朝日記220613b 標題 Alexius Meinong アレクセイ・マイノング 「丸い四角は、まるいか」
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標題 アレキシウス・マイノングと「非存在性対象を考える意味と効用について] [1]
(本稿での以下 章節番号は引用元の番号で表示している)
2.解説と考察 「非存在性対象を考える意味と効用について]
2.1.「丸い四角は、まるいか」
2.1.1 「丸い四角は、まるいか」、マイノングの対象の哲学について
心理学からはじまった「対象の理論」
墺太利の哲学者アレキシウス・マイノング(Alexius Meinong、b.1853, 1920d.)は 記述心理学の研究から認識論哲学にいたり、ごく一般人レベルのメンタル(こころ)の状態とその意識のもつ意味からの志向活動を「対象」として、とりあげ、今日のシステム論よりも早い時期に「対象の理論」を著わし、実験的な記述心理学や科学的な実践システム論への応用をよびかけたひとです。近代西洋哲学の歴史として、デカルトDecartesにはじまる自分(主体)が考える行動をその結果としての自分(主体)の存在の証拠(evidence for certainty)とすることへの合意があります。それはそれとして、認めたうえで、自分が考えたなにか(something)は、存在するのかという問いに対しては、存在のたしかなもの(certainty)に意識と思考は向かうという暗黙の了解がありました。彼は、彼の師ブレンターノ教授(Graz大学)のもと、英国経験主義の哲学ヒュームHumeのながれを取り、こころが経験したものはたしかに存在するかを実験的に研究します。その意味では、心理学を自然科学と位置付けます。
2.1.2.こころの志向の意味を対象とすること
その後まもなく、マイノングは、上述のこころmentalな内容とその意味するものとして「対象」objectの概念を導入します。かれは、考える「こころ」の中身を意味し記述するものとしそれを(Evidence for Presumption)「対象」として位置付けます。これにより結果的に、実際に存在するかどうかわからないが、こころmentalがあるとおもっているもの(so-being object)として「対象」の存在をもみとめることにします。
2.1.3.「シャーロックホームズは、イングランドにうまれ、・・・」
その典型例としては、「シャーロックホームズは、イングランドにうまれ、ロンドンのベーカー街に住んでいた」、「ペガサスはいた」、「第二種の永久機関は存在する」などです。(前2者と後の3番目とは意味が違いますが) 「シャーロックホームズ」を例にとれば、ひとは、リアルな存在はみとめなくてもその物語にでてくる存在に意味のリアリティーを共感します・ 「語られるものは意味をもつ」つまり非実在の対象の存在を認めることになります。 これは集合論的な数学の対象になり、バートランド・ラッセルは、彼の「記述理論」の適用において、論理演算の過程で非実在の対象があらわれ、結論で消失する対象の存在としてみとめ、マイノングの単なる中間媒介の対象として、世界に紹介します。
2.1.4. ある固有の者(モノ)が存在しないという文章からくる問題
Negative Singular Existence Statement
これには、集合論の数学者フレーゲ(Frege)も数学論理として展開します。
「ペガサスは存在しない」という問題、Negative Singular Existence Statement固有名辞の否定的存在性の表明として記述論理数学展開をします。簡単に説明すると以下です;
1.書かれた文章には真であることができる。
2.その文章を構成する部分には意味がある。
3.その部分のなかの固有名辞(名詞)が意味があるなら、それはなにかsomethingを意味している。
4.もし、ペガサスがそれなら、「ペガサスは存在しない」というのは誤りである。
しかし、だからといって、「ペガサスが ”存在する“」と確定することはできない。なぜなら、「ペガサス」と「存在」とは関係ないという領域も含むからである。
2.1.5 . So being と Being
結局、”存在する“と言っている;So beingである「ペガサス」が存在するか;Beingかとはかかわりなく文章「ペガサスは存在しない」が、意味すること、つまり文章としての「対象」が存在するということになる。
2.1.6.「非存在性対象」Non Existent Object
マイノングは、非存在的な固有名辞(objecta)を使って、つまり今様にいえば「キャラクター化」して、文章(言語的表現)の意味の「対象化」をしたのであった。
「丸い四角は、存在する」
“たまごの四角に、女郎のまこと あれば晦日に月が出る” わが母がその昔、舞った長唄舞「吉原雀」の名文句である。
ひとのこころ(mental)の活動として、志向(intension) 「丸い四角」は、その名辞自体に、論理矛盾原理や存在/非存在の中間を排する排中律原理にまともに障る対象がでてくる。しかし、マイノングは、このこころの志向表現をうけた「対象」をあえてみとめた。これを「非存在性対象」Non Existent Objectの存在としたのであった。
2.1.7. 対象の二つの解釈の併存
マイノングは、実在の否定について、通常ひとが目にする二つの解釈の併存をみとめた;ひとつは、narrower, internal, or ontological(; 狭義、内的、述語的、存在論的な否定)で、もうひとつは、対して、 wider. External, logical negation(広義、外的、文章、論理的な否定)。 これに対して、二つの排中律の版をみとめることなるが、彼は、後者の文章否定のみ、それを受け入れ、述語的So beingについては、排中律の適用をみとめず、Suspension(宙づり)にしたのであった。
2.1.8. マイノング vs. ラッセル 論争
二重存在性についてのラッセルによる指摘は以下である;(1) ないものがあるとすることは、自然的なひとの理解に違和感がある。(2) ないものをあるかのように扱うことによって、ひとにひとの判断を過たせることになる。 ラッセルは、「語られるものは意味あり、かつ実在する」とし、マイノングの非存在性対象とおぼしき対象記号はラッセルの記述理論のなかで見かけ上あらわれるが、最終的に消去されるとして、あえて対象としての存在の意味に疑問をなげかけたのであった。
一方、マイノングは、内的な領域の存在領域のもつ積極的なmeaning意味とreference指示を主張し、ひとのこころmentalな中味のフィルターを経過して、結果的に外的な領域の存在性にも帰着的(consequent)な存在化(existent)に影響してくるというものとした。ラッセルは、ひとの意識(こころ)を経由してくる「対象」については、承認せず、この論争の終結を宣言した。
2.1.9. その論争後の大陸哲学界
マイノングの理論が幼稚なのか、ラッセルの指摘が幼稚なのか、その後、大陸側の哲学者では、論争が続いたが、残ったのは、マイノングの哲学には、人間や社会を考えるうえでの果実の大きさが期待され、捨て去るには惜しい哲学として現在に至っている。
2.2. Value Objectivism マイノングの理論― 価値の共有化に関する
2.2.1.初期;Value Subjectivism価値の主観・主体主義
マイノングは、価値がモノ固有の属性であるとは考えなかった。
価値は、Value experience個人の経験から決まる、あくまでもその個人の主観に属し、これがValue attitude個人の態度として現れるとして、かれの初期の理論はValue Subjectiveなものであると考えた。価値形成に心理的な主体・主観の役割わりに中心をおいた。 また、彼は、価値を経済的な価値に限定せず、「価値一般、そしてその価値以上に他の場へ、たとえば、倫理学および芸術的美学へと価値一般理論の適用を試みたのであった」(原文 7節)[2]
この価値態度は State of Affairs事態 とpre-sense先見感への感情的応答であり、したがってintended objects志向対象についてのJudgement判断 であり representation表現 (idea理念)であり、これは”psychological presupposition”心理学的先見性とよばれているものである。感情の対象はそれらの判断性と理念によってthe mind こころ以前に設定されているのである。この段階での彼の価値感覚はその感覚を所有する主体のもので、absolute絶対的な、impersonal非人称的な価値は存在しえないとしたのであった。それにもかかわらず、彼はすでにある種のnon-subjective非-主体・主観的な、称してintersubjective間主体・主観的および dispositional(布置、晒し的)[3]な条件を価値の定義に含ませていたのであった。
2.2.2.後期;Value Objectivism価値の目的論(客観・客体)主義とDisposition概念
価値判断は、単にassemblage of value-feeling価値感覚の集合体として特性化されないと考えたのであった。価値判断は、なにかあるものが価値を持つ、持たないという判断であり、これは実際のvalue feeling価値感覚をはるかに超えるものであり、したがってその真の価値について決定は第一義的にcognition共認の案件でなければならないのである。適正なcircumstance環境状況のもとで、正常なdisposition布置・晒しをともなった適正なoriented方向づけをされたsubject主体・主観によっておこされるjudgement判断表現なのである。価値はつねにpersonal属人的価値もしくはinterpersonal間・属人的価値であり、個人に対してもしくは個人の集合体に対してである。
道徳的価値を論ずる場合に、マイノングは、それらを個人の主体・主観にはおかず、集合的な主体・主観Value Objectivismに付している。彼の理論では、価値はdispositionの上に蓄積され、変化をし、評価されそのときどきでの判断の基盤と説明性を確保するとし、あらためてdispositionの意味が焦点化されることになる。
目次にかえる (朝日記220513 研究ノート価値客観主義と価値主観主義の相克について)
[1] システム思考における目的論理構造と社会倫理について XI
~ アレキシウス・マイノングと「非存在性対象を考える意味と効用について~
On System Thinking, Teleological Structure and Social Morality XI
―Alexius Meinong and his Concept on Non-existent Object―
2020年度総合知学会誌、Vol.19,2020、総合知学会:ISSN 1345-4889
[2] 価値に関する経済に限定しない基本的な姿勢は、大陸特融でもあるとみている。筆者の記憶であるが、Karl Polyaniの論説にもそれをみることができる。
[3] 事態を対象として位置付ける(荒井)
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