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Yassie Araiのメッセージ

ときどきの自分のエッセイを載せます

(Herrmann-Pillath「技術圏」その3)

2019-07-23 00:05:12 | 社会システム科学

(Herrmann-Pillath「技術圏」その3)

 

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1. 3 人工体と「技術圏」の化学:自己触媒

 

我々はいま二つの設問を扱う必要ある。ひとつは、人工体(artefact)が人工体を生むことは何を意味することになるのか? 第二は人間と「技術圏」との間の関係は何であるか?である。

最初の設問への答えは最も実りあるものである、なぜなら生命理論の源に帰ることになり、ここでは生命と非‐生命との間の境界線をひく必要が出てくるからである。この境界線は生物学全体の位相を明らかにすることでもある。

 

哲学的には、「自然」と「文化」‘nature’ and ‘culture’との間の区分、そして人間が「機関」と「意図」agency and intentionalityを専有的に付与されたものと意味するものである。そして結局「技術圏」technosphereの実体は単なる「モノ」‘things’であって、非‐生命存在のものであり、それら自体は機関agencyを持ちえないものである。

 

それに対して、沢山の代替となる考えがあり、そしてこの案件位置はまだ収まっていないのであるが、筆者たちの文脈において、もっとも確からしいつぎの観方が現れてきている。それは、生きているシステムa living systemは進化している情報の合成体であること、つぎにその物質のなかに情報が内蔵化されていること。さらにその情報が物質の構造を維持し、再生するための「エネルギー貫流」energetic throughputsの活動を可能にするというものである(例えば, Lahav et al., 2001; Elitzur, 2005)。

 

したがって、この観方では、情報とエネルギーinformation and energyの二つの概念がシステマティックに関係している、このことは経済的進化についての最近の理論化のなかでもまた示唆されてきたことであった(Hidalgo, 2016)。

筆者は、このアプローチを技術に対して適用する提案を出したい。それはまさに、術語「生命システム」を術語「技術」に置き換えることでもある。

 

この概念上の総合を完結するためには、物理学上での「仕事」workの概念を導入することによってのみ達せられる。

生命システムと技術的なシステムは、「仕事」を発生するが、その仕事はその環境にインパクトを与える、またそのインパクトのフィードバックとして、これらのシステムの再生と維持として還ってくるというものである。

 

「仕事」と他の物理的インパクトとの間の区別を感覚的に分かるためには、情報の概念が不可欠である、なぜなら「仕事」と「熱」work and ‘heat’との間の区別はマクロの位置付けを行うのであり、この(ミクロ‐マクロのスケール上の)区別が情報上のうえでの意味をもっているのである(尤も存在可能なる状態は熱逸散dissipation、つまりエネルギーの逸散であり、それは同時にエントロピーの増大であることに注目したい)(see Collier, 1996; Atkins, 2007: 32f)。

 

生命理論の起源をふりかえると我々は生命の系統図を考え、その起源からの発生を考えてきたのである。

単体としての動物はそれ自体として再生することはできないのであり生物圏の進化を含んでいるが、技術もこれと同様に単独に再生はしない。

 

換言すれば、理由づけのもっとも一般的な段階では、「再生」‘reproduction’の概念は生物圏と「技術圏」との両方にその体系的包含性が参照されるであろう。

 

このアプローチは気候と経済につながる現今の仕事においては陰示的である。ここでは人間経済はエネルギー変換という意味で現実化され技術的人工体の中に含まれるものとなる。そして(経済は)さらなる進化フィードバックをする仕事を発生し、経済のシステム境界は拡大するのである。 斯くして「技術圏」が生み出される。

これが筆者の主張なのである(Garrett, 2011; in Herrmann-Pillath,2013: 121ff, 筆者流に表現すれが「自己参照熱機関」‘self-referential heat engines’モデルである)

 

この洞察に基づいて、我々はさらに焦点をしぼり、生物的実体biological entitiesとの類似において単体としての技術的実体technological entitiesが再生されるかを考えていきたい。 

 

Stuart Kauffman's (2000: 49ff)は概念的総合のひとつの可能な道筋である:

「自律機関」autonomous agentは完結した熱力学的仕事サイクルを現実化することが可能であり、この「仕事」において、このサイクルが「自律機関」再生目的に究極的に奉仕することになるのである。

 

この基本定義から、生命の抽象的な様相が引き出される(Lahav et al., 2001):

・代謝性metabolism、環境との相互関係のもとでエネルギーと物質のプロセスを行う;

・自律性autonomy、環境との境界を維持し、再生する容量性である;

・目的性teleonomy、環境との相互作用において発現する構造の発現である;

・そして学習性learning、これは情報の蓄積であり、これによって、上の様相のもとでの実際のはたらきを可能にする。 

 

かくして、我々は人工体artefactsが自律的機関autonomous agentsであるかを問うことになる。 

技術の標準的なアプローチでは問題になくこれは否定される、なぜなら上のリストにある基本的判定限度のほとんどは人間に人工体artefactsの設計者と使用者を科しているのである。

 

しかし、詳しく見ていくと、何の保証もない。

代謝性Metabolismは産業システムでの認識された性質であり、そして用語「産業代謝性」は産業エコロジーにおいては共通のものである(Ayres and Ayres, 2002)。

人工知能Artificial Intelligenceの時代では、学習learningもまた、人間の専有の性質ではなくなている。

 

目的性Teleonomyについては「進化経済学」Evolutionary Economicsで、つとに認識されている現象であるが、技術変化の方向軌跡についての感覚としては、それらは人間行為によって全体的に設計、制御、および予想とは異なる現象としてとらえている(seminally, Dosi, 1982, Cimoli and Dosi,1995)。

かくして、自律機関autonomous agentsについての概念到達として、「技術」を意識的に除外した「自律」に我々にを留まらせたのである。

 この点で、AIを万能薬に期待してはならないのであるが、技術進化のすべての段階に一貫しての基本的な課題を提起するのである。

 

 

「自律機関」‘autonomous agent’という用語からはつぎの設問が自然におこるのである。それは「機関」‘agent’の意味であり、これを次節で論ずるが、人工体においての「機関」の役割りを考えることを導く。

 

この点では、まずそれを考えるにふさわしい特定プロセスの形式構造について詳しく見て置く必要がある。

Kauffmannは自己触媒のサイクルをここで使っている。

事実、自己触媒の構造については生命理論の中核的原点であるが、同時に生命/非-生命の区分を超えていくものである。

 

自己触媒サイクルの化学モデルの一般化はMaynard Smith and Szathmáry(1995) or Ulanowicz (1997)の講義で提示されたが、これは生化学の基本水準をはるかに超えた生物圏もしくはエコスステムの普遍モデルとしてのものであった。

 

Padgett et al. (2003)の産業での生産について早くからのこの議論があったが、これは「技術圏」科学の一般モデルでの化学の役割りを示唆している。

その第一は「技術圏」を、要素のネットワークとして見てアプローチするものである。この要素のネットワークとは然るべきタイプへの類別化(企業や会社を化学物質対応として捉える)および相互効果発現を駆動する然るべき規則のもとにある作用継続(つまり「生産」‘production’)である。

 

第二の感覚は、これらの相互作用の中心的特徴は、エネルギー変換であり、これをある相互作用パターンについてエネルギー変換でのエネルギーの閾値の高さ(「コスト」‘costs’)を如何に、低くめるかにある。 

 

これが触媒現象のポイントである。

自己触媒モデルはすべての種類の相互依存プロセスに対して参照されるものであるが、

これらのプロセスは再生のための閾値を低くすることで生成物が生まれるというものである。これは、事実、生命の起源のモデルのように、再生と成長の最も簡潔な機構からの結果となっている。

 

筆者は以下に詳細に論じるように,先行条件は、環境の選択的圧力であり、これが過少な資源の奪い合いを誘発する(化学溶液のなかの様々な物質で、その溶液のなかで自己触媒サイクルは事実上、他の可能な反応にも関係して、使える入力をすべて消費する)(これはHaffの2016を参照)。

 

斯くして,重要な結論に到達する、それは自己触媒構造は、変化の方向性を含んでいて、まさに目的的現象になるのである。

このことは、「自律的機関」に言及することができるもっとも単純な感覚である、なぜなら到達指向動力学は、機関意思のように顕われ、それがまさに目的プロセス、もしくはプロセス終点の意図になっているからである。

 

このプロセスでは、成分はより大きな動力学的パターンを再生する機能(関数)をもつものとして顕われる。

この機能的相互従属性は、そのサイクルの自律性を生み出す、それは環境に対してシステム的な境界を確立し、維持するという意味である。

技術において自己触媒は技術軌跡についての研究でよく認識されているが、滅多にその視点で語られない。

 

古典的な事例としては、C. Herrmann-Pillath Ecological Economics 149 (2018) 212–225 216で言及している蒸気機関がある。

発明という次元で考えると、この人工体は他の要素と組み合わせとして顕われ、この要素の結合に置いて、相互に機能作用してエネルギー変換を駆動させるのである。

 

この相互作用は蒸気機関と関連技術的人工体との間の相互作用からのシステム効果によって仕組まれるのであるが、例えば、炭鉱からの水のくみ上げや石炭の輸送に鉄道に蒸気機関を使う場合がそれである。

 

斯くして、石炭をベースにしてあらわれた生産プロセスのそれぞれの要素は相互にその利用を「触媒」‘catalyse’するのであるが、その意味としてその生産プロセスでの

エネルギーと資源のコストを相互に低くするものである。

これは明らかに、「自然的」‘naturally’に起こるものであるが、しかし人間の行動によって媒介されている。

しかし、同時に、我々はこの進化動力学を、全く、人間行動と設計にあると帰納することはできない。

 

これは、自己触媒構造が人間行動のためのパラメータを発生することによるものである。このパラメータはサイクルを再生する帰納(関数)を満たすべく人間行動を導くものであるからであって、これはひとが設計でそのパラメータをひきださなくても発生するのである。

 

興味あることには、この蒸気機関の例は、元のサイクルは英国の地域的な文脈においてのみ自律的に作動したのであったが、一方でフランスでは、人間機関は実際に先導的な役割りをして、あたらしい技術の拡散を積極的に推進させたのである。ここではこの地域的文脈で与えられたパラメータによる条件群から不利でさえあったである(Allen, 2009)。

 

斯くして、この例もまた、人間とシステム機関との間の境界条件の適合調和性が示されている。

筆者は、自己触媒サイクルの抽象的なモデルが、人工体についての意図および設計ベース概念intention- and design-based concept of artefactをより一般的な概念によって、置き換えを援けるものと結論する:その概念とは、自己再入力と自己再生構造から発現する目的性teleonomyを基礎に置くものである。 

 

筆者は自己触媒の抽象的なモデルが意図・設計を根拠とする概念を、より一般性のある次のような概念に置き換えることを援ける:それは自己再入力や自己再生構造から出現する目的性に基礎を置くものである(触媒の抽象的概念に関連するアプローチについてはRomano, 2009をみよ)。

これもまた、「意思」と「目的」‘intention’ and ‘purpose’の概念を展開するために極めて重要である。それらは、物理学的原理に基づいている場合であり、したがってこれが異なる存在論領域、社会、生物圏と技術を超えての概念的な総合化のための根拠を提供するものとなる。

 

蒸気機関の例に示したように、重大な課題は「技術圏」のより大きな同類の自己触媒的な動力学に対して、人間機関の役割りは何処にあるかというものである。

 

この基本的な理念は「技術圏」の進化の結果と人間意思との関係にある。人間意思はまた技術の再生産において、人間に対して中心的な役割りを割り当ててくるのである。

 

1. 4 「技術圏」のネットワークにおける分散化された機関(agency)

 

自己触媒の議論は「技術圏」の存在論の中核的設問を提起している:

人間の機関(human agent)や機関性(agence)を人工体(artefacts)との関係でみるときにその 存在論的位置づけは何であるか?

ここでは、最近の社会科学での展開が、伝統的な機関(agency)を精査してきており、したがって異学際的総合への巨大な可能性(potential)を与えるまでになっている(機関性(agency)の確立した概念の全貌については、Schlosser, 2015をみよ)。

筆者はいくつかある思想の学派の中で、Actor-Network-Theory(行動‐ネットワーク-理論)を参照する。この理論について、必要な仮定すべての吟味を経たのではない(Latour, 2005)。

しかし、「技術圏」を理解しようとするときにもっとも生産的なのは「機関制」‘agencement’の概念であり、それは人間と人工体でのネットワーク「機関制」‘agencement’の出現としてとらえるものである(Callon, 2008)。

「機関制」‘agencement’においては、人類は原始時代的な位置付けを喪失している。この時代では、人類は機関(agency)の占有的所持者であり、そして人工体(artefacts)は、それ自体が機関(agency)の共同運搬者(co-carrier)になっていたのである。

より過激なアプローチとして、非‐人間、そしてときに「人工体」(artefacts)さえもがそれ自体が「機関」(agency)であるかもしれない。これはCallon(1986)の指摘であり、St.Brieuc Bayscallopsのセミナー発表であった:

Bennett(2010)の有名な表現「搖動的事態」‘vibrant matter’ではモノの逆「人間擬態化」reverse ‘anthropomorphization’ を、明示的に示唆したのであったが、これは科学的概念としての明確なものに至ってない。

とはいえ、これらの理念は社会科学と自然科学の間で交差する,殊に終結目標および意図(finality and intentionality)の二つの概念を結合するならエンジニアリングを伴う学際的総合の理念的な基礎を与えることになる。

認知科学での最近の展開は、さらなる展望を支持することになるが、認知科学は「こころ」‘mental’の定義において分散的な認知の役割りにひかりがあてられる。

ここで、人間のこころhuman mindは人工体のネットワークの上に拡張されたものとして概念化され、社会的相互作用は、このネットワークによって媒介されるのである(Hutchins, 1995; Clark,2011)。

一方、機関(agency)に関する沢山の概念のうちで非明示的個人主義を認識する必要がある。これは経済学ではいわく「方法論的個人主義」‘methodological individualism’として基礎的原理を形成するものである。

この設問は人間機関のグループではここであらわれる個人からの意図性に向かうのであり、その意図は個人の知識を対象にはなり得ない。

経済学では、この理念は厳密にハイエクHayek (1973, 1979)に追従している。

 

このことは、我々に対して、人間機関というときには、集合体的形態の役割りに向かわしめる(「集合体意図」‘collective intentionality’、Schweikard and Schmid 2013)。これによって、人工体と生物実体artefacts and biological entitiesとの間を区別する場合において、個人的機関individual agencyという概念制約を克服することになる。

 

このことは、人工体artefactsの多くの使用では、個人の意図で直接に決定するのではなく、その出現形式が大衆レベルでの進化をしている状態で決定されてくるのである。

文化的進化のレベルでは、我々は個人の仔細な意図を抽出することはできない(Hartley and Potts, 2014)。

例えば、実際には、暗黙の知識に基づいていて、個人にたいして透明性のない実際機能をルーチン化している状態である。

 

もし、分散的認知の観方を加えるならば、人工体が介在する集合体意図性の図式を得ることになる。

これは古典的な「精神学」‘Geisteswissenschaften’(Dilthey, 1883)につながる観方につながる、これは「対象精神」‘objective spirit’についてのヘーゲルHegelの概念に帰することになる(現代的解釈は、Herrmann-Pillath and Boldyrev, 2014を見よ)

 

もしこの見解を自己触媒構造の抽象的な概念につなげるならば、機関agcenyは、目的思考プロセスや人間集合体意図性の相互作用に関係づけることができ、これを起因的つながりcausal linkagesを作動するものとする機関制(agencements)と関係づけることができる。

それは、例えば次のことを意味する、我々は自己触媒動力学を「技術圏」についてより大きな動力学を観察すること、この動力学は進化の軌跡の方向性を確立すること、また人間機関human agencyを先導していく代表体間の相互作用、すなわち、人間による選択と行動を観察することを意味している(ひとつの重要なケースとして新石器時代での進化の評価がある、Rindos, 1984; Gowdyand Krall, 2016)。

 

蒸気機関の例が分かりやすいが、これが起きる主要な場は経済であって、そしてその役割りは技術変化である。

アフォーダンスAffordanceは、自己触媒サイクルと人間行動についての「技術性」agencementを構成する。現象論においては、Lingis (1998)が、人間行動への文脈的インパクトとのつよい結合表現として「定言」‘imperative’の概念を使った) 

 

まとめると、基本的な存在論的概念ontological notionとしての「技術圏」科学はもはや人間へ独占的に科せられるのではなく、人間を含むネットワークでの然るべき単位体に科せられるものである。

しばしばこれを積合体‘assemblages’と表すものである (De Landa, 2006)

かくして、機関agencyを反映させて、我々は「技術圏」について別の存在論的概念基本を導入するのである。これはシステム`system’よりもより精密なものとして見なすことができる。

この概念は重要である、なぜならそれが「技術圏」科学へのつながりを許すし、物理学、生物学、そして社会科学を橋渡しする豊かな研究ネットワークへ導くからである(Newman, 2010)、そしてさらに領域をこえたネットワークの動力学的変化を支配する原理へと洗練化していくことを許すものである(節7である選択規則性を同定するであろう)。

ここでは洞察的理解はひとつの「モノ」であって、我々はいま人工体artefactsをネットワークとして語ろうする。このネットワークは、異なる実体entitiesを含み。その実体はネットワークとして分析されるようなものである。

蒸気機関は単なるモノではなくて人間が介在はするが、人間の意図性によっての介在ではないという関係である、それは人工体のネットワークとしてのモノである。

人間機関human agencyはさらに、有機的ネットワークにむかい、それが分散化された認知アプローチの筋、人間同士を結ぶ社会的なネットワーク、さらにそれらはコミュニケーション技術などに媒介された社会環境に向かうものである。

 

もし、Kauffmanの概念にこれを関係づけるなら、「技術圏」での自律機関autonomous agentはより大きなシステムでの機関agencyの集合体としてあらわれるであろう。その大システムのなかで機関agencyが作動し、そのシステムのなかで人間は部分として含まれるのである。

 

(「技術圏」の)機関についての社会科学的な概念と比較するときに、これは仕事workの物理学的な概念が加わるであろう、つまり熱力学の取り込みである。熱力学は社会科学ではこれまで稀であった。この内包性については以下(6節)にて議論するものである。

 

この点にあって、熱力学の取り込みでは、我々は最終的には、人工体と生物学的実体との間の合成に向かう。そこでは機関agencyの任務が、人工体、生物学的実体そして(エネルギーと情報をプロセスする)人類の集積体に置かれることになる、つまり「自律的機関」‘autonomous agents’である。

 

 

 

 

 

 

1.5 機能、情報そして人間意思について

 

上述の節の結論は、情報と機能の原初的な基礎概念に立ち戻るものことに導くものであった。

上で述べてきた生命理論の始まりでは、情報はエネルギー転換を可能にする機能をもつというものである。

このことについて筆者はさらに詳細に論ずべきことを要求するものである:

情報と機能の概念では「技術圏」科学に深く結合しているのであり、したがって筆者の非-人間中心的なアプローチへの究極的動機を与えるものである。

情報は現代科学での核心的用語である(Baeyer, 2003; Hidalgo, 2016)。

 

しかしながら、Shannon の情報概念である一般理論での意味での定量的な使用と、コンピュータ科学や、情報意味論での実際的応用との間ではバランスがわるいものがある(Floridi, 2017)。

これはShannonの枠組みは、送る側と受け側との間の区分をもつものであることを、暗に意味するものである。

 

 

Shannonは通信システムでのチャネル容量の問題に焦点を置いたのであり、送る側と受け側という明確な関心から意味論や情報が意味するものに焦点を当てたのである。

この論文では、これらの区分についての入りこんだ議論への解の説明のためは十分は紙数を持たない(Deacon, 2010が参考になろう)。

意味論では、人間中心的意味で理解されるべきという傾向を顕著にもっているということは深刻なことである、なぜなら送り手と受け手の概念は共通に、人間送り手であり、彼は然るべき交信の意味を意図しており、一方、(人間)受け手はその交信を翻訳するということに関心にあるからである。

 

 

伝達されたものが情報である、その情報は暗号化されたものが解読され、元の意味に再構成されるものであり、かくしてメッセージへと解読意図されるものである。

しかしながら情報の意味論への現代的アプローチでは、この観方は過激的につぎの道筋に転換されるのである、つまりCharles S. Peirceが確立したような初期の意味論理念の復活である(概観については,  Short,2007を見よ)。

 

これは「技術圏」科学での情報概念の基盤化のためにはもっとも生産的のように見える:

別な術語ではあるが、関連するアプローチとしてはAyres' (1994: 42ff.)の「差別化する意味の情報」と「生存ために関わる情報」との区別がよく引用される。

 

記号論Semioticsは情報の流れとプロセスthe flow and processing of informationに着目して起因性に関して、より複雑な理念を確立するものである。ここでは、三元系triadicであり、記号論的semioticな関係として送り手と受け手の間の因果的なつながりを結合するものであるが、この関係において効率的起因プロセスefficient-causal processが記号signによって媒介され可能にするのである( Millikan, 2009をみよ)。 

 

情報は、記号が実体(対象)に伴っていて、なにかあるもののためにそこに立ち、なにかあるもののためにそこに居るものである、かくして、それはつねに汎関数的functional(数学での変分的な存在)であり[1]、あるいはアリストテレス学派的意味のものであり、現象の説明への、最終起因性(因果性)を加えるものである。

情報と機能(関数)の両方の場合で、われわれは「なぜ」と「何のために」‘why’ and ‘what for’ questionを問う。

かくして、この単純さは、情報がつねになにかあるものに「ついて」‘about’ somethingであること、そして観察者に対して相対的であり、その観察者にとってはその情報が然るべき機能を実現するために妥当であるものである。

 

記号論では、情報は記号であり、それは対象を代表する、しかしその代表は単独でここに立っているのではなくて、その記号の解釈の意味でのみ妥当になるのである。

これらの解釈は精神現象ではなく、我々が人間機関human agentsについて語る場合でさえ‘それ自体’情報としての記号を受信することが引き金となる事態である。 

換言すれば。「何のために」の質問の答えにおいて、送り手の意図を参照する必要がないのである。

 

 

現代意味論では、この視点は曰く「目的的意味論」あるいは「生物的意味論」アプローチso-called ‘teleosemantics’ or‘biosemantics’ approachと呼ばれている。これは進化論的な選択プロセスへの意味につながるものである(Macdonald and Papineau, 2006; Millikan, 2009)。

この結論は、つぎのようになる、意味するものは、送り手が表現する意図には関わらないものとなり、受け手の行動そのものの解釈へと繋がるのである。そして、コミュニケーションの過程では、送り手の行動でのフィードバックとなる。

 

この直接的な結論はつぎのことになる、我々は意味の範疇をすべての種類のシステムへ応用することができる、そこでは技術システムのような情報の流れであり、そして意味についての非-擬人的な概念が作動していて、また意味についての人間的領域の間の境界線は切断されてしまっている、それは、思うに、物理的世界とその中のこととしての特定のアプローチへのみアクセスする状態である。

この要約的な議論は分散化したようにみえるが、事実は「技術圏」の存在論的問題の中核へと導くのである。

意味がその情報によって起因された行動ならば、このふたつの間のより深い関係はなんであろうか?

 

情報は、受け手にとって意味あるのはつぎのような場合である:それは、情報の受け手が、さらなる行動をとるための事前条件preconditionにつながるような、さらに大きなネットワークのなかにあることが現実にわかるような機能実現化を可能にする場合である。 

 

これはつぎのことを意味する;記号論的アプローチは、意味と機能meaning and functionのふたつのカテゴリーを結びつけるのである。

このことは、交差的な学際間領域のギャップであるエンジニアリングと社会科学を埋めるために基本的なものである。

エンジニアリング的なアプローチでは、技術的な人工体は、定義によって、ある機能を満たす。

この機能は、通常、人間意思が定義したものとして概念化されたものであり、したがって、擬人化技術anthropomorphising technologyである。

 

しかしながら、事実、ほとんどの人工体は、人工体ネットワークの文脈での機能(関数)を提供しているので、結果的に、人間からの目的はしばしば位置付けを低めることになる、たとえば、エネルギー生産と分配システム問題という次元問題といった次元となり、技術システム全体としての高位水準の機能へと棚上げされてしまうことがしばしば起こることになる。

しかし、もし我々がこの高位水準にいざ立ってみると、人間意思からの機能をどのように効果的に決めるべきかの質問の対応は迂遠なものになってしまっていて、具体的な差配が困難になってしまっている。つまりうわべだけの一般化の呈に帰してしまっているのである。 

 

さらに、このことを、もし技術による定義課題の解を見いだすものとしてエンジニアリングを位置付け、そのエンジニアリングについての研究での観察を考えるなら、問題をさらに迂遠となり希薄になっていまっていることになる(Petroski, 1994, 1996; Arthur, 2009)。[2]

エンジニアリングはそれ自体、人間ニーズとゴールに応えるものとして社会に供するのであるが、もっとも日常的しごとは、エンジニアリングによって克服されるべき然るべき技術的挑戦によってみちびかれている。

 

それは、ひとつの人工体の機能が人工体のネットワークのなかで、少なくとも近接的な意味で定義されることを含んでおり、そして人間意図性はその機能の実現に奉仕するのである。

いま、ふたつの道筋がある、それらは思考の道筋として、人間の意図性がいかに「技術圏」を理解するかの命題を究極的に意味なくしてしまうかの問題である。 

・第一は、人間の役割りはネットワークにおいて、発生する機関制generating agencementsのなかにある:双対性の意味で、我々は人間が技術によって定義された機能を実現するにおいて演じ、役割りを切り替えたり、その役割りが問われるかもしれない。

これは、Jacques Ellulのような思想家の系統の技術的決定主義に接近する位置である。

エンジニアは技術のうえに人間目的を持ち込まないが、技術がエンジニアのうえに機能を、持ち込むのである。

自動運転技術においての人間がもつ機能が自動運転を再生産する。

これは自律的人間活動と創造性のために余力をのこす、それは「技術圏」でのそのシステム水準が起源となって、そのケースでの機能的必要性をひとに示すことになって、それからの道筋がはじまっていくのである。

・第二は、本来的な人間意図がもつ機能への設問である。

上の第一視点においては、上述の理念は車の利用者でさえもが自動運転技術の再生産への機能をもつであろうということであった。

しかしながら、我々が生物学的展望を拡張するなら、つぎの類似性へ向かう;生命理論と技術の出発点において、エネルギーと情報の抽象モデルの間での類似性を意味するのである。

この場合、人間目的は、一方で、人間意思によって決まるのではなくて、むしろ生物学的機能を充足しようとするであろう。

第二の観察はとくに経済学の文脈において重要である。

経済学はエンジニアリングの共通概念と共起するのである。それは経済が究極的に人間目的に、さらに具体的には人間消費に奉仕することであるという信仰に基づいている。

非常に概念的なこれらの目的性は、人間主体性の領域において定義されないはままにあった。

このことは、基礎的であり、またきわめて重要な存在論的仮定である。それは啓蒙時代へ立ち返らせるのである。それは、人間性基本となるものは、その人間自身にその目的があるべきであるというカントの理念へと立ちかえる存在論上の仮定である。

この伝統では、経済学は個人絶対的な自由理念が基礎であり、その自由理念では、経済目的は人間福利human welfareであることを意味している。

実際、選好preferencesについての生物的説明については、経済学では未だ、稀にしかおこなわず、その基盤はできていない(overview in Robson and Samuelson, 2010)。  

もし、生物的機能として人間消費を含めることを問うならば、我々は、人間目的を理解する人間中心主義から事実上、第一次的に離別を意味する概念上移動が現実化する(Saad, 2007の示唆ならびにCorning, 1983, 2005についての構築についての思考の系統)。

この動きは次のことを主張する;人間消費は生物学的現象であって、これは技術によって生物圏に定義化された機能への相互微調整適合構造化human niche constructionしていくものであり、ここでは、たとえば複雑な人間社会の物質再生産性をも可能にするような場合がそれである。 

この視点は一般的なダーウィン進化理論において技術を総合化するであろう、それは個人次元の人間目的のためでなく、人口規模レベルでの現象として、(相互微調整していく)人間ニッチ構築のための機能的な状態である(Odling et al., 2003)。

換言するならば、この動機は、非-人間中心的となるものである。そこでは、人間のゴールを説明するに、人間主体性と自律性が説明されない状態でままで、一方で、生物学的ならびに文化的な進化を参照していく場合である( Boyd and Richerson, 1985,  Richerson and Boyd, 2005の講演).

しかしながら、文化的進化の自律性という地位について、初期そして現在までの理論は廃れてたが、この閉塞はいま破られようとしている(ミーム学‘memetics’の概念がこれである, Dawkins,1989, Aunger, 2000)、 ここでは理論的可能性があって、生物学的進化は、あたらしい人工体水準でのあたらしい進化プロセスの発生となるというものである。この人工体水準では、生物学的機能以上に人間機関での別タイプの機能性を持ち込むのであり、それら実体の再生産性に奉仕するのである(初期の文献では、‘genes’の代わりに‘memes’を使っている)。

この質問は「技術圏」科学において再度明言されなければならない:

我々が曾て、人間ゴールについて人間中心的な説明から第一回離脱を完了したが、第二の動きは直裁的である:「技術圏」進化は人間目的のために、非-生物学的機能を確立するか?

 

 

 



[1] 記号をつかった機能をfunctionalと表現したことに、筆者が数学上のヒントとして「変分法」を意味するなら、思考の幅を広げるであろう。 数学的の世界でこれと対比するのは「微分法」である。いまy=f(x)という関数関係があるとしよう、xは独立変数で、yは従属変数としよう。微分法は関数の独立変数の変化Δxに注目して従属変数の変化Δyを見てそれを独立変数の指定した区間で積分してyの積分値を得る方法である。一方、変分法は指定区間での独立変数の値xiをあらかじめ選んでおいて、その各点での従属変数yiを独立変数と見てとりあつかう法である。そして各yiをその区間全点で仮想的に揺らし、全体としての揺らぎのエネルギーを最小にする。この結果のyiを選びその和を以て積分値とするものである。 本論でのniche最適化問題のケースでは評価(たとえば消費エネルギー最小のような評価基準が与えられているときは)変分法的アプローチが方策としてわかりやすい。(訳者)

[2] (訳者からのコメント)~~~~

この指摘は、研究開発支援情報システムのようなエンジニアリングと基礎科学、それに経営科学へとつながるような、交差学際間システムで、システム設計として使用者の満足を勝ちうることのむずかしさを意味する難題conundrumを意味している。これ自身がエンジニアリング課題である。 筆者が人間設計よりも、人間行動をHayekを前面にだし、システム対象事態が改良進化をする生命現象系としてみていくこと、つまり「技術圏」も存在を考えることの動機になっていると理解するものである。

 

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