さて、考古資料館よりは、西陣中央小学校の敷地に入らねば見られぬ観世井へ。本来日曜日はしまっているのですが、PTAの寄合か何かで開いておりました。吾々が出ると同時に施錠したようですからまさにタイムリー。
大宮通を北上して、五辻通と上立売通の間にある通りに入ると路地の様子がしっかりと残る写真の三上家の路地です。西陣織の織元の三上家が織子を住まわせた長屋で、ここまで綺麗に路地が残っているのは珍しい。今は、陶芸家などの他、ちょっと名の知られたハチミツ屋が入っています。ちょっとオッサンには縁遠い世界。このあたり、平日に通っても「カッシャンカッシャン」という機織りの音はなかなか聞こえなくなりました。
灯りの点いているところがハチミツ屋。
智恵光院通に出ました。本日の昼食は攘夷派の小生としては絶対に言いたくはないのですが、例のタイヤ屋が☆を付けた蕎麦屋の「ニコラ」。師匠の趣味である岩国の「獺祭」が置いてあるなど酒は充実しています。「蕎麦はまあ「かね井」が上やろな」と師匠の弁。青森のナンチャラという酒も美味でしたが名前を忘れてしまいました。田舎酒が好きな人には能勢の「秋鹿」もあります。見た目は何屋か全く解らぬのに、この店もまた繁昌していました。店の雰囲気、それは外人受けはするでしょうね。「西戎も蕎麦すすりたり京の秋(羅休)」。
雨宝院、岩上神社は例の通り、猫寺には本日も猫を見ず。
雨宝院内染殿井。
岩上神社。
千本焔魔堂は千本通から見通せるようになり、整備されていない境内は荒れ寺の気分を漂わせていますが、この日も10人ほどの人たちが閻魔大王の前で御詠歌をあげておられました。信仰は生きています。怪しからぬバテレンのフロイスが見てびびったという閻魔像は今も健在、裏手には紫式部の供養塔などもあります。上田秋成によれば、紫式部はないことをあるように流布した罪により地獄に堕ちたそうですから、かくも立派な供養塔が必要なのでしょう。ここから北は蓮台野でかつての葬送の地です。
近くの浄光寺には大雅堂の墓所。
さらに千本通りを下ると釘抜き地蔵です。この付近に「天の雫」と言って山頭火の句から名づけた弁当屋があります。
この上京という位置から考えて、中世の「釘抜」という防御施設と関係があるのかなと考えていたのですが、単に「苦抜き」からきているそうで、やはりダジャレです。それでもやはり、信仰が生きている寺で、当日もお百度を踏む人たちがおられました。また、釘抜き付の絵馬の奉納も後が絶えぬようです。ということで、ダジャレ畏るべし。
五辻通まで下ると五辻昆布、外から見ていると何の変哲もないビルですが、ネエチャンの愛想はいいし、品揃えは豊富だし、大阪の天満の昆布屋を裏切ってここを贔屓にしてしまいそうです。
そのまま、五辻通りを西に行くと大報恩寺(千本釈迦堂)です。応仁の乱で丸焼けになった地域ということから考えると奇跡的に鎌倉時代初期の本堂が残っています。
五辻の昆布。
釈迦堂へ。
本堂。
この本堂、まだ明かり障子などというものが出てくる前のものですから、全面的にしとみ戸の形式になっています。これの開け閉めはなかなかに大変そうです。
巨大なおかめさんの像は「みんなで見といてね」というところ、明徳の乱(1391)で足利義満の挑発に遭って粛清された山名氏清の碑があります。義満が建てたということですが、流石に寝覚めが悪かったのでしょうね。
さてさて、北野天神にやって参りました。ここでは壮麗なる社殿は拝するに留め、普通の参拝客が行かないところを見て回りましょう。先ずは入り口付近にある道標。
左側にかなで「さがあたご」とある。
参道の左手に神宮寺であった東向観音寺、もちろん天神さんの方を向いているのです。
その近くに、菅原道真の母堂の墓所、巨大な五輪塔があります。その隣に頼光ゆかりの土蜘蛛塚。土蜘蛛というのは記紀風土記の世界では先住民を指すと考えて良いと思うのですが、頼光伝説では本当の蜘蛛になっています。酒呑童子などと同じように治安の悪い平安京に出没した盗賊・山賊の類であったかも知れません。
土蜘蛛塚。
続いて、京都三大珍鳥居の一つ。鳥居の足が蓮の花の上に載っています。鳥居そのものの形も変わっているようです。
牛と消毒薬、時代やのー。
師匠は以前からこの北野社の参道が真っ直ぐに本殿に向かわず、本殿に参るには寧ろ参道から外れるような感じがあるのを奇異とされていたのですが、今回、参道の行き着く先に文子天満宮が鎮座していることで納得、納得。
この地に道真の霊が勧請されたのは多治比文子が神懸かりとなったことがきっかけでした。この巫女が最初に道真を祀っていたところが文子天満宮、こここそが本来の参道の行き着く先であったのです。それにしても古い形がそのまま残っているのはすばらしい。受験生諸氏、ご本殿に参るだけでは目的の半分しか果たしていないぞよ、この元天神にこそ参らねばならぬぞよ。
昔日、小生等一味の者どもが大学入試をひかえて、皆で天神詣、お守りもいただいたのに一人を除いて全員が討ち死にしたのは、ここに原因があったのだと初めて納得しました。
それでは、同じく文子天満宮にはお参りしなかったのに、国立大学にボンと合格した1名はどこが違ったのでしょう。実は彼は帰路にお守りをドブに落とすという一番罰当たりなことをやらかしました。自宅で清水で濯ぎ、ストーブで乾かしているとお守りから白い湯気がモワモワと出て彼は「こらいかん!」と湯気を胸一杯に吸いこんだそうです。受験生諸氏、参考にせよ。
千福は呉の酒だそうな。
北野神社の裏門を出るとすぐに平野神社です。朝廷が最も尊ぶ22社の一つですが、渡来系の神が祀られています。帰化人(渡来人)については、司馬遼太郎ほどの作家でも「帰化人は日本人の先祖で基本的には近代の朝鮮とは何の関係もない」という認識ができなかったようで、例の支那文化が日本文化の父で、朝鮮文化が兄というような分かりやすいが間違った考えからは抜け出せなかったようです。これについては、平野神社を単独で取り上げるときにグダグタと言いましょう。
この少し北に太閤さんのお土居が残っています。お土居の残滓は各所で見られるのですが、ここはほぼ築造当時の姿を残しているように思われます。
これだけのもので囲まれていたとしたら、太閤さんから江戸初期の京都というのは、今の京都とはすっかりとイメージが異なるぞと申す処。御所と聚楽第を真っ直ぐに結ぶ中立売通のことなども含めて歩くと学べることが多い。
上七軒は通るたびに風情が失われていっている様に思われます。西陣の旦那衆、家産を傾けて豪快に色町遊びをしてね。職人衆が通った五番町、そのうちにご報告しますが、完全に壊滅しています。
最後は豊公のウィットを示す「湯たくさん茶くれん寺」、本日もガッシリと閉まっています。屋根の上には楽焼の寒山拾得。
ここから千本丸太町へと千本通を下れば気になる飲み屋も何軒かありますが、本日も「さかえ庵」に向かうことになります。日本酒の充実ぶりが素晴らしいからでありますが、レモンをしぼっただけでうまいゴンボの唐揚げなどアテもなかなかです。
大宮通を北上して、五辻通と上立売通の間にある通りに入ると路地の様子がしっかりと残る写真の三上家の路地です。西陣織の織元の三上家が織子を住まわせた長屋で、ここまで綺麗に路地が残っているのは珍しい。今は、陶芸家などの他、ちょっと名の知られたハチミツ屋が入っています。ちょっとオッサンには縁遠い世界。このあたり、平日に通っても「カッシャンカッシャン」という機織りの音はなかなか聞こえなくなりました。
灯りの点いているところがハチミツ屋。
智恵光院通に出ました。本日の昼食は攘夷派の小生としては絶対に言いたくはないのですが、例のタイヤ屋が☆を付けた蕎麦屋の「ニコラ」。師匠の趣味である岩国の「獺祭」が置いてあるなど酒は充実しています。「蕎麦はまあ「かね井」が上やろな」と師匠の弁。青森のナンチャラという酒も美味でしたが名前を忘れてしまいました。田舎酒が好きな人には能勢の「秋鹿」もあります。見た目は何屋か全く解らぬのに、この店もまた繁昌していました。店の雰囲気、それは外人受けはするでしょうね。「西戎も蕎麦すすりたり京の秋(羅休)」。
雨宝院、岩上神社は例の通り、猫寺には本日も猫を見ず。
雨宝院内染殿井。
岩上神社。
千本焔魔堂は千本通から見通せるようになり、整備されていない境内は荒れ寺の気分を漂わせていますが、この日も10人ほどの人たちが閻魔大王の前で御詠歌をあげておられました。信仰は生きています。怪しからぬバテレンのフロイスが見てびびったという閻魔像は今も健在、裏手には紫式部の供養塔などもあります。上田秋成によれば、紫式部はないことをあるように流布した罪により地獄に堕ちたそうですから、かくも立派な供養塔が必要なのでしょう。ここから北は蓮台野でかつての葬送の地です。
近くの浄光寺には大雅堂の墓所。
さらに千本通りを下ると釘抜き地蔵です。この付近に「天の雫」と言って山頭火の句から名づけた弁当屋があります。
この上京という位置から考えて、中世の「釘抜」という防御施設と関係があるのかなと考えていたのですが、単に「苦抜き」からきているそうで、やはりダジャレです。それでもやはり、信仰が生きている寺で、当日もお百度を踏む人たちがおられました。また、釘抜き付の絵馬の奉納も後が絶えぬようです。ということで、ダジャレ畏るべし。
五辻通まで下ると五辻昆布、外から見ていると何の変哲もないビルですが、ネエチャンの愛想はいいし、品揃えは豊富だし、大阪の天満の昆布屋を裏切ってここを贔屓にしてしまいそうです。
そのまま、五辻通りを西に行くと大報恩寺(千本釈迦堂)です。応仁の乱で丸焼けになった地域ということから考えると奇跡的に鎌倉時代初期の本堂が残っています。
五辻の昆布。
釈迦堂へ。
本堂。
この本堂、まだ明かり障子などというものが出てくる前のものですから、全面的にしとみ戸の形式になっています。これの開け閉めはなかなかに大変そうです。
巨大なおかめさんの像は「みんなで見といてね」というところ、明徳の乱(1391)で足利義満の挑発に遭って粛清された山名氏清の碑があります。義満が建てたということですが、流石に寝覚めが悪かったのでしょうね。
さてさて、北野天神にやって参りました。ここでは壮麗なる社殿は拝するに留め、普通の参拝客が行かないところを見て回りましょう。先ずは入り口付近にある道標。
左側にかなで「さがあたご」とある。
参道の左手に神宮寺であった東向観音寺、もちろん天神さんの方を向いているのです。
その近くに、菅原道真の母堂の墓所、巨大な五輪塔があります。その隣に頼光ゆかりの土蜘蛛塚。土蜘蛛というのは記紀風土記の世界では先住民を指すと考えて良いと思うのですが、頼光伝説では本当の蜘蛛になっています。酒呑童子などと同じように治安の悪い平安京に出没した盗賊・山賊の類であったかも知れません。
土蜘蛛塚。
続いて、京都三大珍鳥居の一つ。鳥居の足が蓮の花の上に載っています。鳥居そのものの形も変わっているようです。
牛と消毒薬、時代やのー。
師匠は以前からこの北野社の参道が真っ直ぐに本殿に向かわず、本殿に参るには寧ろ参道から外れるような感じがあるのを奇異とされていたのですが、今回、参道の行き着く先に文子天満宮が鎮座していることで納得、納得。
この地に道真の霊が勧請されたのは多治比文子が神懸かりとなったことがきっかけでした。この巫女が最初に道真を祀っていたところが文子天満宮、こここそが本来の参道の行き着く先であったのです。それにしても古い形がそのまま残っているのはすばらしい。受験生諸氏、ご本殿に参るだけでは目的の半分しか果たしていないぞよ、この元天神にこそ参らねばならぬぞよ。
昔日、小生等一味の者どもが大学入試をひかえて、皆で天神詣、お守りもいただいたのに一人を除いて全員が討ち死にしたのは、ここに原因があったのだと初めて納得しました。
それでは、同じく文子天満宮にはお参りしなかったのに、国立大学にボンと合格した1名はどこが違ったのでしょう。実は彼は帰路にお守りをドブに落とすという一番罰当たりなことをやらかしました。自宅で清水で濯ぎ、ストーブで乾かしているとお守りから白い湯気がモワモワと出て彼は「こらいかん!」と湯気を胸一杯に吸いこんだそうです。受験生諸氏、参考にせよ。
千福は呉の酒だそうな。
北野神社の裏門を出るとすぐに平野神社です。朝廷が最も尊ぶ22社の一つですが、渡来系の神が祀られています。帰化人(渡来人)については、司馬遼太郎ほどの作家でも「帰化人は日本人の先祖で基本的には近代の朝鮮とは何の関係もない」という認識ができなかったようで、例の支那文化が日本文化の父で、朝鮮文化が兄というような分かりやすいが間違った考えからは抜け出せなかったようです。これについては、平野神社を単独で取り上げるときにグダグタと言いましょう。
この少し北に太閤さんのお土居が残っています。お土居の残滓は各所で見られるのですが、ここはほぼ築造当時の姿を残しているように思われます。
これだけのもので囲まれていたとしたら、太閤さんから江戸初期の京都というのは、今の京都とはすっかりとイメージが異なるぞと申す処。御所と聚楽第を真っ直ぐに結ぶ中立売通のことなども含めて歩くと学べることが多い。
上七軒は通るたびに風情が失われていっている様に思われます。西陣の旦那衆、家産を傾けて豪快に色町遊びをしてね。職人衆が通った五番町、そのうちにご報告しますが、完全に壊滅しています。
最後は豊公のウィットを示す「湯たくさん茶くれん寺」、本日もガッシリと閉まっています。屋根の上には楽焼の寒山拾得。
ここから千本丸太町へと千本通を下れば気になる飲み屋も何軒かありますが、本日も「さかえ庵」に向かうことになります。日本酒の充実ぶりが素晴らしいからでありますが、レモンをしぼっただけでうまいゴンボの唐揚げなどアテもなかなかです。
上立売五辻辺りはかなり北になりますので、子供の頃の縄張り外でした。ただ、こんな路地は大宮中立売周辺にも至る所にあり、とても懐かしい光景です。
それより蕎麦屋の「ニコラ」なるものは昔からありましたか?私は全然知りませんでした。私の知っているのは一条智恵光院角の饂飩屋(名前不肖)くらいです。それにしても、獺祭は飲みたかったです。「秋の京師匠と姉弟で呑み倒れ」(道草)。
釘抜さんや天神さんも懐かしい場所ですが、やはり西陣京極の凋落(上七軒や五番町は徘徊堂さん懇意の地でしょう)が淋しいです。千本通やその一筋入った所にも3~4軒の映画館(「五番街東宝」なんて)ありましたが、千本~中立売~淨福寺~一条の各通に囲まれた狭い範囲に映画館が軒ありました。西陣キネマ・長久座・千中劇場・西陣大映・西陣東映で、生まれて初めて、祖父に映画(「猛進ロイド」)へ連れてもらったのも西陣京極です。
今は閉館になったりパチンコ店に替わったり、昔日の俤はありません。1館(西陣大映?)だけ薔薇族対象の映画館として残っていると思うのですが、どうでしょうか?千中劇場はしばらく千中ミュージックとして裸族愛好館として営業していましたが、このアタリになると徘徊堂さんの方がお詳しいでしょうし・・・。
それにしても、8月9月は猛暑を懸念して、後期高齢者iはお心遣いを戴いたのでしょうか。「さかえ庵」へも行き損ないましたし、残念です。
「願」 斉藤 怙
西陣のとおりのおくに
香のかおりにつつまれて寺はあった
山門をすぎて庭はひらけ
本堂に対の提灯がゆれていた
釘抜の絵馬にうずまる堂のまわりを
くちごもり唱えてめぐる女のひとの
えりあしが白く陽にはえ
敷石の下駄のひびきがやさしかった
うら庭のほこらに座る石の仏に
つばきの葉にもる飯をそなえ
ただ祈る小紋の肩をかすめながら
たんぽぽのほうけた花が空に舞った
ひたすらの願いは白い花となり
風にのり地蔵堂の屋根をこえた
今生(こんじょう)をひとつにしぼる女ごころが
暮れなずむ京の空に赤く映えた
西陣に1館残っている映画館は千本日活です。五番町の検番が置かれていたところだそうです。千中ミュージックは、あの辺りに下宿していた友人たちの憩いの場だったそうですが、小生が見に行く前に潰れました。あの合法非合法入り乱れた怪しさこそが町の魅力なのですが、今は何もないどころか、カタギの世界でもこの10年程の間に知り合いの文具屋、化粧品店(店に入ったことはないですが)、ビフカツ定食(こいつのある店が意外に少ない)があった食堂とバタバタと消えて無くなりました。
ニコラもかね井も最近といえば最近の店です。なぜニコラだけが☆をと思っていますが、多分「かね井」などは話があったときに「アホか」と断ったのではと思うのです。けれども断った店も勝手に載せているという話も聴きますし、まあ所詮は所詮ということでしょう。けれどもニコラの蕎麦も決してまずいわけではありません。そば湯は今一ですが。
さて北野の天神さんですが、我が山国隊が奉納した灯籠があり、また山国隊の実質隊長藤野斎さんが牧野やなさん上七軒で知り合い二人の間に生まれたのがかの日本映画界の父、牧野省三ということもあり、お参りに行きたいところなのですが、大阪の呑み仲間と一度訪れただけです。この牧野省三の小説を書かれた高野潔さんは、千本通りという名は、旧内裏と船岡山との間には卒塔婆が千本立てられていたのが由来だと講演で言ってましたがどうなのでしょうね?丸太町などの様に木材との関連ではないかという気もするのですが、、千本通りは朱雀大路であり、つい昔迄、まあ戦前だと思いますが、は繁華街だったようですね。
西陣の後は、千本通りをしらみつぶししてみては如何?
何と牧野省三が藤野斎さんの子供さんだとは知りませんでした。等持院の墓地に牧野さんの銅像があり、時折拝顔するのですが本当にびっくりしました。山国隊奉納の灯籠、一度探してみます。
千本通りの由来は、今出川通より北ならば卒塔婆千本もうなづけます。これが三条あたりまで下ってくると、今は少なくなりましたが昔は材木屋さんだらけで、「やっぱり木材のことやで」といいたくなります。
千本虱潰しは次の課題ですね。
京都に社寺で最も多く訪れたのがたぶん、北野の天神さんです。文子天満宮は枳殻邸の近くのもありますね。たまに通ることがあります。そんな時にしかお参りできませんが・・・。
天神さんの東側から老松町にかけての一画、なかなかいいですよね。いつも25日の縁日にいらっしゃるのですか。昔はこの辺りでも平日に歩けばカッシャンカッシャンと機織りの音が聞けたものですが。