柏原周辺は、ついこの間も徘徊したのですが、どうも恩智より北も気になる。ということで、今回は高尾山には登らずに柏原から八尾一帯の史跡を巡ることにしました。高尾山に登らないということになれば、ちょっと堅下ワイナリーの直販店に寄る時間がある(といってもここに寄ったばかりに最後はバスに乗ることになりましたが)。何かの勘違いをしているのか、前とは担当のネーチャンが違うのか、以前はダボタボに試飲できたように思ったのですが、今回は検尿用のカップにちびっとづつ、徘徊のガソリンにはなりませんでした。「フン!」といいながら170号線を北にとれば、早速麗しい民家が見られます。窓の欄干様のものが特徴的です。
こういう石標は見たのは初めてです。昭和天皇が堅下村のブドウ栽培の様子を侍従に視察させたとのことですが、当時の人々の感激がよく理解できます。ここいらから山裾の道に入りますと唐突に「業平道」の碑が現れます。
この場所ですと、業平は竜田越えをして高安の女のもとに通ったことになりますが、よく知られているのは十三峠越えです。十三峠を大和から越えて高安ですと、この場所は通らない。けれども最初からあれこれイチャモンを付けるのはやめましょう。業平は最後には高安の女をフッテしまうことでもありますし。十三峠越え辺りでは業平に振られて身投げをした梅野なる女の伝承もあります。伊勢物語にも記述されている「自分で飯をよそう行為」をしたばかりに業平が女に嫌気がさしたというのですが、業平は悪いヤツです。女性の心を弄ぶと言えば生誕100年とかで騒がれている太宰、こいつも悪いヤツで男のクズですが、こういう言い方をすると太宰が却って喜びそうなのでここまでにしましょう。
さて、大県にある鐸比古鐸比賣神社、今回の徘徊は此処がスタート、これまでは前哨戦であります。何時来ても美しいお宮さんです。後の若倭彦神社と若倭姫神社もそうですが、本来の地主神としての男女の神ではなく、もともとは別の処に祀られていた別名の神であられたのが、新たな名を付けて合祀(若倭彦神社と若倭姫神社は未だに別の処にある)したもののようで、神様同士をお見合いさせ、それではこれで婚儀相整いということで…てな形で今日に至っているものと思われます。
内陣内は森厳。
この鐸比古鐸比賣神社から程近いところに若倭彦神社、平野という集落の産土でもあります。
この付近、やや南の太平寺辺りから昔の集落の様子が実によく残っています。東高野街道はバイパスもできているのですが、未だに抜け道として利用する車も多いので、このような集落の中の道を抜けていきます。建物は新しいのですが、雰囲気は何となく懐かしい感じ、季節外れのスミレが咲いています。
次に到着したところが瑠璃光寺、勿論薬師如来を祀るお寺です。ただ、若倭姫神社はこの寺の中にあります。寺内はちょうど紅葉を迎え、なかなかの景色ですが他に参拝者はいません。
さざんかと紅葉
若倭姫神社
境内にある大坂相撲、高田川音吉の碑。
瑠璃光寺の入り口に置かれた石仏、本来は古墳の石棺のフタであったものを再利用して仏を刻んだものです。この界隈の山の手には無数の古墳があり、若倭姫神社も本来或いは古墳の祭祀が行われた場所が神聖視されて神社になったものやも知れません。石棺利用のこの仏、えげつないことに刃物の研ぎ石としても使用されていたそうで、そういうことを平気でしたのは14世紀~15世紀にかけてのことでしょうか。
瑠璃光寺を出て、さらに北上し、神宮寺墓地(この時期に全ての墓に仏花が供されているのはなぜでしょうか?)、八王子神社、恩智城跡を経て恩智神社に向かいます。恩智神社は元々は藤原氏の祖神たる天児屋根命を祭っていたとのことで、この神が枚岡に移り、さらに奈良の春日大社に勧請されたとかで、河内一宮枚岡神社を元春日と言うならば河内二宮恩智神社は元々春日と言って良いのですが、この神社も元春日ともいうようです。現在の祭神は大御食津彦命と大御食津姫命です。天児屋根命は天孫降臨の際の随身ということになっています。けれども、この位置と言い、近隣の製鉄遺跡と言い、本来は軍事担当の物部系の神を祭っていたところではないかとも思われます。藤原氏の前身たる中臣氏については出自不分明なところが多く、常陸や摂津三島との関わりも深いようなのですが、中河内のこの一帯に何か中臣氏の伝承は残されていないか、今後の宿題となりそうです。
珍しいのは、本殿の横にある見事な灯籠で日露戦争の凱旋灯籠ということです。こういう凱旋灯籠というものがあるということは、ここで初めて知りました。そういえば、大東亜戦争で戦死された方の名も見事な石碑に刻まれて、若倭彦神社にありました。斯様なことは食うや食わずの貧村ではできぬことで、中河内の富裕を知るべしと申す処。
八王子神社
恩智城趾
恩智神社拝殿
恩智神社本殿
日露戦役凱旋灯籠、別に凱旋碑もあり。
未だ紅葉せず。
恩智街道は信貴山に登る道でもあります。
ここで、一旦近鉄の恩智駅の方へ向かいます。東高野街道からは大きく外れるのですが、ついでに由義宮跡を見ておこうとの算段です。
恩智神社御旅所
近鉄の線路を越えると「弓削」等の地名が今も残り、孝謙天皇の看病禅師から法王へと登り詰めた道鏡の古里はここら辺りかということが判ります。その道鏡の出身地に造られた行宮が由義宮、続日本紀の神護景雲3年(769)10月条に「甲子。詔以由義宮爲西京。河内國爲河内職。賜高年七十已上者物。免當國今年調。大縣。若江二郡田租」とあり、いずれは大規模なものを造営すべきであったのかも知れませんが、その翌年には孝謙天皇が崩じて道鏡も失脚してしまいますので、そのまま朽ちてしまったようです。
道鏡については「道鏡がすわれば膝が三つある」的な隠微なイメージでよく知られているのですが、女帝と道鏡の関係は男女の仲と言うよりも寧ろ新興宗教の教祖様とそれに入れあげる信者というものであったのではと思われます。その後は藤原氏によって光仁天皇の擁立が行われ、いよいよこの氏族が栄えていく中で道鏡のイメージは貶められていったのでしょう。小生などは道鏡と言えば温厚で徳の高い僧侶を思い浮かべるのですが、現在でも世間では何かラスプーチンのように取り上げられているのは気の毒としか言いようがありません。各地の道鏡に関連した神社などで「木製男根奉納」云々等と言うと「やめたれや!」という義憤が湧き起こるのであります。
弓削氏には幾つかの系統があるようですが、この弓削氏は物部氏系の弓削氏で、京都市右京区京北にも弓削という広大な地域があり、やはり道鏡との関係が伝わる寺などもあります。
さて、この由義宮跡までが実に遠い、これは別の徘徊の時に設定すべきであったなあと申す処。由義神社の中に「由義宮跡」の碑が建っていますが、神社そのものには牛頭天王社改めスサノオ社と変化した、所謂「よくある」神社です。
由義宮跡にすこしガッカリして、近鉄高安駅方面に戻ります。この線路を越えた辺りの地名は教興寺、1562年におこった畿内戦国最大の合戦である教興寺合戦の舞台です。有名な桶狭間の合戦が1560年ですから、それから2年後なのですが、殆ど知られていません。三好長慶と畠山高政の合戦で、長慶は飯盛山で総指揮を執り、出撃した総大将は三好義興で見事に畠山氏を打ち破っています。戦い上手な立派な武将だったのでしょう。後に義興が急死した時の長慶の落胆ぶりも宜なるかな、長慶自身もそれがきっかけとなって病死してしまうのですが、長慶在世ならば1567年の尾張のうつけ者の上洛もああは容易くはいかなかったでしょう。
合戦までは、教興寺は8町四方もあったという大寺でしたが、その後は衰微したとのことです。この教興寺合戦を示すものは、現在の教興寺境内の湯川直光の碑のみです。
宝永年間の道標
教興寺
畠山方、湯川氏率いる紀州勢は壊滅した。
門前の煙草屋、こういう店も少なくなりました。
本来、教興寺境内にあったと思われるのが大通寺です。「曾根崎心中」で知られる天満屋お初がこの辺りの出身だったそうで(となると小振りで愛くるしいこつまなんきんと呼ばれる女性だったのかも)、お初徳兵衛の供養墓がこの寺にあります。
境内でワイワイと騒いでいると「誰ぢゃい」と思われたのでしょう、御住職が出てこられて色々な話を聞かせて下さいました。「お初徳兵衛は心中せずにこの村で楽しく暮らした」という説を始め、もう人ごとに話は異なるそうです。なかなか興味深かったのは、「某とかゆう梅田の中華料理屋のオッサン、何の関係かは忘れたが梅田方面でお初徳兵衛を供養する中心になっておるとのこと。そのオッサンの枕元に二人が毎晩立つ故にオッサンはこれはてっきり大通寺が供養も何もしとらんためだと早合点し、スタスタとこの寺にやってきたところ墓には花も供せられ線香の煙もあがっている。このオッサンについてきた別のオッサン、迷っているのは二人やのうておまはんの心やと諭したとか。」という話であります。
帰り際には御住職におやつまで恵んでもらいました。こういう土地の人の話を伺うことができるのも徘徊の妙味であります。このお初徳兵衛の墓、御住職の知らぬ間に供養されていることもママあるとのことです。
ここより先は、真っ直ぐに北を目指します。業平に振られた高安の女が住んでいた時の雰囲気は残っているのでしょうか。山沿いにはニュータウンとやらが目立ちますが、無数の古墳を壊していることでしょう。
高安の里
本日の最終目的地は近鉄瓢箪山駅ですが、雨が降っている上に暗くなってきました。どうやら心合寺山(しおんじやま)古墳で打ち止めにせざるを得ないようです。中河内最大の前方後円墳であるこの古墳は、発掘調査の後に築造時の姿に復元されました。多くのタヌキやイタチ、蛇どもも住まいを逐われたことでありましょうが、古墳の形状というものが本当に良く判ります。副葬品も三種の神器にあたるものを含めて多く出土しており、「大王」級の人が葬られたことは間違いありません。宮内庁はさぞや悔しがったことでしょう。5世紀以前の天皇陵の比定はかなりエエカゲンなものですから、箸墓を始めとして、もうそろそろ学術調査を認めるべきだと思います。
前方部から後円部。
後円部から前方部
造りだし(儀式の場とは初めて知りました)
資料館の方に「瓢箪山は遠いかえ?」と聞くと「遠いわいな。」という返事、今日の徘徊は此処まで。バスで瓢箪山へ向かいます。実際は歩いても知れている距離でした。ここの商店街もなかなか面白いし、瓢箪山稲荷社の辻占も捨てがたいのでありますが、今日は近鉄で鶴橋を経て環状線で京橋。丸一屋で広島の酒ミヨシ正宗を思いきり飲むことにいたします。
(09年11月記)
こういう石標は見たのは初めてです。昭和天皇が堅下村のブドウ栽培の様子を侍従に視察させたとのことですが、当時の人々の感激がよく理解できます。ここいらから山裾の道に入りますと唐突に「業平道」の碑が現れます。
この場所ですと、業平は竜田越えをして高安の女のもとに通ったことになりますが、よく知られているのは十三峠越えです。十三峠を大和から越えて高安ですと、この場所は通らない。けれども最初からあれこれイチャモンを付けるのはやめましょう。業平は最後には高安の女をフッテしまうことでもありますし。十三峠越え辺りでは業平に振られて身投げをした梅野なる女の伝承もあります。伊勢物語にも記述されている「自分で飯をよそう行為」をしたばかりに業平が女に嫌気がさしたというのですが、業平は悪いヤツです。女性の心を弄ぶと言えば生誕100年とかで騒がれている太宰、こいつも悪いヤツで男のクズですが、こういう言い方をすると太宰が却って喜びそうなのでここまでにしましょう。
さて、大県にある鐸比古鐸比賣神社、今回の徘徊は此処がスタート、これまでは前哨戦であります。何時来ても美しいお宮さんです。後の若倭彦神社と若倭姫神社もそうですが、本来の地主神としての男女の神ではなく、もともとは別の処に祀られていた別名の神であられたのが、新たな名を付けて合祀(若倭彦神社と若倭姫神社は未だに別の処にある)したもののようで、神様同士をお見合いさせ、それではこれで婚儀相整いということで…てな形で今日に至っているものと思われます。
内陣内は森厳。
この鐸比古鐸比賣神社から程近いところに若倭彦神社、平野という集落の産土でもあります。
この付近、やや南の太平寺辺りから昔の集落の様子が実によく残っています。東高野街道はバイパスもできているのですが、未だに抜け道として利用する車も多いので、このような集落の中の道を抜けていきます。建物は新しいのですが、雰囲気は何となく懐かしい感じ、季節外れのスミレが咲いています。
次に到着したところが瑠璃光寺、勿論薬師如来を祀るお寺です。ただ、若倭姫神社はこの寺の中にあります。寺内はちょうど紅葉を迎え、なかなかの景色ですが他に参拝者はいません。
さざんかと紅葉
若倭姫神社
境内にある大坂相撲、高田川音吉の碑。
瑠璃光寺の入り口に置かれた石仏、本来は古墳の石棺のフタであったものを再利用して仏を刻んだものです。この界隈の山の手には無数の古墳があり、若倭姫神社も本来或いは古墳の祭祀が行われた場所が神聖視されて神社になったものやも知れません。石棺利用のこの仏、えげつないことに刃物の研ぎ石としても使用されていたそうで、そういうことを平気でしたのは14世紀~15世紀にかけてのことでしょうか。
瑠璃光寺を出て、さらに北上し、神宮寺墓地(この時期に全ての墓に仏花が供されているのはなぜでしょうか?)、八王子神社、恩智城跡を経て恩智神社に向かいます。恩智神社は元々は藤原氏の祖神たる天児屋根命を祭っていたとのことで、この神が枚岡に移り、さらに奈良の春日大社に勧請されたとかで、河内一宮枚岡神社を元春日と言うならば河内二宮恩智神社は元々春日と言って良いのですが、この神社も元春日ともいうようです。現在の祭神は大御食津彦命と大御食津姫命です。天児屋根命は天孫降臨の際の随身ということになっています。けれども、この位置と言い、近隣の製鉄遺跡と言い、本来は軍事担当の物部系の神を祭っていたところではないかとも思われます。藤原氏の前身たる中臣氏については出自不分明なところが多く、常陸や摂津三島との関わりも深いようなのですが、中河内のこの一帯に何か中臣氏の伝承は残されていないか、今後の宿題となりそうです。
珍しいのは、本殿の横にある見事な灯籠で日露戦争の凱旋灯籠ということです。こういう凱旋灯籠というものがあるということは、ここで初めて知りました。そういえば、大東亜戦争で戦死された方の名も見事な石碑に刻まれて、若倭彦神社にありました。斯様なことは食うや食わずの貧村ではできぬことで、中河内の富裕を知るべしと申す処。
八王子神社
恩智城趾
恩智神社拝殿
恩智神社本殿
日露戦役凱旋灯籠、別に凱旋碑もあり。
未だ紅葉せず。
恩智街道は信貴山に登る道でもあります。
ここで、一旦近鉄の恩智駅の方へ向かいます。東高野街道からは大きく外れるのですが、ついでに由義宮跡を見ておこうとの算段です。
恩智神社御旅所
近鉄の線路を越えると「弓削」等の地名が今も残り、孝謙天皇の看病禅師から法王へと登り詰めた道鏡の古里はここら辺りかということが判ります。その道鏡の出身地に造られた行宮が由義宮、続日本紀の神護景雲3年(769)10月条に「甲子。詔以由義宮爲西京。河内國爲河内職。賜高年七十已上者物。免當國今年調。大縣。若江二郡田租」とあり、いずれは大規模なものを造営すべきであったのかも知れませんが、その翌年には孝謙天皇が崩じて道鏡も失脚してしまいますので、そのまま朽ちてしまったようです。
道鏡については「道鏡がすわれば膝が三つある」的な隠微なイメージでよく知られているのですが、女帝と道鏡の関係は男女の仲と言うよりも寧ろ新興宗教の教祖様とそれに入れあげる信者というものであったのではと思われます。その後は藤原氏によって光仁天皇の擁立が行われ、いよいよこの氏族が栄えていく中で道鏡のイメージは貶められていったのでしょう。小生などは道鏡と言えば温厚で徳の高い僧侶を思い浮かべるのですが、現在でも世間では何かラスプーチンのように取り上げられているのは気の毒としか言いようがありません。各地の道鏡に関連した神社などで「木製男根奉納」云々等と言うと「やめたれや!」という義憤が湧き起こるのであります。
弓削氏には幾つかの系統があるようですが、この弓削氏は物部氏系の弓削氏で、京都市右京区京北にも弓削という広大な地域があり、やはり道鏡との関係が伝わる寺などもあります。
さて、この由義宮跡までが実に遠い、これは別の徘徊の時に設定すべきであったなあと申す処。由義神社の中に「由義宮跡」の碑が建っていますが、神社そのものには牛頭天王社改めスサノオ社と変化した、所謂「よくある」神社です。
由義宮跡にすこしガッカリして、近鉄高安駅方面に戻ります。この線路を越えた辺りの地名は教興寺、1562年におこった畿内戦国最大の合戦である教興寺合戦の舞台です。有名な桶狭間の合戦が1560年ですから、それから2年後なのですが、殆ど知られていません。三好長慶と畠山高政の合戦で、長慶は飯盛山で総指揮を執り、出撃した総大将は三好義興で見事に畠山氏を打ち破っています。戦い上手な立派な武将だったのでしょう。後に義興が急死した時の長慶の落胆ぶりも宜なるかな、長慶自身もそれがきっかけとなって病死してしまうのですが、長慶在世ならば1567年の尾張のうつけ者の上洛もああは容易くはいかなかったでしょう。
合戦までは、教興寺は8町四方もあったという大寺でしたが、その後は衰微したとのことです。この教興寺合戦を示すものは、現在の教興寺境内の湯川直光の碑のみです。
宝永年間の道標
教興寺
畠山方、湯川氏率いる紀州勢は壊滅した。
門前の煙草屋、こういう店も少なくなりました。
本来、教興寺境内にあったと思われるのが大通寺です。「曾根崎心中」で知られる天満屋お初がこの辺りの出身だったそうで(となると小振りで愛くるしいこつまなんきんと呼ばれる女性だったのかも)、お初徳兵衛の供養墓がこの寺にあります。
境内でワイワイと騒いでいると「誰ぢゃい」と思われたのでしょう、御住職が出てこられて色々な話を聞かせて下さいました。「お初徳兵衛は心中せずにこの村で楽しく暮らした」という説を始め、もう人ごとに話は異なるそうです。なかなか興味深かったのは、「某とかゆう梅田の中華料理屋のオッサン、何の関係かは忘れたが梅田方面でお初徳兵衛を供養する中心になっておるとのこと。そのオッサンの枕元に二人が毎晩立つ故にオッサンはこれはてっきり大通寺が供養も何もしとらんためだと早合点し、スタスタとこの寺にやってきたところ墓には花も供せられ線香の煙もあがっている。このオッサンについてきた別のオッサン、迷っているのは二人やのうておまはんの心やと諭したとか。」という話であります。
帰り際には御住職におやつまで恵んでもらいました。こういう土地の人の話を伺うことができるのも徘徊の妙味であります。このお初徳兵衛の墓、御住職の知らぬ間に供養されていることもママあるとのことです。
ここより先は、真っ直ぐに北を目指します。業平に振られた高安の女が住んでいた時の雰囲気は残っているのでしょうか。山沿いにはニュータウンとやらが目立ちますが、無数の古墳を壊していることでしょう。
高安の里
本日の最終目的地は近鉄瓢箪山駅ですが、雨が降っている上に暗くなってきました。どうやら心合寺山(しおんじやま)古墳で打ち止めにせざるを得ないようです。中河内最大の前方後円墳であるこの古墳は、発掘調査の後に築造時の姿に復元されました。多くのタヌキやイタチ、蛇どもも住まいを逐われたことでありましょうが、古墳の形状というものが本当に良く判ります。副葬品も三種の神器にあたるものを含めて多く出土しており、「大王」級の人が葬られたことは間違いありません。宮内庁はさぞや悔しがったことでしょう。5世紀以前の天皇陵の比定はかなりエエカゲンなものですから、箸墓を始めとして、もうそろそろ学術調査を認めるべきだと思います。
前方部から後円部。
後円部から前方部
造りだし(儀式の場とは初めて知りました)
資料館の方に「瓢箪山は遠いかえ?」と聞くと「遠いわいな。」という返事、今日の徘徊は此処まで。バスで瓢箪山へ向かいます。実際は歩いても知れている距離でした。ここの商店街もなかなか面白いし、瓢箪山稲荷社の辻占も捨てがたいのでありますが、今日は近鉄で鶴橋を経て環状線で京橋。丸一屋で広島の酒ミヨシ正宗を思いきり飲むことにいたします。
(09年11月記)
今回の徘徊は、司馬記念館のある俊徳道のすぐ近くでしたが、今度はそこに行く時に身構えるかも知れませんね。
光厳陵に関しての文章、またゼミナールハウスに行くことがあれば是非とも拝読したいと思っております。
お初さんと徳兵衛さんがここで供養されているのですか。ご住職との話楽しく読ませて頂きました。二人がどのルートをとって天神の森へ向かったかいまや無き蜆川や梅田橋はここだったのかと自転車でトレースしたのも懐かしいですね。それと心中せずにここで、、という説があるのも興味をいだきました。書かれている様に出会いも徘徊の大きな楽しみですね。
信貴・生駒の山麓から大阪平野を見下ろすと、あ今は家がぎっしりと建て込んでいます(フランス人が近鉄奈良線に乗っていると大阪もメガポリスだなあ、と言っていたのを思い出します、、)がついこの間、幸村のころはまだ水面が眺められたのだろうと想像するのも乙なものです。
ここは古代史を勉強していたら面白いところでしょうね。私も徘徊してみたくなりました。
天皇陵のことですが、ゼミの友の会の会員さんに天皇陵を訪ねるという4回連載記事を書いていただきました。次号はその最終回で光厳天皇などの山国陵をかかれていました。実はこの連載記事が 常照皇寺の和尚の目にとまり次号が出来たら読みたいと電話が入り友の会だよりを持参して少し話をしたのですが、禅寺の和尚って面白いですね。
gunkanatagoさんは徘徊の〆は地酒ですが、我が大阪時代のグループのハイキングの後は温泉+ちょっと一杯でございました。
太宰は、太宰と心中をした女の人の写真を初めて見て、結構別嬪だったので怒りがフツフツとこみ上げてきました。ヤツは他の女性にも同じようなことを言っています。文学で女を釣るスケコマシだと思います。道草様のお書きになられた文章を拝読するに、やはり太宰とは不倶戴天の方だと推察します。坂口安吾や織田作は好きなのですが。道鏡には悪いイメージを持っていません。書は人なりの論でいくと正倉院に残る道鏡の筆になる文書、小生は素人ですがなかなか見事なものだと思います。
古墳は、すべて調査すべきだろうと思います。一斉に全て掘るという訳にはいかないので、今すぐ発掘を認めても一応の調査が終わるまでには50年ぐらいかかると思います。邪馬台国の所在地論争なども、その過程で必ず解決していくと思うのですが。
それにしても、今回の大きな目的の一つであるワインの試飲が制限付きで残念でしたネ。恐らく、過去に際限も無く試飲し過ぎた徘徊師が存在したのではないかと・・・(誰とは申しませんが)。
徘徊堂さんは道鏡派(同類?)で反業平・太宰派ですか。かなり怒っておられますが。それもそうとして、各地の主要古墳はもう発掘調査すべき時期に来ているのではないですか。この時代に何も隠蔽する必要はないと思うのですが。宮内庁の構造こそこそ、仕分けしてほしいものです。
最後に辿り着くべき本来の楽天地で、ミヨシ正宗を存分に堪能された由。結構でした。それにしてもキンシ正宗とか、カタカナ表記は折角の酒が不味く感じられますが、如何ですか。