統治をもとめるが、現今、新型コロナのパンデミックの猛威は、全地球規模での人類生存の根幹をゆるがせ、なお予断をゆるさない状態である。 このように国難が長期に及ぶと、ひとは国の統治能力にたいしても悲観的な方向にうけとめていくように見みる。たしかにそうかもしれない。 しかし、一方に、国民の全体の空気としては、存外にクールであるようにも見えないわけではない。 いわゆる「コロナ過敏」と「平和ボケ」の思考放棄でただに呆けてしまっているともいえないところがある。だから安心というわけでもないが、あえていえば、国民は、意外にしたたかに判断をし、行動しているともいえる。たとえれば この国、その社会の根底に「バクダンあられ」のような窯[1]がある。そこで課題共有のための価値判断の結果だしの手回しプロセスをしているとみることもできる。
そういうことを考えた特異な心理学者・哲学者がいた。ここで取り上げてきた墺太利のAlexius Meinong(b.1853. 1920d.)である。 こういう考えである。
1.ひとは、こころの志向を、「言語」をつかって「対象」として表現する。
2.「対象」はその意味を持つことができる。
3.ひとは「価値」を「経験」できるが、意外に控えめ(shy)であり内側に留まっている。たとえば個人的な色彩などの好みや自分がもつ困難について語ることは好まない。
4.同様の筋で、各「価値」はそれぞれの個人の価値でなければならないという実際上のケースはないとした。
5.それは個人の価値経験の仲介を通してはいるが「われわれ」という「非人称的」な次元での「価値判断」として届くとした。
6.しかもperception「感知」は、sensation「感動」 を基礎にした個人的なjudgement「判断」を含むものであるとした。 その「判断」の根拠は、(自由意志は決定することを避けない)、かつ、(自由は強制されない)とした。
7.このような「一般的対象」をobject of value「価値対象」として仕上げるは何かを彼は考えたのである。
8.その根拠がObject( s 対象)であり、この特性(属性)をDispositional としたのである。
これを基礎としたもとにvalue experience価値経験、actual value実際的価値 を説明した。価値の対象化つまり、ひとがもつ価値のObjectivized客体・客観化の基体としての、またひとがもつ価値経験を生産productする基体としての「対象」基本属性としての「disposition」を置いたのであった。わかりやすいイメージでいえば「価値決定の工場」のようなもので、「価値決定」という反応製品のためのプロセス工 程であり、さきの‘バクダンあられ’の出来あがりに必要な反応条件と反応時間量をもつ反応基体としての特性をみまもることを意味しているといえよう。つまり社会的な規範や施策のdispositional installation実際配備がおこなわれるまでには一定の時間経過が必要である、それを大事にし合うという意味にもつながる。外見からとらえるなら 国民感情など収束への治まりのための「晒し」であり、 あるいは果敢な施策実行として運営のための「配備」と訳することもできる。 哲学用語事典としては、「傾向」、「性向」程度の訳がある。このプロセスが可視化できるかという問題は、また別の次元の課題であるがただしい。今回、Alexius Meinongをとりあげ、とくに「非存在性対象」や「Disposition(晒し)」ということについて現代社会科学的な対象領域としての解説と考察をしたことを付言する。(2021-10-15)
2.3.2 マイノングの理論とミッシェル・フーコーの理論
非存在的対象と非思考的対象を考える
On theories of Value:of Alexius Meinong and of Michell Foucault ;
この焦点の当て方は哲学史の本流からは叱責をうけるかもしれないが、筆者はここでつぎの二人の哲学者をマイノング(墺b.1853,1920d.)とフーコー(仏b.1926,1984d)に視点をいて少しく、考えてみたい。その理由は 価値判断についての重心が客体・客観と主体・主観にその視点の重心が分かれるところに注目したからである。このかれらはそれぞれ次の視点に重心を移行させている;
- マイノングの価値の客体・客観志向(価値オブジェクティブ理論)
- フーコーの価値の主体・主観回帰志向(パワー・サブジェクティブ理論)
前者マイノングは「非存在性対象」“ non-existent object”の理念を展開したが、これは社会系で異なる主張が対立しそして膠着し緊迫している集団的事態に対して思考の変数(自由度)領域を広げ、思考モデリングとしての結果として対象領域の拡張をゆるすことを示唆した。これが「非存在性対象」が幾何学的補助線なヒントを与えるかもしれない期待を生んだ。これは存在/非存在領域を包含した領域での思考対象の位置付けをゆるし、後のサイバネティクスや情報制御システム工学への技術文明への飛躍の根拠を与えたことを直観したからである。存在/非存在対象域での制約条件の選択可能性および係数自由度(緩和性)の拡張性の追求が技術革新を加速させたと解釈したのである。
後者フーコーは 文明が科学技術から獲得した知識以上に、根源の人間意識(こころ)のもつ生命知的鉱脈(非知識的鉱脈)は大きいとみた。社会や政治的な問題はたしかにObjectivismにあってよいが、ここでは本質的に限界があると考えたのであった。むしろ対象の価値について社会のもつ主体側意識とくに人間生存価値や力の根源への回帰に注目した。多様ではあるがその真(根源)への合理帰着や集団生存志向意識のimplex収容から出発することをねらった。つまり、蓄積した既存の知(つまり理念)からの出発ではないという意味では非思考的対象といえよう。 それを未思考対象の遺跡[2]発掘として、本来的意味/意義の領域を発掘探索し、その集団としての意識力の発生源つまり本来的なpower統治を掘りだそうとする理念提起である。つまりそこで対象化される事態を きわめてSubjecta主体・主観側に重心をおいた価値(パワー)意識事態問題「Subjective」として位置づけている。フーコーはその社会は常に変化し、かつ進化しているものであると考えたのである。何が,誰がその社会を制御管理しているのか? かれはその制御管理者としてのその存在を「power統治力」と呼んだ。
彼は「power統治力」として三つを区分けする;
フーコーは「power統治力」は、往々そしてほとんどが、王権を除いて、人称的な姿を顕わない[6]と論述したのである。彼がとくに焦点を当てたのが 2.の設計された規律自体からの「power統治力」であった。 彼はその典型例として「刑務所panopticon」に注目したのであるが、これは英国の哲学者ベンサムの囚人自身がだれからも見られているという感覚をもってしまうという設計理念であり、結果として囚人が規範ルールに沿って自生的に規範行動に向わせるパワーが支配しているとみるのである。この「panopticon」という術語は‘造られるSubjectivity’意識事態‘を意味しているが、それが囚人各人のなかに取り込まれてそして共有されるのであるとみたのである。これは非自由性であるにもかかわらず具体的にみとどけることができない「power統治力」(パワー)のシステムとみたのであった。
奇妙にみえるかもしれないが、フーコーはわれわれの社会はそのような(パワー)によって秩序稼働しており、ひとはそのパワーの下にあるが、ひとそのものがその構成を担う一部になっているというものである。同時に、社会はつねに自身と他者の関係の変化の直面しており、フーコーは民主主義的社会のために、the state of powerパワー事態に対抗する行動と態度が重要であると主張した。かれの術語では“resistance “[抵抗」である。これには選挙での投票および大衆運動およびルールの変更への要求が含まれる社会動力学的な課題領域へとつながる
" social disposition”理論.
この抵抗がある段階にいたると我々はわれわれ各人のなかでの対立する論議に直面することになる。 筆者は米国の哲学者John Gouinlock[7]の" social disposition”理論をここで引用したい。一方、マイノングは、社会的価値についてSubjectivsmから出発したが後期に価値の対象化の次元からObjectivismに視点の重心を移行した。これは、こころの志向先としての対象をみとめ、その存在性を超越した対象領域へと思考重心を移行したのであった。これにより集合体としての価値判断のObjectivismをひらき、政治経済にとどまらず人間の品性や威厳といった道徳的判断を経た社会的価値としてのObjectivismを位置付けたのである。その客観的対象の特性つまりキャラクターとして Dispositionの概念を導入したのであった。これは後のMaxWeberの方法論的個人主義からの没価値主義ではなく、価値の高次判断力に重心を置いたものであった。
朝日記220513 研究ノート価値客観主義と価値主観主義の相克について
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2.3.3 「言説のDisposition(晒し)」ということについて(その2)
「言説の晒し」(Disposition of discourse)が中心の話題をつづける。
2017年12月19日の筆者のブログ手記「朝日記」[8]に米国の哲学者 J.ガウアンロックの公開討議と社会的知性についてのこの言説[9]をご紹介した。 国論を二分するような主張があって、感情的な対立がそのまま、膠着状態にあるときに、それから、やがては抜け出すための、なお理性的であり、かつ建設的な合意形成に至るための知恵を見出すことが、世界で模索されている。筆者は、社会学者ではないので、仔細には誤りがあるかもしれないが以下、それを含み置きされたい。
ジョン・スチュアート・ミルが、「社会的知性」というかれの概念のなかで、人間の思考には誤謬を含むということと人間は弱い存在であるということを前提に、社会として論議を尽くし、合意結論に至る方法を論じている。社会でのその主体は世論であること。しかし、世論は往々にて暴言、暴走をし、思わぬ方向に社会を向わしめてしまうこと。ときに、その社会の知性が本来的に意味ある知恵として取り込まれた結果になっているのか怪しくなっているような状態に陥ちてしまう。 岡目からからみれば、その過ちが顕わなのに、何の有効的手段も見いだせず、ひたすら力学的な進行過程に陥落してしまう。彼はその著「自由論」のなかで危惧を憂慮した。彼の時代(19世紀末)に政治権力の中心は、すでに議会や政府などにあるのではなく、新聞などメディアを核とした世論側にあることを彼は認識していた。その前提のもとで、彼はあえて「公開討論」による課題合意形成の自由論を論じたのであった。
ミルの社会論は、その後、デューイなど米国のプラグマティズムのながれのなかで、ノージックやA. セン そしてここで取り上げる J.ガウアンロックに引き引き継がれる。ここでは、大陸の伝統である歴史主義とは異なり、該問題対象に向かっての科学的専門分野から、動的な課題取り組み(Consequentialism)が主流であるとおもわれる。
彼J.ガウアンロックの考え方は、異なる主張の選択結論の社会的決着のためには、急がずに、それを開示して、時間を取ること、これを (Disposition)「晒し」として提言した。 熱しやすく冷めやすくて、忘れやすい我らの民族性からいうと問題放棄、思考放棄になる危険性とが隣り合うが、原語のDispositionの意には、軍隊教練や配備のような、いついかなる時も対応しうる現実感覚のもとにおくことに、社会の意識共有の求心を求められるものとしての概念であろうか。
たとえば、「不正選挙」が、一方では あり得ないとし、他でではあったと主張する問題で、アメリカ国論は二分した記憶はなお、あたらしい。 裁判制度は法的な有効性の観点からの判断であり、形式的にはこれで 決着がついたことになる。しかし、双方の心情は、根底で納得していない状態であると望見する。未来に向かって相互亀裂は深まる危惧をみるものである。これを(「不正選挙」はなかった)ではなく、((「不正選挙」はあった)「非存在性オブジェクト」としてとりあげるとしたらどうなるであろうか。つまり社会科学的検証対象とする。対象化して社会全体がそれに対して臨床知的な取り組むこと、つまり「晒し」(disposition)の共有化としたらどうかという提案でこれが彼 J.ガウアンロック流の提案となると思われる。 ミルのいう、デューイのいう建設的な社会知性への道筋の延長として見ようとするものである。
話は変わるが、希代の経営学者 P.F. ドラッガーが死してひさしく、すでに世人の脳裏からは遠くなっている。 私議で恐縮ですが、連休に身の回りの資料の整理をこころして、時間をとり、健気に“終活”の整理をしている。その最中にドラッガーの著「ネクスト・リーダー」が目に入り、“本屋の立ち読みなんだ”とこの場をきめこみ手に取った。彼はその著の終わりで日本のネクストを論じていておもしろいのは、日本は戦後の経済危機を問題の解決を「末置きして」、幸運にも、みずからへの好結果へと維持し、発展してきたが、そういう遣り方もあるのだと好意的評価をした。かれのこの筆は二十世紀末の例の世界金融危機のころで、日本がこれをうまく乗り切れるかどうかを、なお危惧をしているのが印象的であった。 さて、これまでの歴史的経過のなかで、これを日本での「晒し」であったと簡単に、楽観的に決め込んででしまう、問題の本質を過去のものとして見過ごすか、忘れてしまうか、そういう意識の逃げを自分はもとよりわれら日本のなかに、ふと見る想いをしたのであった。それであえてここにメモにした。
そういえば、憲法審議は、これまで共有の場での思考放棄で、与党・野党とも然ることながら、メディアが気取る社会世論でも完全空白状態であったことを認めざるを得ないのではないかとおもう。上の「非存在性対象」つまり、存在しないものを存在すると仮定してテーブルにのせてみる。そういう「晒し」(disposition)としての共有を、わが国民喫緊の課題として、その巨大な「晒し」体浮上に現実感覚をもって、受け入れることを願うものである。 「賢い日本よ、ふたたび」としておく。
朝日記220513 研究ノート価値客観主義と価値主観主義の相克について
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[1] たき火に火のなかにそっと差し入れるサツマイモ焼きの方が近いかもしれない。焼けるのを見守る気を配りであろうか。
[2] excavation
[3] Power of sovereign power like a king
[4] Power of discipline as designed
[5] Bio-power as population power
[6] invisible
[8] 朝日記171218 Amazon書評投稿「J.ガウアンロック著公開討議と社会的知性」と今日の絵 https://blog.goo.ne.jp/gooararai/e/e257c6a3ebf77219f0b694caf0be14a0
[9] J.ガウアンロック著(小泉 仰監訳) 公開討議と社会的知性 ミルとデューイ(御茶ノ水書房)John Gouinlock; Excellence in Public Discourse ~John Stuart Smith,Jaon Dewey,and Scial Intelligence. 1986
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