本日は、師匠の案内で新撰組の屯所の変遷に沿って徘徊をします。近年のブームもあって新撰組の研究は随分と進んでいる感じですが、小生の知識は子母澤寛の「新撰組始末記」からは殆ど進展がありません。
四条大宮から大宮通を北上、六角通を西に行くと「六角獄舎跡」、幕末でいえば、生野の変の平野国臣や池田屋事件のきっかけを作った古高俊太郎らが蛤御門の変のどさくさに紛れて処刑されたところ、それより少し前には山脇東洋によって本邦初の観臓(腑分けされた内臓を観察する)が行われたところです。今は大きなマンションがいくつか建っています。
獄舎跡にほど近いところに武信稲荷、坂本龍馬の妻「龍」の父は一時期六角獄舎に収容されていました。龍は度々父の収容されている獄舎前をうろうろしたであろう[しなかったかも]。龍馬もともに来たこともあるであろう[来なかったかも]。お尋ね者となった龍馬が龍に神社の榎木に「龍」の字を彫って自分の無事を知らせたこともあるだろう(アカンやんけ)、…ということで龍馬と龍の密会の場として有名になっています。
泥足地蔵善想寺が途中にある
実際には、龍馬と龍の出会いは龍の父が死んだ後らしいので、熱海のお宮の松の如きもので、小説や何かの創作がこの話のネタになっているものと思われます。幕末を題材とする小説などは司馬遼太郎の一連の作品以外は読んだことがありませんから、どなたか御存じの方はご教示下さい。
このことばかりで有名になっている神社ですが、神社自体は藤原良相が建立したということで、六角獄舎などよりも随分と昔からあるお社です。
斜めに走る後院通を越えて、坊城通を南下、四条通を渡ったところに元祇園梛神社、現在は四条通の北にあった隼神社もここに移ってきておられます。この神社の名称は大いに興味が湧くところですが、また後日のこととします。御祭神は経津主神、本来は物部系、さらに中臣・藤原系へと継承された武神です。
八坂神社に播磨の広峰明神(牛頭天王)を勧請した時に、その神輿が最初に留まられた場所ということです。となると石清水八幡宮における山崎の離宮八幡宮みたいなところかな。
隼神社
梛神社
文化年間の燈籠
そのまま坊城通を下がれば1863年3月から65年3月までの約2年間、新撰組の屯所であった前川邸です。
関東で募集した浪士団を泊める場所として屋敷を開放したのですが、ひさしを貸して母屋を取られる何とやら、結局新撰組が去るまでは家族は別のところで暮らしたということです。
この2年の間には隊士が切腹したり、庭で暗殺があったり、土蔵で拷問が行われたり、まあ「たまらんなあ!」ということがワンサカあったのですが、壬生を去る時に置いていった迷惑料は10両(笑)であったということです。以前の椿の本陣御当主のお話、「大名が本陣を利用しても、その宿泊料は微々たるもので本陣は何か副業がなければやっていけない」、に通じる話です。
ところで、ここで山南忌なるパンフレットが配布されていて、新撰組個々の隊士への傾注というか人気というか、それが大きなことを改めて知ったのですが、山南が切腹した部屋など、切腹後の始末はどのようにしたのでしょう。流れ出る血の量は半端なモノではないでしょうし、その他の汚物も含めてサッサーと濡れ雑巾で拭くだけだったのでしょうか。それとも現在のホテルが自殺者の出た部屋はそうするという畳から何から全部取り替えるということをやったのでしょうか。
近藤や土方が実際に寝泊まりし、芹沢鴨暗殺が行われた八木邸は何か奇麗に整備されていました。
八木邸
すぐ近くが壬生寺、新撰組の隊士も随分と葬られた寺です。壬生狂言も有名ですね。小生はこの狂言を未だ見たことはないのですが、神泉苑狂言を何度か見せてもらった感じでいくと、やはりおもしろそうです。
狂言の舞台
境内一夜天神
それにしても、このすぐ近所の新徳禅寺が浪士隊を発案した清川八郎が幕府を裏切り浪士隊を尊王攘夷運動の魁とするという演説をした場所であるとは知らなんだー。この裏切りが原因で清川八郎は江戸で暗殺されます。
坊城通をずっと下っていくとその名もめでたい福神社、そして京都の遊里ナンバーワンであった「島原」、新撰組の面々も大いに羽を伸ばしたところです。
福神社
大門
輪違屋
街は、舗装も新しくなり随分と整備されました。輪違屋は現在なお太夫をかかえているということです。けれども各地の旧赤線に現在なお見られる猥雑さというか、ずばり非合法活動は全く無い感じです。「格が違います」と言われればそれまでですが。
角屋
平安京の昔には、この辺りには外国の賓客を接遇する東西の鴻盧館がありました。現代の迎賓館ですね。福岡の平和台球場の下から出てきた鴻盧館は有名ですね。渤海からの使いなどは10年に1度ねという約束も守らずしょっちゅう来るものですから、朝廷としては体面上は嬉しいが現実には随分と困ったようです。
東鴻盧館跡
島原の西門は輪禍により破壊されたとありますから、自動車が突っこんだのでしょう。近くに住吉さんが祀られ、境内には天明年間の石碑があります。読めません(泣)。
七条通に出て、西にしばらく行くと「是より洛中」のレプリカ。無いよりはずっと良いのですが、もう少し忠実に造ったらどうでしょうか。碑文によれば荷馬に乗ったまま街中に入る横着者が多かったようですね。
西鴻盧館跡
いつもはコンビニのおにぎりなどで済ますのですが、洛中ということで本日はしっかりと昼飯を食います。この村上食堂のおかず、自分で好きな皿を採るのですが、なかなか美味くて、「師匠、最後の酒をここで飲むのもいいですね。」「そうやなあ。」等と言っていましたが、土日祝日は午後2時までということで残念でした。
七条通を渡って権現寺、入り口近くに源為義の墓があります。保元の乱の時に息子の義朝に斬首された不運の武将です。そもそもの不幸は息子がうだつの上がらぬ父を見捨て独自の活動を始めたところから始まった。義朝は弟で木曽義仲の父である義賢なども息子の義平に殺させていますし、為義に味方したその他の弟たちも皆殺しですから、現代の親子感覚を以て往時を語ることはできません。平治の乱を無事に生きのびたとしても、今度は息子の義平(嫡流は頼朝に決まっていたから義平は独自の活動をする必要があったと思われる)あたりにやられていたかも知れません。頼朝は義経を殺した等と批判されますが、源氏にあっては母が違えば他人も同然などなど、ついつい好きなもので長口舌となりますが、1万字の壁が立ちはだかりますので次に進みます。
この辺りに松尾神社の御旅、おお、もはや松尾さんの縄張りになるのか。梅小路には懐かしい二条駅舎が保存されています。JRの官舎、番号にいちいちJRと入っているところが面白いですね。
龍谷大学の大宮学舎は一見の価値有りです。こんなに麗しい学舎なのに、龍大の教師には気違いが多いのは何故なのでしょうね。まあとにかくマッカッカ。
門衛所
反日の牙城たる西本願寺ですが、アカ坊主どもには勿体ない文化財が多くあります。豚に真珠、猫に小判とはこのことをいう。もちろん、アカ坊主どもに比べれば豚や猫は罪のないものですが。
唐門(伏見城の遺構)
来年の干支?もしかして麒麟かな?
ここで一旦南下します。堀川通から斜めに入る道は堀川の河道跡です。この下を今も川が流れているようです。
梅小路小学校の西側に「芹根水」と松下烏石「文房四神」の碑、この辺りに京都七名水のひとつがあったとのことです。文房四神とは筆と硯と紙と墨を表すとのことです。うー、毎回言いますが「知らんことだらけやなあ(詠嘆)」。
人形供養で知られる粟嶋堂、蕪村の句碑もありました。蕪村は五条大宮の辺りに住んでいましたから、このお堂にはすぐに来ることが出来たでしょう。そう言えば、蕪村の「夜色楼台図」は角屋にありましたね。この近辺に色々と足跡を残しています。
粟嶋へはだしまいりや夜の雨
おなじみ、リーガロイヤルホテル前の不動村屯所跡の碑。堀川通りを渡ると道祖神社と不動村の語源となった不動堂。
そして、瑞鳳閣の前にも不動村屯所跡の碑、けれどもロイヤルホテルと瑞鳳閣でケンカをする必要はありません。新撰組不動村屯所はそれぐらい広大であったということ。1867年の6月、新撰組は西本願寺からこの不動村の屯所に移りました。資金は西本願寺が負担したとのこと、「やれやれ」というところでしょうね。新撰組にしても、ようやく借家住まいから逃れ得たのですが、同年の12月には伏見に移り、ここで鳥羽伏見の戦いに参戦しますから、新しい屯所を利用したのは半年ばかりでした。
七条油小路を下ったところには伊東甲子太郎(新撰組から分派して御陵衛士を創設)暗殺場所の碑、所謂油小路の決闘が行われたところです。戦いに慣れた戦国時代の武士は余程でないと刀で斬り合うなどという無謀なことはしませんが、江戸時代300年、朱子学の観念論に浸ってきた幕末の武士達は本当に刀で斬り合うなどという無茶をする。始末記によれば決闘跡にはたくさんの指や肉片が落ちていたそうです。近藤のテカケの家もこの辺りにありました。
この近くの西川油店、ご主人は本当に親切な人で色々と話を聞かせて下さいます。胡麻油は絶品でしたが、本日は手ぶらなのでポケットに入る大きさであったラー油だけをいただきます。灯明油も販売されていましたから、行燈なども欲しいところですが、これを使えば100%火事を出す自信があります(爆)。
再び北上して、西本願寺を目指します。途中の仁丹の住所表示、師匠曰く「堀川通拡幅前の通りの名が記されているわあ」と。諸兄、想像せられよ。現在の堀川通りの真ん中にも以前には多くの人の生活の在りしことを。
1865年の3月から67年の6月までは新撰組の屯所は西本願寺にありました。西本願寺も「たまらんなあ」という日々であったに違いありません。それにしても明治の本願寺でも梅小路に駅を造らせたり、堀川通りを曲げさせたりする絶大な力と動員力を持っていたのに何故新撰組の要求を断ることが出来なかったのでしょうか。本日はイチョウがちょうど見頃でした。
太鼓楼
新開道路碑
伝道院はやはり築地の別院設計者と同じ建築家の作品でした。補修なって公開されていますが、訳の解らぬイベントは止めて、建物だけを公開する方がはるかによいというみんなの意見です。こういう建物は大谷探検隊を西域に派遣した大谷光瑞さんあたりの趣味でしょう。
かいらしい狛犬
この近くに師匠執念の発見、木製仁丹(笑)。路地も趣があります。この七条通周辺、レトロな建物も多く侮れません。富士ラビットは牛丼屋になっていましたが、そのまま残してくれているのは感謝・感謝。
昔の電話番号
この後、リド飲食街に行きましたが、時間が早くてまだまだ鉄の扉が閉まったまま。よし、チャンスだと近鉄の名店街でmfujino様お勧めの「さつま庵」を探しましたが、どうやら無くなったようです。mfujino様、どうか落胆されませぬように。ということで、この近所の鉄板焼き屋で飲みました。付き出しは100点でしたが、メニューを見て頼んだ料理は全部30点、店長のお勧めというのが特にヒドかった。熱燗は普通の月桂冠でありました。ととと、ここで1万字分を越え11656字と出ていますが、打ち込みが出来ます。許容量が増えたのですね。なんじゃいな。
四条大宮から大宮通を北上、六角通を西に行くと「六角獄舎跡」、幕末でいえば、生野の変の平野国臣や池田屋事件のきっかけを作った古高俊太郎らが蛤御門の変のどさくさに紛れて処刑されたところ、それより少し前には山脇東洋によって本邦初の観臓(腑分けされた内臓を観察する)が行われたところです。今は大きなマンションがいくつか建っています。
獄舎跡にほど近いところに武信稲荷、坂本龍馬の妻「龍」の父は一時期六角獄舎に収容されていました。龍は度々父の収容されている獄舎前をうろうろしたであろう[しなかったかも]。龍馬もともに来たこともあるであろう[来なかったかも]。お尋ね者となった龍馬が龍に神社の榎木に「龍」の字を彫って自分の無事を知らせたこともあるだろう(アカンやんけ)、…ということで龍馬と龍の密会の場として有名になっています。
泥足地蔵善想寺が途中にある
実際には、龍馬と龍の出会いは龍の父が死んだ後らしいので、熱海のお宮の松の如きもので、小説や何かの創作がこの話のネタになっているものと思われます。幕末を題材とする小説などは司馬遼太郎の一連の作品以外は読んだことがありませんから、どなたか御存じの方はご教示下さい。
このことばかりで有名になっている神社ですが、神社自体は藤原良相が建立したということで、六角獄舎などよりも随分と昔からあるお社です。
斜めに走る後院通を越えて、坊城通を南下、四条通を渡ったところに元祇園梛神社、現在は四条通の北にあった隼神社もここに移ってきておられます。この神社の名称は大いに興味が湧くところですが、また後日のこととします。御祭神は経津主神、本来は物部系、さらに中臣・藤原系へと継承された武神です。
八坂神社に播磨の広峰明神(牛頭天王)を勧請した時に、その神輿が最初に留まられた場所ということです。となると石清水八幡宮における山崎の離宮八幡宮みたいなところかな。
隼神社
梛神社
文化年間の燈籠
そのまま坊城通を下がれば1863年3月から65年3月までの約2年間、新撰組の屯所であった前川邸です。
関東で募集した浪士団を泊める場所として屋敷を開放したのですが、ひさしを貸して母屋を取られる何とやら、結局新撰組が去るまでは家族は別のところで暮らしたということです。
この2年の間には隊士が切腹したり、庭で暗殺があったり、土蔵で拷問が行われたり、まあ「たまらんなあ!」ということがワンサカあったのですが、壬生を去る時に置いていった迷惑料は10両(笑)であったということです。以前の椿の本陣御当主のお話、「大名が本陣を利用しても、その宿泊料は微々たるもので本陣は何か副業がなければやっていけない」、に通じる話です。
ところで、ここで山南忌なるパンフレットが配布されていて、新撰組個々の隊士への傾注というか人気というか、それが大きなことを改めて知ったのですが、山南が切腹した部屋など、切腹後の始末はどのようにしたのでしょう。流れ出る血の量は半端なモノではないでしょうし、その他の汚物も含めてサッサーと濡れ雑巾で拭くだけだったのでしょうか。それとも現在のホテルが自殺者の出た部屋はそうするという畳から何から全部取り替えるということをやったのでしょうか。
近藤や土方が実際に寝泊まりし、芹沢鴨暗殺が行われた八木邸は何か奇麗に整備されていました。
八木邸
すぐ近くが壬生寺、新撰組の隊士も随分と葬られた寺です。壬生狂言も有名ですね。小生はこの狂言を未だ見たことはないのですが、神泉苑狂言を何度か見せてもらった感じでいくと、やはりおもしろそうです。
狂言の舞台
境内一夜天神
それにしても、このすぐ近所の新徳禅寺が浪士隊を発案した清川八郎が幕府を裏切り浪士隊を尊王攘夷運動の魁とするという演説をした場所であるとは知らなんだー。この裏切りが原因で清川八郎は江戸で暗殺されます。
坊城通をずっと下っていくとその名もめでたい福神社、そして京都の遊里ナンバーワンであった「島原」、新撰組の面々も大いに羽を伸ばしたところです。
福神社
大門
輪違屋
街は、舗装も新しくなり随分と整備されました。輪違屋は現在なお太夫をかかえているということです。けれども各地の旧赤線に現在なお見られる猥雑さというか、ずばり非合法活動は全く無い感じです。「格が違います」と言われればそれまでですが。
角屋
平安京の昔には、この辺りには外国の賓客を接遇する東西の鴻盧館がありました。現代の迎賓館ですね。福岡の平和台球場の下から出てきた鴻盧館は有名ですね。渤海からの使いなどは10年に1度ねという約束も守らずしょっちゅう来るものですから、朝廷としては体面上は嬉しいが現実には随分と困ったようです。
東鴻盧館跡
島原の西門は輪禍により破壊されたとありますから、自動車が突っこんだのでしょう。近くに住吉さんが祀られ、境内には天明年間の石碑があります。読めません(泣)。
七条通に出て、西にしばらく行くと「是より洛中」のレプリカ。無いよりはずっと良いのですが、もう少し忠実に造ったらどうでしょうか。碑文によれば荷馬に乗ったまま街中に入る横着者が多かったようですね。
西鴻盧館跡
いつもはコンビニのおにぎりなどで済ますのですが、洛中ということで本日はしっかりと昼飯を食います。この村上食堂のおかず、自分で好きな皿を採るのですが、なかなか美味くて、「師匠、最後の酒をここで飲むのもいいですね。」「そうやなあ。」等と言っていましたが、土日祝日は午後2時までということで残念でした。
七条通を渡って権現寺、入り口近くに源為義の墓があります。保元の乱の時に息子の義朝に斬首された不運の武将です。そもそもの不幸は息子がうだつの上がらぬ父を見捨て独自の活動を始めたところから始まった。義朝は弟で木曽義仲の父である義賢なども息子の義平に殺させていますし、為義に味方したその他の弟たちも皆殺しですから、現代の親子感覚を以て往時を語ることはできません。平治の乱を無事に生きのびたとしても、今度は息子の義平(嫡流は頼朝に決まっていたから義平は独自の活動をする必要があったと思われる)あたりにやられていたかも知れません。頼朝は義経を殺した等と批判されますが、源氏にあっては母が違えば他人も同然などなど、ついつい好きなもので長口舌となりますが、1万字の壁が立ちはだかりますので次に進みます。
この辺りに松尾神社の御旅、おお、もはや松尾さんの縄張りになるのか。梅小路には懐かしい二条駅舎が保存されています。JRの官舎、番号にいちいちJRと入っているところが面白いですね。
龍谷大学の大宮学舎は一見の価値有りです。こんなに麗しい学舎なのに、龍大の教師には気違いが多いのは何故なのでしょうね。まあとにかくマッカッカ。
門衛所
反日の牙城たる西本願寺ですが、アカ坊主どもには勿体ない文化財が多くあります。豚に真珠、猫に小判とはこのことをいう。もちろん、アカ坊主どもに比べれば豚や猫は罪のないものですが。
唐門(伏見城の遺構)
来年の干支?もしかして麒麟かな?
ここで一旦南下します。堀川通から斜めに入る道は堀川の河道跡です。この下を今も川が流れているようです。
梅小路小学校の西側に「芹根水」と松下烏石「文房四神」の碑、この辺りに京都七名水のひとつがあったとのことです。文房四神とは筆と硯と紙と墨を表すとのことです。うー、毎回言いますが「知らんことだらけやなあ(詠嘆)」。
人形供養で知られる粟嶋堂、蕪村の句碑もありました。蕪村は五条大宮の辺りに住んでいましたから、このお堂にはすぐに来ることが出来たでしょう。そう言えば、蕪村の「夜色楼台図」は角屋にありましたね。この近辺に色々と足跡を残しています。
粟嶋へはだしまいりや夜の雨
おなじみ、リーガロイヤルホテル前の不動村屯所跡の碑。堀川通りを渡ると道祖神社と不動村の語源となった不動堂。
そして、瑞鳳閣の前にも不動村屯所跡の碑、けれどもロイヤルホテルと瑞鳳閣でケンカをする必要はありません。新撰組不動村屯所はそれぐらい広大であったということ。1867年の6月、新撰組は西本願寺からこの不動村の屯所に移りました。資金は西本願寺が負担したとのこと、「やれやれ」というところでしょうね。新撰組にしても、ようやく借家住まいから逃れ得たのですが、同年の12月には伏見に移り、ここで鳥羽伏見の戦いに参戦しますから、新しい屯所を利用したのは半年ばかりでした。
七条油小路を下ったところには伊東甲子太郎(新撰組から分派して御陵衛士を創設)暗殺場所の碑、所謂油小路の決闘が行われたところです。戦いに慣れた戦国時代の武士は余程でないと刀で斬り合うなどという無謀なことはしませんが、江戸時代300年、朱子学の観念論に浸ってきた幕末の武士達は本当に刀で斬り合うなどという無茶をする。始末記によれば決闘跡にはたくさんの指や肉片が落ちていたそうです。近藤のテカケの家もこの辺りにありました。
この近くの西川油店、ご主人は本当に親切な人で色々と話を聞かせて下さいます。胡麻油は絶品でしたが、本日は手ぶらなのでポケットに入る大きさであったラー油だけをいただきます。灯明油も販売されていましたから、行燈なども欲しいところですが、これを使えば100%火事を出す自信があります(爆)。
再び北上して、西本願寺を目指します。途中の仁丹の住所表示、師匠曰く「堀川通拡幅前の通りの名が記されているわあ」と。諸兄、想像せられよ。現在の堀川通りの真ん中にも以前には多くの人の生活の在りしことを。
1865年の3月から67年の6月までは新撰組の屯所は西本願寺にありました。西本願寺も「たまらんなあ」という日々であったに違いありません。それにしても明治の本願寺でも梅小路に駅を造らせたり、堀川通りを曲げさせたりする絶大な力と動員力を持っていたのに何故新撰組の要求を断ることが出来なかったのでしょうか。本日はイチョウがちょうど見頃でした。
太鼓楼
新開道路碑
伝道院はやはり築地の別院設計者と同じ建築家の作品でした。補修なって公開されていますが、訳の解らぬイベントは止めて、建物だけを公開する方がはるかによいというみんなの意見です。こういう建物は大谷探検隊を西域に派遣した大谷光瑞さんあたりの趣味でしょう。
かいらしい狛犬
この近くに師匠執念の発見、木製仁丹(笑)。路地も趣があります。この七条通周辺、レトロな建物も多く侮れません。富士ラビットは牛丼屋になっていましたが、そのまま残してくれているのは感謝・感謝。
昔の電話番号
この後、リド飲食街に行きましたが、時間が早くてまだまだ鉄の扉が閉まったまま。よし、チャンスだと近鉄の名店街でmfujino様お勧めの「さつま庵」を探しましたが、どうやら無くなったようです。mfujino様、どうか落胆されませぬように。ということで、この近所の鉄板焼き屋で飲みました。付き出しは100点でしたが、メニューを見て頼んだ料理は全部30点、店長のお勧めというのが特にヒドかった。熱燗は普通の月桂冠でありました。ととと、ここで1万字分を越え11656字と出ていますが、打ち込みが出来ます。許容量が増えたのですね。なんじゃいな。
子母沢寛の「新選組始末記」とかを私は読んでおらず、司馬遼も書いていましたが、それもパスしました。
大体は映画で親近感を持ちました。片岡千恵蔵が近藤勇で、黒川弥太郎の土方歳三・若山富三郎の沖田総司のがありました。嵐寛寿郎とか三船敏郎の近藤役の映画もあった筈です。
それにしても、沖田総司は人気者でした。結核を患う白皙の青年浪士とかで、本やドラマでも彼の主人公物がかなりあったと思います。
いずれにしても大義名分の下に参画した者達の集団ですから、戒律は厳しいものがあったのでしょう。何でも、既婚者は、妻子を壬生屯所から10里以上離れた所に住まわせる規則だったとか。
白梅町から周山までか36里ですから、簡単には帰宅不可能な距離ではあります。訓練や任務も厳しい戒律だった様ですから、脱落者も多かったのかも知れません。いずれにしましても、人気の出た小説やドラマでは、かなり史実は歪曲されているのが常ですから、真実は中々掴めません。徘徊堂さんご師弟の如き御方にこそ、いつか真実に迫った史実を解き明かして頂きたいものです。
おまけの木製仁丹町識を初めて見ました。もちろん、陶製より前に作られた物なのだと思いますが、子供の頃も見た記憶がありません。覚えていないだけかも知れませんが。
F氏ご推薦の「さつま庵」が消滅していて残念でした。池田屋は未だ残っていますのに(ここの騒動も、真偽は不明確とも聞きます)。
「本物の酒を嗜み史実解く」道草。
映画でも漫画でも昭和35年あたりまでは時代考証などはどうでも良い感じがあったと思います。矢車剣之助の原作などを読んでいて、「佐賀鍋島守」というような呼び方が出てきてズッコケたりすることがあります。近藤勇が宮本武蔵と闘っていたり(笑)。
小生にとっては新選組のドラマは何といっても「燃えよ剣」でした。原作にないシーンも多くありますが、うまくできた番組だったと思います。何と音楽のCDまで持っています。ビデオは買おうかなと思いましたが、ビデオが消えゆくメディアになった今日、ああ買わなくてよかったーと思っています。
新選組の局中法度では一度入ったものは抜けることは出来ません。中東のイスラム教徒と同じです(爆)。池田屋跡は久しくパチンコ屋でしたが、今は居酒屋になっているみたいですね。すぐ近くが佐久間象山の暗殺されたところですから、あの辺りも随分と血なまぐさいところだったのですね。
木製仁丹はついに9枚目まで見つけられたようです。師匠のおかげで、町歩きをする時は上を見て歩く癖がついています。
新しい社会を築こうと理想に燃えた志士を数多く失わせたゴロツキ集団には私は魅力を感じないようにしています。近藤勇が山科で素人の軍団と評した山国隊などの手にかかったのは痛快であります。
ところが壬生から始まる今回の俳諧記は新撰組に大したスペースをとらずに色々と紹介されていて気に入りましたね(^_')
大阪時代京都のあちこちをレンタサイクルでポタリングしていて迷い込んだのですが折りしも狂言が演じられていました。席は満席状態で再来を誓ったのですが、まあ我が誓いは頼りないものであります。県土従来、何々、よう変換せいへんよこのFEP、捲土重来を期しましょう。その時龍大の大宮学舎のライトに包まれた夕刻の姿も思い出します。ここでは社会人向けの公開講座も開かれているはずでぜひ出席しなさいと勧められているのですが、勤務日との調整に苦労しています。
何なに、「薩摩」がなくなってる??酒好きの坊さんに教えてもらって気に入っていたのですがね~
なるほど、山国隊から見れば、新選組なんかそうなるなあと思います。山国隊の実質的隊長であった藤野斎の生き方に見られるような「爽やかさ」が全くありませんものね。とにかくドロドロしています。新選組のその泥臭いところがうまく描けているという点ではやはり「燃えよ剣」が一番かなと思います。ドラマになると、そう言う面は消えてしまっていましたけれど。
龍大の公開講座、例の嫌われ博物館の応援をしているような連中が講師ならば、繁昌亭で落語を聴いている方が100倍為になると思います(爆)。マルキシズム法学やプロレタリア考古などの最後の生き残りが未だいるようです。他の大学では概ね死に絶えているのですが。
壬生狂言、本当に一度見に行きたいですね。師匠によると例の焙烙割り等結構迫力があるそうです。
>近藤勇が山科で素人の軍団と評した山国隊などの手にかかったのは痛快であります。
と書きましたが、
山科ではなく→山梨です
甲府あたりだと聞いていますが、、
壬生狂言は一度節分に観に行きましたが、屋根がないところで寒くて寒くて途中で逃げ去りました。声を出さないから耳の悪い私にはうってつけなので、来年には完全武装で行ってみようかなと思っています。家に何故か、島野功緒の『時代劇博物館』という本がありましたのでぱらぱらとめくると2ページ半ほど新撰組の事が書いてありました。龍馬とお龍が日本で始めて新婚旅行たるものをしたとか、ホほほですね。
一貫町というのは、全く知りませんでした。宿題をありがとうございます(笑)。七条通は西大路まで、昔ながらの商店街が残っています。今回も思いきりレトロな食堂で昼飯を食べるはずだったのですが、今回は閉まっていたので村上食堂になりました。
壬生狂言は本当におもしろそうですが、節分時にあのスタンドからの見物ではさぞかし寒いだろうなと思います。小生も一度見に行きたいと思っています。来春は神泉苑狂言を見に行きましょうか?
龍馬とお龍、霧島なんかにも登ったみたいですね。南九州の新婚旅行ですから、戦後から昭和50年ぐらいまでと同じでしょうか。
このところ多忙で(勝手ですが)、今になってご指摘に気が付きました。感謝申し上げます。