19世紀の後半、アカデミックな絵がもてはやされていた時期に、革新的な印象派の絵画が支持を拡大し、世界的な潮流になっていったのは何故だったのだろうか?
公立美術学校で学び、コンクールで1位を取り、ローマに留学して、アカデミーの最高位の職に就く。
そういった出世コースを歩んでいた当時の人気画家達が、後世に評価されず、歴史の隙間に埋もれてしまったのは何故か。
学校での習熟期間が長く(伝統に沿って学んだ)、型にはまってしまったからというのも一因ではあると思う。
自分で考えたり、下手さがなく上手過ぎたから、あえて癖のある絵を描く必要がなかったとも言えるのではないだろうか。
癖がないから誰が描いても写真のような似た画風。
当然、上手上手と評判も得る。・・・しかし、味が無い。
従って、個性が出ない。
この絵は不思議な絵だと思う。
まず、右腕がやけに長いことに気付く。
そして、右腕と左腕はまるっきり違うところに(離れたところに)置かれている。
良く見ると、体の下のテーブルなのか荷物なのか、トランクでもあるのか手紙みたいなのでも読んでたのか、腰かけてる場所がなんなのかも分かりにくい。
そして、背景も斜めになったり、真横だったり、どういう部屋なのだろう?
はっきり言って、人物も背景もまるで出鱈目である。
しかし、なぜか、どっしりした安定感があって見ていて妙に安心してしまう。
ここがセザンヌの絵の不思議なところなのだろうか?
しかも、模写が出鱈目に輪をかけているので、セザンヌの2乗くらいめちゃくちゃな絵になっていると思う。
ゴーギャンはベルナールと一緒になったりして、日本の浮世絵の影響などを受けた、絵画の新しい構成を提唱したりしました。
ベルナールが主導したものの、20歳ぐらい年上のゴーギャンが指導的役割をしたものと世間は見なしました。
サラリーマンであれば、生活に困ることのなかったほどの地位でしたが、芸術に携わることの夢捨て難く、中年になってから画家として生きてゆくことを覚悟しました。
生前はあまり認められることはなかったものの、亡くなってから評価は徐々に大きくなりました。
ゴーギャンの肖像は、まだ乾いていませんが、水彩です。
幼少期に母親を亡くし、思春期に姉の死を迎えるなど病気や死と直面せざるを得なかった1890年代のムンクは「叫び」を5点描いた。
そのうちの1点を水彩で模写しました。
ヴァンサン・ヴァン・ゴッホはパリにいるときに「ひまわり」の絵をゴーギャンに褒められて、ゴーギャンからの申し出で、彼の描いた絵と交換しています。
アルルでゴーギャンと一緒に暮らす手筈が整ったところで、彼が到着したら見てもらうために「ひまわり」を描いたのではないでしょうか。
花瓶に挿したものは7点あり、同一モチーフとしては、数が多いです。
ゴッホの力の入れようが分かります。又、精神を病んでからはひまわりを描いていません。
ゴッホはゴーギャンの絵が好きで尊敬していたことが書簡でも分かりますが、ゴーギャンはそれほどゴッホを好きではなく喧嘩ばっかりしていました。
ゴーギャンもゴッホも生きてるときはあまり「売れなかった」画家でした。特にゴッホの絵は1枚だけ、日本円にして数万円で売れただけです。
ゴッホの「ひまわり」を水彩で模写してみました。