京街道、山科の追分~大坂の高麗橋間は、師匠は完歩されていますが、小生は未だ歩いていないところがあります。師匠による案内の徘徊、本年は、京街道を何回かに分けて歩く計画を立てておりますので、事務局長としてもちょっと下見をしておこうと八幡市に出かけました。本来ならばここから伏見まで歩くつもりだったのですが、かなりきつい雨が降っています。ここから淀までは本当に何もないということを知っていますので、本日は京街道は取りやめ、八幡の徘徊に切り替えました。トップの写真は駅前の運河、右手に見えるのが石清水八幡宮のある男山です。
如何に有名どころ外しが好みとは言っても、この距離ですから八幡宮は外せません。けれどもその前に平地部をウロウロします。先ず最初が「飛行神社」、早すぎた飛行機研究者とも言える二宮忠八が、その晩年に自宅に開いた神社です。二宮忠八は伊予の八幡浜の出身ですが、晩年はこの八幡市に住んだのですね。余程に八幡さんに縁のある方だったのでしょう。
神社は正面に交野の磐船神社から勧請した饒速日命を第一殿に祀ります。これは饒速日命が天の磐船に乗って高天原から飛来されたという先代旧事本紀の記事から飛行神社の御祭神にふさわしいと忠八翁が考えたからでしょう。第二殿には武田長兵衛、田辺五兵衛、塩野義三郎等の人々、ヌヌヌ、これは道修町の薬屋さんですね。調べたら忠八翁は大日本製薬に勤めていたということです。その間にお世話になった会社関係の人を律儀にお祀りしたのでしょう。そして第三殿には航空殉難者の方々をお祀りしています。忠八翁は昭和11年まで存命でしたから、晩年は航空産業の発展をしっかりと見ている訳です。と同時にその過程で多くの人が命を落としていることに対して何か出来ることはないかと考えたのでしょう。
確かに戦闘機の開発についての話を読んでいても多くのテストパイロットが命を落としていることに気がつきます。境内には千葉の木更津港から引き上げられたゼロ戦のプロペラも置かれていましたが、その曲がり具合が本当に痛々しい感じです。
飛行神社の次は淀屋辰五郎の屋敷跡です。淀屋橋に其の名を残す淀屋は大名貸しなどで財を築いたのですが、余りにも巨大になりすぎたため(多くの大名に金を貸しすぎたため)、下らぬことで因縁を付けられて闕所処分となりました。さすがに幕府も寝覚めが悪かったのか、家康の100回忌にかこつけて八幡の山林を返還したことが、辰五郎がこの地に住むきっかけとなりました。
淀屋の屋敷跡にほど近いところに単伝庵、落書き自由の大黒堂で売っている寺です。本日は大黒堂は閉まっていました。
大黒堂
門を入ったところには連理地蔵、[おや、誰ぞの心中話でも伝わるのかな。]と思いましたが、石に二体の地蔵さんが並んで彫られているところからきた名だそうです。
連理地蔵堂
しばらく進むと念仏寺と正福寺がはすかいに向かい合って建っています。両方共に浄土宗の寺、こういうのは少し珍しいのではないかと思います。念仏寺は空也の開基とのことです。
念仏寺
正福寺
道が木津川にぶち当たるドン突きのところには薬圓寺、瑠璃光山という山号からも薬師如来が本尊と分かります。
堤防の近くには大きな排水場がありました。ここいらは三川合流地帯ですから、その昔はジュクジュクのデルタ地帯であったことが分かります。巨椋池の干拓と並んで、このような設備が造られて耕作地を広げていったのでしょうね。
記念碑
木津川の土手に出ました。本日は遠くは見えません。まあ今の時期は晴れていても黄砂の影響で眺望は期待できませんね。思わぬことに、この土手で鶯が鳴いているのを聞きました。今春になって初めてのことです。初鳴きとするにはかなり上達しています。葦の枯れた茂みの中で鳴いていて姿を見ることは出来ませんでした。
土手から下りて市内を目指します。今改めてこの辺りをウロウロとして、八幡も運河の町なんやということに気付きました。
少しずつ、男山が近づいてきます。参拝まで今暫くお待ち下さいねと申す処。
小野朝風塚は本当に民家密集地のただ中にありました。小さな五輪塔です。朝風が昵懇にしていた女をふったところ、女は川に飛び込んで死んでしまいます。反省した朝風も亦自殺したという話が伝わっているとのことです。写真はその墓地への道標です。女の墓は女郎花の松花堂庭園にあります。この女郎花という地名そのものが薄幸の女の名からきているようです。写真は朝風塚へいざなう道標であって、塚ではありません。
公民館の前には正平合戦の記念碑の他に、金剛律寺故祉碑、東高野街道の碑、さらにはアンネ=フランクにゆかりのバラまでありました。右の方に見えている小さな白い四角形がアンネの写真です。正平合戦というのは観応の擾乱の過程で、足利尊氏と結んだ南朝方が尊氏が弟の直義を討つために京都を離れた時に盟約を破って京都回復を狙い、後村上天皇ご自身が石清水八幡宮に陣を構えた時のことをいいます。一時期は京都を回復しましたが、結果としては陣を立て直した尊氏の息子の義詮によって男山は陥落、南朝側はとらえた北朝の光厳上皇らをそのまま吉野に拉致してしまいます。後に吉野から解放された光厳上皇が京北に来られて常照寺を開かれたことはよく知られていますね。
東高野街道に出たところに三宅安兵衛さんの遺志碑、さらに山の方に進むと折れた道標がそのまま並べられていました。「山へ登るこそ本意なれ」とそのまま真っ直ぐに山を登ろうと思いましたが、土砂崩れで通行止めになっていました。
今しばらく山麓をウロウロすると。寝物語の碑がありました。中山道の今須宿に伝わるものとは話が異なるようですが、碑の横の細い水路といい、感じはよく似ています。中山道の方は美濃と近江の国境となりますが、こちらの側はどこへ行っても山城の国です。
ここから表参道を目指します。途中には再び正平合戦の碑、松花堂の故地を過ぎればすぐに登りになります。
松花堂故地
表参道
さすがに本日は徒歩で登っている人は誰もいない感じです。参道には赤い椿がポロポロと落ちています。途中の茶店、猫がたくさんいるので気に入っていて、うどんでも食おうと思いましたが、火を落としています。
石清水八幡宮には何人かの参拝者がおられましたが、それも数えるほど。神社は第1期の修理が終わって随分ときれいです。
参拝後は裏参道を下りようと思ったのですが、こちらも土砂崩れで通行止め。少々の土砂崩れならば全然平気なのですが、工事のおっさんがたくさんいるので侵入できません。仕方なくもときた道を戻れば麓には相槌神社、文字通り鍛冶屋の神様であるようで三条小鍛治の名があったことでも分かりました。
相槌神社
東高野街道がどこを起点としているのかというか、起点に表示があるのかどうか確かめようと思い、境内を通らなかったので、今回は高良社などはパスです。どうも東高野街道の碑はこれが一番西ということになりそうです。その横にはまたまた遺志碑。
一の鳥居の前にも立派な遺志碑がありました。写真を取り忘れたのが1つありますので、安兵衛さんの遺志碑は本日は4つ見たことになります。
境内でうどんを食い損ねたことで腹が減ってきました。八幡市駅から電車で楠葉に行きます。名前は知らないのですが、「するめのてんぷら」を出す店があります。この店は開店直後に入った時には、「するめのてんぷら」は全然ダメでした。今回、久しぶりに注文したところ、やはり精進されたのでしょうね。十分に合格点を出すことが出来るものに変貌していました。「男子三日会わざれば刮目して見よ。」ちゅうやつでんな。
如何に有名どころ外しが好みとは言っても、この距離ですから八幡宮は外せません。けれどもその前に平地部をウロウロします。先ず最初が「飛行神社」、早すぎた飛行機研究者とも言える二宮忠八が、その晩年に自宅に開いた神社です。二宮忠八は伊予の八幡浜の出身ですが、晩年はこの八幡市に住んだのですね。余程に八幡さんに縁のある方だったのでしょう。
神社は正面に交野の磐船神社から勧請した饒速日命を第一殿に祀ります。これは饒速日命が天の磐船に乗って高天原から飛来されたという先代旧事本紀の記事から飛行神社の御祭神にふさわしいと忠八翁が考えたからでしょう。第二殿には武田長兵衛、田辺五兵衛、塩野義三郎等の人々、ヌヌヌ、これは道修町の薬屋さんですね。調べたら忠八翁は大日本製薬に勤めていたということです。その間にお世話になった会社関係の人を律儀にお祀りしたのでしょう。そして第三殿には航空殉難者の方々をお祀りしています。忠八翁は昭和11年まで存命でしたから、晩年は航空産業の発展をしっかりと見ている訳です。と同時にその過程で多くの人が命を落としていることに対して何か出来ることはないかと考えたのでしょう。
確かに戦闘機の開発についての話を読んでいても多くのテストパイロットが命を落としていることに気がつきます。境内には千葉の木更津港から引き上げられたゼロ戦のプロペラも置かれていましたが、その曲がり具合が本当に痛々しい感じです。
飛行神社の次は淀屋辰五郎の屋敷跡です。淀屋橋に其の名を残す淀屋は大名貸しなどで財を築いたのですが、余りにも巨大になりすぎたため(多くの大名に金を貸しすぎたため)、下らぬことで因縁を付けられて闕所処分となりました。さすがに幕府も寝覚めが悪かったのか、家康の100回忌にかこつけて八幡の山林を返還したことが、辰五郎がこの地に住むきっかけとなりました。
淀屋の屋敷跡にほど近いところに単伝庵、落書き自由の大黒堂で売っている寺です。本日は大黒堂は閉まっていました。
大黒堂
門を入ったところには連理地蔵、[おや、誰ぞの心中話でも伝わるのかな。]と思いましたが、石に二体の地蔵さんが並んで彫られているところからきた名だそうです。
連理地蔵堂
しばらく進むと念仏寺と正福寺がはすかいに向かい合って建っています。両方共に浄土宗の寺、こういうのは少し珍しいのではないかと思います。念仏寺は空也の開基とのことです。
念仏寺
正福寺
道が木津川にぶち当たるドン突きのところには薬圓寺、瑠璃光山という山号からも薬師如来が本尊と分かります。
堤防の近くには大きな排水場がありました。ここいらは三川合流地帯ですから、その昔はジュクジュクのデルタ地帯であったことが分かります。巨椋池の干拓と並んで、このような設備が造られて耕作地を広げていったのでしょうね。
記念碑
木津川の土手に出ました。本日は遠くは見えません。まあ今の時期は晴れていても黄砂の影響で眺望は期待できませんね。思わぬことに、この土手で鶯が鳴いているのを聞きました。今春になって初めてのことです。初鳴きとするにはかなり上達しています。葦の枯れた茂みの中で鳴いていて姿を見ることは出来ませんでした。
土手から下りて市内を目指します。今改めてこの辺りをウロウロとして、八幡も運河の町なんやということに気付きました。
少しずつ、男山が近づいてきます。参拝まで今暫くお待ち下さいねと申す処。
小野朝風塚は本当に民家密集地のただ中にありました。小さな五輪塔です。朝風が昵懇にしていた女をふったところ、女は川に飛び込んで死んでしまいます。反省した朝風も亦自殺したという話が伝わっているとのことです。写真はその墓地への道標です。女の墓は女郎花の松花堂庭園にあります。この女郎花という地名そのものが薄幸の女の名からきているようです。写真は朝風塚へいざなう道標であって、塚ではありません。
公民館の前には正平合戦の記念碑の他に、金剛律寺故祉碑、東高野街道の碑、さらにはアンネ=フランクにゆかりのバラまでありました。右の方に見えている小さな白い四角形がアンネの写真です。正平合戦というのは観応の擾乱の過程で、足利尊氏と結んだ南朝方が尊氏が弟の直義を討つために京都を離れた時に盟約を破って京都回復を狙い、後村上天皇ご自身が石清水八幡宮に陣を構えた時のことをいいます。一時期は京都を回復しましたが、結果としては陣を立て直した尊氏の息子の義詮によって男山は陥落、南朝側はとらえた北朝の光厳上皇らをそのまま吉野に拉致してしまいます。後に吉野から解放された光厳上皇が京北に来られて常照寺を開かれたことはよく知られていますね。
東高野街道に出たところに三宅安兵衛さんの遺志碑、さらに山の方に進むと折れた道標がそのまま並べられていました。「山へ登るこそ本意なれ」とそのまま真っ直ぐに山を登ろうと思いましたが、土砂崩れで通行止めになっていました。
今しばらく山麓をウロウロすると。寝物語の碑がありました。中山道の今須宿に伝わるものとは話が異なるようですが、碑の横の細い水路といい、感じはよく似ています。中山道の方は美濃と近江の国境となりますが、こちらの側はどこへ行っても山城の国です。
ここから表参道を目指します。途中には再び正平合戦の碑、松花堂の故地を過ぎればすぐに登りになります。
松花堂故地
表参道
さすがに本日は徒歩で登っている人は誰もいない感じです。参道には赤い椿がポロポロと落ちています。途中の茶店、猫がたくさんいるので気に入っていて、うどんでも食おうと思いましたが、火を落としています。
石清水八幡宮には何人かの参拝者がおられましたが、それも数えるほど。神社は第1期の修理が終わって随分ときれいです。
参拝後は裏参道を下りようと思ったのですが、こちらも土砂崩れで通行止め。少々の土砂崩れならば全然平気なのですが、工事のおっさんがたくさんいるので侵入できません。仕方なくもときた道を戻れば麓には相槌神社、文字通り鍛冶屋の神様であるようで三条小鍛治の名があったことでも分かりました。
相槌神社
東高野街道がどこを起点としているのかというか、起点に表示があるのかどうか確かめようと思い、境内を通らなかったので、今回は高良社などはパスです。どうも東高野街道の碑はこれが一番西ということになりそうです。その横にはまたまた遺志碑。
一の鳥居の前にも立派な遺志碑がありました。写真を取り忘れたのが1つありますので、安兵衛さんの遺志碑は本日は4つ見たことになります。
境内でうどんを食い損ねたことで腹が減ってきました。八幡市駅から電車で楠葉に行きます。名前は知らないのですが、「するめのてんぷら」を出す店があります。この店は開店直後に入った時には、「するめのてんぷら」は全然ダメでした。今回、久しぶりに注文したところ、やはり精進されたのでしょうね。十分に合格点を出すことが出来るものに変貌していました。「男子三日会わざれば刮目して見よ。」ちゅうやつでんな。
船場センタービル、日曜日は完全に閉まっていますね。祭日は開いているところもあるようです。「付け麺」、出汁に鳥が使ってあれば師匠も小生もアウトです。付いているするめ天にはむちゃくちゃ興味があります。
京街道歩き、一回目は追分からになるかなと思いますが、mfujino様のご予定を予め教えて頂ければありがたいです。追分からだとやっぱり中書島の黄桜かな、高麗橋からだと守口辺りになるかなと思っています。
「飛行神社」「寝物語」「淀屋」の話などに興味深く読ませて頂きました。
私が大阪へ出て驚いたのは、紅ショウガの天ぷら、ご飯とうどんとの組み合わせ昼飯メニューとこのスルメの天ぷらでした。けつねうどんとバッテラの組み合わせ昼飯は田舎に帰っても懐かしいメニューです。船場センタービル地下の大名そばは我がお気に入りではありましたが、そのつけ麺にはスルメ天というのが伝統だったのですが、食材が高騰したときサツマイモ天に替えたところ、もう行かん、という客が増えた様でしばらくすると元に戻したことがあったなあ、と思い出しました。ここは日曜日はやってませんので一度師匠にここのつけ麺を食して貰い評論して貰おうかな(^_・)夜は夜ででっか~いだし巻きも出てくるし紹介したい店なんですがね。
京街道歩きですが、こうなりゃ私が先に予定を入れておき、このうちから選んで催行日を決めてくれって事務局長に談判しようっと。
以前はケーブル前の茶店付近から山川合流地が望めましたが、今はどうなっているか確かめていません。木津川・宇治川・桂川に加えて、水無瀬川も流れ込みますから本当は四川合流地です。桂川と宇治川の間の長い堤が八幡の桜の新名所になっています。
京街道、小生も楽しみにしております。また、よろしくお願いします。
京街道楽しみにしております。
忠八翁、飛行原理の発見はライト兄弟よりも古いという旨のことが飛行神社の解説にあったように思います。八幡の名にふるさとの八幡浜に通じるものを感じていたのかも知れませんね。
鶯は、この日に河原で聞いたのが初聞きでした。昨日は池田の五月山で聞きました。なかなか姿を見ることはできませんね。石清水八幡宮、これだけ人がいないのも珍しいです。
京都の八幡に移り住んだのは、出生地と同じ名称に惹かれたのでしょうか。幼稚な質問でお恥ずかしい次第ですが。何にしましても、ゼロ戦の話は悲惨なものが多い様です。
それに、淀屋辰五郎ですか。八幡には、昔はかなりの人物が住んで居たのですネ。加えて、落書き自由の寺なんて太っ腹ですし。
桂川・宇治川・木津川の合流地点は、昔は毎日の様に車窓から眺めていました。その土手で鴬が鳴いているとか。今年は我が家の近辺では、全くその鳴き声が聞かれません。理由は不明ですが、淋しい春です。
大きな川が3つも流れていて、更に運河まで張り巡らされて、かつての八幡は一大穀倉地帯だったのでしょうか。女郎花の語源になった女郎が飛び込んだのは、どの川なのでしょうか。
まあ、アンネの薔薇にはやや違和感がありますが、東西の薄幸の女性に因む花があるのも、何かの縁なのかも。
いずれにしましても、こんなに静かな石清水八幡宮は珍しいのかも知れません。最後は、精進の跡著しい好物にも巡り合われて何よりでした。