ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル(Jules Joseph Lefebvre, 1836年3月14日 トゥルナン –1911年2月24日 パリ)は、フランスの人物画家。
ルフェーブルは1852年、エコール・デ・ボザールに入学し、レオン・コニエ(en:Léon Cogniet)の下で絵を学んだ。1861年、『プリアモスの死』でローマ賞を受賞。1855年から1898年にかけて、パリ・サロンに72点の肖像画を出展した。1891年には、フランス芸術アカデミーのメンバーになった。
1500人以上の教え子がいたとか。
ピエール=オーギュスト(オギュスト)・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir発音例、1841年2月25日 - 1919年12月3日)は、フランスの印象派の画家である。後期から作風に変化が現れ始めたので、まれにポスト印象派の画家とされることもある。
ルノワールも数多くの裸婦を描いたが、ルフェーブルの場合は裸婦しか描かなかったと言ってもいいくらい。
ルノワールが晩年、印象派から離れて、豊満なヌードを数多く描いたのは、ルフェーブルの影響もあったのではないだろうか?1500人も教えていたというし。
レイモン・ルフェーヴルが後世に残っても、この画家のルフェーヴルは、あまり有名でないのに、ルノワールの方はかなり有名だ。しかし、画家として活躍した頃の2人の順調さは、決して、それほどに差はなかった。
レジオン・ドヌール勲章はどちらも受けている。
「わが父 ルノワール」
「ピクニック」「大いなる幻影」「素晴らしき放浪者」など映画史上の名作を撮って、フランスを代表する映画監督になったルノワールの息子さんは、父親の伝記を書いた。
「ルノワールは、年をとり知識が増すにつれて、パレットにおく色を単純にするようになった。こういう傾向が始まったのは、おそらくナポリでポンペイの絵画を前にしたときからだろう。或る日、彼は私にこんなことを言った。『イタリアで困るのは、あまりに美しすぎることだよ。眺めていてあんなに楽しいのに、どうして描いたりするんだろうな?』」
「人間でも、風景でも、題材でも、少しも面白いところがないようなものはないね。・・・その面白さは時として奥深くかくされているけれども。誰か或る画家が、そのかくされた宝を発見すると、すぐにほかの連中が、その美しさをわめき立てるようになるんだ。コローじいさんは、他の川と変わったところもないあのロワン河の岸辺の美しさに、われわれの眼を開いてくれたのさ。きっと日本の風景だって、他の風景より(特別には)美しくはないんだよ。ただ、日本の画家たち(浮世絵師たち)は、そのなかにかくれた宝を発見することが出来たんだ」