写真は、馴染みとなりつつある猫寺・正念寺の猫の松であります。今回も師匠の案内で西陣を中心とした徘徊であります。「師匠、あんまり沢山盛り込んだらあきまへんで。1回参加したら2度と行かんとこと思われてもいけないので、師匠一人の時の行程の2分の1か3分の1ぐらいで頼みます。」「よし、わかった!」ということですが、どうなることでしょうか?
出発は、烏丸今出川、同志社大学の西門前です。この同志社大学の敷地は薩摩藩藩邸跡に建てられたものです。テレビの影響というのはやはり大きなもので、本日も我々以外に何組かの観光客・好事家が見学に来ています。師匠によると鳥羽伏見の戦いで薩摩の俘虜となった会津藩士山本覚馬であるが、その人物識見に薩摩側がすっかりと惚れてしまい、御一新の後に藩邸跡を覚馬に譲り、さらに覚馬から新島襄に譲られたとのことです。
その同志社大学、隣接の同志社女子高校も含めて重文級の校舎が軒を連ねています。このキャンパスの徘徊だけでもかなり時間がかかりそうです。本日は先を急ぎます。それにしても昨今のエゲツナイ就職戦線にあって、私学ならばやはり同志社が強いようです。小生などはかつて校歌が英語だという理由で同志社をケリましたが(攘夷論者なもんで)、今ならば狂気の沙汰というところですね。京都だけならば1に同志社、2と3がなくて4に立命、56789がなくて10に龍谷・京産というところでしょうか?「人間がナンチャラ」とか私学はいろいろなキャッチフレーズで生徒を集めようとしていますが、そういうフレーズの最後にはきちんと、「但し、就職は厳しいです。」と書いておいてやるべきです。おっと寄り道し過ぎぢゃ。
今出川通りにまわると今は大学院の表札がかかる薩摩藩邸の門が残っています。久しくボロボロの状態でしたが、今はきれいに修復されています。その隣が公家屋敷の様相を今も良くのこしている冷泉家です。
そのまま烏丸通りを下れば、蛤御門です。ここにもやはり多くの観光客が来ています。
弾痕、まことにや?
烏丸通りの向かい側、護王神社に参拝します。この神社は狛犬の代わりに狛イノシシが特徴です。六甲山系では何かと迫害されているイノシシですが、この地にては神使です。
境内ではオバハンがたくさんたむろしていました。「何をしてるの?」「今、お嫁さんが出てくるのを待ってんねん。」「オッ、結婚式かいな。そやけど、出てきた嫁さんが二目と見られぬ醜女やったらどうすんの?石投げるの?」「さっき見たけど、それは別嬪やったでぇ。」「こら、いかん!」、格子にしがみついて中をのぞきますが、花嫁の顔は見えません。
祭神は和気清麻呂公、その後ろにさざれ石。
日露戦争凱旋記念。
宇佐八幡御託宣集だったか何かによれば、道鏡皇位覬覦事件に際して和気清麻呂の前に僧形の八幡神がはっきりと姿を現されたそうですが、この清麻呂と対峙した巫女さんもなかなかの学識です。
護王神社から下長者町通に出たところが水戸藩邸跡、尊王攘夷の本家本元なのに天狗党の乱までに主だった人物は殆ど殺られてしまい、この藩出身で幕府の15代将軍になったお調子者だけが長寿を全うするという皮肉な歴史を刻んだ藩です。
そのまま府庁へ。役所というものにどうも縁が無くて…等と言っていた小生、ここで本当に不明を恥じることになりました。府庁自体に入ったのは初めてです。「宝の山やんけ」と申す処。建物も実に良い、御堂筋に面した大阪市役所は己の愚かさを示すが如く、重厚なる建築を破壊して今の庁舎を建てましたが、この府庁は絶対に残してもらいたいと強く思いました。
府庁、裏側から。
中庭。
平安神宮の庭などを造った庭師小川治兵衛、豊臣秀吉が架けた五条大橋の石の橋脚を握っていたようで、ここにもそれを使用した作庭が見られます。
横には円山公園のしだれ桜の兄弟桜、さらに佐野藤右衛門翁発見による珍種の山桜「容保桜」、これは春には必ず来なくてはならぬ。
正面に回り込んできました。ここに来るまでに通った廊下なども昔のニオイをプンプンとさせています。知事室は平日には公開されているとのこと。
この地は京都守護職の跡だそうで、「ナルホド、それで容保桜か。」、「というこっちゃ。」と師匠。「容保桜なあ、容保なあ。」別に文句はありませんがもうちょいです。
そしてまた、この地は京都慶應義塾跡でもあるそうで、「獨立自尊」の文字は福澤翁によるもの。そのまま、この地に慶応大学が残っていれば京都の私学事情も全然違ったものになっていたでしょう。
下長者町通に戻りしばらく西に行くと、茶屋次郎四郎邸跡です。元々は新町蛸薬師に有ったものが18世紀の初めにこちらに越してきたようです。ここでウロウロしていると、「晴明神社」に行きたいという婦人が合流しました。鳥取の方で晴明神社を探しているうちに迷われたそうです。
油小路を北上、中立売通に面したNTTの建物も由緒ありげです。
樂焼の樂家の前を通り、一条通に出ます。例の一条下り松の決闘地、さらに応仁の乱の戦跡、小松帯刀旧居祉、藤原道綱(ということは蜻蛉日記もここで書かれた可能性が高い)・源頼光邸跡など盛りだくさんですが、一つの石碑で多くの説明を兼ねるのはやめてくれー。鳥取のご婦人、「こいつら、なかなか晴明神社に行きよれへんな」と思っておられたことでしょう。
戻り橋を渡り、堀川に出ました。今は水が流れています。
晴明神社は小生の如きおっさんは深夜早朝にしか徘徊してはならぬ処となってしまいました。婦人部隊は参拝の列に並びますが、吾々は外で苦笑い。それにしてもエライ人気です。この規模の神社で、これだけの参拝客を集めているのは生駒山麓の石切神社ぐらいではないでしょうか。晴明は姓名に通じるから命名をというのは人麻呂が火止まるで防火の神様になっているのと同じで、寒くなるようなオヤジギャグの世界ではあります。まあ、ともあれ観光バスまでが連なってやってくるのは弥栄弥栄と申す処。鳥取のご婦人ともここでサイナラ。
晴明神社の隣には、西陣織会館。本日は支那人の影無し。今出川通を西に向かいます。考古資料館の前に巨大な西陣の碑、撰文は三浦周行、これも三宅安兵衛さんの遺志碑だそうです。安兵衛さんも息子さんもエライ!この碑のレプリカが西陣織会館に立っています。
考古資料館、聚楽第関連の遺物は一見の価値ありと申す処。この建物はかつて西陣織物会館だったそうです。
と、ここで5千文字分を超えました。このままいくと1万字を少し超えるものとなりそうですので、今回も下に続くとさせていただきます。
出発は、烏丸今出川、同志社大学の西門前です。この同志社大学の敷地は薩摩藩藩邸跡に建てられたものです。テレビの影響というのはやはり大きなもので、本日も我々以外に何組かの観光客・好事家が見学に来ています。師匠によると鳥羽伏見の戦いで薩摩の俘虜となった会津藩士山本覚馬であるが、その人物識見に薩摩側がすっかりと惚れてしまい、御一新の後に藩邸跡を覚馬に譲り、さらに覚馬から新島襄に譲られたとのことです。
その同志社大学、隣接の同志社女子高校も含めて重文級の校舎が軒を連ねています。このキャンパスの徘徊だけでもかなり時間がかかりそうです。本日は先を急ぎます。それにしても昨今のエゲツナイ就職戦線にあって、私学ならばやはり同志社が強いようです。小生などはかつて校歌が英語だという理由で同志社をケリましたが(攘夷論者なもんで)、今ならば狂気の沙汰というところですね。京都だけならば1に同志社、2と3がなくて4に立命、56789がなくて10に龍谷・京産というところでしょうか?「人間がナンチャラ」とか私学はいろいろなキャッチフレーズで生徒を集めようとしていますが、そういうフレーズの最後にはきちんと、「但し、就職は厳しいです。」と書いておいてやるべきです。おっと寄り道し過ぎぢゃ。
今出川通りにまわると今は大学院の表札がかかる薩摩藩邸の門が残っています。久しくボロボロの状態でしたが、今はきれいに修復されています。その隣が公家屋敷の様相を今も良くのこしている冷泉家です。
そのまま烏丸通りを下れば、蛤御門です。ここにもやはり多くの観光客が来ています。
弾痕、まことにや?
烏丸通りの向かい側、護王神社に参拝します。この神社は狛犬の代わりに狛イノシシが特徴です。六甲山系では何かと迫害されているイノシシですが、この地にては神使です。
境内ではオバハンがたくさんたむろしていました。「何をしてるの?」「今、お嫁さんが出てくるのを待ってんねん。」「オッ、結婚式かいな。そやけど、出てきた嫁さんが二目と見られぬ醜女やったらどうすんの?石投げるの?」「さっき見たけど、それは別嬪やったでぇ。」「こら、いかん!」、格子にしがみついて中をのぞきますが、花嫁の顔は見えません。
祭神は和気清麻呂公、その後ろにさざれ石。
日露戦争凱旋記念。
宇佐八幡御託宣集だったか何かによれば、道鏡皇位覬覦事件に際して和気清麻呂の前に僧形の八幡神がはっきりと姿を現されたそうですが、この清麻呂と対峙した巫女さんもなかなかの学識です。
護王神社から下長者町通に出たところが水戸藩邸跡、尊王攘夷の本家本元なのに天狗党の乱までに主だった人物は殆ど殺られてしまい、この藩出身で幕府の15代将軍になったお調子者だけが長寿を全うするという皮肉な歴史を刻んだ藩です。
そのまま府庁へ。役所というものにどうも縁が無くて…等と言っていた小生、ここで本当に不明を恥じることになりました。府庁自体に入ったのは初めてです。「宝の山やんけ」と申す処。建物も実に良い、御堂筋に面した大阪市役所は己の愚かさを示すが如く、重厚なる建築を破壊して今の庁舎を建てましたが、この府庁は絶対に残してもらいたいと強く思いました。
府庁、裏側から。
中庭。
平安神宮の庭などを造った庭師小川治兵衛、豊臣秀吉が架けた五条大橋の石の橋脚を握っていたようで、ここにもそれを使用した作庭が見られます。
横には円山公園のしだれ桜の兄弟桜、さらに佐野藤右衛門翁発見による珍種の山桜「容保桜」、これは春には必ず来なくてはならぬ。
正面に回り込んできました。ここに来るまでに通った廊下なども昔のニオイをプンプンとさせています。知事室は平日には公開されているとのこと。
この地は京都守護職の跡だそうで、「ナルホド、それで容保桜か。」、「というこっちゃ。」と師匠。「容保桜なあ、容保なあ。」別に文句はありませんがもうちょいです。
そしてまた、この地は京都慶應義塾跡でもあるそうで、「獨立自尊」の文字は福澤翁によるもの。そのまま、この地に慶応大学が残っていれば京都の私学事情も全然違ったものになっていたでしょう。
下長者町通に戻りしばらく西に行くと、茶屋次郎四郎邸跡です。元々は新町蛸薬師に有ったものが18世紀の初めにこちらに越してきたようです。ここでウロウロしていると、「晴明神社」に行きたいという婦人が合流しました。鳥取の方で晴明神社を探しているうちに迷われたそうです。
油小路を北上、中立売通に面したNTTの建物も由緒ありげです。
樂焼の樂家の前を通り、一条通に出ます。例の一条下り松の決闘地、さらに応仁の乱の戦跡、小松帯刀旧居祉、藤原道綱(ということは蜻蛉日記もここで書かれた可能性が高い)・源頼光邸跡など盛りだくさんですが、一つの石碑で多くの説明を兼ねるのはやめてくれー。鳥取のご婦人、「こいつら、なかなか晴明神社に行きよれへんな」と思っておられたことでしょう。
戻り橋を渡り、堀川に出ました。今は水が流れています。
晴明神社は小生の如きおっさんは深夜早朝にしか徘徊してはならぬ処となってしまいました。婦人部隊は参拝の列に並びますが、吾々は外で苦笑い。それにしてもエライ人気です。この規模の神社で、これだけの参拝客を集めているのは生駒山麓の石切神社ぐらいではないでしょうか。晴明は姓名に通じるから命名をというのは人麻呂が火止まるで防火の神様になっているのと同じで、寒くなるようなオヤジギャグの世界ではあります。まあ、ともあれ観光バスまでが連なってやってくるのは弥栄弥栄と申す処。鳥取のご婦人ともここでサイナラ。
晴明神社の隣には、西陣織会館。本日は支那人の影無し。今出川通を西に向かいます。考古資料館の前に巨大な西陣の碑、撰文は三浦周行、これも三宅安兵衛さんの遺志碑だそうです。安兵衛さんも息子さんもエライ!この碑のレプリカが西陣織会館に立っています。
考古資料館、聚楽第関連の遺物は一見の価値ありと申す処。この建物はかつて西陣織物会館だったそうです。
と、ここで5千文字分を超えました。このままいくと1万字を少し超えるものとなりそうですので、今回も下に続くとさせていただきます。
鴨川べり、上賀茂神社から四条まで歩くことは年に何回もやりますが、桜の花が咲く直前ぐらいが一番いいように思います。出町ふたばでしたか、豆餅が有名ですが、いつもずらーと列んでいて買えません。その「ふたば」で修行されていた方の店が広隆寺の近くにある太秦庵です。豆餅の味は「ふたば」と変わらないと思います。
3年前?4年前かな?一月初議会の傍聴も行きました。丁度議長が我が市出身の議員さんでしたからです。議題はすっかり何処かに飛んでしまいましたが、、、こんな傍聴者がいる限り、府もお気の毒ですね!
堀川まで行こうと思いましたが、ぼろが出ないうちに(もう出てるやないか^^)止めときます。ご免なさいネ。
後半は北野神社までですから、距離的には本当にちょっとでした。けれどもカタギの衆にはちょうど頃合いだったようです。師匠などは完全に欲求不満の世界だったと思われます。茶屋次郎四郎邸跡はご推察の通り下長者町の茶屋町あたりです。こちらに移ってきた18世紀初には朱印船貿易はとっくに廃絶していました。
同志社の田辺キャンパス、とにかく広大です。遠くから観る方が迫力がありますが、新しい政策科学部など目玉の学部は既に田辺を見限っています。今出川で4年間過ごせるということで学部を選ぶ人もいるようです。日本電産も村田も京阪奈を見限り、オムロンの研究所もいつまで続くかということで、田辺からの撤退もあるかも知れませんが、同志社女子大学だけではあのキャンパスは大きすぎますね。京都大学などは新たに創るキャンパス、平成の名建築といわれるようなものを建ててもらいたいですが、何か全般的にケチくさくなってきているので難しいのでしょうね。
堀川に蛍を復活させるて、どうやって?と思いますね。ゲンジボタルなら膨大な量のカワニナが必要だと思いますし、少なくとも土や泥がなければと思います。ひょっとして、京北とかで蛍を捕まえてきて放すだけの計画なのではと邪推してしまいますね。他の生物もオタマジャクシはともかく、カエルになったら生きていける環境では無いようにも思います。先ず川の端のコンクリをかち割って草原を作ってやらねばなりませんが、有志でやったら捕まるでしょう。
京都は、次は西賀茂(舟形の麓あたり)の徘徊だそうです。また、ご連絡します。
就職と聞くと思い出すのが、土方(我々は、どかた、と冗談で呼んでいた(^_・))という産大卒生。彼はある大商社に就職したかったのに産大には募集が来ていない。門戸を狭めるのは良くない、試験を受けさせろと直談判し見事入社したそうです。彼に続いた後輩は優秀な社員として評判が良かったのですが彼が門を開いたとの武勇伝が囁かれていました。
今回はえらい距離をセイブされたのですね(^_・)今地図を見ながら書いているのですが、地名は面白いですね。町の名前や通りの名前を見ていると想像力がかき立てられます。千本通りなんか名神を越えて南まで延びているそうで一番長いと聞きましたけど。茶屋四郎邸跡は茶屋町の下長者町通にあるのでしょうか?
護王神社の和気清麻呂さんは山国神社とも関連があります。彼がアキレス腱を切られ治癒したことから、今人気のトレッキングやハイキングの神様にという話もあると聞いた様な気もします。
女の人はなんで地図を持って歩けへんのやろ、そもそも地図を見ようという意識がないんと違う?としょっちゅう思います。
当時は、町内の組長の家の前に防火用の用水桶が備えられていました。我が家が組長の時に、御所で掬った御玉杓子をその中へ放り込んで、ひどく叱られたものです。当時は大学のランク(学生のランク?)など露知らず、ひたすら遊び呆けていたものです。
堀川は整備されたのは結構なのですが、昔の面影は皆無です。最近は、蛍を復活させようとの動きがあるとか。実現が待たれますが、せめて目高や御玉杓子も泳いでほしいものです。
「しらみつぶしⅡ」は期日はいつのことでしょうか。「同Ⅰ」と重なる場所もあるようですが、ご精鋭だけで充実した虱潰しと蚤倒しを満喫されたことでしょう。(最近は、高齢者へのご連絡は中止されたのでしょうか・・・。)