花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

午前は長岡宮、午後は久我徘徊

2011年05月02日 | 徘徊情報・山城国
 何で案内が来たのか解らぬ「渡来文化ネットワーク」、多分「西の鯖街道講座」の時に住所を書いたのでしょう。「長岡宮を案内するで、お出でなはい。」とのこと、折角ですから師匠と参加してきました。
 集合場所は向日市立文化資料館、90名もの人が集まったそうで、急遽2班に分けて行動開始です。今回は長岡宮を掘っている人が解説してくれるので色々と楽しみです。先ずは資料館の中で長岡宮(長岡京)についての概略を聴講します。784年、桓武帝によって都と定められた長岡京は、わずか10年でその使命を終えましたが、建設中の遷都にもかかわらず、宮中は概ね完成していたそうです。
 その後は外に出て、史跡を散策しますが、1つの班に文化資料館の職員が2名、「お守り」に付きます。解説を入れて3名です。まあ手をつないで2列縦隊に列ばせるわけにもいかず、管理という点では小学生よりも気を遣うでしょう(笑)。案内してくれるところは3年ほど前に回ったところですが、この間に随分と整備が進みました。
 最初は向日神社の裏手にある「元稲荷古墳」、3世紀の前方後方墳です。大和で箸墓古墳が造られたころとほぼ同時期、規模は箸墓の約3分の1、完全に邪馬台国大和説にたっての説明でしたが、この長岡丘陵に大和の勢力の3分の1ほどの力を持つ首長が存在し、何代かに渡って権勢を維持したこと、その後に権力は長岡京の恵解山古墳を造った勢力に移ったとの説明は実に面白く、高槻市の安満宮山古墳との関係なども調べてみたいところです。

          
          前方部への登り口

 古墳の木々、ナラ枯れ対策がしっかりと施されています。今回、全般に史跡を巡っても思ったことですが、「向日市、なかなかリッチやんけ。」と申す処。文化行政も行き届いている感じです。

          

 向日神社の中を通り抜けていきます。この神社は本来南に向いていたとのことです。豊臣秀吉が西国街道を整備したときに、どうやら西国街道から見て正面に来るように東向きになったということ、本当に豊臣秀吉はマメです。最近は、豊臣秀吉というと、ことさらに暗く暗く描くような風潮が跋扈していますが、これは韓国朝鮮への遠慮からでしょう。太閤の実像が表現できているとは思えません。解説の方が、もしも「朝鮮侵略」の如き言葉を使ったら直ちに抗議してやろうと思っていましたが、使われた言葉は「朝鮮出兵」、「朝鮮征伐」を勧める小生としては不満ですが、まあまあというところ。こんなことを考えているオッサンも混じっているのですから解説の方も大変です。

          

 向日神社の南からは天王山や男山がよく見えます。長岡京造営に際して下見をした役人も必ずこの場所に立ったとのことです。

          

          
          社家 六入部氏屋敷

 この六入部氏から出た曲直瀬道策は難波新地で新撰組に斬られています。まあ、神官が、その国学の素養から尊王論に傾くのは自然ですが、この家は尊王倒幕派だったのでしょうね。坂本龍馬もこの家には立ち寄っているようです。
 向日市には「大極殿」という地名が残ります。最初、大極殿跡と指定された公園、調査により本当の大極殿跡が見つかったので今は元大極殿公園ですが、どちらもすぐ近くです。

          
          元大極殿跡

          
          大極殿跡

 この大極殿跡も次の内裏跡も丘の上にあります。諸官司が立ち並ぶ様子も平城京や平安京とはかなり異なる景観であったと思われます。

          
          内裏跡での説明

 千二百年以前、まさにこの場所で桓武帝や高野新笠、藤原乙牟漏らが愉しく語らっておられて、その語らいがやがては恐怖と変わっていった。歴史の舞台に実際に立って息をするとやはり想像が広がります。
 最後は、最近整備された朝堂院跡です。向日市はこのように広い土地を手に入れて整備しているだけでなく、まだ周辺の土地もボチボチと買い増して調査を予定しているようです。京都市が平安宮祉の調査を殆ど行えていないのと好対照です。

          

 さて、本日の行事はここまでということで、お別れの儀式があったようですが、そろそろ「膳」の蕎麦が気になる時刻、行って食えなかったら悲劇だと、師匠とともにスタコラサッサと遁走します。もうこの渡来文化ナンチャラには参加しないと思うけど、解説の先生、ありがとうございました。
 朝堂院跡は阪急西向日駅のすぐ近く、石塔寺への道標も近くにあります。

          

 目指す「膳」は久我にあり、ここからは徒歩30分ばかりのところです。阪急西向日駅からJRの線路目指して下りていく辺りは鶏冠井(かいで)城跡でもあります。応仁の乱ではこの辺りも戦場となりました。

          
          この付近鶏冠井城跡

 JRの線路の下をくぐり、向日市の体育館に着きます。ここも長岡宮の遺跡です。この体育館もなかなかに立派、向日市はカネモです。

          

 国道171号線東土川といえば、京童にとっては「都の最果て」のイメージのあるところ、その東北隅に倉掛神社があります。ここで、もの凄い雷雨に遭い、しばし庇をお借りして雨宿りです。「儀式をサボツタ罰かな?」、「ちゃいまっせ。儀式をさぼらなければ道で雷に遭うところ。さぼって正解。」、世の中のことは自分に都合良く解釈することが元気に生きる秘訣です。

          

 向日神社の向日神といい、このお社の倉掛神といい、記紀の神話に登場しない神でいらっしゃるのは、まさしく土地の神である証しでしょう。東土川の小うるさい交差点のすぐ近くに森厳な空間があることに驚きました。
 もの凄い雨で池のようになった道路を歩いて、歩いて、歩いて、「膳」に到着です。師匠曰く「ここの蕎麦は多分ナンバー1やで」と。到着時、早くも普通の蕎麦は売り切れていました。粗挽き蕎麦を食いましたが、蕎麦の味が判らぬ小生でも「これはうまい!」、酒は英勳の純米酒のみですが、蕎麦味噌の焼いたのがアテに付いています。うれしいのは、そば湯のお代わりを勧められたことで、出汁も新しく用意してくれます。時々車では前の通りを行くのですが、ここにこんな名店があることは全く知りませんでした。

          

 さて、久我の散策です。先ずは久我神社、本来は鴨氏が居住していたところと見えて、御祭神には上賀茂・下鴨と同じ神も祭られています。神社の裏手にある2つの礎石、説明の石標には「臼」だとありました。

          

          
          
 ここからがお笑い、村上源氏久我家の墓所を探してグルグルグルグル、グルグルグルグル。「久我大臣の墓知りまへんか?」と訪ねるのですが、答えは「さあー?」ばっかり。このあたりは久我家の本貫地、久我通親の子である道元の誕生寺もあるのですが、もうそれどころではない。同じ場所を4度も5度も通って探しました。ヒントは新しい住宅に囲まれていること、蕎麦屋のご主人の「御旅町」の2つのみ。もう御旅町に関してはプロになりました。
 これは、最近この辺りに越して来た人はあかんぞということで、昔からこの地域に住んでいそうな人に的を絞りますが、なかなかそういう人は出てこない。けれども、ついに畑仕事に行くオバチャンを捕まえました。オバチャンは「ああー、聞いたことあるなあ、田圃の持ち主が売ってしもたけどなんか残っているはずや。」と自転車を降りて、近くまで付き合ってくれました。そして見つけたのは、建て売り住宅の間に挟まった1坪ほどの墓地、墓石は一つで「久我大臣の墓」とあるのみ、明治の建立ですが、この辺りに久我家で大臣となった通親を始めとする多くの人が埋葬されたのでしょう。通親は鎌倉初期の実力者です。急死しなければ、もっともっと知られた人物です。

          

 墓所は田となり、やがて建て売住宅に、通親も何もかも住宅の床の下。それにしても、墓所であることを知っていて平気で家を建てる業者、それを知ってか知らずか高い金を出して購入して住む人々、ちょっと感覚がわかりませんね。

             

 今回は誕生寺はパスして、菱妻神社へ。ここからはまさに神風連、神社詣での連続です。

          

 桂川の堤防は自動車がビュンビュン走ります。自分も普段走っているところ、以前に女性の死体が捨ててあったところ、今日はいい景色です。遠く愛宕、沢山、比叡、山々のパノラマです。さっきの雷雨は何やったんや。

          

 しばらくして、土手を下るともう一つの菱妻神社、ここには力石があります。最近の祥久橋の架橋工事で氏子にお金が入ったのでしょう。神社の石標は23年5月建立のもの、今はまだ23年4月、新しい上にも新しい(笑)。

          

          

 久世に入ってきました。久世といえば工業団地、人間の住む場所はないで等と思っていたのは偏見で、静かな良い住宅地もあります。写真は取り忘れましたが、木下神社にお参りし、西国街道に出ます。

          
          西国街道

 久世の大きな交差点の北西の隅に綾戸國中神社、小野郷の岩戸落葉神社と同じく、2坐の神様が一つになったものです。國中神社は、以前はこれから向かう光福寺にあったのですが、この地に移ってこられたということ。但し、廃仏毀釈とかその折ではなく、國中社の移動は随分と古いようです。この神社、祇園祭の久世駒形稚児を出すお社として知られています。
 この付近がかつての久世の中心と見えて、これは環濠の名残ではと師匠の弁。昨日もこの濠の横で信号待ちをしていたのに全く気づかぬ不出来な弟子。

          

          

 上がりは光福寺、平安京裏鬼門、蔵王権現を祭る珍しい寺で、道標にも漢字と仮名で蔵王堂と記されています。と軽く記していますが、仮名の方は師匠の悪戦苦闘がありました。開基は菅公怨霊伝説でも活躍する浄蔵、ということは桓武天皇による怨霊払いの装置ではないようです。寺に入るのに鳥居をくぐる辺りがかつての國中社の社地を示す証左かと思われます。久世六斎念仏が行われているお寺です。これはどうしても夏に再訪せねばならぬ。

          

           

 久世橋周辺も便利になりました。JR桂川駅(駅名に?なぜ久世だといけないのかな)、阪急洛西口駅が開業しているからです。以前にこの辺りにあった麒麟麦酒の工場内レストランに来たときには、駅までが遠くて遠くて歩いている内に酔いがスッカリと醒めたものです。ただ、この駅前には何にもありませんから、別の駅に移動して一杯です。それにしても、日が長くなりました。冬の徘徊に比べ、2時間は多くブラブラできる。暑くもなく寒くもなくビールも美味いし熱燗もうまい、結構な季節です。



 

          

 


6 コメント

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美味い蕎麦食べたい (mfujino)
2011-05-03 10:19:18
お、冬眠ならぬ花粉眠から明け徘徊シーズン再来ですね。オープン戦は長岡京ですか。渡来文化ネットワークはご推察のとおりでしょう。あの時の講演者井上満郎さん達のグループです。80名の参加者とはなかなかの盛況でしたね。

長岡京は我が里大いに関係がありその京跡を訪れたいのですがまだ果たせていません。ただ楓がきれいな光明寺や竹林の中を長野オリンピックの開会式をラジオで聞きながら東海自然歩道歩きをしたりと懐かしいところであります。これも地図を見る楽しみなのですが、新都をどこに築くか、古人がどの様に計画したのかを地図を見ながら楽しんでいます。なんで長岡やねん?と考えるに京都盆地やその南はまだ湿地帯も多くこの辺りが裏山の木を切れば良い訳で、淀川交通も利用でき、云々と考えますけどどうなのでしょう。

それにしても思うことは飛鳥の辺りを初めとした都を遷都をよくもあれだけ繰り返したものだと思います。淀川上流の宇治川や木津川流域で沢山の木を切り出した為淀川に砂が溜まり荒れてきたという話を聞きました。そして我が京北方面に目を付けて木材供給地としたと聞きます。

これを書き出したらきりがありません。気になるのはご師匠曰く一番美味いそば処「膳」であります。171沿線ですか?是非訪れたくなりました。
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春爛漫の徘徊記。 (道草)
2011-05-03 10:28:19
この案内状は私にも来ていました。不審に思いながら都合で参加しませんでしたけど、発信元はここだったのですか。あの時の「西鯖」の講演会は思い出しても腹が立ちます。パネラーの1人地元の元網元(元ばかりですが)のT氏が、「鯖みたいな儲からん魚を京まで運ぶ筈がない。甘鯛(グジ)を運んだはず。甘鯛は旨いでっせぇ」と言いました。成金の典型的な暴言(妄言)ではないですか。
怒り心頭の私は講演の後で質問しようとしていたら、時間が無いと打ち切りになりました。宇津村へは、若狭から鯷(ヘシコ)・塩鯖・丸干鰯・干鰈・鯣(スルメ)等々、庶民(貧民)の食べ物を背負って行商に来ていた事実があります。帰宅後、事務局へ投書しましたら、当たり障りの無い弁明の返答が来ました。講師のT氏へは不問だったと思います。折角、「西の鯖街道」を復活させようとする努力に、肝心の勧進元がこんな姿勢では前途多難(艱難)だと思いますが。
話が反れて申し訳ありません。長岡京・向日市は電車や車で素通りするだけの地域です。私の同級生(弓削に山林を持つ)が住宅会社(京都ではかなり有名なY木材)が手広く開発して、鶏冠井町を中心に何人かの同級生も住んでおります。ですから、風聞と通目だけながら比較的馴染みのある地域ではあります。しかしながら、今回の徘徊堂さんの徘徊で内実はその一端を知ったに過ぎません。中々に整備の行き届いた土地柄らしく、辛言居士の徘徊堂さんにしては珍しく賞言が多いのに、主催者も満足(途中遁走を知らないでしょうし)でしよう。
それにしても、T師は天才的食通(歴通は当然です)ではないですか。「膳」なる蕎麦屋を、地元に住む級友からも聞いたことがありません。思えば水臭い奴等です。しかし、一度は通わねばなりません。「蕎麦神社」が存在する位ですから、やはり古来の名産なのでしょうか。加えて、悪・・・ではなく善運強く、落雷にも遭遇せず英勲に遭遇されて何よりでした。
それにしても、地元民の人情も傍で見ていて(聞かされて)捨てたものではないようです。相当な善人か怖い者知らずか、その何れかか、何れにしても小母さんにほのぼのしました。
それにしても(三度ですが)桂川には女性の死体が埋まっていますか。その上流は更なる人情豊かな土地ですのに・・・。JRが久世より桂川を選んだのも、やはり風光と人情を期待したからかも知れません。遙か愛宕や比叡を望む辺りも、徘徊の日は桜はもう葉桜となっていたのでしょう。今年は一段と華やかな桜が愉しめました。
やはり、春を代表する桜花はどの種類でも素晴らしいです。それでも、自称桜通(確か東方の男)で、染井吉野は好きでない、などと間抜けな発言(愚言・保言)を弄する阿保も居りますが。何を言おうと(何も言わないでほしい)、花咲くもの(特に桜は)並べて宜しい。更に酒類は総て宜しい。長々とご容赦下さい。春爛漫の日の(雷雨のプレミアも有り)結構な探訪記でした。
余談ながら(並べて余談ですが)2日の京都文芸「柳壇」に初めて採用されました。川柳は初体験です。「震災の桜が希望を連れて来る」道草(笑禁)。
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長岡散歩如何ですか (gunkanatago)
2011-05-06 15:22:24
 mfujino様、コメントをありがとうございます。遊び呆けていて(笑)、お返事が遅くなり申し訳ありません。
 機会がありましたら、長岡散歩はいかがでしょう。長岡宮関連史跡の他に乙訓寺などもブラブラして、可能であればサントリーのビール工場見学というのもいいかもしれません。
 本当に随分と手間暇をかけて遷都をやったもんだと思います。長岡京が10年で捨てられた理由として、治水問題や怨霊説の他に満郎さんが提起している説が有力だと解説の人は言っていましたが、本人もいましたので、まあこれは外交辞令かなと思います。4日には再び難波の宮にも行ってきました。
 膳は、府道?123号線、久我の交差点から菱川に抜ける途中、桂川右岸で桂川に最も近い道にあります。駐車場もありますが、そこへの進入口が狭いのでお勧めできません。林道慣れしておられるmfujino様にとっては楽勝かも知れませんが。本当は2種類の蕎麦を同時に出してくれるとのことです。
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膳はお勧めです (gunkanatago)
2011-05-06 15:34:06
 道草様、コメントをありがとうございます。また、返事が遅くなり申し訳ありませんでした。4日は新世界と十三のダブルヘッダーをやり、なんやかやと飲み歩いて降りました。
 膳は、英勳もあるのでお勧めです(笑)。道草様の便を考えると、中書島あたりから長岡京まで横断するバスは無いかな?と思います。久我橋を西に渡ってすぐに南に向かえば10分ほどです。長岡京市からは1時間に1本バスが出ているとのことです。また詳しく調べておきます。
 ソメイヨシノがどうのこうのという人がいるのですね。それはただの理屈いいで、本当の桜好きではないのでしょう。松平定信のツメのあかを飲まさなくてはなりませんね。小生はソメイヨシノも美しいと思います。まあ、リアリティゼロの人ですから、あまりお腹立ちなさらないようにして下さい。7月初にみんなで美山の枕川楼の前に列んでお迎えしましょうか(爆)。
 桂川の土手には女性の死体が遺棄されていました。最近では宇治川の土手にも…、大事なことはどんどんと忘れるのに、こういうことは場所もきちんと覚えている、これはなかなか不幸なことだと自分では思っています(笑)。
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旧乙訓・・・ (ささ舟)
2011-05-08 14:44:32
先日(6日)に長岡天神の真っ赤なキリシマツツジが放映されていました。私が京都近郊の中でもっともトンチンカンな知識しかないところが旧乙訓郡です。長岡京市や向日市のことを今でもつい、乙訓と云ってしまいます。今は西京区に吸収された大原野村の花の寺(勝持寺)や大原野神社は初○ートの場所でしたし、国鉄向日町駅と大原野との間に馬車が通っていた話は聞いたことがあり鄙びた所だったのですね。私は大山崎の狭い街道筋の民家が好きです。誰かの本に出ていた「鞘当て」。「こりゃ当たるワイ」何て思いながらふらっと歩きます。
去年は業平忌に十輪寺へ行きました。あの辺り西山に食い入ったように幾つものお寺がありますね。
久我神社が南区か伏見区かまるでわからないのです。昔住んでいた紫竹にも久我神社がありました。
亀岡から名神に乗る時は久世橋を渡ります。そんな時しかこの辺りを通ったことがないのです。車の便があるとき「膳」に行って見ますね。滅茶苦茶なコメントでご免なさい。
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大原野 (gunkanatago)
2011-05-09 13:09:28
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。大原野に初デートに誘うとはご主人の深謀遠慮ですね。本当は山登りに連れて行きたいけれど、女の人がそれを好むかどうかわからない、けれども自分としては山歩き、野歩きのすばらしさを伝えたい、となると微妙なところで大原野というのはいいですね。小生もこの催しに参加して、この方面に来るなら次は大原野まで歩いてみたいと思いました。
 「膳」ですが、このところ毎夜その前を通っています。店の前にパーキングがあるのですが、そこに行くのは軽自動車しか難しい感じがします。元々は久我村の集落内の小径だと思われます。長岡京市辺りからバス・タクシーが正解かと思います。帰りは店の方で呼んでくれると思います。
 先ほど、師匠から大阪の「た○ま」の情報が入りました。「全然アカンとはいわんが、代金相当のものではない」という評価でした。やはり「膳」がいいとのことでした。
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