朝日記241211 徒然こと 川崎からそだつますらお その2
戦略技術として末裔たち?が獅子奮迅の活躍
(初出し NPO法人「HEARTの会」会報 No.118, 創立30周年記念 2024年夏季号)
―徒然こと― 川崎からそだつますらお その2
よれば改名した現RESONAC社での戦略技術として末裔たち?が獅子奮迅の活躍
会員 荒井 康全
東京大学でのこと
東京大学大学院数物系研究科(機械工学専修)蒸気原動機研究室 植田辰洋教授
同期に花岡正紀君(トヨタ) 成合英樹君(原子力)
当時の出会い;カリフォルニア大学Davis校 ワーレン・ギート教授
Warren Giedt (Introduction of Heat Transfer)
教授がお土産に持ってきてくれた本;Carslaw Jaeger (Principle of Heat Conduction) Madagascar島にあってひたすら熱伝導の偏微分方程式を解いていた人らしい。これは後年、役にたった。
卒業研究「壁面に突起粗面のある円管内を流れる流体の熱移動の実験的研究」
沸騰型原子炉の高熱流束下での蒸気生成での設計諸元決定のための熱流体的限界現象の基礎実験研究であった。
船舶の例がわかりやすい。船体設計のために巨大船体のかわりに小寸法船体をつかって細長い水路で運動性能を予測する。産業革命以来の工学技術理論の進歩で、流体力学的相似原理を使ってこの実験測定から実船の諸寸法諸元を決定していく。 これはReynolds数やFroud数のような無次元物理量数が同じであれば、サイズが異なっても同じ力学的挙動を保証するというものである。
この考え方は、1930年代に、船舶はもとより、航空機の翼設計などでも実績がすでにあり、そこでの翼面近傍の境界層理論が一世を風靡していた。いまのようにコンピュータなどがなく、計算尺の時代での理論と実験検証連合の勝利であった。
原子炉は通常ボイラーと同様蒸気発生器であるが、機体内部を流れる蒸気や液体の相変化とそれに伴う混相流としてみると、はなしは複雑である。その多くは無次元物理量間の相関関数関係を模型的実験から経験式を得て、それを実装スケールの器体への設計値をきめていくものであったし、いまも基本的にはこれが基盤になっているであろう。しかし、原子炉にみるように、炉心棒からの発生熱流束がときに異常に高くなることが現象上予測されるとき、それによる動力発生のための力学的エネルギーの変化移動、ながれのなかでの熱的変化から装置としての極限状態を理論的に予測しておくことがまずは求められよう。また、化学反応や核分裂反応をともない、ながれでの注目成分の反応・拡散移動など、少々考えるだけでも、異なる現象が同時に共存している場の問題となり、容易に複雑現象となることが想像されよう。これが工学的現象解明と設計手法開発の基礎研究である。これらは後年、計算機移動現象論の進展へと、わが職業人生を形作るが、大学院学生になった当時は実験からの無次元相似式への挑戦であった。
1.水槽をつくり、水流壁にさまざまな形状、寸法、配置の突起をおき、そのうえで水流にアルミ微粉をまいてくるくる回る渦現象と対応する無次元数量を観察する。
2.熱実験で直管にヒーター線を巻いて管内面壁にパイナップルの輪切り片のような、さまざまな形状、寸法、配置の突起をおく。管内流体の、菅壁の各温度変化を測定し、それから流体運動的無次元量数と熱的無次元数との相関関係を観測する。
学部学生の卒業実験を先に供したあと、自分の実験の段に、あまつさえ、時間的に追いこまれるなか、年末年始の電源休止を知り、最後は、一か月ほど寝もせずの状態で、ひたすら計算尺とそろばんでデータ整理に追い込まれたのであった。このときに研究室の一年後輩の谷口博保君(住友重機)にはずいぶん助けてもらった。計画段取りの未熟さをこんどは体力でということで、海の時化どきで揺れる機関室での壮絶海洋訓練が妙なところで生かすことになったのであった。
昭和電工の時代
後年結婚してからも、こちらが買ってくる書籍に微分方程式の基礎とか、数理統計の基礎など、「〇〇論の基礎」という本が多いので、学生時代によほど怠けてたのねと揶揄われたものであった。他人にはいわなかったが、自らを「桟が欠けたやぶれ障子だ」とも、あるいは旧約聖書にある「左手に鍬、右手に剣」とも自認し、それからの脱却のための努力に舵をきることを自らに課したことであった。
就職先の昭和電工は会社にとっては、はじめての大学院修了機械技師という処遇で、当時、石油化学やアルミニウム精錬で事業成長期にあり、海外からの技術導入も活発であり、ともかく、これがやりたいと手をあげれば、寛大に機会を与えてくれた。熱工学専門ということで、プラント設計部に配属された。ベルギーからの技術でのエピクロロヒドリン建設であったのでフランス語の研修、英語の早朝訓練なども積極的に参加した。
コンピューター応用技術
それらの一連の研修のなかで生涯を決定する出会いとなったのはデジタルコンピューター、とくにその使用言語FORTRANとの出会いであった。まだ、この世界は揺籃期であり、そこで熱交換器、蒸気凝縮器の設計プログラムを組むことに賭けてみる機会が与えられたのである。会社のこの計算機分野での先駆者であった河内山勝晴氏からのマンツーマンのご指導のもとにともかくも実設計に供するプログラムを作り上げたのであった。機械はこちらの間違いを冷酷にはねつける、プログラミングでのこの作業はデバックといってそれに果敢に越えなければものにならない。当時はプログラムミスがあると、数字の膨大な羅列が出力されるが、それを冷静に読み取って、原因を判断して、計算がどのような状態になっているかを追及する。これを河内山さんが丹念に追ってくれ、プログラムの修正点を探し出してくれる。その後、素人でもある程度の忍耐力があればデバックできるソフト上の進歩はめざましいが、基本は自分がなにをやろうとしているかの、順を追った取り組みはいまでも基本であろう。対象の数学モデル、入力変数と出力変数、仮定値からの出発と目標結果とのずれ、修正入力のループ、構造の似たプログラムを共通化して全体のなかに組み込むことなど、この繰り返し再帰型の論理は、最初はむずかしいが、思考を手順フローチャートに書き表すことに慣れるしかない。基本はとことん、論理に徹する信念であろう。まったく孤独なのであるが、それを克服したときのひそかなよろこびがつぎの作業への自信につながっていく安堵感がある。河内山さんとはときにつけ、巨大な技術のうねりにあった時代での、それをブレイクスルーする手段としての「システム」という技術パラダイムの方向性を飽くなく論じたことをなつかしくおもっている。
数学モデリング
上で述べた物理化学の現象式を無次元化し、その無次元量式の解析はいまも解析技術の基本であろうか、当時は数表やアドホックな演算図表が機械工学便覧や化学工学便覧において提供され、技術者はもっぱら、これの使用に習熟することで設計の仕事をこなしていた。
その実用の世界に、ひとつの革命が起きようとしていた。たとえば流体力学の式は高度の非線形偏微分方程式で式そのものはかなり早くに確立されていた。しかしこれを直に解くということは無謀を意味するもので長い間禁句であった。ところがそれがまだコンピューター揺籃期で、計算能力が極度に限られていたが、世界の若者の筋ではこれを解くことへの挑戦がはじまっていた。巨大計算には計算分割技術が先行した。流体のようなマクロばかりでなく、ミクロの量子化学科学のシュレディンガー方程式を解くab-initio計算という当時としては途方もないトライがアメリカで始まっていた。
たとえば気象予測など計算移動現象論など、上述の複合現象連立に関する理論もつぎつぎと登場した。
また、アポロ計画の機体構造の計算に、微分方程式の積分変換(変分法近似)なる有限要素法の登場があり、それが通常の土木設計からさらに化学反応器やプロセス設計などに利用する途が、急速な勢いで展開しはじめていた。
それらはなんといってもIBMなど、そしてその基礎力をもつ大学はアメリカが輝いていた。
会社は制度としての留学派遣はできていなかったが、偉いひとたちのご配慮で、アメリカ中西部はウィスコンシン大学大学院への派遣を許してくれたのであった。
結婚して子供がいて、そもそも資金もない、しかも1ドル360円の時代だ。片道の飛行機代でさえ、40万円近い、授業料はたしか毎学期、この飛行機代程度であったと記憶している。それに居住費と加わる。ともかく、休職にはしない、自分の給料で遣ってこい、ただし、渡航費と授業料は出すというものである。既婚者が学生になるということは彼らの国では特に珍しいものでなく、家族もち大学院性のアパートも低額で入居できた。
指導教授はリチャード・ヒューズ先生で、MIT出で、シェル石油開発でプロセス設計シミュレーション技術の第一人者だったひとで、アメリカの化学工学会の会長を後年された。因みにボストンのジュリアード音楽院の声楽科も出ておられ、当時、まだ一線のオペラ歌手でもあった。
最初は、語学の問題もあり、授業でトラブったが、物理化学の基礎コースを履修したことと、看板であるバイロン・バード教授のTransport Phenomena、そして彼の応用数学コースのMathematical Transport Phenomenaがまことに圧巻であった。アメリカの第一線技術者がいわゆる高等数学を日常茶飯事にこなす水準にまで鍛えられている、その機会の恩恵に浴したことであった。宿題演習、24時間期末試験など。結局、日本に帰国してからこれが一番の力を発揮してくれるもとになったことを告白する。やはり、現象へのモデリングが勝負なのであると思っている。
昭和電工に帰ってから、しばし逡巡した期間はあったが、活動成長する数理解析の「出前」が自然に社内でたよりにされるようになって、ひとつの基盤研究部門に成っていった。また、脇役とおもえたこの技術が、高度、迅速なる技術開発力が評価されたようで、最近の社報にしていることを知り、あらためて方向性の正しさに胸をなでおろすおもいである。
絵 康全
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