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朝日記 191015  猪瀬直樹氏「五輪招致で痛感、日本人に足りない「教養」とは」についておもうこと

2019-10-15 23:19:05 | 社会システム科学

朝日記 191015  猪瀬直樹氏「五輪招致で痛感、日本人に足りない「教養」とは」についておもうこと

  こんばんは。 今日の絵は Yokohama October Festです。

 

猪瀬直樹氏の以下の論説を読んだ。

五輪招致で痛感、日本人に足りない「教養」とは(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース 

五輪招致で痛感、日本人に足りない「教養」とは(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース

https://headlines.yahoo.co.jp/article…

 

 

徒然こと 猪瀬直樹氏「五輪招致で痛感、日本人に足りない「教養」とは」についておもうこと

日本の国の意志決定で、本当に責任をとる主体者がいない。「中核での空虚」といったか。そして一挙に、日本の「空虚」は「公」がない。あるのは「私」だけであると論を進める。

この「公」をかんがえられることが「教養」だとくる。そして結論で、「教養」があればおのずと現実への方策は出てくるとする。その例は自分であり小泉純一郎首相に招へいされたといよいよ潜水艦が浮上する。ここでの潜水艦が猪瀬直樹氏であり、これが添付の論説の骨格である。かれの上の論は、平易にかたるが、読後、どこか「空虚」な実感をもつ。「公」と「私」はなにであるかの掘り下げがないからであろう。なぜ。「中核での空虚」なのかの掘り下げである。日本の「虚」とは明治での元老がいたから埋めたという現象論的な解説ではなく、 本質論の問題として展開されるべきと考える。意志と結果への責任というものが、個人(individual)にあって集合(collectives)につなげるその関係でのWho and Whatであろう。 評価のたかいスタンフォード哲学百科あたりで、Collective Responsibility(集合体責任)を何度もよんで結局和訳をつくってしまい、それを私の「朝日記」に掲載した。個々で知るのはアングロ・アメリカン系での哲学の本流でも、ここに深いなやみをもっている。 集合体における痂疲の責任(特に道徳的責任)は、責任者帰着と合理的な意思決定プロセスのルール化を定款としてもつ法人への帰属を正しいとする。しかし、法人はその痂疲について、「こころの痛み」を感じることはできるであろうかという疑問が追ってくる。感情の共有はある、たとえばラグビー日本の活躍で、自分たちの日本(集合体)として同定indentityを感じたであろう。 勝ったのは誰の功績とするか、負けたら誰が責任をとるかは多分、合理的手段で結論を自律的に決定することはありうるであろう。 これが「「集合体責任」で、これを「公」というなら、日本の「集合体責任」が、具体的に機能しているかに目を向ける意味は十分にある。 現実には、ニュースを賑わす公人の責任問題などで、例に事欠かない。しかし、ほんとうに、「こころの痛み」blameworthinessつまり倫理的受け止めが最後に求められ、これがあるから故に「集合体責任」としての意志決定が実質つまり「空虚」を埋めうるかという意味になろう。 かれらはこれを「方法論的個人主義」(methodological individualism)として個人に帰着するとしてとて 実質としてぶれない。すくなくとも社会科学の祖となったマックスウェーバーや、H.D.ルイスにいたるまでぶれていないことを記している。もっとも、その末裔の学者には、迷いを隠していない。 とはいえ、さらに調べていくと社会科学のもうひとつの祖であるデュルケムは、逆に組織そのものに、「こころの痛み」blameworthinessつまり倫理的受け止めが」をもつ自律性をもつと主張する。これは、「方法論的集合主義」(methodological collectivism(holisitism)として立つ主張である。 サルトルは、人間は集合になると個人の塊りでは達しえないことを為すという主張が加わり、人格自律体としての集合体の概念として、現在のフランスのポスト構造主義の流れとなっている。私は、これは、アングロ・アメリカン系と拮抗していると読んでいる。 その意味では日本では、まず「日本社会」という発想始原に親和性をもつので、まず共感体の集合体をことの出発として個人(私)へと見ることには、馴染みやすいかもしれない。ルース・ベネディクトの「菊と刀」で 「恥」という集合体(社会)での価値観を始原とし個(私)に帰着することは、このholismという落ちつき先を得たような安堵感が漂うかもしれない。 しかし、アングロ以上にフランスは個人主義のつよい国民ではある。 集合からの始原で個人への自律にかえるという点では、ともに、ぶれはないようにおもう。 そうすると猪瀬氏のいう中核の「空虚」はかれらにはないということになるが、そうであろうか。「こころの痛み」はやはり個人へ還元してくる理屈になる。

 個人と集合体との「こころの痛み」の持ち分がほんとうになされているかやはり疑問がのこる。 ひとつ、思いだしたのは、ヤスパースの責罪論である。かれは、責任(罪)の帰着であるには、刑法上、民法上、道徳上という3つの「集合体」へのに加えて、4つめに「形而上学的」罪をおいた。 これは、個人の無力による罪で、根源的な「原罪」意識への帰着ではある。 ここまでくると一神教での超越者と個人との契約次元と 個人と集合体(社会)との契約次元としての二元論的な基盤が見えてくる。 その意味では 「方法論的個人主義」(methodological individualism)と「方法論的集合主義」(methodological collectivism(holisitism)とは同じ土俵にある。 そこで猪瀬氏がいう日本の 「私」と「公」が上の二つと対応するかという問題に帰着する。 非キリスト教的な歴史背景からの「個」は 「私」とは違うようにみえる。このところを掘り下げないと、なにが「空虚」であるのかで論理の位相がずれてしまう。 私の周りの賢人たちは、昔もいまも、ここまでくると一気に東洋思想は 西欧的な二元論とはちがうとして、伝統的価値判断方式をまるごと肯定してしまう気配を有するし、この私もそこへ逃げたい。 しかし、ここまできたのであるから、ふたつの対偶(「私」と「公」)と((individual)と(collectives))との構造的および機能的な違いを掘り下げ帰着を急がずにもとめるべきではないかとおもうのである。猪瀬氏は自意識のつよいひとのようであり、また内省的であることを認めるとして、かれのこの論説は、まことに「実」があるようにみえながら残念ながら言葉足らずで、「空虚」なものになっている。 騙されてはならないと言っておく。

 

 

 朝日記 191015  猪瀬直樹氏「五輪招致で痛感、日本人に足りない「教養」とは」についておもうこと


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