9月の18日から19日にかけて、亀岡の篠村八幡宮で灯明祭が行われました。放生会の儀式の一環として実施されているとのことですが、18日の夕刻から19日の払暁まで、境内をライトアップしています。八幡さんのお社では放生会が重要な祭になりますが、これはいち早く仏教と習合した八幡神の性格を示すものでしょう。
篠村八幡宮は、前9年の役で活躍した源頼義が勧請したお社です。頼義は還暦を過ぎてからの延々とした戦いにほとほと嫌気を感じたのでしょうね。乱の後は、仏道三昧の生活に入ったようです。鎌倉の鶴岡八幡宮や、河内の壺井八幡宮など、頼義は各地に八幡さんを勧請しています。そういえば、宇津の八幡さんも頼義によって創建されたという伝承がありますね。
いずれにしても神仏への信仰心の篤い人物であったようで、長男義家は石清水八幡宮で元服して八幡太郎、次男義綱は賀茂神社で元服して賀茂次郎、三男義光は新羅明神で元服して新羅三郎と名乗っています。最近出版された元木康雄著・中公新書『河内源氏』によると、義家と義綱は河内源氏の嫡流を争ったということですから、もし、義綱が嫡流となっていたら、後世の源氏の守り神は賀茂神社の神様であったかも知れません。
勿論、賀茂神社に対する源氏の崇敬は極めて篤いのですが、それよりもさらに何か一大事の時は「南無、賀茂大明神」などと拝み、「南無八幡大菩薩」とは念じなかったかも知れないという意味においてです。義家と義綱の仲が悪かったことはよく知られていますが(源氏ですから(笑))、「嫡流」というものが、そのように不安定なものであったとすると、後代の頼朝やこの足利高氏を考えていく上でも考慮に入れなくてはなりません。
灯明祭の間は、神楽堂には斯様に麗しい活花が飾られています。見れば見るほど力作です。雄渾比するもの無しと申す処。「活花は清浄力だ!」とつくづく思います。
19日の朝方、ライトアップが終了した境内、雨が降っていることもあってか、人は誰もいません。まことに「いにしえを想う」には絶好のシチュエーション。東の鳥居から唐櫃越え方面の景色は、昔とほとんど変わっていないのではないかと思われます。
さて、この篠村八幡宮は足利高氏(北条高時の偏倚を受け最初は「高」、後に後醍醐帝よりその御名尊治の一字を賜る)が倒幕の兵を挙げたところとしても知られています。
1333年4月27日、高氏は老いの坂を越えて丹波に入りました。名目は船上山におられる後醍醐天皇追捕でありますが、既にこの時点までに後醍醐天皇の勅を受け、天皇方となっています。同日、高氏と同時に鎌倉幕府によって派遣された名越高家は久我縄手で戦死、この知らせは高氏にも届いていたことでしょう。
高氏はこの篠村で、結城宗広や島津貞直など遠隔地の武士たちにも援を求めています。このあたりは本当に用意周到です。この篠村に留まっていた間に近隣の武士たちが続々と駆けつけてきました。4月29日に八幡宮に願文を捧げ、矢を奉納。この時に従う武士たちが我も我もと矢を奉納したので、矢が積もり積もって山のようになったということです。この矢が奉納されていたところに今は塚ができていて、矢塚と呼ばれています。
大日本史料では同日、嵯峨に進出とありますが、太平記では六波羅探題が事実上滅亡した5月7日に高氏出陣となっています。いずれにせよ、この篠村八幡宮は足利氏が新しい時代を築いていく原点となったところと言うことになります。
ここで、先ほどの嫡流の話に戻りますが、源義家の子孫たる足利氏が久しく北条氏の下風に立っていることを無念に思っていて、高氏より3代前の家時などは「自分の子孫が天下を取れるように」と祈って自殺したとか、建武の中興後の足利と新田の争いに源氏嫡流のプライドが絡んでいたとかするのは、全て足利氏の幕府が成立したことによる後講釈で、加上である(また使っちゃった)と考えられます。
御本殿
常陸の佐竹氏(義光の子孫)なども嫡流を称していたことがあるようですし、嫡流というのは氏の長者であるしるしであるにせよ、おのおのが荘園を保有して自立している場合、「嫡流だから」その命に従わねばならぬと考えた武士は少ないのではと思われます。後代では、徳川氏(新田の子孫を称する)が源氏の氏の長者となり、征夷大将軍に任じられていますが、その時点で徳川氏が源義家嫡流となったということで、まあ、実力次第でどうとでもなるということです。
ならば、武士たちは自分たちの権利回復のために、どうして足利氏の下に集ったのかというと、鎌倉時代を通じて、足利氏が最大の御家人であり、広大な荘園を保有・管理していたということでしょう。鎌倉幕府執権家たる北条氏滅亡後は、足利氏が実力も財力もナンバーワンであったからです。
足利高氏がその紋所である二引両を染め抜いた源氏の白旗を立てかけた楊が境内の外にあります。ヤマナラシ、ハコヤナギ?以前に歩く植物図鑑から教わったのですが、忘れてしまいました。アカン弟子です。
約5千の軍勢で篠村に入った高氏の軍は、六波羅を攻めるときには一万5千に膨れあがっていたとのこと。亀岡盆地の各所で、木の上に翻る白旗を多くの武士どもが眺めたことでありましょう。
この日はもう2、3ヶ所丹波の古蹟を巡る予定でしたが、雨が強くなってきましたので、結局は園部のスーパーで清酒「長老」を買い求めて帰宅することとなりました。
高氏の願文は太平記で読むことができますが、一度神社に残っているというものを拝見したいものだと考えています。
篠村八幡宮は、前9年の役で活躍した源頼義が勧請したお社です。頼義は還暦を過ぎてからの延々とした戦いにほとほと嫌気を感じたのでしょうね。乱の後は、仏道三昧の生活に入ったようです。鎌倉の鶴岡八幡宮や、河内の壺井八幡宮など、頼義は各地に八幡さんを勧請しています。そういえば、宇津の八幡さんも頼義によって創建されたという伝承がありますね。
いずれにしても神仏への信仰心の篤い人物であったようで、長男義家は石清水八幡宮で元服して八幡太郎、次男義綱は賀茂神社で元服して賀茂次郎、三男義光は新羅明神で元服して新羅三郎と名乗っています。最近出版された元木康雄著・中公新書『河内源氏』によると、義家と義綱は河内源氏の嫡流を争ったということですから、もし、義綱が嫡流となっていたら、後世の源氏の守り神は賀茂神社の神様であったかも知れません。
勿論、賀茂神社に対する源氏の崇敬は極めて篤いのですが、それよりもさらに何か一大事の時は「南無、賀茂大明神」などと拝み、「南無八幡大菩薩」とは念じなかったかも知れないという意味においてです。義家と義綱の仲が悪かったことはよく知られていますが(源氏ですから(笑))、「嫡流」というものが、そのように不安定なものであったとすると、後代の頼朝やこの足利高氏を考えていく上でも考慮に入れなくてはなりません。
灯明祭の間は、神楽堂には斯様に麗しい活花が飾られています。見れば見るほど力作です。雄渾比するもの無しと申す処。「活花は清浄力だ!」とつくづく思います。
19日の朝方、ライトアップが終了した境内、雨が降っていることもあってか、人は誰もいません。まことに「いにしえを想う」には絶好のシチュエーション。東の鳥居から唐櫃越え方面の景色は、昔とほとんど変わっていないのではないかと思われます。
さて、この篠村八幡宮は足利高氏(北条高時の偏倚を受け最初は「高」、後に後醍醐帝よりその御名尊治の一字を賜る)が倒幕の兵を挙げたところとしても知られています。
1333年4月27日、高氏は老いの坂を越えて丹波に入りました。名目は船上山におられる後醍醐天皇追捕でありますが、既にこの時点までに後醍醐天皇の勅を受け、天皇方となっています。同日、高氏と同時に鎌倉幕府によって派遣された名越高家は久我縄手で戦死、この知らせは高氏にも届いていたことでしょう。
高氏はこの篠村で、結城宗広や島津貞直など遠隔地の武士たちにも援を求めています。このあたりは本当に用意周到です。この篠村に留まっていた間に近隣の武士たちが続々と駆けつけてきました。4月29日に八幡宮に願文を捧げ、矢を奉納。この時に従う武士たちが我も我もと矢を奉納したので、矢が積もり積もって山のようになったということです。この矢が奉納されていたところに今は塚ができていて、矢塚と呼ばれています。
大日本史料では同日、嵯峨に進出とありますが、太平記では六波羅探題が事実上滅亡した5月7日に高氏出陣となっています。いずれにせよ、この篠村八幡宮は足利氏が新しい時代を築いていく原点となったところと言うことになります。
ここで、先ほどの嫡流の話に戻りますが、源義家の子孫たる足利氏が久しく北条氏の下風に立っていることを無念に思っていて、高氏より3代前の家時などは「自分の子孫が天下を取れるように」と祈って自殺したとか、建武の中興後の足利と新田の争いに源氏嫡流のプライドが絡んでいたとかするのは、全て足利氏の幕府が成立したことによる後講釈で、加上である(また使っちゃった)と考えられます。
御本殿
常陸の佐竹氏(義光の子孫)なども嫡流を称していたことがあるようですし、嫡流というのは氏の長者であるしるしであるにせよ、おのおのが荘園を保有して自立している場合、「嫡流だから」その命に従わねばならぬと考えた武士は少ないのではと思われます。後代では、徳川氏(新田の子孫を称する)が源氏の氏の長者となり、征夷大将軍に任じられていますが、その時点で徳川氏が源義家嫡流となったということで、まあ、実力次第でどうとでもなるということです。
ならば、武士たちは自分たちの権利回復のために、どうして足利氏の下に集ったのかというと、鎌倉時代を通じて、足利氏が最大の御家人であり、広大な荘園を保有・管理していたということでしょう。鎌倉幕府執権家たる北条氏滅亡後は、足利氏が実力も財力もナンバーワンであったからです。
足利高氏がその紋所である二引両を染め抜いた源氏の白旗を立てかけた楊が境内の外にあります。ヤマナラシ、ハコヤナギ?以前に歩く植物図鑑から教わったのですが、忘れてしまいました。アカン弟子です。
約5千の軍勢で篠村に入った高氏の軍は、六波羅を攻めるときには一万5千に膨れあがっていたとのこと。亀岡盆地の各所で、木の上に翻る白旗を多くの武士どもが眺めたことでありましょう。
この日はもう2、3ヶ所丹波の古蹟を巡る予定でしたが、雨が強くなってきましたので、結局は園部のスーパーで清酒「長老」を買い求めて帰宅することとなりました。
高氏の願文は太平記で読むことができますが、一度神社に残っているというものを拝見したいものだと考えています。
祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后(河内の誉田八幡宮の御神霊をおうつしした)と縁起に伝えられているそうです。
足利尊氏がこの地を選んだのは京に近い地理的条件のほかに、尊氏の母、上杉清子の出身地が現代の綾部市にあたった為、丹波武士とは以前から縁があり、軍勢催促の呼びかけをしやすかったからでしょう。太平洋戦争の時、地元の兵士が矢塚に植えられている椎ノ木の枝をおまじないに懐に入れていったところ、戦没者が少なかったといわれています。
今は境内の外にある旗揚げの楊ですが、尊氏は旗色が悪くなると丹波に入り、態勢を立て直すことを繰り返えすのは、こうした縁からだったとか伝えられています。(テキストブックからカンニングしました)
>東の鳥居から唐櫃越え方面の景色は、昔とほとんど変わっていないのではないかと思われます。
私もここから見る景色がとても好きです。いっだったか、この辺りで唐櫃越えされてきた方にお会いしました。たいそうお気に入りのようでした。
何でも、上宇津八幡宮は郷社で下宇津は村社と仄聞した事がありますが、格式に差が在るのでしょうか。神吉八幡宮はささ舟さんのご親族が所轄されて居られる由緒ある氏様です。
なお、余談ながら、活花は清浄力かどうか、草月流なども活花ですし、私には理解不可能です。
いずれにしましても、亀岡の地が歴史上斯くも重要な要所を占めていた事実が良く分かりました。また、願文は神仏の前で神徳を讃えて願意を表する物で、その内容にほぼ偽りがなく、歴史研究上の貴重な資料となっている、と聞きます。神仏の御前では、人間は赤裸々に正直になる。これは古今を問わず(問う?)通じる事なのでしよう。
「秋の夜は南無長老大明神」道草。
誉田八幡宮のあるあたりこそ、源頼義の根拠地です。なぜ亀岡のこの地に勧請したのかという疑問は残りますね。
上杉氏、血脈はともかくとして上杉謙信から後も続きますが、その本貫地は丹波だったのですね。綾部には上杉町の地名も残るようです。
上桂あたりから唐櫃越えをしてきて、この神社に至る。いいルートですね。前に挑戦したときには王子に下りてしまいました。この神社から亀岡に至る道も古いものを残していて好ましいです。
活花、評価できる活花は、という意味ですよー。従って、某流や例のオカマの活けるものは活花に非ずというところです(爆)。正月に京都市内のホテルを廻ってロビーに活けられた大作を見て歩くと、かなり有名な流派のものでもお笑い以外の何ものでもないというのも目立ちます。
私はこの頼義はどうもけしからん奴だと思っているのです。その最たるものは経清の最期に及んでの振る舞いは武士としてあるまじきものであり怒りさえ覚えます。義家の行動はまだ義というものが感じられます。まあこれは「炎燃ゆ」の作者高橋さんの影響なのでしょう。
尊氏などの太平記の時代の複雑怪奇な歴史はどうも入りづらいですね。ただここ京北も常照皇寺の光厳天皇を語る時にこの時代を知らなければならず、避けては通れないとは分かっているのですが。こういった争乱の時代は、その乱世を生きて光を放った楠公など英雄の講談でも楽しんでいる方が気楽かな、という安易な気持ちにならないでもない。
近年の研究では、高橋氏が依って立っている「源氏陰謀論」はほぼ否定されています。源氏の関東進出といっても、その基盤は実に脆弱で、そのことは平治の乱の後に、関東の豪族達がほとんど平氏側に転じたことでも明らかです。義家の子孫云々は頼朝が幕府を開いた結果から導き出された説のようです。北条氏などが頼朝に味方した一番の理由は、兵士が新たに派遣した目代によって在庁官人としての自分たちの権利が侵害される可能性があったためであるようです。
太平記の時代は、確かにややこしいですね。それでも光厳上皇を始めとして、魅力的な人が多く生きた時代なので、嫌わないで下さい(爆)。足利尊氏なども、もう関東から九州まで、所狭しと活躍します。師匠に聞いたのですが、楠木正成は吹田あたりにあった荘園の公文であったとする説が最近有力だそうです。
経清の裏切りに関しては高橋さんは自分のストーリーでどう整合性を保つか苦慮されたのではないかと思います。安倍の血を絶やさないために臥薪嘗胆の想いを経清の妻に与えるというのも高橋さんのヒストリーの最たるものなのでしょう。私はその高橋氏の描き方に影響を受けての受け売りでしょうね(^_・)
先日職場の同僚が歴史小説を読んで、歴史って面白いなあ、学校時代なんで歴史の時間が楽しくなかったんやろうって呟いていたのが印象的でした。講談の世界云々って書きましたが、この時代は乱世を生きた個人を描く講談や小説で楽しむのが入り込むにはいいのかもしれません。
それにしても、参加されているお年寄り、歩みが遅いのは仕方がありませんが、皆さん元気で、好奇心も強く、我々もああいう風に年をとりたいものだと思いました。本丸から黒尾林道を一往復しましたが、行きしなには目で見ていても何も分からない、復路で説明を聞き、目からウロコが取れていく感じでした。トレイル部長さんも楽しい方ですね。皆さんが来られる前に夏ハゼの実をたくさん、アケビも食わしてもらいました。
周山ビールは、いよいよ寂しくなった感じですが、特別メニューとして「マイタケの天ぷら」を揚げてくれました。ビールは相変わらず美味かったです。「ここが無くなったらコマル人間が五万といてるので頑張って下さい」と励まさせてもらいました。
歴史は歴史小説で入り込むのが一番だと思います。教科書は面白くありません。そして同じ題材を扱った小説を読んでいくと、きちんと史実に基づいたものか荒唐無稽なものかも分かってきますし、作家のネタ本なども知れてきます。(信長関係では偽書である「武功夜話」をネタ本にしている人が多くいます。)そこからさらに信頼できる史料や古文書に入っていけたら一番いいと思います。
あと昨日の周山城のように、自分たちの身近なところの歴史を知ることは楽しいですね。中学を卒業するまでの日本歴史は基本的に郷土史であっていいと思うのですが、そればかりだと試験に対応ができないので、苦慮されている先生も多くおられます。教科書棒読みの教師は追放すべきですが(笑)。
今回の講座で下熊田から登るのは、登りが楽、城趾の西の遺構から主郭まで全てを見ることが出来るコース設定であり、専門家の案内があるという講座の品位の高さを自慢していましたが、誇張でもなく実際胸を張れる企画だった自負しています。
黒尾山への急登、ささ舟さまも挑戦され登頂されました。西の遺構の西端までお呼びした判断は正しかったと思っています。
今回高橋さんに指摘して貰うまで周山城の大手門を知りませんでした。天守の土台や大手門でもこの山城の雄大さを認識しました。
>トレイル部長さんも楽しい方ですね。皆さんが来られる前に夏ハゼの実をたくさん、アケビも食わしてもらいました。
お、車で来れたね、ゲート開いてた?って聞くと、車を指して、これ見たら分かるやろ、って答える様な性格もありますが、何に体を動かしているかを見るとやはり付き合い甲斐のある人物です。天真爛漫な人間だと思っています。これからも彼と色々仕掛けを作っていこうと思います。
昭文社の山の地図ですが、最近版の「北山」は彼も作成に関わっています。あの髭とヒップアップトラックが彼のトレードマークです。口の悪さにいちいち腹を立てず、何を言われても馬耳東風、行動で彼を判断していこうと思っています。
あれから羽田で地ビールというのは羨ましさの極地であります。私は皆さんを二条まで送り、8時まで仕事でした(*_*)今日はブログを巡れて気分転換が出来ています(^_・)
周山城祉でも言っておられましたが、丹波の黒井城を次の目標として計画を練りましょう。その前に八木城再訪と神尾山城に行かねばならないのですが、mfujino様のおかげですっかり山城ファンです(笑)。今まで、全く知らなかった分野ですので、思いきり勉強しなくてはなりませんが。
今回の企画は本当に胸を張っていただけるものと思います。高橋先生の説明も、色々と教えてあげようという親切心に充ちたものでした。中江城その他、第2弾をお願いします。
トレイル部長、おっしゃる通りの方ですね。またどこかでお目にかかれると思いますが、一度酒を飲むのも良いかも知れませんね。まともにかかったらこちらが死んでしまうので、秘密兵器を連れて行きます(爆)。