「シンスケ君だよね!? 私のこと、覚えてる?」
喫茶店の制服に身を包んだ女が、眩しい笑顔を向けている。
「うわ~、懐かしい! あれって、何年前だっけ?
まさかこんなところで会えるなんて思わなかった・・・!」
「あの・・・」
「何? 懐かしすぎて、何喋っていいか分からないって感じ?」
目を輝かせる店員の顔を窺いながら、恐る恐る口を開く。
「いや・・・ごめん、思い出せないんだけど、誰だっけ?」
女が一瞬虚を突かれたような顔になった。
それを取り繕うように、慌てて両手をバタバタさせる。トレーに付いた水が飛び散る。
「えっ? ほら、私だよ~! 覚えてないの?」
胸元に付けた名札を指差す。だが、そこに記された名前には全く覚えがない。
俺が首を傾げていると、その店員は戸惑いながらも、ぱっと笑顔になった。
「そっか、やっぱ覚えてなくて当たり前か。ごめんなさい」
先程のはしゃぎっぷりが嘘のように、そそくさと立ち去っていく。
笑顔の裏に、どこか落胆の色が見えた気がした。
突然の珍事に考え込んでいると、テーブルの向かいの後輩二人が訝しげな目を向けてきた。
「・・・今の人、誰ですか?」
「・・・分からねえ」
「でも、先輩の名前知ってましたよ? それにあんなに綺麗な人、
先輩なら一度会ったら忘れないでしょ」
「知らねえもんは知らねえんだよ」
彼女の話からして、俺はかなり昔に彼女と知り合っているらしい。
それも、かなり親しい関係のような話しぶりだった。そんな気がする。
問題は、俺は生まれてこの方18年、彼女と同じ名字の人間と会った記憶が無いことだ。
記憶を辿りながら、時計を見た。4時を少し回っている。
「まずい、そろそろ行くわ。お前らも出るか?」
「いいんですか? 結局さっきの人、誰なのか分からずじまいですよ」
「5時までに、大学に資料出しに行かなきゃいけねえんだ」
後輩のユイが、むっとした顔をしている。
「・・・・・・。なんか、薄情」
「仕方ないだろ」
会計を済ませ、重いドアを押して外に出る。
春の訪れが近いというのに、風は身を裂くほど冷たい。
「寒っ・・・雪でも降るんじゃないですかね?」
後について出てきたもう一人の後輩が、体を震わせながら漏らした。
3月も終わりが近い。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
陽炎に包まれた街は、去年と何ら景色を変えていなかった。
日は傾きつつあるが、アスファルトからはじりじりと熱を感じる。
半年も経たずにこれほどまで気候が変わるとは、日本というのは不思議な国だ。
暑さから逃げるように、校門に駆け込む。懐かしい感覚だ。
高々半年のことなのに、「懐かしい」という言葉が浮かぶのも何処か可笑しい。
人にとって、過去は思ったより速く遠ざかっていくものらしい。
こんなことを言うと、後輩達に年寄り臭いと笑われそうだ。
夏休みの体育館には、誰もいない。
何故か、真ん中にバスケットボールが一球置かれている。
俺は引退なんかしてねえぞ、と突っ込みを入れつつ歩み寄ると、
きんと冷たい空気がシャツの下を吹き抜けた。
ボールを手に取る。顔を上げ、ゴールリングを睨む。
シュートの体勢に入った瞬間、背後のドンッという音に体が強張った。
ボールは慣性のまま俺の手を離れ、ぽとりと前に落ちた。
振り返ると、バスケットボールを抱えたユイが、口を押えて笑いを堪えている。
「は、浜中先輩、お久し・・・ぶり・・・うぷぷッ」
「何がおかしい」
「いえ、何でもないです・・・ふう」
ユイは俺の目を見ると、また吹き出しそうな顔になった。
「確か先輩、明日帰るんでしたよね?」
さっきの笑いといい、ユイは何やら上機嫌だ。
「そうだな・・・高校に顔出して、帰省でやるべきことは全部やったし。
それに、もう8月も終わりだからな」
ガラス戸の外に目をやる。西日が差し込んでいる。
「じゃあ、今夜、花火見に行きませんか!?」
「・・・花火? ああ、そういえば、この時期は近くで花火大会があったな」
俺の反応が悪いことに、ユイは怪訝な表情を見せる。
「直接行ったことはないからな」
高校時代は、自分の部屋の窓から見ていた。
「それなら、せっかくだから行きましょうよ! 初めての花火大会」
「・・・別に行ったことが無い訳じゃないんだけど」
記憶の深いところに、夜空に打ち上がる大きな花火が焼き付いている。
最後に見たのはいつだろうか。去年の夏か。屋内からだが。
ユイがまたクスッと笑った。昔から思っていたことだが、こいつはどこかつかみどころがない。
「それに・・・今日、あの人も来るんですよ。喫茶店の人」
「喫茶店? 何だそれ」
俺がぽかんとしていると、怒ったように睨みつけてきた。
「前喫茶店で話しかけられた女の人ですよ、もう忘れたんですか?
そんなだから、あの人が誰かも分からなかったんじゃないですか」
いや、忘れていたわけではないが・・・
唐突に「喫茶店の人」と言われて思い出せるほど、俺の頭は回らないぞ。
「何でまた、そんなこと」
ユイが得意気ににやついている。
「あれから気になって、あの喫茶店に通ったんです。そのうち、あの人と仲良くなっちゃって。
今日、先輩も誘って花火に行こうって決めてたんですよ」
俺の意思は無視する前提だったということか。
「聞きましたよ、先輩とあの人の関係」
一瞬息が止まった。悟られないよう、平静を装う。
「あー、そうなのか。結局、誰?」
「気になってたんですねー、先輩」
またにやっと笑った。その通り、図星だ。
「直接聞いた方がいいと思いますよ、せっかく会うんだから」
本人の返事を待たずして、浜中シンスケ君の花火大会行きは決定した。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
夏には終わりがある。
これは俺の感性の問題かもしれないが、夏というものは殊に「終わり」を示したがる。
熱を帯びた思い出を残していく、儚い季節。
感傷的な言い方だが、自分自身あながち的外れではないと考えている。
まあこれには、「夏休み」の文化が少なからず噛んでいるのだろうが。
窓の外を見る。日が落ち、空は濃い群青色に変わりつつある。
西の川の向こう、あの辺りに、花火が上がるはずだ。
毎年のように窓に映る花火を見る度、溜め息が出る。
それは感嘆でも何でもなく、自分でも呆れる程単純な理由からだ。
あそこで花火が上がると、夏が終わる。
開いては消える花火が、そのことを否応無しに突き付けて来るのだった。
俺自身、この時期に花火を見るのは、感傷に浸りたい人間くらいだと冷淡に見ていた手前、
いくら後輩の誘いとはいえ、どうにも気が乗らない。
いや、むしろ拒否する感情を抑えていると言った方が、体裁は悪いが正確かもしれない。
そんなつまらない表現を頭の中で掻き回していると、家の前を歩くユイが見えた。
「・・・どうしたんですか? 先輩」
「ん? ああ・・・」
遅れて歩く俺に痺れを切らしたように、ユイは振り向いて立ち止まった。
「何か乗り気じゃないみたい」
「それも間違っちゃいないけど・・・ちょっと考え事を」
「何ですか」
「それだよ」
俺に指差されたユイは、少し小さい紺の浴衣を着ていた。
「あっ、これですか? 中学生の時にもらったやつなんですけど、
ギリギリまだ着れたから、せっかくだし」
「・・・・・・」
「・・・似合ってないですか?」
「いや、いいんじゃない」
俺は本心で言ったつもりだったが、ユイはふてくされたように先を歩き出した。
歩を早め、前を行く後輩の機嫌を伺う。
「そういえば、その何だっけ、喫茶店の人とは、何処で落ち合うの?」
ユイはちらっとこちらを見た。
「やっぱり、名前覚えてなかったんですね。そんなことだろうと思いました」
ユイの「喫茶店の人」という表現の意図に思い至り、ぎくりとした。
「えっと、何て言ったっけ。結構珍しい名字だったはずだけど・・・」
恐る恐る顔を上げたが、ユイの顔は穏やかだった。
「改めて聞けばいいですよ、あの人は怒ったりしないです」
賑やかな声が聞こえてきた。通りの先が明るい。通りを歩く人の数も増えてきた。
「やってますね~」
「やってるね」
昼の暑さが戻ってきたような熱気が、遠くからも感じられる。シャツを軽くばたつかせた。
屋台の並ぶ川辺に向けて、俺達は歩を速めた。
白熱電球の光と熱が、屋台通りの人々を彩っている。
お祭り気分と言わんばかりの音楽と笑い声が、慣れない耳を埋める。
浴衣姿の小さな子供たちが、二人の間を走り抜けていった。
「こんなに騒がしかったか・・・?」
「・・・・・・すよ」
「え? 何て言った!?」
「こんなもんですよ! お祭りですから!」
袖を大袈裟に振りながら歩くユイの視線が、遠くに向けられたのが分かった。
「あっ、いたいた! お~い!」
ユイが手を振る。浴衣の袖がはだけた。
ユイの視線をたどると、同じように手を振る姿が遠目に見えた。
ふわっと、隣から風を感じた。次の瞬間、ユイの姿は数メートル先へかっ飛んでいた。
慌てて走り出す。人をかき分け、紺色の背中を目で追う。
あの格好でも走れるってのは、体育会系女子とは恐ろしいものだ。
追い付きそうになったところで、右肩が強くぶつかった。
「あっ・・・すみません」
振り返った先の男は鋭い目で睨んできたが、何も言わずに隣の女と去って行った。
前を向くと、人混みがぽっかりと空き、大きく視界が開けていた。
素早く駆け込む。奥に、目的地にたどり着いたユイが見える。
そして、親しげに話している、もう一人の・・・
彼女は、淡い赤の浴衣に身を包んでいた。
ふわりと、見る者の感覚を奪い取ってくるような、艶やかな雰囲気を纏いながら。
まるで周囲の人間が、彼女の穏やかな「気」に、弾かれているようにさえ見えた。
彼女を取り巻く空気に侵入した瞬間、俺の五感はすべて彼女に支配された。
・・・いや、俺の五感が、思い出したのだ。彼女を。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
それはいつ、どこでのことだっただろうか。
それすらも思い出せないような、遥か昔のことだ。
僕は親の都合か何かで、夏休みを離れた土地で過ごすことになった。
はっきり覚えていない上に、幼い頃の主観だから断言はできないが、
おそらく世間で言う「田舎」に当てはまるような場所だ。
そこで、僕は「彼女」に出会った。
会ったきっかけも、彼女がどこの誰だったかさえ、記憶には残っていない。
ただその期間、連れ立って遊んでいた子供たちの一人というだけ。
それほど曖昧で、漠然としたものでありながら、
ただ一つ、ある情景が、不気味なほど鮮烈に焼き付いていた。
屋台と人の喧騒に呑まれながら、僕は一人で焦燥に駆られていた。
周囲の大人を見上げ、知らない顔と目を合わせては、焦りが増していく。
夏祭りに出かけた先で、親達とはぐれたのだ。
すっかり狼狽した僕は、綿菓子屋の前から一歩も動くことができなかった。
見上げた人混みの背景に、大きく開いた花火が映り込んだ。
僕は反射的に耳を塞いだ。指を耳の位置にしっかりと合わせ、力を込める。
次の瞬間、ドン、という微かな音と共に、空気がビリビリと振動する。
手を耳から離し一息つくと、綿菓子を持った「彼女」が、目の前で冷やかな顔を見せていた。
「何やってんの」
「・・・・・・」
彼女から目を逸らし、僕は河川敷の方向へ歩き出した。
見知った人間に会えた安心感よりも、突き放すような口調に対する反発が勝っていた。
人の隙間をするすると抜け、河川敷の広場に出た。
辺りを見渡すが、両親の姿は見えない。人混みの中で、探し回っているのかもしれない。
「迷子なんでしょ、あんた」
すぐ後ろに、追ってきた彼女が立っている。
「・・・・・・」
「やっぱり」
「お前はどうなんだよ」
「あんたより2つもお姉ちゃんなのよ、一人で歩き回るくらい」
いつも活発な彼女の、見慣れない服装――薄紅色の花柄の浴衣から漂う、
どこか落ち着いた雰囲気が、僕に劣等感を感じさせた。
互いの年齢など、あの時は気にもかけていなかったのだが、
それでも彼女と僕との間は、子供の感性では捉えきれない、何かに遮られていた。
河川敷の方へ向き直る直前、僕は全身が緊張するのを感じた。
彼女の背後に、今日一番の大輪が打ち上がっていた。
慌てて耳を塞ごうとすると、両手をぐいっと握り締められた。
「な、何すんだよ! やめろ!」
「へへっ、これで耳塞げないでしょ」
焦りで目を見開きながら、彼女の手を振りほどこうとむきになった。全身の毛が逆立った。
「もう、幾ら何でも怖がり・・・」
彼女の声を吹き飛ばすように、重く低い爆音が辺りに響いた。
体が強張る。空気の波が、彼女の体を回り込んで僕を襲う。
二人の体は音の衝撃をもろに受け、弾かれた。
一瞬の静寂の後、河川敷から喝采が起きた。
茫然としていた彼女と僕も、我に返る。目が合う。
「・・・今、ビビっただろ?」
「え? べ、別に・・・」
「嘘つけー! 今、すっげー手に力入ったぞ」
「それは、まあ・・・ちょっとは・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
それっきり、二人とも黙ってしまった。辺りには拍手が響いていた。
「明日の朝、帰るんだ」
花火が散った空を見上げながら、彼女は切り出した。
「ふーん」
「あんたは、いつまでいるの? 夏休みも終わりでしょ」
「もうちょっといるって、父ちゃんが言ってた」
「そう・・・で、そのお父さんは?」
自分が迷子だということを、僕はすっかり忘れていた。
「あっ、あそこにいるじゃない、お父さんとお母さん」
屋台の手前で、僕を呼ぶ両親の姿が見えた。
「よかった。それじゃ」
「・・・・・・」
「ちょっと、ありがとうくらい言ったらどうなの」
「・・・ありがとう」
その一言を言うことが、何故か躊躇われた。彼女はぱっと笑顔になった。
「うん、私も、最後に話せてよかった。それじゃ、バイバイ」
彼女は僕に背を向けて歩き出した。
僕は、淡い彼女の背中を見つめていた。
そのまま彼女に引きずられていくような、錯覚すら感じながら。
「おーいシンスケ、行くぞー」
父親の声に引き戻され、振り返った。
明々と照明が照らしていた屋台も、少しずつ暗くなり始めていた。
両親の元へ駆け出そうとした時、背後から肩を乱暴に捕まれた。
「ちょっと待って!」
少し火照った彼女の顔が、視界一杯に映った。
「そういえば、名前何て言うんだっけ? 忘れちゃった」
「え・・・シンスケ。浜中シンスケ」
ああそうだ、と手を打ち、彼女はにっと笑った。
「とりあえず、名前くらいは覚えといてあげる。じゃあね」
たじろぐ僕を尻目に、彼女は浴衣姿で走っていった。
「シンスケ、早くしないと置いてくぞー」
父親の声が、やけに遠く聞こえた。
そうだ。僕達は、互いの名前も知らずに、こうして共に過ごしてきたのだ。
彼女の淡い赤の浴衣が、人混みの中に消えていく。
父親が手を引くまで、僕はその場で立ち尽くしていた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
蘇った感覚が、全身にふっと吸い込まれた。
はっと我に返った瞬間には、上半身が大きく前に乗り出していた。
「へぶっ!」
目の前が真っ暗になる。腕に、膝に、鈍い痛みが響く。
遠巻きに、クスクスと笑い声が聞こえる。
「ちょっと先輩、ダサいですよ! 大学で運動不足なんじゃないですか?」
ユイのからかう声に、全身が熱くなるのを感じた。
ぐっと体を持ち上げ、真っ赤になった顔を上げようとしたところで、
俺の目に、薄紅色の浴衣の裾が飛び込んできた。
見上げた先、あの夏の「君」が、屈託のない笑顔を浮かべていた。
喫茶店の制服に身を包んだ女が、眩しい笑顔を向けている。
「うわ~、懐かしい! あれって、何年前だっけ?
まさかこんなところで会えるなんて思わなかった・・・!」
「あの・・・」
「何? 懐かしすぎて、何喋っていいか分からないって感じ?」
目を輝かせる店員の顔を窺いながら、恐る恐る口を開く。
「いや・・・ごめん、思い出せないんだけど、誰だっけ?」
女が一瞬虚を突かれたような顔になった。
それを取り繕うように、慌てて両手をバタバタさせる。トレーに付いた水が飛び散る。
「えっ? ほら、私だよ~! 覚えてないの?」
胸元に付けた名札を指差す。だが、そこに記された名前には全く覚えがない。
俺が首を傾げていると、その店員は戸惑いながらも、ぱっと笑顔になった。
「そっか、やっぱ覚えてなくて当たり前か。ごめんなさい」
先程のはしゃぎっぷりが嘘のように、そそくさと立ち去っていく。
笑顔の裏に、どこか落胆の色が見えた気がした。
突然の珍事に考え込んでいると、テーブルの向かいの後輩二人が訝しげな目を向けてきた。
「・・・今の人、誰ですか?」
「・・・分からねえ」
「でも、先輩の名前知ってましたよ? それにあんなに綺麗な人、
先輩なら一度会ったら忘れないでしょ」
「知らねえもんは知らねえんだよ」
彼女の話からして、俺はかなり昔に彼女と知り合っているらしい。
それも、かなり親しい関係のような話しぶりだった。そんな気がする。
問題は、俺は生まれてこの方18年、彼女と同じ名字の人間と会った記憶が無いことだ。
記憶を辿りながら、時計を見た。4時を少し回っている。
「まずい、そろそろ行くわ。お前らも出るか?」
「いいんですか? 結局さっきの人、誰なのか分からずじまいですよ」
「5時までに、大学に資料出しに行かなきゃいけねえんだ」
後輩のユイが、むっとした顔をしている。
「・・・・・・。なんか、薄情」
「仕方ないだろ」
会計を済ませ、重いドアを押して外に出る。
春の訪れが近いというのに、風は身を裂くほど冷たい。
「寒っ・・・雪でも降るんじゃないですかね?」
後について出てきたもう一人の後輩が、体を震わせながら漏らした。
3月も終わりが近い。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
陽炎に包まれた街は、去年と何ら景色を変えていなかった。
日は傾きつつあるが、アスファルトからはじりじりと熱を感じる。
半年も経たずにこれほどまで気候が変わるとは、日本というのは不思議な国だ。
暑さから逃げるように、校門に駆け込む。懐かしい感覚だ。
高々半年のことなのに、「懐かしい」という言葉が浮かぶのも何処か可笑しい。
人にとって、過去は思ったより速く遠ざかっていくものらしい。
こんなことを言うと、後輩達に年寄り臭いと笑われそうだ。
夏休みの体育館には、誰もいない。
何故か、真ん中にバスケットボールが一球置かれている。
俺は引退なんかしてねえぞ、と突っ込みを入れつつ歩み寄ると、
きんと冷たい空気がシャツの下を吹き抜けた。
ボールを手に取る。顔を上げ、ゴールリングを睨む。
シュートの体勢に入った瞬間、背後のドンッという音に体が強張った。
ボールは慣性のまま俺の手を離れ、ぽとりと前に落ちた。
振り返ると、バスケットボールを抱えたユイが、口を押えて笑いを堪えている。
「は、浜中先輩、お久し・・・ぶり・・・うぷぷッ」
「何がおかしい」
「いえ、何でもないです・・・ふう」
ユイは俺の目を見ると、また吹き出しそうな顔になった。
「確か先輩、明日帰るんでしたよね?」
さっきの笑いといい、ユイは何やら上機嫌だ。
「そうだな・・・高校に顔出して、帰省でやるべきことは全部やったし。
それに、もう8月も終わりだからな」
ガラス戸の外に目をやる。西日が差し込んでいる。
「じゃあ、今夜、花火見に行きませんか!?」
「・・・花火? ああ、そういえば、この時期は近くで花火大会があったな」
俺の反応が悪いことに、ユイは怪訝な表情を見せる。
「直接行ったことはないからな」
高校時代は、自分の部屋の窓から見ていた。
「それなら、せっかくだから行きましょうよ! 初めての花火大会」
「・・・別に行ったことが無い訳じゃないんだけど」
記憶の深いところに、夜空に打ち上がる大きな花火が焼き付いている。
最後に見たのはいつだろうか。去年の夏か。屋内からだが。
ユイがまたクスッと笑った。昔から思っていたことだが、こいつはどこかつかみどころがない。
「それに・・・今日、あの人も来るんですよ。喫茶店の人」
「喫茶店? 何だそれ」
俺がぽかんとしていると、怒ったように睨みつけてきた。
「前喫茶店で話しかけられた女の人ですよ、もう忘れたんですか?
そんなだから、あの人が誰かも分からなかったんじゃないですか」
いや、忘れていたわけではないが・・・
唐突に「喫茶店の人」と言われて思い出せるほど、俺の頭は回らないぞ。
「何でまた、そんなこと」
ユイが得意気ににやついている。
「あれから気になって、あの喫茶店に通ったんです。そのうち、あの人と仲良くなっちゃって。
今日、先輩も誘って花火に行こうって決めてたんですよ」
俺の意思は無視する前提だったということか。
「聞きましたよ、先輩とあの人の関係」
一瞬息が止まった。悟られないよう、平静を装う。
「あー、そうなのか。結局、誰?」
「気になってたんですねー、先輩」
またにやっと笑った。その通り、図星だ。
「直接聞いた方がいいと思いますよ、せっかく会うんだから」
本人の返事を待たずして、浜中シンスケ君の花火大会行きは決定した。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
夏には終わりがある。
これは俺の感性の問題かもしれないが、夏というものは殊に「終わり」を示したがる。
熱を帯びた思い出を残していく、儚い季節。
感傷的な言い方だが、自分自身あながち的外れではないと考えている。
まあこれには、「夏休み」の文化が少なからず噛んでいるのだろうが。
窓の外を見る。日が落ち、空は濃い群青色に変わりつつある。
西の川の向こう、あの辺りに、花火が上がるはずだ。
毎年のように窓に映る花火を見る度、溜め息が出る。
それは感嘆でも何でもなく、自分でも呆れる程単純な理由からだ。
あそこで花火が上がると、夏が終わる。
開いては消える花火が、そのことを否応無しに突き付けて来るのだった。
俺自身、この時期に花火を見るのは、感傷に浸りたい人間くらいだと冷淡に見ていた手前、
いくら後輩の誘いとはいえ、どうにも気が乗らない。
いや、むしろ拒否する感情を抑えていると言った方が、体裁は悪いが正確かもしれない。
そんなつまらない表現を頭の中で掻き回していると、家の前を歩くユイが見えた。
「・・・どうしたんですか? 先輩」
「ん? ああ・・・」
遅れて歩く俺に痺れを切らしたように、ユイは振り向いて立ち止まった。
「何か乗り気じゃないみたい」
「それも間違っちゃいないけど・・・ちょっと考え事を」
「何ですか」
「それだよ」
俺に指差されたユイは、少し小さい紺の浴衣を着ていた。
「あっ、これですか? 中学生の時にもらったやつなんですけど、
ギリギリまだ着れたから、せっかくだし」
「・・・・・・」
「・・・似合ってないですか?」
「いや、いいんじゃない」
俺は本心で言ったつもりだったが、ユイはふてくされたように先を歩き出した。
歩を早め、前を行く後輩の機嫌を伺う。
「そういえば、その何だっけ、喫茶店の人とは、何処で落ち合うの?」
ユイはちらっとこちらを見た。
「やっぱり、名前覚えてなかったんですね。そんなことだろうと思いました」
ユイの「喫茶店の人」という表現の意図に思い至り、ぎくりとした。
「えっと、何て言ったっけ。結構珍しい名字だったはずだけど・・・」
恐る恐る顔を上げたが、ユイの顔は穏やかだった。
「改めて聞けばいいですよ、あの人は怒ったりしないです」
賑やかな声が聞こえてきた。通りの先が明るい。通りを歩く人の数も増えてきた。
「やってますね~」
「やってるね」
昼の暑さが戻ってきたような熱気が、遠くからも感じられる。シャツを軽くばたつかせた。
屋台の並ぶ川辺に向けて、俺達は歩を速めた。
白熱電球の光と熱が、屋台通りの人々を彩っている。
お祭り気分と言わんばかりの音楽と笑い声が、慣れない耳を埋める。
浴衣姿の小さな子供たちが、二人の間を走り抜けていった。
「こんなに騒がしかったか・・・?」
「・・・・・・すよ」
「え? 何て言った!?」
「こんなもんですよ! お祭りですから!」
袖を大袈裟に振りながら歩くユイの視線が、遠くに向けられたのが分かった。
「あっ、いたいた! お~い!」
ユイが手を振る。浴衣の袖がはだけた。
ユイの視線をたどると、同じように手を振る姿が遠目に見えた。
ふわっと、隣から風を感じた。次の瞬間、ユイの姿は数メートル先へかっ飛んでいた。
慌てて走り出す。人をかき分け、紺色の背中を目で追う。
あの格好でも走れるってのは、体育会系女子とは恐ろしいものだ。
追い付きそうになったところで、右肩が強くぶつかった。
「あっ・・・すみません」
振り返った先の男は鋭い目で睨んできたが、何も言わずに隣の女と去って行った。
前を向くと、人混みがぽっかりと空き、大きく視界が開けていた。
素早く駆け込む。奥に、目的地にたどり着いたユイが見える。
そして、親しげに話している、もう一人の・・・
彼女は、淡い赤の浴衣に身を包んでいた。
ふわりと、見る者の感覚を奪い取ってくるような、艶やかな雰囲気を纏いながら。
まるで周囲の人間が、彼女の穏やかな「気」に、弾かれているようにさえ見えた。
彼女を取り巻く空気に侵入した瞬間、俺の五感はすべて彼女に支配された。
・・・いや、俺の五感が、思い出したのだ。彼女を。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
それはいつ、どこでのことだっただろうか。
それすらも思い出せないような、遥か昔のことだ。
僕は親の都合か何かで、夏休みを離れた土地で過ごすことになった。
はっきり覚えていない上に、幼い頃の主観だから断言はできないが、
おそらく世間で言う「田舎」に当てはまるような場所だ。
そこで、僕は「彼女」に出会った。
会ったきっかけも、彼女がどこの誰だったかさえ、記憶には残っていない。
ただその期間、連れ立って遊んでいた子供たちの一人というだけ。
それほど曖昧で、漠然としたものでありながら、
ただ一つ、ある情景が、不気味なほど鮮烈に焼き付いていた。
屋台と人の喧騒に呑まれながら、僕は一人で焦燥に駆られていた。
周囲の大人を見上げ、知らない顔と目を合わせては、焦りが増していく。
夏祭りに出かけた先で、親達とはぐれたのだ。
すっかり狼狽した僕は、綿菓子屋の前から一歩も動くことができなかった。
見上げた人混みの背景に、大きく開いた花火が映り込んだ。
僕は反射的に耳を塞いだ。指を耳の位置にしっかりと合わせ、力を込める。
次の瞬間、ドン、という微かな音と共に、空気がビリビリと振動する。
手を耳から離し一息つくと、綿菓子を持った「彼女」が、目の前で冷やかな顔を見せていた。
「何やってんの」
「・・・・・・」
彼女から目を逸らし、僕は河川敷の方向へ歩き出した。
見知った人間に会えた安心感よりも、突き放すような口調に対する反発が勝っていた。
人の隙間をするすると抜け、河川敷の広場に出た。
辺りを見渡すが、両親の姿は見えない。人混みの中で、探し回っているのかもしれない。
「迷子なんでしょ、あんた」
すぐ後ろに、追ってきた彼女が立っている。
「・・・・・・」
「やっぱり」
「お前はどうなんだよ」
「あんたより2つもお姉ちゃんなのよ、一人で歩き回るくらい」
いつも活発な彼女の、見慣れない服装――薄紅色の花柄の浴衣から漂う、
どこか落ち着いた雰囲気が、僕に劣等感を感じさせた。
互いの年齢など、あの時は気にもかけていなかったのだが、
それでも彼女と僕との間は、子供の感性では捉えきれない、何かに遮られていた。
河川敷の方へ向き直る直前、僕は全身が緊張するのを感じた。
彼女の背後に、今日一番の大輪が打ち上がっていた。
慌てて耳を塞ごうとすると、両手をぐいっと握り締められた。
「な、何すんだよ! やめろ!」
「へへっ、これで耳塞げないでしょ」
焦りで目を見開きながら、彼女の手を振りほどこうとむきになった。全身の毛が逆立った。
「もう、幾ら何でも怖がり・・・」
彼女の声を吹き飛ばすように、重く低い爆音が辺りに響いた。
体が強張る。空気の波が、彼女の体を回り込んで僕を襲う。
二人の体は音の衝撃をもろに受け、弾かれた。
一瞬の静寂の後、河川敷から喝采が起きた。
茫然としていた彼女と僕も、我に返る。目が合う。
「・・・今、ビビっただろ?」
「え? べ、別に・・・」
「嘘つけー! 今、すっげー手に力入ったぞ」
「それは、まあ・・・ちょっとは・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
それっきり、二人とも黙ってしまった。辺りには拍手が響いていた。
「明日の朝、帰るんだ」
花火が散った空を見上げながら、彼女は切り出した。
「ふーん」
「あんたは、いつまでいるの? 夏休みも終わりでしょ」
「もうちょっといるって、父ちゃんが言ってた」
「そう・・・で、そのお父さんは?」
自分が迷子だということを、僕はすっかり忘れていた。
「あっ、あそこにいるじゃない、お父さんとお母さん」
屋台の手前で、僕を呼ぶ両親の姿が見えた。
「よかった。それじゃ」
「・・・・・・」
「ちょっと、ありがとうくらい言ったらどうなの」
「・・・ありがとう」
その一言を言うことが、何故か躊躇われた。彼女はぱっと笑顔になった。
「うん、私も、最後に話せてよかった。それじゃ、バイバイ」
彼女は僕に背を向けて歩き出した。
僕は、淡い彼女の背中を見つめていた。
そのまま彼女に引きずられていくような、錯覚すら感じながら。
「おーいシンスケ、行くぞー」
父親の声に引き戻され、振り返った。
明々と照明が照らしていた屋台も、少しずつ暗くなり始めていた。
両親の元へ駆け出そうとした時、背後から肩を乱暴に捕まれた。
「ちょっと待って!」
少し火照った彼女の顔が、視界一杯に映った。
「そういえば、名前何て言うんだっけ? 忘れちゃった」
「え・・・シンスケ。浜中シンスケ」
ああそうだ、と手を打ち、彼女はにっと笑った。
「とりあえず、名前くらいは覚えといてあげる。じゃあね」
たじろぐ僕を尻目に、彼女は浴衣姿で走っていった。
「シンスケ、早くしないと置いてくぞー」
父親の声が、やけに遠く聞こえた。
そうだ。僕達は、互いの名前も知らずに、こうして共に過ごしてきたのだ。
彼女の淡い赤の浴衣が、人混みの中に消えていく。
父親が手を引くまで、僕はその場で立ち尽くしていた。
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蘇った感覚が、全身にふっと吸い込まれた。
はっと我に返った瞬間には、上半身が大きく前に乗り出していた。
「へぶっ!」
目の前が真っ暗になる。腕に、膝に、鈍い痛みが響く。
遠巻きに、クスクスと笑い声が聞こえる。
「ちょっと先輩、ダサいですよ! 大学で運動不足なんじゃないですか?」
ユイのからかう声に、全身が熱くなるのを感じた。
ぐっと体を持ち上げ、真っ赤になった顔を上げようとしたところで、
俺の目に、薄紅色の浴衣の裾が飛び込んできた。
見上げた先、あの夏の「君」が、屈託のない笑顔を浮かべていた。