柄谷行人さんの「世界史の実験」
を読んでいる。
これも面白い。
柳田国男さんのことは
「遠野物語」の作者としては知っていたが、
あまり読んではいなかった。
柄谷さんは、いつものように、
そこに新たな読みを提示する。
そのベースとなっているのは
世界史の構造の交換様式論で、
その応用編という感じ。
柳田国男を論じつつ、
山人=原始遊動民に至る
いろいろな論点を含んでいる
これもまた、いつものように、
繰り返しが目につくが、
気にしないで読むと、
少しづつ議論が進み、
柳田さんが見ようとしていたものが、
柄谷さんが見ようとしているものと
重なって見えてくる。
結局、自分の興味の中心は、
生きていることや脳、にはとどまらず、
マルクスや柄谷さんと同じく、
理想の?社会構造のようなところに
あったのかもしれない、と思った。
むしろ、そちらから、この世界や
脳についての興味が生まれたのだろう。
個としては協調バイアスをもつ人間が、
組織、社会になったとたんに、
奪い合い、殺しあう。
内と外を区別して戦う。
個は辺境におしやられて、
「幸せの王子」のように、
与えるものが搾取される。
それは何とかならないものか?
如月小春さんの「広場」、
柄谷行人さんのイオニア
宮澤賢治のポランの広場、
あるいは、山下洋介さんの
ジャズのセッションののように
多様で自由な個を包含する開放系の
自己組織化組織というヴィジョン。
国文学から官僚へ転じて、
さらに民俗学に転じた柳田國男の
根にあったのは、国家神道によって
疎外された神道であり、共有森であり、孤農であり、
それらをなんとかしようという社会変革だった。
単なる民俗学者ではなく、社会革命家だったということだ。
そんなことは、知っている人にはあたりまえのことなのだろう。
Google も、英雄豪傑の歴史からは疎外された
「平民」の生活史をくみ取るために、そして、
彼ら自身が「自らを知るための学」として民俗学を確立し、
整備した、と言っている・・・
そもそも比較民俗学(梅棹忠男さん)
という学問自体が、歴史の実験の試みであり、
社会変革をめざすものであるとも言える
著者の発想は、独立小生産者の生産協同組合を
介して西洋近代に成立した、市民=独立小生産者の
連帯の思想としてカントとマルクスを横断する
『トランスクリティーク』ともリンクする。
著者の思い描く理想的社会の一つの例は
独立小生産者の生産協同組合にあったのだ。
それを柳田國男の民俗学=新国学にも発見した。
同じことはいたるところで起こり
論じられている。
なぜならそれこそは、
いまだに解決されない
人類最大の問題の一つだからだ。
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