本日は、別段に宇津城址に登るつもりはなく、上桂川の畔をブラブラと歩いて「貞任峠から嶽山に登ろうかなぁ」、「人尾峠から日吉の方にちょっと行ってみようかなぁ」等と漫然と考えておりました。
ところで、下宇津に入るところにある観光掲示板、宇津城の位置が間違っていて、八幡宮の隣の尾根(殿の谷の西)になっています。まあ、この城跡に登ろうという物好きは少ないでしょうが、人がいないだけに間違って登った人が何かあってはいけません。
嶽山
河原に咲く花
宇津の八幡さんの御前を通りながらご挨拶も無しに行くのは失礼なので、ちょっと参拝。釣鐘には銘が入っています。大東亜戦争で供出して鋳直したものだそうです。写真は下の三枚しか撮っていませんでした。
石段の下
同じく
石段の隣。読めん、師匠に来てもらおう。
参拝後、ふと祠の右手を見ると何となく直登路ができているような感じがします。単に先日の雨で、倒木や何かが流された跡に過ぎないのかも知れませんが、「おや、トレイル道として整備が進んでいるのかな」等と勝手に考え、登り始めました(10月10日現在、トレイル部が手を入れたということはないそうです)。これを竪堀だと考える方もおられます。
確かに、ゆくゆくは階段をつけるべしなのでしょうか、丸太を組み合わせた構造物が造られているところがありました。けれども、基本的には倒木も多く、斜面も急で「道」といえるようなものはありませんでした。鹿が小生を見て仲間に侵入者の存在を知らせる警戒音が山中に響きます。
本日も陸軍行進曲、神武帝の熊野突破の故事を思うと足も自然に高く上がります。途中で錆びたカマの刃を拾いました。本丸の井戸跡の横の木のマタに置いてきましたが、往時のものであったりして。
かなり急
石組みが見えてくるまでに30分、「10分もあればいけるだろう」は甘い考えでした。まあ途中で、鹿の親子とにらめっこをしていましたが。
城跡は、前に来たときよりもさらに荒れた感じです。ということは、あの構造物は山仕事の一環?
本丸跡
堀切
宇津城址から尾根沿いに関電の鉄塔付近まで来ると視界が広がります。木々の間に城跡がにゅっ。1579年の落城のときには、明智の軍勢の喚声を背に、この尾根筋を北に向かった者もいたことでしょう。というか、明智が来る前に退散していたとは思いますが。
この尾根道、綿毛を付けた草で覆われ、風が吹くと綿毛が一斉に舞い上がります。季節は全く異なりますが、何か風花を見ているみたい。
本日は、そのまま庄ノ谷に下りましたが、道はいよいよ「危険」になっています。関電の巡検路はもうズタズタ、ズルズルと土砂が谷に崩れ落ちます。これは下手な道造りをすると却って危なくなる証左でもあります。やはり山を知る地主さんたちが登る直登路が一番かなあ。
庄の谷の見事なる楓は、まだまだ青々としていました。これが赤く染まるときが楽しみです。そのときには必ず日高見峠まで行こうと思います。
ところで、下宇津に入るところにある観光掲示板、宇津城の位置が間違っていて、八幡宮の隣の尾根(殿の谷の西)になっています。まあ、この城跡に登ろうという物好きは少ないでしょうが、人がいないだけに間違って登った人が何かあってはいけません。
嶽山
河原に咲く花
宇津の八幡さんの御前を通りながらご挨拶も無しに行くのは失礼なので、ちょっと参拝。釣鐘には銘が入っています。大東亜戦争で供出して鋳直したものだそうです。写真は下の三枚しか撮っていませんでした。
石段の下
同じく
石段の隣。読めん、師匠に来てもらおう。
参拝後、ふと祠の右手を見ると何となく直登路ができているような感じがします。単に先日の雨で、倒木や何かが流された跡に過ぎないのかも知れませんが、「おや、トレイル道として整備が進んでいるのかな」等と勝手に考え、登り始めました(10月10日現在、トレイル部が手を入れたということはないそうです)。これを竪堀だと考える方もおられます。
確かに、ゆくゆくは階段をつけるべしなのでしょうか、丸太を組み合わせた構造物が造られているところがありました。けれども、基本的には倒木も多く、斜面も急で「道」といえるようなものはありませんでした。鹿が小生を見て仲間に侵入者の存在を知らせる警戒音が山中に響きます。
本日も陸軍行進曲、神武帝の熊野突破の故事を思うと足も自然に高く上がります。途中で錆びたカマの刃を拾いました。本丸の井戸跡の横の木のマタに置いてきましたが、往時のものであったりして。
かなり急
石組みが見えてくるまでに30分、「10分もあればいけるだろう」は甘い考えでした。まあ途中で、鹿の親子とにらめっこをしていましたが。
城跡は、前に来たときよりもさらに荒れた感じです。ということは、あの構造物は山仕事の一環?
本丸跡
堀切
宇津城址から尾根沿いに関電の鉄塔付近まで来ると視界が広がります。木々の間に城跡がにゅっ。1579年の落城のときには、明智の軍勢の喚声を背に、この尾根筋を北に向かった者もいたことでしょう。というか、明智が来る前に退散していたとは思いますが。
この尾根道、綿毛を付けた草で覆われ、風が吹くと綿毛が一斉に舞い上がります。季節は全く異なりますが、何か風花を見ているみたい。
本日は、そのまま庄ノ谷に下りましたが、道はいよいよ「危険」になっています。関電の巡検路はもうズタズタ、ズルズルと土砂が谷に崩れ落ちます。これは下手な道造りをすると却って危なくなる証左でもあります。やはり山を知る地主さんたちが登る直登路が一番かなあ。
庄の谷の見事なる楓は、まだまだ青々としていました。これが赤く染まるときが楽しみです。そのときには必ず日高見峠まで行こうと思います。
8日には頼まれて弓削まで出向きましたが、ゼミハウスの紅葉も未だ早い様子でした。徘徊堂さんは、休日にふらりと宇津村城址へ登られたご様子。私が訪れたのはもう1年近くも前になりますか。確か、大楓が赤く色づいていたと記憶しているのですが・・・。
その後、主催者が下宇津の山に栃の実を蒔く企画を説明していましたが、その後どうなったのでしょうか。場所が栃本の山なら私も参加しようと思ったのですが、この考えは不純でしょうか・・・。いずれにしましても、その後も宇津城址へ登る人は滅多に無くて、登攀路(関電の工事路でしたが)も荒れる一方なのでしょう。
歴史的な講義を聴いても、私などは断片的にしか吸収出来ず、いつも申し訳なく思っております。宇津氏も近郊の農民にはかなり悪辣な行為に出たとの事。前にも書いたかも分かりませんが、その血縁か重臣に当たる子孫が苗字を変えた、とそのまた子孫から今では笑い話として話してもらったと、変えられた元の姓名のままの知人から聞きました。双方共よく知っていますが、どちらも(新旧共に)宇津の在所では中々の家柄です。
最近、京北トレイルの新コースが追加されました。紅葉の頃には、と思っているのですけれどどうなりますか。宇津トレイルエリアも計画にはある様ですが、完成はいつのことでしょうか。そうなれば、私は「宇津村青年団応援歌」でも歌いながら登りますか。
「人尾峠(ひとのお)貞任峠(さだと)に雲乱れ大堰川(おおい)の川瀬の水清し~」なかなか元気の出る歌です。
京北トレイル、周山城コースもさることながら天童山コースが楽しみです。ただ、これからは狂気の観光シーズンになりますから、JRバスもだだこみになることが予想されます。といっても、栂尾を越えたら一度に空くのですが、秋の内にということになると10月中でしょうね。ただ、小生と違って、朝一番のバスでもヘッチャラの道草様ですから、紅葉のシーズンでも大丈夫かも知れません。
周山城でトレイル部長に教わったのですが、周山城コースも山ビル危険ゾーンだそうです。落ちた杉の葉の下にいるとのことで、梅雨時は外さなくてはなりませんね。宇津城コースは地図に載せる程度で、トレイル部の方で整備していく予定は無いそうです。「あれは下宇津学の縄張りやー」と言っておられました。以前に、天童山から中江まで、地図に道が書いてあったので下りたのですが、道があるというのはウソでした(笑)。地図に道を書き入れていたのはトレイル部長だったということで、「こらっ!」と言うことができました。
宇津氏は光秀が来ると聞けばすぐに逃げたであろうとは高橋さんも講義の中で述べておられました。ゲリラ的に生きていた宇津氏ですから逃げるのも速かった(^_・)
脱線しますが、今日、中央大学の坂田聡氏編集の「禁裏領 山国荘」\13,650が漸く我が家に到着しました。直ぐに読みたいのですがイベントの準備で大忙しの為お預けでございます(*_*) この坂田教授、年に何回か我が職場をねぐらに山国のあちこちを調査されています。先生の成果をなんとか地元の人達の前で発表して貰える機会が作れたらいいのだがと思っています。一度京北の文化財を守る会がこの調査団の途中経過を聞く機会をつくって頂いて、そのことを我がブログでも報告しました。道草さまも参加されました。職場に来られた先生と少し話する機会もあり、もしかしたら近い将来、友の会だよりに先生の一文が載るかもしれません。
gunkanatagoさんもその徳丸氏は嶽山城を訪れた時に合われた、栃の木フォーラムを推進している徳丸氏、この夏の夕刻、彼と呑みながら話が弾んだ機会がありました。話していてなかなか面白い人物ですね。彼の活動をみるにつけ頭が下がります。貞任峠への登り道を整備したのも彼らの仕事でした。
表面的にみていると何もない様にみえますが、宇津を始め京北の歴史に入り込む意識をもっていると色々な姿が飛び出してきます。先日の周山城趾を高橋さんと訪れると、単なる石ころの塊から壮大な大手門が幻の様に浮かんできたり、天守の姿も浮かんできます。高橋さんと宇津城を訪れると宇津氏がどんな生活をしていたのか、など想像出来て楽しいものでした。
gunkanatagoさまはこれを毎週されている訳で私自身が触発されるこのブログは今我がアイディアの触媒的存在で感謝感謝でございます。今回は自然描写やトレッキングの楽しさにも触れられていましたしね(^_^)
丹波の山城や聞法寺などの山寺廃寺を探訪する事が出来たらという意識が私の中に高まりつつあります。そしてそれが、セミ・オタクを呼び込み我が職場で講座が出来れば社会に貢献できるのではないかとい意識も生まれています。
今回のトレイル部長さんを始め、徳丸さん、高橋さんも地域を学習する大きな手助けをしていただいている方々だと思っています。様々なことを知るにつけて人尾峠などは未だ未だ、あの峠を見張っていた人の念のようなものが残っているようなちょっと不可思議な感触も楽しんでおります。
宇津城址の八幡宮からの直登路に見られた丸太の構造物は、もしかしたら徳丸さん等が階段をつけるべく整備されているのかも知れませんね。ものすごい階段になると思いますが、多くの人に来てもらうには、それが一番安全だと思います。
山城、廃寺、丹波は魅力たっぷりですが、「京北の昔語り」をたよりに話の舞台を廻っていくのもいいなあと思っております。坂田先生の著作も楽しみですね。また色々なことをご教示下さい。周山城幻の大手門、本当にいいですねえ。
宇津城址の規模は周山より大分小さいのでしょうか?それでも石組みが残り本丸跡が認められ確かな過去が頭をかすめます。
子ども時代から、ついこの間まで宇津にこのような戦国山城があることなど知りませんでした。隣村として行き来は数えられない程していたのにです。今で云う宇津峡の東側辺りに我が山があり、筏を組んで流したと祖父から聞かされていました。
身近な所にこのような楽しみがあるのだな、とつくづく感じるこの頃です。
周山城は、思っていたよりもずっと広大でした。宇津城は、多分戦いに備えての城で、宇津氏の日常は麓の屋敷にあったと思います。嶽山城は完全に砦・見張り所程度のものです。
戦国時代には丹波の山という山は城塞化されていたようですね。以前登った大本がらみの丁塚山などにも山城はあったようです。これからマメに山城を探訪しましょう。八木城・八上城・黒井城を始としてですが、下から見上げるだけでも楽しいですね。
ささ舟様のふるさとの村にも、掘り起こしていけばワンサカと豊かな伝承があると思います。いま一つ気になっているものもあるのですが、これはちょっとオカルトですので、うかがっていいものかどうかというところです。今度お会いしたときに教えて下さいね。