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赤字の真偽と、「真実」の定義について
筆者-初出●Townmemory -(2009/06/26(Fri) 01:01:29)・(2009/06/30(Tue) 04:24:23)
http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=27811&no=0 (ミラー)
http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=27861&no=0 (ミラー)
[Ep4当時に執筆されました]
●再掲にあたっての筆者注
2つの書き込みを1記事にまとめてお送りします。
この話題のそもそもの始まりは、公式掲示板推理系チャットにおいて、大勢の参加者がいる中、わたしひとりが「赤字は必ずしも真実ではない」と主張したところ、なんというか、かなり強烈な反応をいただいてしまった、ということでした。
誰だったか忘れましたが、そしてわたしのひがみが入っていてニュアンスが捏造されてるかもしれないのですが、
「自分に都合の悪い赤字を信じないという態度の人が提唱する仮説に読む価値があるのか?」
みたいなことをおっしゃる方までいたと記憶します。
これは恐ろしい話題だぞ、と、認識をあらたにしました。
気分としては、周囲からよってたかって「ベアトリーチェが存在すると認めろ」と迫られるep1お茶会の戦人を想像していただけると、めやすとなるでしょう。
しかし、多くの人が、そこまで「信じたい」と願う赤字とはいったいなんなのか、という興味もわきました。
その後掲示板にて、チャットでの話題の感想戦のようなかたちで、2つほど反応をいただきました。むくげさんという方と、bouncebackさんという方です。このお二人にレスポンスをしているうちに、自分の中で、赤字に対する認識が、よりクッキリと輪郭をあらわしてきたので、これはブログにも上げておこうと思った次第です。
むくげさんが下さった元発言はこちら。 (ミラー)
bouncebackさんが下さった元発言はこちらです。 (ミラー)
上記の2発言に対するわたしの返事を、以下に転載します。
以下が本文です。
☆
●むくげさんへ
こんにちは。はじめまして。
チャットのあの局面を、そういうふうに見てらっしゃる方がいるとは思いませんでした。少し心強くなりました。ありがとうございます。
わたしは、赤字が真実でないとしたら、
「どんな可能性でも考えられる“自由”を手に入れた!」
と認識するのですが、チャットでは、それだと手がかりがなくなる、ゲームが成立しなくなる、と考える人が多かったようです。
外部の条件に自分を合わせるか、自分の条件に外部を合わせさせるか。アプローチの違いですね。
わたしの考えは、ごく単純なことで、
「すべての犯行は、魔法によって行われた!」
と主張しているドレスの人が、その同じ口で、
「赤で語ることは真実!」
と言っている。
前者は、信じない人が大多数なのに、後者は、信じる人が大多数だというのは、不思議な現象だなという、そんだけのことなんです。
ついでにいえば、わたしたちは実社会で、手から光の剣を出す人を見たことはないし、赤い字で喋る人を見たこともない。
「手から光の剣」は常識的に受け入れないのに、「赤い字で真実を喋る」は常識外でも受け入れる、というのは、なんか違和感があるなあ、というのもあります。赤字だって、一種の魔法ではないのかな、と。だったら、それには疑問を持ってもいいな、と。
なのに、赤字を信じる。
「赤字を信じたいわたしたちの気持ち」の正体については、もっと検討がなされてもいいな、という問題提起のつもりでおります。
赤字がなかったら、千日手に戻ってしまう、というようなことをおっしゃる方もいましたけど、実はそれ自体がトリックなのですね。
赤字があっても、千日手は防げません。
「魔法ではなく、赤字に抵触しない未知の方法X」を主張し、Xの内容を説明拒否すれば、戦人は無限後退で人間説を主張しつづけられます。
赤字で無限後退が阻止されたように見えるのは、戦人がこの手を使っていないから、そう見えるだけのことだと思うのです。
ヴァンダインの二十則について、むくげさんの書かれたことを読んで、ふと思ったのですが、二十則に意図的に反したい、というよりは、
「ミステリーのお約束に対する批評」
としても読めるような作品にしたい、という意図があるのかもという気もしてきました。
「ミステリの流儀に反しているが実は反していない」というのは、外部的な視点から見た、お約束への批判、無意味化、そんなようなことではないかしら。
たとえば、「三人称の地の文で嘘をついてはいけない。一人称ならギリギリOK」というお約束に、うみねこは明確に反しています。
でも、三人称の地の文だって、「誰かがそう書いた」ものじゃんか。「誰かがそう書いた」ものである以上、「誰かの一人称」と同等のものでしかない。このお約束って意味あるのか?
という問いかけとして「うみねこ」を読むことは可能と思います。
長くなってきてすいません、あとひとつ。
「赤字が体現する真実とは何かについて」(ミラー)「魔女の証明方法について」(ミラー)を読みました。
ほぼ全編にわたって同感しました。
とくに、「上位ベアトリーチェも盤上の物理的事実を知らない場合」。これを検討されている方がいるとは思わなかったので、心強いです。
赤字を破るために、真実の定義を問うというアプローチが素敵です。
「赤字とは(無限に並列できる)仮説ではないか」
という考えには、とても触発されました。
ほとんどむくげさんが提示された説の言い換えになってしまうのですが、
わたし的には、仮説ということばを「願い」に置き換えると、すんなり心に落ちてきます。(意味は同じで、表現が違うだけです)
ある人がいて、
「魔法がこの世に存在してほしい」という願いを持つ。
そのために、「マスターキーは5本までであってほしい」という願いを持つ。
願うことが魔法である、という発想は、作品の中にかなり色濃く提示されていると思うので、これだとわりに理解されやすいのかなと思いました。
●bouncebackさんへ
こんにちは。問われたからには答えます。
(でもこの話題めちゃめちゃ疲れるので、正直フェイドアウトしたい気満々です)
青字ルールが存在する状態では、「ベアトリーチェが切り返せない」は、「ベアトリーチェの敗北」と同じ意味だと思うのですが、どうでしょうか。
仮に、犯行が本当に魔法で行われていたのだとしても、「赤字に抵触しない魔法以外の未知の方法Xで行われた」のほうが事実として採用され、ベアトの負けが確定するのだと思うのです。そういうルールじゃなかったでしたっけ。
この「赤字を信じる信じない問題」って、うみねこを「真実って、いったい何なのだろう」という(真実の定義を問う)物語として読んでいるかいないかの差から発生している気がしますね。
赤字が疑う余地のない真実、だとするためには、個々の発言が真実かどうかを判定するシステムか、判定者が必要です。裁判だったら裁判官がそうでしょうが、このゲームには、そんな存在がいるのでしょうか。
もし「竜騎士07さん」をその存在として想定するのなら、「ベアトリーチェが欺瞞を言っている」が、「竜騎士07さんが欺瞞を言っている」にスライドするだけなんです。
つまり、「真実を認定する特定の誰か」を想定するかぎり、「真実とはあくまで主観的なもの」になり、意識的なウソも、無意識的なウソも、想定可能になってしまう。無意識的なほうは特にまずいですな。
さて、そこで、
「真実とは、その場における合意である」
という考え方を導入します。これはうみねこでは頻出している考え方ですから比較的受け入れられやすいんじゃないでしょうか。
ep1のお茶会なんかそうですね。
その場の全員が合意すれば、「魔女はいる」が真実になる。みたいなこと。
たとえば、キリスト教原理主義者の集会においては「神は実在する」が真実。
イスラム教過激派テロ組織の集会では、「異教徒は滅ぼすべし」みたいなことが真実として通用しているでしょう(よく知らないがたぶん)。
そして真里亞とベアトの2人きりの逢瀬では、「さくたろうはここにいる」が真実だったのでしょうね。楼座に殺されてしまうまでは。
*
さて、そこまできて、「戦人が赤字を使ったときのいくつかの現象」の話になります(長かったですね、すいません)。
戦人は、自分が右代宮明日夢から生まれたと思い込んでいるのに、どうして「俺は右代宮明日夢から生まれた」と赤字で言えないのか。
(ここから先、以前書き込んだ赤字論を加筆修正したものになります。重複で読んだ方ごめんなさい。でも前より相当わかりやすくなってると思いますから、良かったら再読してみて下さい)
「魔女は赤字を使える」と、誰かが言ってましたね。
つまり、赤字とは魔法であるということ。さくたろうを顕現させたのと同じシステムであると言うこと。
赤字とは、さくたろうのようなもの。
仮に、そう考えるとしましょう。そういう仮説を提唱するのだと思って下さい。
真里亞とベアトリーチェが2人きりでいる状態で。
真里亞が「いる」と信じて、ベアトリーチェが「いる」と信じれば、さくたろうは存在する(その場における合意)。
そしてベアトリーチェは、「さくたろうはいる」と赤字で言える(その場における真実)。
この部屋に、突然楼座が入ってくる。
そして「さくたろうなんていません!」と言ったとする。
さくたろうは消える(楼座にとっては存在しない)。
楼座にとって存在しない以上、「さくたろうはいる」は真実ではない。
だからベアトリーチェは「さくたろうはいる」と赤字で言えなくなる。
真里亞とベアトリーチェが2人きりでいる部屋で、
真里亞が「赤字は真実だよね」と思い、ベアトリーチェが「赤字は真実であるぞ」と思えば、赤字は真実を語るということになる(その場における合意)。
この部屋に、とつぜん戦人が入ってきて、
「やっぱ俺、赤字が真実だとはとても思えねえ!」
と強い信念で言ったとする。
するとベアトリーチェは急に、「赤は真実を語る」と赤字では言えなくなる。
なぜなら、戦人にとっては赤字は真実でないので、「赤は真実を語る」は真実とは言えなくなるから。
ベアトリーチェは、1人きりでいるときには、「魔女はいる、魔法はある」と赤字で言える。
ただし、そこに戦人がいる場合、急にそれを赤字で言えなくなる。
なぜなら、戦人にとって魔法は存在しないものなので、「魔法はある」はその場の真実ではなくなるからです。
だが、
戦人が魔女に屈服し、「やっぱり魔法ってあるらしい……」と思ったとき。
その瞬間、ベアトリーチェは、戦人の目の前で「魔女はいる、魔法はある」と赤字で言えるようになる。と、わたしは予想します。
ベアトリーチェが信じ、戦人が認めた以上、その場では「魔女はいる、魔法はある」が真実として振る舞うからです。
自分は右代宮明日夢から生まれたと、戦人は信じている。
けれど、目の前にいるベアトリーチェが、
「コイツが右代宮明日夢から生まれたワケない」
と思っていたとする。
この条件のとき、「たとえ戦人が実際には右代宮明日夢から生まれていたのだとしても」戦人は赤字で言えない。
というふうにまあ、「魔法現象」を上記のような解釈で受け入れている場合、赤字関連の現象も説明できるというこころみでした。
*
さて。わたしは思うのですが、
「真実とは、外部にあらかじめ存在しているものではない」
というのが、基本的な考え方です。
真実のモノサシ、みたいなものがあって、それにあてはめれば真実か真実でないかがわかる、というような種類のものではない。
真実とは、各人の意志と、合意によって、その場その場で作り出されるものだと認識しているのです。
つまり、強く願って、努力すれば、その願いを真実に変えることができる。
むくげさんとのやりとりの中で、今日思いついたことなのですが、うみねこって、ひょっとして、こういうお話なのではないかなあ?
「魔女がほんとうにいてほしい」と願う誰かがいる。
みんなが認めれば、それは真実になる。だから、魔女がいることをみんなに認めてもらおうとして必死に努力する。
魔女を認めてもらうには、マスターキーが6本以上あったらだめだ。
だから「マスターキーが5本までであってほしい」と願う。
その願いを真実にするために、目の前の人に「マスターキーは5本しかない」ことを信じてもらおうとして一生懸命になる。
目の前の人が、「マスターキーは5本しかない」と信じてくれれば、それは真実になるんだ。
目の前の人は、赤い文字を信じてくれた。「マスターキーが5本しかない」ことも信じてくれた。
あとは、魔女を信じてくれるまで、魔女が真実になるまで、ずっとがんばりつづけるだけだ……。
こういう物語だったら、わたしは、魅力的だと思います。そしてこの魅力は、赤字に欺瞞があることを認めないかぎり、発生しないのです。
■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
■目次(全記事)■
■関連記事
●赤文字論・密室を解く
なぜ戦人は赤字で「明日夢から生まれた」と言えないのか
グランドマスターキーの発見・もう謎なんてない
ラムダデルタはなぜベアトリーチェに強いのか
赤字問題は「神」や「メディアリテラシー」に似ている
ep5初期推理その2・ノックス十戒と赤字への疑問
ep5初期推理その8・赤で語るプレイヤーと赤い竜
うみねこに選択肢を作る方法(と『黄金の真実』)
疑うという“信頼”(上)・ベアトリーチェは捕まりたい
赤字の真偽と、「真実」の定義について
筆者-初出●Townmemory -(2009/06/26(Fri) 01:01:29)・(2009/06/30(Tue) 04:24:23)
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http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=27861&no=0 (ミラー)
[Ep4当時に執筆されました]
●再掲にあたっての筆者注
2つの書き込みを1記事にまとめてお送りします。
この話題のそもそもの始まりは、公式掲示板推理系チャットにおいて、大勢の参加者がいる中、わたしひとりが「赤字は必ずしも真実ではない」と主張したところ、なんというか、かなり強烈な反応をいただいてしまった、ということでした。
誰だったか忘れましたが、そしてわたしのひがみが入っていてニュアンスが捏造されてるかもしれないのですが、
「自分に都合の悪い赤字を信じないという態度の人が提唱する仮説に読む価値があるのか?」
みたいなことをおっしゃる方までいたと記憶します。
これは恐ろしい話題だぞ、と、認識をあらたにしました。
気分としては、周囲からよってたかって「ベアトリーチェが存在すると認めろ」と迫られるep1お茶会の戦人を想像していただけると、めやすとなるでしょう。
しかし、多くの人が、そこまで「信じたい」と願う赤字とはいったいなんなのか、という興味もわきました。
その後掲示板にて、チャットでの話題の感想戦のようなかたちで、2つほど反応をいただきました。むくげさんという方と、bouncebackさんという方です。このお二人にレスポンスをしているうちに、自分の中で、赤字に対する認識が、よりクッキリと輪郭をあらわしてきたので、これはブログにも上げておこうと思った次第です。
むくげさんが下さった元発言はこちら。 (ミラー)
bouncebackさんが下さった元発言はこちらです。 (ミラー)
上記の2発言に対するわたしの返事を、以下に転載します。
以下が本文です。
☆
●むくげさんへ
こんにちは。はじめまして。
チャットのあの局面を、そういうふうに見てらっしゃる方がいるとは思いませんでした。少し心強くなりました。ありがとうございます。
わたしは、赤字が真実でないとしたら、
「どんな可能性でも考えられる“自由”を手に入れた!」
と認識するのですが、チャットでは、それだと手がかりがなくなる、ゲームが成立しなくなる、と考える人が多かったようです。
外部の条件に自分を合わせるか、自分の条件に外部を合わせさせるか。アプローチの違いですね。
わたしの考えは、ごく単純なことで、
「すべての犯行は、魔法によって行われた!」
と主張しているドレスの人が、その同じ口で、
「赤で語ることは真実!」
と言っている。
前者は、信じない人が大多数なのに、後者は、信じる人が大多数だというのは、不思議な現象だなという、そんだけのことなんです。
ついでにいえば、わたしたちは実社会で、手から光の剣を出す人を見たことはないし、赤い字で喋る人を見たこともない。
「手から光の剣」は常識的に受け入れないのに、「赤い字で真実を喋る」は常識外でも受け入れる、というのは、なんか違和感があるなあ、というのもあります。赤字だって、一種の魔法ではないのかな、と。だったら、それには疑問を持ってもいいな、と。
なのに、赤字を信じる。
「赤字を信じたいわたしたちの気持ち」の正体については、もっと検討がなされてもいいな、という問題提起のつもりでおります。
赤字がなかったら、千日手に戻ってしまう、というようなことをおっしゃる方もいましたけど、実はそれ自体がトリックなのですね。
赤字があっても、千日手は防げません。
「魔法ではなく、赤字に抵触しない未知の方法X」を主張し、Xの内容を説明拒否すれば、戦人は無限後退で人間説を主張しつづけられます。
赤字で無限後退が阻止されたように見えるのは、戦人がこの手を使っていないから、そう見えるだけのことだと思うのです。
ヴァンダインの二十則について、むくげさんの書かれたことを読んで、ふと思ったのですが、二十則に意図的に反したい、というよりは、
「ミステリーのお約束に対する批評」
としても読めるような作品にしたい、という意図があるのかもという気もしてきました。
「ミステリの流儀に反しているが実は反していない」というのは、外部的な視点から見た、お約束への批判、無意味化、そんなようなことではないかしら。
たとえば、「三人称の地の文で嘘をついてはいけない。一人称ならギリギリOK」というお約束に、うみねこは明確に反しています。
でも、三人称の地の文だって、「誰かがそう書いた」ものじゃんか。「誰かがそう書いた」ものである以上、「誰かの一人称」と同等のものでしかない。このお約束って意味あるのか?
という問いかけとして「うみねこ」を読むことは可能と思います。
長くなってきてすいません、あとひとつ。
「赤字が体現する真実とは何かについて」(ミラー)「魔女の証明方法について」(ミラー)を読みました。
ほぼ全編にわたって同感しました。
とくに、「上位ベアトリーチェも盤上の物理的事実を知らない場合」。これを検討されている方がいるとは思わなかったので、心強いです。
赤字を破るために、真実の定義を問うというアプローチが素敵です。
「赤字とは(無限に並列できる)仮説ではないか」
という考えには、とても触発されました。
ほとんどむくげさんが提示された説の言い換えになってしまうのですが、
わたし的には、仮説ということばを「願い」に置き換えると、すんなり心に落ちてきます。(意味は同じで、表現が違うだけです)
ある人がいて、
「魔法がこの世に存在してほしい」という願いを持つ。
そのために、「マスターキーは5本までであってほしい」という願いを持つ。
願うことが魔法である、という発想は、作品の中にかなり色濃く提示されていると思うので、これだとわりに理解されやすいのかなと思いました。
●bouncebackさんへ
こんにちは。問われたからには答えます。
(でもこの話題めちゃめちゃ疲れるので、正直フェイドアウトしたい気満々です)
青字ルールが存在する状態では、「ベアトリーチェが切り返せない」は、「ベアトリーチェの敗北」と同じ意味だと思うのですが、どうでしょうか。
仮に、犯行が本当に魔法で行われていたのだとしても、「赤字に抵触しない魔法以外の未知の方法Xで行われた」のほうが事実として採用され、ベアトの負けが確定するのだと思うのです。そういうルールじゃなかったでしたっけ。
この「赤字を信じる信じない問題」って、うみねこを「真実って、いったい何なのだろう」という(真実の定義を問う)物語として読んでいるかいないかの差から発生している気がしますね。
赤字が疑う余地のない真実、だとするためには、個々の発言が真実かどうかを判定するシステムか、判定者が必要です。裁判だったら裁判官がそうでしょうが、このゲームには、そんな存在がいるのでしょうか。
もし「竜騎士07さん」をその存在として想定するのなら、「ベアトリーチェが欺瞞を言っている」が、「竜騎士07さんが欺瞞を言っている」にスライドするだけなんです。
つまり、「真実を認定する特定の誰か」を想定するかぎり、「真実とはあくまで主観的なもの」になり、意識的なウソも、無意識的なウソも、想定可能になってしまう。無意識的なほうは特にまずいですな。
さて、そこで、
「真実とは、その場における合意である」
という考え方を導入します。これはうみねこでは頻出している考え方ですから比較的受け入れられやすいんじゃないでしょうか。
ep1のお茶会なんかそうですね。
その場の全員が合意すれば、「魔女はいる」が真実になる。みたいなこと。
たとえば、キリスト教原理主義者の集会においては「神は実在する」が真実。
イスラム教過激派テロ組織の集会では、「異教徒は滅ぼすべし」みたいなことが真実として通用しているでしょう(よく知らないがたぶん)。
そして真里亞とベアトの2人きりの逢瀬では、「さくたろうはここにいる」が真実だったのでしょうね。楼座に殺されてしまうまでは。
*
さて、そこまできて、「戦人が赤字を使ったときのいくつかの現象」の話になります(長かったですね、すいません)。
戦人は、自分が右代宮明日夢から生まれたと思い込んでいるのに、どうして「俺は右代宮明日夢から生まれた」と赤字で言えないのか。
(ここから先、以前書き込んだ赤字論を加筆修正したものになります。重複で読んだ方ごめんなさい。でも前より相当わかりやすくなってると思いますから、良かったら再読してみて下さい)
「魔女は赤字を使える」と、誰かが言ってましたね。
つまり、赤字とは魔法であるということ。さくたろうを顕現させたのと同じシステムであると言うこと。
赤字とは、さくたろうのようなもの。
仮に、そう考えるとしましょう。そういう仮説を提唱するのだと思って下さい。
真里亞とベアトリーチェが2人きりでいる状態で。
真里亞が「いる」と信じて、ベアトリーチェが「いる」と信じれば、さくたろうは存在する(その場における合意)。
そしてベアトリーチェは、「さくたろうはいる」と赤字で言える(その場における真実)。
この部屋に、突然楼座が入ってくる。
そして「さくたろうなんていません!」と言ったとする。
さくたろうは消える(楼座にとっては存在しない)。
楼座にとって存在しない以上、「さくたろうはいる」は真実ではない。
だからベアトリーチェは「さくたろうはいる」と赤字で言えなくなる。
真里亞とベアトリーチェが2人きりでいる部屋で、
真里亞が「赤字は真実だよね」と思い、ベアトリーチェが「赤字は真実であるぞ」と思えば、赤字は真実を語るということになる(その場における合意)。
この部屋に、とつぜん戦人が入ってきて、
「やっぱ俺、赤字が真実だとはとても思えねえ!」
と強い信念で言ったとする。
するとベアトリーチェは急に、「赤は真実を語る」と赤字では言えなくなる。
なぜなら、戦人にとっては赤字は真実でないので、「赤は真実を語る」は真実とは言えなくなるから。
ベアトリーチェは、1人きりでいるときには、「魔女はいる、魔法はある」と赤字で言える。
ただし、そこに戦人がいる場合、急にそれを赤字で言えなくなる。
なぜなら、戦人にとって魔法は存在しないものなので、「魔法はある」はその場の真実ではなくなるからです。
だが、
戦人が魔女に屈服し、「やっぱり魔法ってあるらしい……」と思ったとき。
その瞬間、ベアトリーチェは、戦人の目の前で「魔女はいる、魔法はある」と赤字で言えるようになる。と、わたしは予想します。
ベアトリーチェが信じ、戦人が認めた以上、その場では「魔女はいる、魔法はある」が真実として振る舞うからです。
自分は右代宮明日夢から生まれたと、戦人は信じている。
けれど、目の前にいるベアトリーチェが、
「コイツが右代宮明日夢から生まれたワケない」
と思っていたとする。
この条件のとき、「たとえ戦人が実際には右代宮明日夢から生まれていたのだとしても」戦人は赤字で言えない。
というふうにまあ、「魔法現象」を上記のような解釈で受け入れている場合、赤字関連の現象も説明できるというこころみでした。
*
さて。わたしは思うのですが、
「真実とは、外部にあらかじめ存在しているものではない」
というのが、基本的な考え方です。
真実のモノサシ、みたいなものがあって、それにあてはめれば真実か真実でないかがわかる、というような種類のものではない。
真実とは、各人の意志と、合意によって、その場その場で作り出されるものだと認識しているのです。
つまり、強く願って、努力すれば、その願いを真実に変えることができる。
むくげさんとのやりとりの中で、今日思いついたことなのですが、うみねこって、ひょっとして、こういうお話なのではないかなあ?
「魔女がほんとうにいてほしい」と願う誰かがいる。
みんなが認めれば、それは真実になる。だから、魔女がいることをみんなに認めてもらおうとして必死に努力する。
魔女を認めてもらうには、マスターキーが6本以上あったらだめだ。
だから「マスターキーが5本までであってほしい」と願う。
その願いを真実にするために、目の前の人に「マスターキーは5本しかない」ことを信じてもらおうとして一生懸命になる。
目の前の人が、「マスターキーは5本しかない」と信じてくれれば、それは真実になるんだ。
目の前の人は、赤い文字を信じてくれた。「マスターキーが5本しかない」ことも信じてくれた。
あとは、魔女を信じてくれるまで、魔女が真実になるまで、ずっとがんばりつづけるだけだ……。
こういう物語だったら、わたしは、魅力的だと思います。そしてこの魅力は、赤字に欺瞞があることを認めないかぎり、発生しないのです。
■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
■目次(全記事)■
■関連記事
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なぜ戦人は赤字で「明日夢から生まれた」と言えないのか
グランドマスターキーの発見・もう謎なんてない
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赤字問題は「神」や「メディアリテラシー」に似ている
ep5初期推理その2・ノックス十戒と赤字への疑問
ep5初期推理その8・赤で語るプレイヤーと赤い竜
うみねこに選択肢を作る方法(と『黄金の真実』)
疑うという“信頼”(上)・ベアトリーチェは捕まりたい
例のクローン説のkannadukiです
うぅむ・・・最近赤字関連の議論が多いと思っていましたがそういうことがあったんですか・・・。
しかし赤字への追求はかなり疲れますね~、読む方も考える方も・・・。凄く頭使います 常時フル回転です。僕は考えても浮かばなかったんですがw
最後にひとつ
> つまり、強く願って、努力すれば、そ
の願いを真実に変えることができる。
これを読んでなんとなく鷹野三四に似たものを感じました。というか鷹野の生き方そのものですね~。
絶対の意志によって自らを神に
絶対の意志によって願いを真実に
似ている・・・
いらっしゃいまし。
同感です。まさしく鷹野三四の方法論です。鷹野三四も、ある時点から、真実は誰かから貰うものではなく、自分の力で作り出してやるのだと確信していたはずです。
(わたし、鷹野さん大好きなのです(*^_^*))