朝日記211107 【吉岡洋】失敗原論。人生に失敗はあるか?「目的」に依存している「失敗」について、哲学から考える
追記@2021/11/08
Evidence for Presumption とEvidence for Certaintyということばを思い出しました。対象の理論を考えたA. Meinongという哲学者の言でした。ひとがなにかをおもって、それの志向の先を対象としてとらえた。(これは実験心理学上の必要性からとおもいます)このときに仰る「あおい自動車である自分」ということを対象とすることをまじめに付き合うことを認め得るかという種類の思考はゆるされるかという命題があります。これは前者 presumptionを志向の座標をおくということになります。後者evidenceは 現実に確かそうな対象に座標を置くということ。(これは、西洋キリスト教社会では、地雷のような存在であったろうと想像します。神の存在性にふれること、被創造物の人間がないものをあるとする創造性に係わることにつながるからです) Meinongは前者に着目した。そういう対象つまり現実にありそうもないこと Non existence object 非存在の対象に意味のあることを認めた。たとえばシャーロックホームズは非存在であるが意味がある。「あおい自動車である自分」はその本人が意味あるというならどうか。丸い四角はどうか。そういう対象の存在について如何に考えるかがMeinongの命題でした。Burtrand Russellは、志向する対象は実在しなければならないとして、(存在に十分な知的のうらづけのない)存在をみとめず物別れになったそうです。 cerataintyのみの追求のための実在certainty with realityに限定して思考を展開したということでした。Russellの記述論理上には見かけ上あらわれる非存在性変数は演算手続き上のもので最終にはおもてに現れないとして、対象といしての非存在性対象の存在を認めなかった。しかし、Non existence objectをとりあげることが思考からの可能性 果実のおおきさを理解したひとたちがいた。若者のものの捉え方には、certaintyだけに限るとすると思考の活力(思考の幅)を少なくなるように感じます。「あおい自動車である自分」への発想を思考していけるか、如何に見守ってあげられるか。お話をうかがいならおもいました。Russell の記述理論については知識は不十分ですが、不等式を等式として扱うときに導入するLagrangeの未定定数を思い起こします。Lagrange定数とはなにかということを哲学的に考える問題であろうかといまは申し上げておきます。実用上ではLPなど対象系にたいしてある変数を最適化するときに導入するもので、幾何学でいえば解法上の「補助線」のような位置かとおもいますがきちんと確認したわけではありません。どなたかお教えいただければ幸いです。荒井です。
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