1700年代に、高槻市の番田から茨木市内を経て、摂津市で神崎川に流れ込む水路である「番田井路」が完成しました。そもそもは、その約半世紀前、高槻藩によって排水路として作られたもののようですが、この完成によって堂々たる用水路にもなったと考えられます。
その後、この井路は漸次拡大され、淀川に流れ込む川としては芥川水系から檜尾川水系まで延伸されたと了解しておるのですが、きちんと資料を見て書いている訳でもないので、これは間違っているかも知れません。
高槻で武将と言えば、狂信者である高山右近ばかりがやたらに知られているのですが、1649年以後、高槻の殿様であった永井氏などはなかなかに素晴らしいもので、その中でも初代の直清はかなりの名君であったようです。西国街道沿いの名所・旧跡に顕彰碑を建てたことでも知られる殿様ですが、番田井路もまたこの殿様が高槻に入封してすぐに始めた事業でした。
いずれこの番田井路を神崎川まで歩くことを考えているのですが、本日はその延伸部かな等と勝手に思っている水路を辿ります。
高槻から来ると枚方大橋の手前に「大塚」という地名の所があります。この大塚付近に流れている水路を上流に辿っていきます。この水路は何という水路なのか、橋などがある度に確認しますがどこにも記されていません。
場所によっては水路の横が遊歩道になっていたりしますが、上流部が二つに分かれているところでは、その一方が既に埋められていたりもします。
向こうに社叢らしきものが見えたので、用水路を離れます。この辺りの鎮守である大塚神社です。
「大塚」の名の由来が清和天皇の冠にあったというのは初聞きですし、31歳で亡くなった方なのに廻国伝説があったというのも驚きです。まあ鎌倉幕府5代執権の最明寺入道時頼なども37歳で亡くなっているのに廻国伝説がありますから、歳は関係ないのかも知れません。
神社では左義長の準備が為されていました。御祭神は高御産巣日神と神皇産霊神となっていますが、造化三神の中で一人「天之御中主神」を外して祀ってあると言うことは、この2柱を夫婦の神と意識してのことと思われ、本来は「大塚彦」「大塚姫」といった土地の神を祀ったものであるかも知れません。
この神社の裏手にあるのが大塚殿神社で、こちらの方はずばり「王塚」を祀っているようです。
この神社から水路に復帰してしばらく行くと、淀川の土手が見えました。水路の土手に向かう部分は埋め立てられていましたが、その向こうに何やら碑が見えました。
近づいてみると鳥ヶ下用水樋門址の碑でした。これが番田井路とどのような関係なのか、またまた図書館に籠もらねばならぬようです。
分岐点まで戻ってさらに上流を目指します。ここいらにはまだまだ田畑も残っています。
この後は、どこをどう歩いたかわからなくなりました。しかし、あちらこちらで用水路が流れているのを見ました。按ずるに、大規模に広い部分が開発されて宅地化される場合は、その地域を流れている用水路なども埋め立てられてしまうのでしょうが、ボチボチとミニ開発が続くところでは、残った田畑に用水路が必要だと残され、最終的に田畑が無くなっても用水路は生き残るといったことがおきていると考えられます。
右は東海道新幹線
城東町の辺りで国道176号に出ました。保存はされたものの向きが残念な道標を見て、本日も「おかえりなさーい」の店に行きます。
丸一屋の呪縛をようようにして離れたなあと思ったら、今度はこの店にばかり来ています。考えてみれば、真っ昼間から飲めるからでしょうね。
その後、この井路は漸次拡大され、淀川に流れ込む川としては芥川水系から檜尾川水系まで延伸されたと了解しておるのですが、きちんと資料を見て書いている訳でもないので、これは間違っているかも知れません。
高槻で武将と言えば、狂信者である高山右近ばかりがやたらに知られているのですが、1649年以後、高槻の殿様であった永井氏などはなかなかに素晴らしいもので、その中でも初代の直清はかなりの名君であったようです。西国街道沿いの名所・旧跡に顕彰碑を建てたことでも知られる殿様ですが、番田井路もまたこの殿様が高槻に入封してすぐに始めた事業でした。
いずれこの番田井路を神崎川まで歩くことを考えているのですが、本日はその延伸部かな等と勝手に思っている水路を辿ります。
高槻から来ると枚方大橋の手前に「大塚」という地名の所があります。この大塚付近に流れている水路を上流に辿っていきます。この水路は何という水路なのか、橋などがある度に確認しますがどこにも記されていません。
場所によっては水路の横が遊歩道になっていたりしますが、上流部が二つに分かれているところでは、その一方が既に埋められていたりもします。
向こうに社叢らしきものが見えたので、用水路を離れます。この辺りの鎮守である大塚神社です。
「大塚」の名の由来が清和天皇の冠にあったというのは初聞きですし、31歳で亡くなった方なのに廻国伝説があったというのも驚きです。まあ鎌倉幕府5代執権の最明寺入道時頼なども37歳で亡くなっているのに廻国伝説がありますから、歳は関係ないのかも知れません。
神社では左義長の準備が為されていました。御祭神は高御産巣日神と神皇産霊神となっていますが、造化三神の中で一人「天之御中主神」を外して祀ってあると言うことは、この2柱を夫婦の神と意識してのことと思われ、本来は「大塚彦」「大塚姫」といった土地の神を祀ったものであるかも知れません。
この神社の裏手にあるのが大塚殿神社で、こちらの方はずばり「王塚」を祀っているようです。
この神社から水路に復帰してしばらく行くと、淀川の土手が見えました。水路の土手に向かう部分は埋め立てられていましたが、その向こうに何やら碑が見えました。
近づいてみると鳥ヶ下用水樋門址の碑でした。これが番田井路とどのような関係なのか、またまた図書館に籠もらねばならぬようです。
分岐点まで戻ってさらに上流を目指します。ここいらにはまだまだ田畑も残っています。
この後は、どこをどう歩いたかわからなくなりました。しかし、あちらこちらで用水路が流れているのを見ました。按ずるに、大規模に広い部分が開発されて宅地化される場合は、その地域を流れている用水路なども埋め立てられてしまうのでしょうが、ボチボチとミニ開発が続くところでは、残った田畑に用水路が必要だと残され、最終的に田畑が無くなっても用水路は生き残るといったことがおきていると考えられます。
右は東海道新幹線
城東町の辺りで国道176号に出ました。保存はされたものの向きが残念な道標を見て、本日も「おかえりなさーい」の店に行きます。
丸一屋の呪縛をようようにして離れたなあと思ったら、今度はこの店にばかり来ています。考えてみれば、真っ昼間から飲めるからでしょうね。
ネットを少し徘徊してみて、おっと思ったのが、安威川などは源流が亀岡ってこと。以前小塩山の裏から亀岡盆地~桂川という川の流れの話があったと記憶しているのですが、亀岡から直接淀川への水流もあるということですね。まあ亀岡がイメージするよりも南にまで広がっているだけのことですが。この高槻界隈も北摂から淀川への水流によるデルタと言えるのでしょうか。地形図や今昔地図で楽しませていただきました。明治時代には周りは田んぼばっかしですし、この水路も存在感を感じますね。後編期待します。
この芥川が淀川に合流する辺りは、ズブズブのデルタ地帯だったのでしょうね。高槻藩が排水路を作って新しい耕地がたくさん開けたということです。
なるほど、安威川は亀岡から流れてきていたのですね。今、初めて知りました。地図を見て、高槻市の田能辺りも安威川水域だと知ることが出来ました。ありがとうございます。
*1枚目の写真の左手に見える立派な庄屋風の家が印象的です。
*大塚←王塚(冠を埋めた)、なんで埋めるの?ですね。そういえば六甲山も6つのカブトを埋めたという伝説があります。そういう呪術的行為があったのでしょうかね。
*高槻といえば、狂信的な高山右近の土地・・で思い出したのが、比例復活したあの民主の辻0議員(中核派)。今も高槻の選挙民は狂信の街かと・・
そういえばそうですね。高槻であのようなおばはんがそこそこの票を取るというのは狂信者高山右近の呪縛というかそういうものが未だ残っているのかも知れませんね。
庄屋風の家、国道から少し入っただけなのですが、まだまだ昔の感じが残っています。