ここから先は霊界についての本題になります。
スピリチュアルの世界での最高のマニュアルは「聖書」であることを繰り返し強調していきますが、一方で「正統な」キリスト教徒がこのブログを見たら異端による発信に見えるかもしれません。多分見えるでしょう。「キリスト教界」が長年培ってきた伝統を特段重んじることなく、また「天上界」などキリスト教界では馴染みの薄いワードも使われていたりしますから。ここでは「型」にはまらないことが強く意識されているがゆえに。
また、一般的な「キリスト教」に対してこのブログで提唱している内容がより「リベラル」であったり、より「保守的」であったりするわけでもありません。ただ、伝統、慣習、型については思いっきり「リベラル」でしょう。しかし同時に天上界との結びつきや対話とその教えの実践ついては群を抜いて厳格になろうかと思います。
さて、先ずは大原則から。通常「神」と呼ばれる、自然界の全てを創り上げ治めている存在が実在するのかしないのかという事について考えてみましょう。「そんなものは存在しない」という立場を取るとしたら、天体・微粒子・生命の誕生と成長などを含む、ありとあらゆる精密で複雑な自然界の仕組みの全てが「偶然と偶然が重なり合って」出来上がった事になります。しかしその偶然説を信じるならば、それは呆れるほど凄い「信仰」が要求されます。
もし私が100均で買った腕時計を指して「偶然と偶然が重なり合ってこれが出来たんだよ。凄いだろ!」と言ったとしたら、多分残念ながらそれを信じてくれる人はあまりいないのではないかと思います。しかし、例えば女性の胎内でへその緒が胎児に栄養補給をするシステム一つ取っても、間違いなく100均の腕時計よりも複雑で高度な「仕組み」を見ることでしょう。つまり、100均の腕時計には「それをデザインする人や製造する企業があるに決まっている」のであれば、自然界・超自然界に存在する諸々の仕組みにはそれ以上のことが言えるわけです。
なので、自然界の全てを創り上げ治めている存在を、それを何と呼ぶかは別として、認めることを先ずは大前提に据えること。それは、それほど難しいことなのでしょうか?
今回の天上界からの一言(二言):
「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」(箴言1章7節)
「 愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている・・・。」(詩編53篇1節)
(次回に続く)