昨年の春、水尾から越畑まで歩いた時に、水尾の里の入り口のところで二人のご婦人が弁当を持たぬ我が先生にワラビを恵んで下さったことがありました(その話はこちら)。その折、水尾の人たちはどこに買い物に行くのかと尋ねたところ、明快に「嵯峨!」という言葉が返ってきました。
水尾の里の子供たちは、確かに中学校は嵯峨中学校に通い、今は水尾小学校も廃校になりましたから小学生も嵯峨小学校に通っているのでしょう。現代の感覚では、買い物は八木方面(どうせ車で行くのなら)、児童も越畑の宕陰中小学校に行く方が近いと思われるのですが、昔からの「出るなら嵯峨」という感覚というものが強く残っているようです。
今は、JR保津峡駅のところから六丁峠に延びる川沿いの車道が嵯峨に出る生活道路になっています。車というものが普及していなかった時代に愛宕山の中腹をぐるりと回り、荒神峠からは谷を下って落合に至る山道が「米買い道」として利用されていました。水尾の人たちの「生活道路」と言ってしまうと逆にこの道の持つ意味は狭まってしまうと思います。川に沿った道が開削されるまでは嵯峨鳥居本から水尾、さらに越畑・世木方面への幹線道路であったと考える方が良いでしょう。愛宕の山塊が保津川に落ちる斜面を縫って、車道よりもかなり高いところを通っています。
また、この米買い道は世木の鮎を嵯峨の鳥居本へと運ぶ「鮎の道」でもありました。本日は水尾からの米買い道を歩くと共に、嵯峨へは下りずに米買い道から水尾分かれを経て愛宕神社に至るルートが正月の愛宕登山のルートとして使えるか確認に行きます。本日もJR保津峡駅から出発です。
トップの写真の赤い橋を渡り、左に行くと水尾です。これを右に行ったところから登ることも出来ますが、水尾の里人の往時の暮らしを偲ぶには水尾から歩かねばなりません。いつものように出発は遅く、10時45分です。しばらく車道を歩き、旧道への分岐に付いたのが11時です。今の明智越への分岐には11時05分。保津峡駅のすぐ近くからの亀岡への山道は通行止めになっています。
旧道分岐
明智越分岐
水尾の里に入ったのは11時23分、本日は入り口のところには誰も座っておられませんでした。春がワラビならば、今だとシシ肉か何かを持って待っていてくれてもよさそうなのですが。
米買い道への分岐は11時25分、いつもいつも「ああ、この道を行きたい。」と思いながら反対方向の清和天皇社に行き、そこから越畑に蕎麦を食いに行っていましたが、本日もその考えがチラリと頭をよぎります。ここは意志の力で下の写真の道を真っ直ぐに進み、左に曲がっていきます。
3分ほどで「番屋」に到達です。やはりこの道が水尾へのメインルートです。集落の入り口に番屋があったのでしょう。「オー、なかなかおもろいやんけ!」、やはり単なる山道とは異なるぞと嬉しい気分になります。
この尾根を横切る道はなかなかに快適です。ところどころに倒木がありますが、昔は荷車なども十分に通れたものと思われます。
番屋から10分ほどで「東の田んぼ跡」に出ました。立派なシシ垣が残っています。これだけの手間をかけているというところに昔の人たちの田畑への思いが強かったということがよく分かります。鍬鼓の音を期待しましたが、シジマが杉林となった田を支配していました。
右の杉林が田んぼ跡
シシ垣
ため池跡
大岩には確かに大岩がありました。大岩だと思っていくと大岩ではないかも知れません。一体何を書いているのでしょう。ここで11時50分。
大岩
荒神峠に行くまでに谷を4つ渡りました。といってもアップダウンは殆ど無く、楽に谷を越すことが出来るように整備されています。特に感心するのは苔の生えた石垣で、道が崩壊するのを防いでくれています。重機のなかった時代にひとつひとつ運んで、ひとつひとつ積み上げていった。わずかにこれだけの石垣でも往時の人のライフワークであったかも知れぬと思うと自然に頭が下がります。そういえば我が祖父なども純粋な農民ではありませんでしたが、明けても暮れても田んぼに行き井路(いじ)の横に石を積んでいました。この道が本当に大切にされてきたことがよく分かります。
「クヌギのわかれ」というところを過ぎて、12時ジャストに荒神峠に到着、予定ではここから愛宕山頂に向かうはずでした。けれども、はっきりとした登り口がなかったことと「もう少し行けば登り口があるだろう」という予断から結局はズルズルと谷を下りてしまいました。今、説明板の写真を見たら「ここで交差する」と書いてあるのに、本日は地図も珍しく持っていて、その地図にも道が描いてあったのに(恥)。教訓「地図があるときは地図を見よう」。
ここからは谷を下っていくことになります。杉の植林帯の中ですから展望は期待できません。ここまでも殆ど展望の良いところはありませんでしたから、「米買い道に展望無し」と言うことができます。
ツバキの根元に地蔵さん、そう言えばこの道には殆ど地蔵さんがありませんでした。4キロメートルほどの短い道だから「のたれ死に」する人もいなかった?このツバキの根元からはきれいな水がわき出ています。さすがに沢の道は水が出るたびに土砂が流されるのでしょう。これまでの尾根を巻く道とは様相が異なります。
清滝川の河畔に出たのが12時45分、落合はこの清滝川が保津川に流れ込むところですが、本日はまだまだ時間があるので上流の清滝に向かいます。
高雄から清滝の間は、もう何度と無く歩いていますが、この清滝~落合間はものすごく久しぶりです。もしかしたら15年ぶりぐらい?渓谷美はこちらの方が勝る感じです。小野郷辺りでこの川の流れを見ている時には、下流にこのような渓谷があるとは想像もつきません。
ホントは真っ黄色、腕が悪いので色が出ない。
途中、川沿いの道を外れて適当な尾根に登ってみました。渓谷を見渡す岩にしっかりと実生の松が。まだ樹木としての生が始まったばかりですが、磐根にしっかりと生える大木になれよ、その下では猿どもが憩うのかな。この岩の上で月を見たらいいだろうな。等と猿の気分になっていたら雨が降ってきました。急いで遊歩道に復帰、なかなか渓谷全体を見渡すことはできません。
清滝着は13時23分、高雄に行くことも考えましたけれども、もみぢ狩りの狂奔も本日あたりが最終日、となると自ら死地に赴くことはない。と考え、清滝から帰宅することにします。高雄が満員だーということばかりを考えて、嵐山の狂気をすっかり忘れているところがアホです。
芭蕉句碑
与謝野晶子歌碑
清滝のバス停、バスが来ません。嵐山がごったかえしていて、どうにもならぬとのことです。タクも来ません。仕方がないので試(こころみ)峠を越えて嵯峨に向かいます。この時にバス停におられた他の人々も概ね峠越えを選ばれたようです。
峠付近から愛宕山方面
ここで名古屋から来られた老婦人の二人連れと話をしました。珍しいツアーが大好きだそうで、本日は高雄で観光バスを降り、高雄から清滝、さらに嵐山まで歩き、そこで観光バスに拾ってもらって中京に帰られるそうです。バスを諦めて、速攻峠越えを決断・実行するあたりはたくましいですね。最初は清滝トンネルを通ることも考えたそうですが、この道を通る方が賢明です。「トンネルを通れば幽霊が見られたかも知れませんが、自分が幽霊になることもありますよ。」等と話していたら、しきりに「コッチでよかったわぁ」と言っておられました。
鳥居本のあたりで既に人だらけの状態になっていました。小生は鮎は基本的には食わないのでここいらは素通りです。今も世木の鮎なのでしょうか。というか世木てダムの底に沈んでいますね。
嵯峨も人だらけ、ただメインを外れると閑散としています。不思議なのは落柿舍などはクソ満員なのに、すぐ横の去来の墓に行く人などは誰もいないことです。去来の小さな墓には今日も新しい花と柿が一つ供えられていました。
かなたに比叡山
池の向こうは御髪神社
本日は登れなかった雄峰愛宕、正月3日の登山までに今一回トライしよう。嵐山着は14時30分です。画素数が小さいので拡大してもダメですが、渡月橋は人の列が絶えません。人は人を求めて観光地に行くのでしょうか?
うー、早い。早すぎると思いましたが、珍しく持っていったリュックの底から「ナポレオン戦争従軍記」が出てきました。ナポちゃん、イタリア遠征のころは未だ「ナポリーノ・プオナパルテ」だったみたいですね。こいつはいい、こいつをあてに早い時間から居酒屋にしけこむことにします。今日は、串カツも天ぷらもおでんもたこ焼きも全部食うぞい。3時過ぎから開いているのはー、うん、あの店しか無い。
水尾の里の子供たちは、確かに中学校は嵯峨中学校に通い、今は水尾小学校も廃校になりましたから小学生も嵯峨小学校に通っているのでしょう。現代の感覚では、買い物は八木方面(どうせ車で行くのなら)、児童も越畑の宕陰中小学校に行く方が近いと思われるのですが、昔からの「出るなら嵯峨」という感覚というものが強く残っているようです。
今は、JR保津峡駅のところから六丁峠に延びる川沿いの車道が嵯峨に出る生活道路になっています。車というものが普及していなかった時代に愛宕山の中腹をぐるりと回り、荒神峠からは谷を下って落合に至る山道が「米買い道」として利用されていました。水尾の人たちの「生活道路」と言ってしまうと逆にこの道の持つ意味は狭まってしまうと思います。川に沿った道が開削されるまでは嵯峨鳥居本から水尾、さらに越畑・世木方面への幹線道路であったと考える方が良いでしょう。愛宕の山塊が保津川に落ちる斜面を縫って、車道よりもかなり高いところを通っています。
また、この米買い道は世木の鮎を嵯峨の鳥居本へと運ぶ「鮎の道」でもありました。本日は水尾からの米買い道を歩くと共に、嵯峨へは下りずに米買い道から水尾分かれを経て愛宕神社に至るルートが正月の愛宕登山のルートとして使えるか確認に行きます。本日もJR保津峡駅から出発です。
トップの写真の赤い橋を渡り、左に行くと水尾です。これを右に行ったところから登ることも出来ますが、水尾の里人の往時の暮らしを偲ぶには水尾から歩かねばなりません。いつものように出発は遅く、10時45分です。しばらく車道を歩き、旧道への分岐に付いたのが11時です。今の明智越への分岐には11時05分。保津峡駅のすぐ近くからの亀岡への山道は通行止めになっています。
旧道分岐
明智越分岐
水尾の里に入ったのは11時23分、本日は入り口のところには誰も座っておられませんでした。春がワラビならば、今だとシシ肉か何かを持って待っていてくれてもよさそうなのですが。
米買い道への分岐は11時25分、いつもいつも「ああ、この道を行きたい。」と思いながら反対方向の清和天皇社に行き、そこから越畑に蕎麦を食いに行っていましたが、本日もその考えがチラリと頭をよぎります。ここは意志の力で下の写真の道を真っ直ぐに進み、左に曲がっていきます。
3分ほどで「番屋」に到達です。やはりこの道が水尾へのメインルートです。集落の入り口に番屋があったのでしょう。「オー、なかなかおもろいやんけ!」、やはり単なる山道とは異なるぞと嬉しい気分になります。
この尾根を横切る道はなかなかに快適です。ところどころに倒木がありますが、昔は荷車なども十分に通れたものと思われます。
番屋から10分ほどで「東の田んぼ跡」に出ました。立派なシシ垣が残っています。これだけの手間をかけているというところに昔の人たちの田畑への思いが強かったということがよく分かります。鍬鼓の音を期待しましたが、シジマが杉林となった田を支配していました。
右の杉林が田んぼ跡
シシ垣
ため池跡
大岩には確かに大岩がありました。大岩だと思っていくと大岩ではないかも知れません。一体何を書いているのでしょう。ここで11時50分。
大岩
荒神峠に行くまでに谷を4つ渡りました。といってもアップダウンは殆ど無く、楽に谷を越すことが出来るように整備されています。特に感心するのは苔の生えた石垣で、道が崩壊するのを防いでくれています。重機のなかった時代にひとつひとつ運んで、ひとつひとつ積み上げていった。わずかにこれだけの石垣でも往時の人のライフワークであったかも知れぬと思うと自然に頭が下がります。そういえば我が祖父なども純粋な農民ではありませんでしたが、明けても暮れても田んぼに行き井路(いじ)の横に石を積んでいました。この道が本当に大切にされてきたことがよく分かります。
「クヌギのわかれ」というところを過ぎて、12時ジャストに荒神峠に到着、予定ではここから愛宕山頂に向かうはずでした。けれども、はっきりとした登り口がなかったことと「もう少し行けば登り口があるだろう」という予断から結局はズルズルと谷を下りてしまいました。今、説明板の写真を見たら「ここで交差する」と書いてあるのに、本日は地図も珍しく持っていて、その地図にも道が描いてあったのに(恥)。教訓「地図があるときは地図を見よう」。
ここからは谷を下っていくことになります。杉の植林帯の中ですから展望は期待できません。ここまでも殆ど展望の良いところはありませんでしたから、「米買い道に展望無し」と言うことができます。
ツバキの根元に地蔵さん、そう言えばこの道には殆ど地蔵さんがありませんでした。4キロメートルほどの短い道だから「のたれ死に」する人もいなかった?このツバキの根元からはきれいな水がわき出ています。さすがに沢の道は水が出るたびに土砂が流されるのでしょう。これまでの尾根を巻く道とは様相が異なります。
清滝川の河畔に出たのが12時45分、落合はこの清滝川が保津川に流れ込むところですが、本日はまだまだ時間があるので上流の清滝に向かいます。
高雄から清滝の間は、もう何度と無く歩いていますが、この清滝~落合間はものすごく久しぶりです。もしかしたら15年ぶりぐらい?渓谷美はこちらの方が勝る感じです。小野郷辺りでこの川の流れを見ている時には、下流にこのような渓谷があるとは想像もつきません。
ホントは真っ黄色、腕が悪いので色が出ない。
途中、川沿いの道を外れて適当な尾根に登ってみました。渓谷を見渡す岩にしっかりと実生の松が。まだ樹木としての生が始まったばかりですが、磐根にしっかりと生える大木になれよ、その下では猿どもが憩うのかな。この岩の上で月を見たらいいだろうな。等と猿の気分になっていたら雨が降ってきました。急いで遊歩道に復帰、なかなか渓谷全体を見渡すことはできません。
清滝着は13時23分、高雄に行くことも考えましたけれども、もみぢ狩りの狂奔も本日あたりが最終日、となると自ら死地に赴くことはない。と考え、清滝から帰宅することにします。高雄が満員だーということばかりを考えて、嵐山の狂気をすっかり忘れているところがアホです。
芭蕉句碑
与謝野晶子歌碑
清滝のバス停、バスが来ません。嵐山がごったかえしていて、どうにもならぬとのことです。タクも来ません。仕方がないので試(こころみ)峠を越えて嵯峨に向かいます。この時にバス停におられた他の人々も概ね峠越えを選ばれたようです。
峠付近から愛宕山方面
ここで名古屋から来られた老婦人の二人連れと話をしました。珍しいツアーが大好きだそうで、本日は高雄で観光バスを降り、高雄から清滝、さらに嵐山まで歩き、そこで観光バスに拾ってもらって中京に帰られるそうです。バスを諦めて、速攻峠越えを決断・実行するあたりはたくましいですね。最初は清滝トンネルを通ることも考えたそうですが、この道を通る方が賢明です。「トンネルを通れば幽霊が見られたかも知れませんが、自分が幽霊になることもありますよ。」等と話していたら、しきりに「コッチでよかったわぁ」と言っておられました。
鳥居本のあたりで既に人だらけの状態になっていました。小生は鮎は基本的には食わないのでここいらは素通りです。今も世木の鮎なのでしょうか。というか世木てダムの底に沈んでいますね。
嵯峨も人だらけ、ただメインを外れると閑散としています。不思議なのは落柿舍などはクソ満員なのに、すぐ横の去来の墓に行く人などは誰もいないことです。去来の小さな墓には今日も新しい花と柿が一つ供えられていました。
かなたに比叡山
池の向こうは御髪神社
本日は登れなかった雄峰愛宕、正月3日の登山までに今一回トライしよう。嵐山着は14時30分です。画素数が小さいので拡大してもダメですが、渡月橋は人の列が絶えません。人は人を求めて観光地に行くのでしょうか?
うー、早い。早すぎると思いましたが、珍しく持っていったリュックの底から「ナポレオン戦争従軍記」が出てきました。ナポちゃん、イタリア遠征のころは未だ「ナポリーノ・プオナパルテ」だったみたいですね。こいつはいい、こいつをあてに早い時間から居酒屋にしけこむことにします。今日は、串カツも天ぷらもおでんもたこ焼きも全部食うぞい。3時過ぎから開いているのはー、うん、あの店しか無い。
皆さん正月でのんびりしておられたのでしょう。昔は地元の人達も裏参道から愛宕山へお参りに登ったのでしょうが、今は余所者ばかりが通過しているのかも。
確か、清和天皇社の横から山道へ入ったと思います。積雪が10センチばかりあって、本隊に追い着く為に歩くだけで必死でした。
ですから、周囲の状況などゆっくり確かめたり楽しんだりする余裕は無くて、ただひたすら歩くのみでした(たまに休憩しながらですが)。
頑張った甲斐があって(?)、結局は本隊より先に登頂に成功し、熱燗の待ち受ける旅館到着も、私が相当早かったものです。従って、熱燗にも相当待機させられましたが・・・。
かつては水尾女と呼ぶ樒売りが居たそうですが、今はもう廃れたのでしょう。この里は松尾姓が戸数(50戸弱とか)の半分を占めている、と聞きます。
私が山陰線で通勤していた頃に、保津峡から乗る水尾の楚々とした麗人(松尾嬢?)
居られました。混雑して立ち詰めの車中が我慢出来たのも、その水尾女(の末裔?)のお蔭げでした(アホでした)。
本日の目的地の嵐山へは、ご無事で早々に到着されて何よりでした。それにしても、ナポレオンの本名はナポリーノ・プオナパルテですか。私らは単にナポレオン・ボナパルトと呼んでいましたが、和製イタリア語とはかなり違うのを初めて知りました。
「串カツも天ぷらおでんもたこ焼きも」(徘徊堂)。見事な1句になっていて感心しました。
20年ぐらい前までは愛宕山上で、それらしき格好をしたオバチャンが樒を売っていましたが、今は見ませんね。考えてみれば、昔小生のリュックに柚子を詰め込んでくれた可愛らしい小学生が、今は結婚して子供もいるということですから、おそろしいものです。街中へ樒を売るために歩いた道も米買い道だったと思います。
ナポレオンの故郷のコルシカ島がはっきりとはフランスに帰属していなかったため、当初はイタリア語読みをしていたようです。プオナパルテでは何か弱そうですね。
一度、道草様と水尾に赴き、我が先生が握り飯売ってくれーとやったように一軒一軒令嬢を探してみましょう。案外、ワラビをくれた人がそうだったりして(爆)。
また落合~清滝の渓谷の描写も気に入りましたね。東海自然歩道はかの喧噪の地を抜け、鳥居本から六丁峠・落合から清滝へと走っているのですが、ここを歩く人は清滝~高雄の間に比べて格段に少ない様ですね。私は木橋を渡るのが苦手でして、あそこの橋をゆっくり渡ったのですが、その姿を誰かに見られていないかキョロキョロしながら渡ったことを思い出しました。もう一つ、高雄から保津峡駅まで裁判官の卵達と一緒にハイキングをした時、今はもうおばちゃんになろうかという我が娘を抱っこしながら歩いたものでした。
米買道のルートを地形図で見ると昔の人達の歩き道の典型を見る思いです。小野郷から杉坂口の供御飯峠越えも、歩きの時代の道と車社会の道の違いが典型的に現れていますし、昔の歩き道の合理性を感じさせてくれます。
買い物にかぎりませんが、京へ行く、というのは伏見や山科でも使われていたようですね。ここ京北では京都市になった今でも、市内へ行くと言いますが、、、
話は全く飛んでしまいますが、今日25人ほどの中世の城を訪ねるツアー客を宇津城と周山城に案内しました。宇津城へは庄野谷に入り関電の保守道を選んだのですが、これが土が崩れて階段を埋めたり、階段が完全に無くなったりと荒れていましたね。私自身にはそう苦にはならなかったのですが、年配の女性には相当こたえた様です。従って下りは城跡から八幡宮まで真っ直ぐ下りました。まあこの苦労で宇津城という名前も一緒に脳裏から離れないでしょうと冗談を言っていましたが、そうだそうだと頷いておられました。gunkanatagoさんの木から木へと走って下りる方法もデモしましたよ~。誰も真似をされませんでしたけどね、、、
寒くなりました。今夜の11時少し前、0℃です。今朝の5時は-2℃でした。17日の予報には雪マークが出ています。16日に漸く冬タイヤに履き替えの予定ですが、あぶないあぶない。
歩きの時代のルート
宇津城址の案内、お疲れ様でした。あの、例の道を25名もの方を案内されたのですか。ちょっとヒヤヒヤでしたね。八幡宮まで真っ直ぐ下りる道もなかなかですね。それでも、おっしゃっているように、参加された方には忘れられない城跡探訪となったと思います。次は嶽山城から人尾峠に下りたりして(笑)。最近気がついたのですが、山道で苦労される方は足が上がっていない感じですね。
米買い道は、思っていたよりも良く残っていました。荒神峠から長坂谷に入ってしまうと、さすがに道の変化は大きいのですが、水尾から峠まではちょっと頑張れば大八車も通れそうです。保津峡からつつじ尾根に入り、荒神峠を経て、水尾の分かれ、神社から地蔵山を経て越畑に下りれば、尾根道だけを行くことになり、「愛宕全縦」と名付けていいのでは等と思っています。
中学のころ、水尾に嫁いだ叔母の家に行くのに旧保津峡駅から歩きました。20分ほど歩くと一軒屋があり、その辺りから旧道に入っていったのかな?水尾まではさほど遠いとは思わなかったけれど、後に新道を農協のバスを利用して15分近くかかると云うことは結構な道のりだったのですね。
そうそうgunkanatagoさまはすでにご存知かと思いますが、
旧保津峡駅から10分ほど歩いて左川岸に向いて降りていくと「うこうの浜」があり、そこにも1軒家が(叔母の親戚)ありました。ネットにありましたので引用させて頂きます。
>保津峡のちょうど真ん中に位置する現JR保津峡駅の真下で早瀬を下った流れが河岸の岸壁にぶつかって直角に向きを変える右岸側には州浜があり、平安時代、清和天皇が鵜飼をして川遊び楽しんだという伝承もあり、「鵜飼が浜」とか「うこうの浜」と呼ばれる景勝地です。
新駅が出来るまではその家の主が趣味で小枝や木の実や笹竹や小石で素朴なアクセサリーを作っていられました。主に東京のデパートで販売されていたようです。私も結婚の時、小枝のネックレスを頂きました。汽車から見ると、川の曲がる中州に別荘のような風流な家が見えたのもです。増水の時は心配しました。あれから東京に移住されたようです。
また子ども達が小学校のころ、夏休みの宿題の写生に何度か落合から清滝までは行きましたが、子どもらは川遊びの方が優先で「はよ、描きや」の連発母をしていた懐かしの所です。
何時もの横道でごめんなさい。
保津峡付近については、川のそばに近づくという発想自体がありませんでした。全面的に遊泳禁止区域でもありますし(笑)。それでも、そのようなところに家があったのですね。大雨が降る度にコワイ思いをしなくてはならなかったでしょうね。
今の保津峡駅から水尾への道、既に途中の一軒家は無くなっているようです。集落が運営するマイクロバスに一般人も乗ることが出来ますが、いつも時間がかみ合いません。保津峡駅の前のロータリー(といえるようなものでもないですが)では、柚子風呂目当てのお客さんを迎える車がいつも待っています。そろそろ、その柚子風呂の季節ですね。
偶然ですね。私も昔の山ガール達とこのコース今年度の歩き納めで歩いてきました。保津峡駅から清滝~高雄 もう少し歩きたく高雄~清滝に戻りイケイケドンドンと、清滝トンネルをまっしぐら無事に通過 愛宕神社の羅漢さんたちの背中を拝みながら ここも無事に通過観光コースをたどり 嵯峨嵐山へ徘徊様ご想像どうリ嵐山でどえらい目に遭いました。竹林への入り口から野々宮神社まで背中のリュックと共にお煎餅状態で、花灯路の風情も何もあったもんじゃなく 人、人 人 どうやらツアーの方達が殆どのようで、京都の印象が思い出が かなり マイナスになるのでは。
米買い道にでているあのお水、今でも飲めますか。昔歩いた時美味なお水 でしたが。
米買い道、ツバキ地蔵の所の湧き水は今でも飲めますよ。未だ詳細にはみていませんが、米買い道では唯一の水場ですね。小生は雷雨の直谷で飲んだ雨水が今までで一番美味かったです。清滝トンネル、何かでましたか(爆)。