本日は師匠の案内で、琵琶湖疏水分線を辿る徘徊のその1であります。先だって、「堀川の水はどこから?」というmfujino様のコメントをいただいて、流れが復活した堀川を遡って紫明通のポンプ小屋に至ったのでありますが、今現在は流れそのものが続いている訳では無いけれども、水路としては賀茂川の対岸に続き、さらに高野川を越えて、はるか哲学の道まで続いていることを初めて知りました。
この流れが琵琶湖疏水の分線というやつで、師匠を始め、京都で育った人には自明のものであるようですが、天ざかる鄙の人間には初聞きの話でありました。京街道が終わったら、この分線に沿った徘徊をお願いしますと頼みました。本日はその第1回目であります。
本日は本線から分線への流れが分かりやすいようにということで、しばらくは本線に沿った徘徊となりました。集合は京都市営地下鉄の御陵駅。駅から出てすぐのところに琵琶湖疏水の建設に使用した煉瓦工場の跡があります。
釈迦に説法となることと思いますが、「琵琶湖疏水」は第3代京都府知事であった北垣国道(生野の変の残党ですね。幕末に捕まっていたら確実に六角獄舎で死刑になったはずですが、運の強い人だったのですね。)が東京奠都によって寂れた京都の産業振興のために琵琶湖の水を京都に引くことを計画し、大学を出たばかりの田邉朔郎を責任者に任じて造らせたものです。現在は1912年に開通したという第2疏水というのも地下を流れていますが、最初に疏水が開通したのは1890年、第1回帝国議会が開かれた年です。
御陵駅から北に歩き、鏡山地蔵尊の前を通ってしばらく行くと琵琶湖疏水に突き当たります。
鏡山地蔵尊
随分と水が少ない印象がありますが、今現在は地下の第2疏水の方が「水を流す」という目的では主役になっているからだそうです。
ここから、京都に向かって歩きます。先ず最初に鶴巻鶴一邸。染色の偉い先生だったそうで、設計は本野精吾、西陣にある京都考古博物館もこの人の設計ですね。
しばらく行くと第2トンネル、さらに進んで第2トンネルの京都側出口。それぞれの出口には明治の元勲による書が記された扁額が掲げられています。第2トンネルの場合は大津側(東側)が「仁以山悦智為水歓」で揮毫は井上馨、京都側(西側)は「随山到水源」で西郷従道です。
第2トンネル東側
第2トンネル西側
第2トンネルの少し西のところで、第2疏水(何かややこしいですね)がわずかに地表に顔を出しているところがありました。京都市の大切な水源ですから、不心得者が出ないように監視カメラも動いています。
ここに本邦初の鉄筋コンクリート橋が今も残っています。今現在は、かなり補強されています。
橋を渡った対岸には記念碑もありました。さて、この橋を渡ってどこに行くのだということになりますが、同行された方によると南禅寺に抜ける道があったようです。今現在は、道そのものは無くなってしまっているとのことです。
第3トンネルが見えていますが、ここから蹴上に姿を現すまでは、これに沿って歩く道もないので、三条通(旧東海道)に出て、道路沿いに峠を越えて、京都盆地に入ります。第3トンネルの東側扁額は「過雨視松色」で松方正義です。
大津の取水口から京都まで、その高度差はわずかに4メートルといいますから、ものすごく精密な設計と正確な施工技術がなければ水は流れませんね。
さて、三条通を歩いていると粟田口にあった刑場の名残らしき碑がいくつかあります。先ずは念仏碑でこの碑の下半分は後世に補修されたものです。
続いて題目碑。どこともそうなのですが、刑場自体は跡形もなく消えてしまっています。
刑場には関係がありませんが、車石を重ねて造った碑の台座や、写真ではわかりにくいのですが、車石で出来た石垣などがあり、京都・大津間に車石がびっしりと敷きつめられていたということが、その数の多さからも納得できます。
蹴上に着きました。向こうの方に煉瓦作りのポンプ室をみて、日向大神宮の常夜燈を眺めて再び疎水と「こんにちわー」であります。
蹴上のインクライン(傾斜軌道)は有名ですね。ここで、水を全部下に落としてしまうと遊園地の激流下りのようになってしまうのと、もはや北側に向けて水を流すことが出来なくなるために、こういう施設が設けられたようです。
このインクラインの所に田辺朔郎が個人的に建立した疏水工事殉難者の碑があります。この人が疎水工事に関わり始めたのは23歳の時です。若いのに非常に出来た人物であったことがわかりますね。
さらにインクライン
田辺朔郎像
このパイプは、多分発電用に水を落とすためのものでしょう。田辺の提案によって蹴上に発電所が造られ、その電気で市電が走ったことは有名です。
ということで、疏水分線の始まるところにやって来ました。第2疎水の水を合わせ水量は豊かです。
これに沿って歩いていくと、自然に有名な水路閣の上に到達します。できた当初は、普通の名称だったそうですが(何だったかは忘れた)、付けも付けたり水路閣と申す処。
水路閣上
いつも思うのですが、京都を舞台とした刑事ドラマなどで、何でわざわざ刑事と犯人とが鴨川の河原や船岡山のてっぺん、大沢の池の畔に行かねばならぬのか理解に苦しみます。この水路閣もまた、犯人の告白によく使われるところですね。
まあ、この水路閣が無ければ、哲学の道まで水は流れていきません。最勝院の前を通り、疏水が暗渠となるところまで行きます。つぎにこの疎水分線が流れを地表に現すところは若王子、そう哲学の道です。
一旦反転して、金地院の前を通り「ねじりまんぼう」へ。「まんぼう」というのは隧道のことをいいます。ここのまんぼうは斜めに造られているため、煉瓦の配列もねじられているそうです。
疏水記念館を見学して、永観堂へ。途中には、伏見城の門を移築したと言う「謎の門」がありました。
永観堂辺りは秋の紅葉のシーズンには身動きも取れぬ状態になります。本日は閑散としています。ここの幼稚園が大変ハイソなものであるということを同行の方から教えてもらいました。
永観堂
永観堂が切れたところを東に入れば若王子(にゃくおうじ)神社、哲学の道=疏水分線の始まりです。この付近で遅い昼食を摂ります。その名も「哲学蕎麦」。
ここから山に登っていけば同志社墓地、最近話題になった人物の墓がありますが、本日はパスです。
有名な俳優が経営されていた喫茶店「若王子」はもう随分と長いこと閉まっています。入り口にある馬車?は猫のベッドとなっていました。
鹿ヶ谷まで来ると大豊神社。なぜか岩手の酒が多く献納されています。ここは、狛犬・唐獅子に変わるコマねずみ、コマ猿、コマ鳶が有名です。
大国さんとネズミ、日枝神社と猿、これは理解できるが何故愛宕神社と鳶なのだということが話題となり、同行の方が「愛宕神社=防火の神様」ということで、江戸時代に防火の任を担った「とび職」から来ているのではないかといわれました。その後、家に帰って調べたところ愛宕山の天狗がかぶっている帽子を鳶帽子と言い、これが愛宕の神使が鳶である所以とのことですが、「とび職」説も捨てがたいですね。
大豊神社の御旅所を経て、鹿ヶ谷へ。平家打倒の密議が為された俊寛の鹿ヶ谷山荘跡はずっと山奥になると言うことでパス。本日の疏水分線に沿った徘徊はここまでです。
御旅
大文字方面
真如堂の方に向かいます。映画誕生の碑や去来の句碑を見て、田辺朔郎の屋敷跡へ。ここには書斎がそのままに残されていました。そして、少し年を取った田辺朔郎の胸像も。
真如堂
去来句碑
アホかと言われそうですが、真如堂と金戒光明寺が同じ岡で隣り合わせになっているというのに初めて気付きました。両方ともこれまで、何回か来たことがあるのに、この両方を一度に訪ねたことはなかったのです。金戒光明寺は幕末に会津藩の宿営となったことは良く知られていますし、維新の際の会津藩殉難者の墓もあります。ただ、昨今のブームに背を向けて、「そんなん知るかい、忘れたわ。」という感じの寺の有様は何かすがすがしい感じもします。山門付近など近所の子供たちの良い遊び場であるようです。
寺から丸太町通に出る途中に宮大工の家を示す大きな矢が上がった家があります。同じような家は上七軒にもありましたね。
そのままバスに乗って、街中の蕎麦屋へ(また蕎麦)。本日はここで一杯であります。さて、師匠も小生もともに花粉症と言うことで、師匠案内による徘徊はしばらくお休みです。疏水分線2は暖かくなってからになりそうです。
追記 コメント欄の鎌倉街道様の疑問について、師匠よりメールをいただきました。
分線の分読んだ。鎌倉街道様の疑問の件は当日触れそこなった。あの日はたまたま水があまりにも少なかったので興味が湧かないと思い予定を変更して説明をしなかった。
触れておられる水路は扇ダム放水路という。記念館の上付近では分線は水道局施設内の山麓を流れている。途中に放水路があり、そこからかなりの水を船溜まりに流している。水道局施設内なので見学はできない。御所水道ポンプ場などと同じだ。船溜まりの東端、インクラインの突端に西向けに放水口がある。インクラインと平行して流れる水だけでは 鴨東運河の水は足りない。たぶん半分以上は扇ダム経由と思われる。別の言い方をすれば分線と言う言い方が若干おかしいのであって疎水と第2疎水が合流した後は分線 が本流なのだ。本流が扇ダムで鴨東運河と分線に分かれると考えたほうがよい。
以上遅ればせの補足。
この流れが琵琶湖疏水の分線というやつで、師匠を始め、京都で育った人には自明のものであるようですが、天ざかる鄙の人間には初聞きの話でありました。京街道が終わったら、この分線に沿った徘徊をお願いしますと頼みました。本日はその第1回目であります。
本日は本線から分線への流れが分かりやすいようにということで、しばらくは本線に沿った徘徊となりました。集合は京都市営地下鉄の御陵駅。駅から出てすぐのところに琵琶湖疏水の建設に使用した煉瓦工場の跡があります。
釈迦に説法となることと思いますが、「琵琶湖疏水」は第3代京都府知事であった北垣国道(生野の変の残党ですね。幕末に捕まっていたら確実に六角獄舎で死刑になったはずですが、運の強い人だったのですね。)が東京奠都によって寂れた京都の産業振興のために琵琶湖の水を京都に引くことを計画し、大学を出たばかりの田邉朔郎を責任者に任じて造らせたものです。現在は1912年に開通したという第2疏水というのも地下を流れていますが、最初に疏水が開通したのは1890年、第1回帝国議会が開かれた年です。
御陵駅から北に歩き、鏡山地蔵尊の前を通ってしばらく行くと琵琶湖疏水に突き当たります。
鏡山地蔵尊
随分と水が少ない印象がありますが、今現在は地下の第2疏水の方が「水を流す」という目的では主役になっているからだそうです。
ここから、京都に向かって歩きます。先ず最初に鶴巻鶴一邸。染色の偉い先生だったそうで、設計は本野精吾、西陣にある京都考古博物館もこの人の設計ですね。
しばらく行くと第2トンネル、さらに進んで第2トンネルの京都側出口。それぞれの出口には明治の元勲による書が記された扁額が掲げられています。第2トンネルの場合は大津側(東側)が「仁以山悦智為水歓」で揮毫は井上馨、京都側(西側)は「随山到水源」で西郷従道です。
第2トンネル東側
第2トンネル西側
第2トンネルの少し西のところで、第2疏水(何かややこしいですね)がわずかに地表に顔を出しているところがありました。京都市の大切な水源ですから、不心得者が出ないように監視カメラも動いています。
ここに本邦初の鉄筋コンクリート橋が今も残っています。今現在は、かなり補強されています。
橋を渡った対岸には記念碑もありました。さて、この橋を渡ってどこに行くのだということになりますが、同行された方によると南禅寺に抜ける道があったようです。今現在は、道そのものは無くなってしまっているとのことです。
第3トンネルが見えていますが、ここから蹴上に姿を現すまでは、これに沿って歩く道もないので、三条通(旧東海道)に出て、道路沿いに峠を越えて、京都盆地に入ります。第3トンネルの東側扁額は「過雨視松色」で松方正義です。
大津の取水口から京都まで、その高度差はわずかに4メートルといいますから、ものすごく精密な設計と正確な施工技術がなければ水は流れませんね。
さて、三条通を歩いていると粟田口にあった刑場の名残らしき碑がいくつかあります。先ずは念仏碑でこの碑の下半分は後世に補修されたものです。
続いて題目碑。どこともそうなのですが、刑場自体は跡形もなく消えてしまっています。
刑場には関係がありませんが、車石を重ねて造った碑の台座や、写真ではわかりにくいのですが、車石で出来た石垣などがあり、京都・大津間に車石がびっしりと敷きつめられていたということが、その数の多さからも納得できます。
蹴上に着きました。向こうの方に煉瓦作りのポンプ室をみて、日向大神宮の常夜燈を眺めて再び疎水と「こんにちわー」であります。
蹴上のインクライン(傾斜軌道)は有名ですね。ここで、水を全部下に落としてしまうと遊園地の激流下りのようになってしまうのと、もはや北側に向けて水を流すことが出来なくなるために、こういう施設が設けられたようです。
このインクラインの所に田辺朔郎が個人的に建立した疏水工事殉難者の碑があります。この人が疎水工事に関わり始めたのは23歳の時です。若いのに非常に出来た人物であったことがわかりますね。
さらにインクライン
田辺朔郎像
このパイプは、多分発電用に水を落とすためのものでしょう。田辺の提案によって蹴上に発電所が造られ、その電気で市電が走ったことは有名です。
ということで、疏水分線の始まるところにやって来ました。第2疎水の水を合わせ水量は豊かです。
これに沿って歩いていくと、自然に有名な水路閣の上に到達します。できた当初は、普通の名称だったそうですが(何だったかは忘れた)、付けも付けたり水路閣と申す処。
水路閣上
いつも思うのですが、京都を舞台とした刑事ドラマなどで、何でわざわざ刑事と犯人とが鴨川の河原や船岡山のてっぺん、大沢の池の畔に行かねばならぬのか理解に苦しみます。この水路閣もまた、犯人の告白によく使われるところですね。
まあ、この水路閣が無ければ、哲学の道まで水は流れていきません。最勝院の前を通り、疏水が暗渠となるところまで行きます。つぎにこの疎水分線が流れを地表に現すところは若王子、そう哲学の道です。
一旦反転して、金地院の前を通り「ねじりまんぼう」へ。「まんぼう」というのは隧道のことをいいます。ここのまんぼうは斜めに造られているため、煉瓦の配列もねじられているそうです。
疏水記念館を見学して、永観堂へ。途中には、伏見城の門を移築したと言う「謎の門」がありました。
永観堂辺りは秋の紅葉のシーズンには身動きも取れぬ状態になります。本日は閑散としています。ここの幼稚園が大変ハイソなものであるということを同行の方から教えてもらいました。
永観堂
永観堂が切れたところを東に入れば若王子(にゃくおうじ)神社、哲学の道=疏水分線の始まりです。この付近で遅い昼食を摂ります。その名も「哲学蕎麦」。
ここから山に登っていけば同志社墓地、最近話題になった人物の墓がありますが、本日はパスです。
有名な俳優が経営されていた喫茶店「若王子」はもう随分と長いこと閉まっています。入り口にある馬車?は猫のベッドとなっていました。
鹿ヶ谷まで来ると大豊神社。なぜか岩手の酒が多く献納されています。ここは、狛犬・唐獅子に変わるコマねずみ、コマ猿、コマ鳶が有名です。
大国さんとネズミ、日枝神社と猿、これは理解できるが何故愛宕神社と鳶なのだということが話題となり、同行の方が「愛宕神社=防火の神様」ということで、江戸時代に防火の任を担った「とび職」から来ているのではないかといわれました。その後、家に帰って調べたところ愛宕山の天狗がかぶっている帽子を鳶帽子と言い、これが愛宕の神使が鳶である所以とのことですが、「とび職」説も捨てがたいですね。
大豊神社の御旅所を経て、鹿ヶ谷へ。平家打倒の密議が為された俊寛の鹿ヶ谷山荘跡はずっと山奥になると言うことでパス。本日の疏水分線に沿った徘徊はここまでです。
御旅
大文字方面
真如堂の方に向かいます。映画誕生の碑や去来の句碑を見て、田辺朔郎の屋敷跡へ。ここには書斎がそのままに残されていました。そして、少し年を取った田辺朔郎の胸像も。
真如堂
去来句碑
アホかと言われそうですが、真如堂と金戒光明寺が同じ岡で隣り合わせになっているというのに初めて気付きました。両方ともこれまで、何回か来たことがあるのに、この両方を一度に訪ねたことはなかったのです。金戒光明寺は幕末に会津藩の宿営となったことは良く知られていますし、維新の際の会津藩殉難者の墓もあります。ただ、昨今のブームに背を向けて、「そんなん知るかい、忘れたわ。」という感じの寺の有様は何かすがすがしい感じもします。山門付近など近所の子供たちの良い遊び場であるようです。
寺から丸太町通に出る途中に宮大工の家を示す大きな矢が上がった家があります。同じような家は上七軒にもありましたね。
そのままバスに乗って、街中の蕎麦屋へ(また蕎麦)。本日はここで一杯であります。さて、師匠も小生もともに花粉症と言うことで、師匠案内による徘徊はしばらくお休みです。疏水分線2は暖かくなってからになりそうです。
追記 コメント欄の鎌倉街道様の疑問について、師匠よりメールをいただきました。
分線の分読んだ。鎌倉街道様の疑問の件は当日触れそこなった。あの日はたまたま水があまりにも少なかったので興味が湧かないと思い予定を変更して説明をしなかった。
触れておられる水路は扇ダム放水路という。記念館の上付近では分線は水道局施設内の山麓を流れている。途中に放水路があり、そこからかなりの水を船溜まりに流している。水道局施設内なので見学はできない。御所水道ポンプ場などと同じだ。船溜まりの東端、インクラインの突端に西向けに放水口がある。インクラインと平行して流れる水だけでは 鴨東運河の水は足りない。たぶん半分以上は扇ダム経由と思われる。別の言い方をすれば分線と言う言い方が若干おかしいのであって疎水と第2疎水が合流した後は分線 が本流なのだ。本流が扇ダムで鴨東運河と分線に分かれると考えたほうがよい。
以上遅ればせの補足。
日向大神宮は紅葉がきれいですし、「アッツ 行ったことがあるところが多い。」と思いつつも、ただ歩いたことがあるだけで、やはり説明を聞きながら歩き、あちこちを巡ることができるのは素晴らしいことです。
野村美術館の前にある学校の横を、すごい勢いで流れる水は何処に消えるのでしょう? 野村の横に流れがあるのですが、左程の量が流れてませんし。 地下を通ってあの辺りのお屋敷に流れ込んでいるのでしょうか?
大きな矢が軒下に上がっているのは宮大工のお宅なのですか。 上七軒には何回か行っているのですが、「老松」ばかりに気を取られていて、全く気が付いてません。 これからは、菓子ばかりではなく、変わった飾りのある家にも気を配ります。 教えてくださってありがとうございました。
真如堂は、極楽寺というのがお寺の名前だとお寺の方から伺い、「極楽寺から来ました。」と言いましたら、即、真如堂の方が反応してくださいまして、話し込んでしまったことがあります。
当日師匠が指摘されていた、標高差、これはビオトープで小川を作るときに苦労したことを思い出し、4,000分の1でしたっけ、当時の測量技術の高さは凄かったんですね。それに第一トンネルの工法も疎水記念館で学びましたし、ここで見た航空写真のなかった時代の鳥瞰図も素晴らしかったですね。この疎水計画は以前からあった様ですが、それを推進した北垣国道も凄いし、あの若さでそれを実現させた田邉朔郎も凄いとしか言いようがありません。最後に訪れた百石斎でしたっけ、心に残りました。
大豊神社の狛犬ならぬ狛ネズミやら鷹などは面白かった。愛宕さんと江戸の火消しのやりとりも面白いですね。真如堂で見た、映画誕生の碑、ここにはわが故郷の藤野斎さんの子、牧野省三が出てきて嬉しかった(^^)v
金戒光明寺、あ、これは要塞になりうるなあと丸太町通へ向かいつつ考えました。
ねじりまんぼう、その技術については分かるのですが、何でわざわざ斜交いにトンネルを掘ったんかいな?というのが我が疑問です。普通に考えたら直角に掘ればいいのにわざわざ斜交いに掘ったのは道が関係するのでは?今昔マップにそれらしき道筋がある様に見えますがよく分かりません。ただその当時の道筋に合わせるために掘ったのではという仮説を立てています。
水路閣をいろいろ見ていた時に目にした最勝院へ帰られる僧侶の素足姿は清々しさを感じました。
いい徘徊に参加させて頂き感謝しています。何かとお世話になりありがとうございました。
あ、補足です。師匠からその夜今回のコースをテーマにした非観光地観光の原稿が入ってました(^_')
今回、歩いたところは鎌倉街道様にとっては「庭」みたいなものですね。
野村美術館等に流れ込む水も明らかに疏水分線の一部だと思います(山から流れてくる水も合わさっているでしょうが)。このあたりのお屋敷には名庭が多いようですね。
なるほど、極楽寺から極楽寺ですね。鎌倉の極楽寺は、尊敬する忍性が開山ですね。こちらの極楽寺=真如堂に前に来たときには、映画の碑を見た覚えがありませんから、考えてみれば何十年も来なかったのかも知れません。
上七軒の宮大工の家、だいぶ前に師匠等と徘徊したときに教えてもらいました。こちらの方の矢は極彩色でした。
ああして、歩いてみると本当に北垣国道や田辺朔郎の立派さ、そして当時からの日本の土木技術の精密さに気付きますね。今、これをやれといわれても出来る技術を持っている国は少しなのではないでしょうか。疏水記念館で見た田辺朔郎が描いた俯瞰図もすごかったですね。確か、琵琶湖と敦賀を結ぶ運河も計画されていたように覚えていますが、今やかなわぬ夢となりましたね。
山国隊の隊長の息子さんが有名な映画監督、一度等持院のお墓に詣らないとあきませんね。そういえば、新聞で連載していた小説、単行本になったのでしょうか?
永観堂も真如堂も観光シーズンにはゲーが出そうになりますが、閑散としていてよかったですね。水路閣辺りはさすがに人が多かったですが、狂気のシーズンにくらべたら全然ととうことで、ここも良かったと思います。哲学蕎麦もうまかったですが、mfujino様も何か蕎麦派になってきておられるのでは。
ねじりまんぼうはさすがにアーチの煉瓦を見るとねじれているなというのが分かるのですが、ぱっと見た目には普通の隧道でしたね。
非観光地観光、新春号のは読ませてもらいました。ひょっとして100年分ぐらいストックがあるのでは(笑)。
数年前、琵琶湖歩きをしていたころ、三井寺や大津絵の店の近く、浜大津港に琵琶湖疏水の取り口があり、飽きずにながめていたときに聞いた話ですが、疎水の取り口の標高が凡そ平安神宮の鳥居の高さとか、その高低差で水が流れるのかと。そういえば黒谷さんから見た平安神宮の鳥居も同じ位の高さでしたね。その高低差がぼやっと判るような気になりました。
そのとき疎水取り口近くの琵琶湖競艇場が100円で「一服していき」とガードマンの方に聞いて、机つきの席で生まれて初めて競艇なるものを見ました。
今回の蹴上~哲学の道、真如堂辺りはひとりでずい分ぶらぶらしましたが、解説付きというのは初めてで教えていただく幸せも良いもんだな、と頬が揺るみぱ無しでした。哲学蕎麦も名によらずあっさりと美味しかったです。
家から家までで26000歩余りで、もはや今年の最高歩数でした(笑う) 3日後に少し腰が張った感じでしたがもうそれもとれました。
ほんとにありがとうございました。
黒谷から見た平安神宮の鳥居、本当ですね、その視点から見たら高低差がよく分かって面白いですね。それにしても、浜大津港で既に琵琶湖疏水の取水口を見ておられるとはサスガ!です。小生も浜大津港には何度も行っているのに、その取水口は見たことがありません。今回のことで、一度見にいかんとあかんなと思ったところでした。
今回の歩き、しっかりとしておられましたよ。師匠の歩く速度がおかしい(爆)訳で、普通の町歩きなら、ささ舟さまの歩きが標準だと思います。哲学蕎麦は柚子が良かったです。
実は、かってあまりにも沢山の水の流れに関心を持ち、学校の横を落ちてくる水で濡れながら歩いたことがあります。 でも、すぐに行き止まりでした。 で、この水は何処へ行くのだろうとその時とても不思議でした。 野村美術館との間の道路ですごい水量が突然消えてしまうのですから。
京都は自然に出来た地下水脈ではなく、地下を縦横無尽に水路が作られているのでしょうか。 水がどこから来て何処へ行くのか、追いかけて行ったら確かに面白いですね。 今それをなさっておいでなのですね。
琵琶湖の塩津から敦賀への運が計画の話がでましたのでまたまた登場であります。この構想は平安時代の清盛からはじまり数々の計画があった様で、その中の一つに田辺朔さんの名前も出てきますね。技術の問題もあったのでしょうが、20km程の距離であり、そうびっくりするものでもないかなあという気がしないでもないですが、資金の問題もあるでしょうし、そうこうするうちに鉄道の発達で計画は立ち切れになったのでしょう。ただ北前船で運ばれた物資が敦賀で降ろされ、塩津へ、そして湖上を通って大津へ、疎水で京都へ、伏見へ、そして大阪へと淀川で運ばれたり、またその逆で物資が行き来すれば一大動脈であったろうし、土木技術者ならその設計図を書くのは多いな夢だったことでしょうね。蹴上で発電された電気で初の市電を走らせたことだけでなく、物流網という面でもこの疎水の意味は壮大な計画の一部だったのかもしれません。かのデ・レーケさんはどう見ていたのかも知りたいものだとも興味をいだきます。
この大津から京都への陸路で欠かせない遺蹟はやはり車石ですね。当日も記念碑や峠道の壁にもたくさん使われていて往時を偲ぶことが出来ました。それと三条通の峠の切り通し、師匠と車社会前はこの辺まで切られていて、その後車社会になってここまで広げられたのではなどと話しながら歩くのは楽しかったことです。
昔の物流を考えるに水上交通は物資の運搬には欠かせません。その意味で我が故郷は切った木を大堰川(桂川)で流すことが出来るという地政学を思い出しますし、また琵琶湖の湖上水運を勉強しに大浦の丸子船の博物館へも足を運ばねばとも考え始めました。
疎水と我が郷里の関連ですが、疎水工事に触発されて、八丁川からコシキ峠(越木峠?)の下にトンネルを掘って小塩川へと木を流す計画がありました。計画は承認されたのですが資金の目処が立たずたちぎれになったのですが、明治の人の意気込みを感じる逸話と理解しています。
あ、それと蕎麦派の話ですが、私は以前から蕎麦派でございます。しかもそれはザルで食べないと、と思っています。ただ師匠はワサビを使われませんね。私はワサビは大好きですので、出来るだけ師匠の傍に座って残されたワサビを、こっそりと頂きますね、と大きな声で泥棒して汁に入れるのが楽しみでもあります(^_')
牧野省三の小説ですが、高野澄さんが京都新聞に連載された「オイチニーのサン」、その後単行本として出版されました。私は古本を見つけて購入したのですが、最初の方を読んだだけで読了していません。当日見た「映画誕生の碑」には、ここ真如堂で最初の撮影が行われた、と記してあったと記憶していますが、高野さんはこの小説の中でそれが真実かは少し疑惑を持っておられるような書き方をしておられますね。劇映画という意味では既に東京でいくつかの作品がつくられていたとも書いておられますし...牧野省三の子孫の勇み足の可能性もあるかなとも思いますが、これはよく調べてみないと分かりません。
話があちこちに飛ぶに任せて書いてしまいますが、蹴上、ってなんで蹴上という地名なんやろか、京都から山科への渋谷街道、師匠はじゅくじゅくした地、しる谷だろうといっておられたのを思い出すのですが、それと関連すかなと思っていたので、ググるって見たら義経が馬に乗って横切った平家の武士に泥を蹴上げられてその9人を切り捨てたという話が語源だとか。
調べてみたら、南禅寺の水路閣は、京都の景観を壊すというので、当時反対する者も多かったそうですね。エッフエル塔や京都タワーも識者の反対があった。しかし、ものの考え、とくに快、不快、違和感のある、無しは、慣れるかどうか、という比重が大きい。慣れたら違和感はなくなる。大豊神社のコマネズミも、最初は識者の顰蹙を買ったかもしれない。キワものだから。今じゃ、ネズミを見に行こうと人が集まります。識者の声なんて、その程度のもの、と思ったしだいです。
今回、食事が蕎麦に始まり、蕎麦に終わるもシャレていますね。私も、蕎麦の連続の食べ比べは好きです。池波正太郎の小説によれば、江戸っ子も蕎麦屋飲みが好きですね。
それにしても、緻密に観察され覚えておられることに脱帽です。小生などは、この辺りは数え切れないぐらい通りましたが、何も考えていませんでした。まあ、哲学の道にある水路が琵琶湖疏水分線だと言うこと自体も知らなかったし(爆)。
ずっと以前に、この水路がどこに行くねんという疑問は持ったことがありました。その時は何か遠く一乗寺の方まで行きそうなので、徘徊を中断した覚えがあります。今なら、哲学の道から一乗寺など目と鼻の先なのですが。