本日の飲み会は、洛西口に7時集合。ということで、徘徊は長岡天神駅から始めます。
本論に入る前に、師匠から「都加母止塚に説明板が建った」とお聞きしましたので、久しぶりに行って来ました。何の塚であるかがわかったとかいう点では特に目新しいことは無いのですが、塚はきれいに整備されて、「まっすぐ」になっていましたし、江戸時代には「鶏塚」と言われていたことなどは、今まで知らなかったことで、高槻市の教育委員会にはこのままどんどんと追求してもらいたいですね。今見たら1月に既に建っているのですね。長いことご無沙汰しました。
さてさて、長岡天神駅を降りてすぐに西に向かいます。和菓子屋の「ひやしあめ」の旗、暑苦しい色で書いてあるのですが、なぜか涼しい感じがします。昔、唐招提寺門前に昔からの茶店があり、夏の暑い最中に同寺を訪れたときには、その茶店で冷やしあめを飲んでいました。クーラーも普及していないころでしたが、この時に「冷やしあめ」=「涼しい」ということがすり込まれたようです。
大きな道路に出ると非常に新しい道標、砲弾のように見えるのはここいらの名物のタケノコです。この道標に従って乙訓寺を目指します。
駅をちょっと離れたら、田んぼが広がっています。本日は前回の京街道その2の日から考えると、罰が当たったような猛暑ですが、田畑があるとやはりちょっと涼しいですね。
乙訓寺にはすぐに着きました。裏門から入ります。この寺は久しく廃絶していたものを元禄年間に将軍綱吉の母の桂昌院が隆光に相談して再興したのことで、元禄年間の門が正門、裏門共に残っています。綱吉や桂昌院等は久しく「悪者」乃至「愚者」としての扱いを受けてきましたが、近年では政策を正当に評価する研究も進んでいるようです。隆光の如きは例の「生類憐れみの令」の発案者ということにされ、「怪僧」などと言われてきましたが、それが冤罪であることは今はあきらかです。第一、何回かに分けて出された生類憐れみの令自体がそんなに悪法ではない。門には元禄年間の特徴がよく現れているそうですが、門外漢である小生にはさっぱりわかりません。
裏門 外からー
裏門 内からー
ぼたんの寺としてしられるこのお寺、シーズンにはそれなりに賑わうのですが、本日は誰もいません。それどころかお寺の人もどなたもいらっしゃらない感じです。
モチノキ
この寺は奈良時代の終わりには既に存在しており、785年(延暦4年)、長岡京造営使の藤原種嗣暗殺事件に連座して皇太子を廃せられ、逮捕された早良親王が幽閉された処としても知られています。早良親王は淡路に流される途中で絶食して死にますが、桓武天皇の後半生はこの親王の怨霊に悩まされる人生ということになります。
早良親王供養塔
考えてみれば、桓武天皇の人生の前半は桓武が皇太子になるために失脚し、五条の于智に流され、母子同日に死亡した井上内親王と他戸親王の怨霊に悩まされ、後半は自らが作り出してしまった早良親王の怨霊に祟られる人生であった訳です。桓武の皇太子である安殿(あて)親王(後の平城天皇)に早良親王が祟っているという卜筮が出た直後から早良親王に対する謝罪が始まり、最終的には事件が無かったこととし、崇道天皇の称号を与えて、その怨霊を鎮めようとしました。
桓武天皇自身が亡くなる直前の勅で「藤原種嗣暗殺事件に関与したもの全ての罪を許すこと」と「崇道天皇に対しては諸国の国分寺で春と秋の2回、供養のために金剛般若経を読誦すること」という命を降しています。この勅が桓武天皇の最後の勅であったことを考えると、桓武天皇の人生に関与した怨霊の位置の大きさが理解できます。この直前には井上内親王と他戸親王に対しても罪を無かったこととする処置が執られています。その後も、権力抗争の中で多くの怨霊を生み出してしまうのですが、菅原道真の怨霊が出現するまでは最大の怨霊は早良親王でした。
鐘楼
本堂
鎮守八幡
花々の中にさりげなく置いてある手水鉢、よく見るといっぱい穴が穿ってあります。そうこれは「盃状穴」です。師匠と同行する徘徊の今のところの視認目標は「道標」、「力石」、「仁丹の地名表示」、「石灯籠」、「道路元標」といったところでしょうか。第5の柱にしようと思っているヤツがこれで、何らかの大願成就のために硬い石を穿って穴をあけていくものです。現在は、その習俗は絶えていますが、古代から近代まで、密かに受けつがれてきた「まじない」と言えるものです。
以前、八尾の徘徊の途中で、穴ポコだらけの手水鉢を見、その時は「なんじゃこれは?」と思ったものの、その後は完全に忘れておりました。
ところが、普段は馬鹿にしている関西の徘徊テレビ番組の中で、この盃状穴研究の大家を紹介したものがあって初めてそういうものの存在を知った訳です。かねがね「ぶらタモリ」の如きおもしろい徘徊番組が関西には無い、無知蒙昧の芸人があれこれと食い歩くだけではないかと完全に馬鹿にしておったのでありますが、まあ何からでも学ぶことはあるということの証左であります。それにしても普段は見ない番組のしかもちょっと目を向けた5分ほどの間にまさにその「盃状穴」の紹介をしておったというのは幸運でありました。
よって、以後の集団徘徊では先の5つに加えて「盃状穴」、そして「唐獅子・狛犬(これも型式で編年出来ると言います)」の7つが「要注意事項」ということになります。
弘法大師手植えの木
表門
さて、乙訓寺を出た後は、例によって携帯の地図で近くの神社を見つけます。先ず最初が「赤根天神社」。「天神」というと、すぐに「菅原道真」が思い浮かびますが、普通名詞としての天の神ならば、これは大昔からいろいろな神様がおられる訳です。菅原道真以前はこれらの神様を天神として奉斎していた訳で、稀にこのような形で道真以前の天神信仰を確認することが出来ます。ここでは「伊弉諾命(いざなぎ)」「伊弉冉命(いざなみ)」が祀られているとありますね。
けれども、本殿の覆い屋には菅原氏の梅鉢の紋がありました。建築業者が「天神さん」ということで気を利かせただけなのか、あるいは一時期は菅原道真も祀られていたのか。祭神が突然変更されるということはママあるようなので、ある時点で道真以前の昔に復するというようなことがあったのかも知れませんね。まあ古い地誌などで調べればいいのですけれども。「猫にエサをやるな」というのがせこい。
てくてくと歩いているとシャレではありませんが、向こうに向日神社の丘が見えてきました。
その途中にあるのが向日神社とも深い御縁だという角宮(すみのみや)神社。御祭神を見ると鴨氏系の神社のようです。中心としての御祭神は火雷神と言うことです。純粋な稲妻の神としての農耕神なのか、これまた菅原道真が習合したものなのかはわかりません。犬の散歩禁止がせこい。
この神社には立派な拝殿がありました。立て札は角の異体字で5角目が突き出ている文字が用いられていましたが、それがわざわざ添削されていたのも面白かったです。
社頭の道標
角宮を辞して向日神社に向かいます。小畑川に出ました。
以前に来たときも裏側から登りましたが、本日もまた裏側からです。
向日神社は初めて参拝したときに「本来首長層の埋葬地であったものがやがては清浄なる地として意識されるようになり、やがては死穢などが一切許されない聖地となる」ということを強く意識したところでした。ここでは火雷神は火雷天神となっており、菅原道真に近づいた表記になっています。御祭神の筆頭にあげられている向日神というのが地主神で、遡れば大和朝廷と手を組んだ遠い昔の首長霊であるのかも知れません。犬の散歩禁止と猫の餌やり禁止がセコイ。
丘の東端に行き、藤原種嗣や豊臣秀吉も見たであろうと以前に向日市の資料館の学芸員の方に教えてもらった景色を眺めます。向こうの山は天王山です。また、この辺りは弥生時代の集落遺跡でもあります。
丘の西に向かうと元稲荷山古墳、非常に古い前方後方墳です。3世紀末や4世紀初頭の段階では前方後円墳を作ることが出来るのは大王の一族に限られ、大和王権に臣従した地方の有力豪族には前方後方墳を作ることが認められていたのでしょうか。
この古墳の横の道から下に降りたので、結局今日も表参道は歩かずじまい。わかりにくいのですが、途中に植えられている桜、「黄桜」というのが本当にあるのですね。
向日市文化資料館に寄ります。師匠と久我に蕎麦を食いに行って以来です。入り口に都稲荷山古墳の石室の天井石が置かれていました。
阪急の東向日駅の方に坂を下っていくと、西国街道と出会います。そこには多くの道標が集められています。
と、ここでものすごい雨と出会い、近くのスーパに閉じこもることになりました。まあたこ焼きが食えたからそれはそれでいいのですが。ビールを置いていないというのが残念でした。
雨が上がり、もう少しだけ徘徊です。少し涼しくなったし、たこ焼きは食えたし、師匠風に表現するならば徘徊の神様が恵みの雨を降らしてくださったのでしょう。東向日駅からさらに西に歩くと「物集女車塚古墳」、その前は車で時々通るのですが、このような形で寄ってみるのは初めてです。墳丘部は入れないようになっていました。
米の品種改良に尽力した人の頌徳碑。なんやいろいろとありますね。
最後は淳和天皇の火葬塚。桓武天皇の息子さんで、嵯峨天皇の弟です。承和の変で息子さんの恒貞親王が廃されたため、子孫の方はその後の皇位には就いておられません。これに連座した橘逸勢は後に怨霊となっていますね。というか、この事件では、なぜ逸勢だけが怨霊化したのでしょう。流罪地に赴く途中で死んだということが、早良親王を思わせるものがあったのでしょうか。同じように罪せられても生きていた者はその後に復権を果たした者もいます。無念の状態で死んだ者というのが怨霊の条件でしょうか。淳和天皇の御陵は別に指定されている(小塩山)のですが、火葬した場所まで宮内庁が管理しているのですね。遺詔によって火葬骨や遺灰は山中にまかれたともいいます。
そのまま、洛西口に着きました。雨宿りをしていたのが功を奏して、駅では殆ど待たずに済みました。本日は、この近くで「もんじゃ」焼きを食いました。具はこれが嫌い、トッピングの桜エビも嫌じゃとか一緒に行った人には色々とワガママを聞いてもらいました。酒に好き嫌い無いから許してちょ。
本論に入る前に、師匠から「都加母止塚に説明板が建った」とお聞きしましたので、久しぶりに行って来ました。何の塚であるかがわかったとかいう点では特に目新しいことは無いのですが、塚はきれいに整備されて、「まっすぐ」になっていましたし、江戸時代には「鶏塚」と言われていたことなどは、今まで知らなかったことで、高槻市の教育委員会にはこのままどんどんと追求してもらいたいですね。今見たら1月に既に建っているのですね。長いことご無沙汰しました。
さてさて、長岡天神駅を降りてすぐに西に向かいます。和菓子屋の「ひやしあめ」の旗、暑苦しい色で書いてあるのですが、なぜか涼しい感じがします。昔、唐招提寺門前に昔からの茶店があり、夏の暑い最中に同寺を訪れたときには、その茶店で冷やしあめを飲んでいました。クーラーも普及していないころでしたが、この時に「冷やしあめ」=「涼しい」ということがすり込まれたようです。
大きな道路に出ると非常に新しい道標、砲弾のように見えるのはここいらの名物のタケノコです。この道標に従って乙訓寺を目指します。
駅をちょっと離れたら、田んぼが広がっています。本日は前回の京街道その2の日から考えると、罰が当たったような猛暑ですが、田畑があるとやはりちょっと涼しいですね。
乙訓寺にはすぐに着きました。裏門から入ります。この寺は久しく廃絶していたものを元禄年間に将軍綱吉の母の桂昌院が隆光に相談して再興したのことで、元禄年間の門が正門、裏門共に残っています。綱吉や桂昌院等は久しく「悪者」乃至「愚者」としての扱いを受けてきましたが、近年では政策を正当に評価する研究も進んでいるようです。隆光の如きは例の「生類憐れみの令」の発案者ということにされ、「怪僧」などと言われてきましたが、それが冤罪であることは今はあきらかです。第一、何回かに分けて出された生類憐れみの令自体がそんなに悪法ではない。門には元禄年間の特徴がよく現れているそうですが、門外漢である小生にはさっぱりわかりません。
裏門 外からー
裏門 内からー
ぼたんの寺としてしられるこのお寺、シーズンにはそれなりに賑わうのですが、本日は誰もいません。それどころかお寺の人もどなたもいらっしゃらない感じです。
モチノキ
この寺は奈良時代の終わりには既に存在しており、785年(延暦4年)、長岡京造営使の藤原種嗣暗殺事件に連座して皇太子を廃せられ、逮捕された早良親王が幽閉された処としても知られています。早良親王は淡路に流される途中で絶食して死にますが、桓武天皇の後半生はこの親王の怨霊に悩まされる人生ということになります。
早良親王供養塔
考えてみれば、桓武天皇の人生の前半は桓武が皇太子になるために失脚し、五条の于智に流され、母子同日に死亡した井上内親王と他戸親王の怨霊に悩まされ、後半は自らが作り出してしまった早良親王の怨霊に祟られる人生であった訳です。桓武の皇太子である安殿(あて)親王(後の平城天皇)に早良親王が祟っているという卜筮が出た直後から早良親王に対する謝罪が始まり、最終的には事件が無かったこととし、崇道天皇の称号を与えて、その怨霊を鎮めようとしました。
桓武天皇自身が亡くなる直前の勅で「藤原種嗣暗殺事件に関与したもの全ての罪を許すこと」と「崇道天皇に対しては諸国の国分寺で春と秋の2回、供養のために金剛般若経を読誦すること」という命を降しています。この勅が桓武天皇の最後の勅であったことを考えると、桓武天皇の人生に関与した怨霊の位置の大きさが理解できます。この直前には井上内親王と他戸親王に対しても罪を無かったこととする処置が執られています。その後も、権力抗争の中で多くの怨霊を生み出してしまうのですが、菅原道真の怨霊が出現するまでは最大の怨霊は早良親王でした。
鐘楼
本堂
鎮守八幡
花々の中にさりげなく置いてある手水鉢、よく見るといっぱい穴が穿ってあります。そうこれは「盃状穴」です。師匠と同行する徘徊の今のところの視認目標は「道標」、「力石」、「仁丹の地名表示」、「石灯籠」、「道路元標」といったところでしょうか。第5の柱にしようと思っているヤツがこれで、何らかの大願成就のために硬い石を穿って穴をあけていくものです。現在は、その習俗は絶えていますが、古代から近代まで、密かに受けつがれてきた「まじない」と言えるものです。
以前、八尾の徘徊の途中で、穴ポコだらけの手水鉢を見、その時は「なんじゃこれは?」と思ったものの、その後は完全に忘れておりました。
ところが、普段は馬鹿にしている関西の徘徊テレビ番組の中で、この盃状穴研究の大家を紹介したものがあって初めてそういうものの存在を知った訳です。かねがね「ぶらタモリ」の如きおもしろい徘徊番組が関西には無い、無知蒙昧の芸人があれこれと食い歩くだけではないかと完全に馬鹿にしておったのでありますが、まあ何からでも学ぶことはあるということの証左であります。それにしても普段は見ない番組のしかもちょっと目を向けた5分ほどの間にまさにその「盃状穴」の紹介をしておったというのは幸運でありました。
よって、以後の集団徘徊では先の5つに加えて「盃状穴」、そして「唐獅子・狛犬(これも型式で編年出来ると言います)」の7つが「要注意事項」ということになります。
弘法大師手植えの木
表門
さて、乙訓寺を出た後は、例によって携帯の地図で近くの神社を見つけます。先ず最初が「赤根天神社」。「天神」というと、すぐに「菅原道真」が思い浮かびますが、普通名詞としての天の神ならば、これは大昔からいろいろな神様がおられる訳です。菅原道真以前はこれらの神様を天神として奉斎していた訳で、稀にこのような形で道真以前の天神信仰を確認することが出来ます。ここでは「伊弉諾命(いざなぎ)」「伊弉冉命(いざなみ)」が祀られているとありますね。
けれども、本殿の覆い屋には菅原氏の梅鉢の紋がありました。建築業者が「天神さん」ということで気を利かせただけなのか、あるいは一時期は菅原道真も祀られていたのか。祭神が突然変更されるということはママあるようなので、ある時点で道真以前の昔に復するというようなことがあったのかも知れませんね。まあ古い地誌などで調べればいいのですけれども。「猫にエサをやるな」というのがせこい。
てくてくと歩いているとシャレではありませんが、向こうに向日神社の丘が見えてきました。
その途中にあるのが向日神社とも深い御縁だという角宮(すみのみや)神社。御祭神を見ると鴨氏系の神社のようです。中心としての御祭神は火雷神と言うことです。純粋な稲妻の神としての農耕神なのか、これまた菅原道真が習合したものなのかはわかりません。犬の散歩禁止がせこい。
この神社には立派な拝殿がありました。立て札は角の異体字で5角目が突き出ている文字が用いられていましたが、それがわざわざ添削されていたのも面白かったです。
社頭の道標
角宮を辞して向日神社に向かいます。小畑川に出ました。
以前に来たときも裏側から登りましたが、本日もまた裏側からです。
向日神社は初めて参拝したときに「本来首長層の埋葬地であったものがやがては清浄なる地として意識されるようになり、やがては死穢などが一切許されない聖地となる」ということを強く意識したところでした。ここでは火雷神は火雷天神となっており、菅原道真に近づいた表記になっています。御祭神の筆頭にあげられている向日神というのが地主神で、遡れば大和朝廷と手を組んだ遠い昔の首長霊であるのかも知れません。犬の散歩禁止と猫の餌やり禁止がセコイ。
丘の東端に行き、藤原種嗣や豊臣秀吉も見たであろうと以前に向日市の資料館の学芸員の方に教えてもらった景色を眺めます。向こうの山は天王山です。また、この辺りは弥生時代の集落遺跡でもあります。
丘の西に向かうと元稲荷山古墳、非常に古い前方後方墳です。3世紀末や4世紀初頭の段階では前方後円墳を作ることが出来るのは大王の一族に限られ、大和王権に臣従した地方の有力豪族には前方後方墳を作ることが認められていたのでしょうか。
この古墳の横の道から下に降りたので、結局今日も表参道は歩かずじまい。わかりにくいのですが、途中に植えられている桜、「黄桜」というのが本当にあるのですね。
向日市文化資料館に寄ります。師匠と久我に蕎麦を食いに行って以来です。入り口に都稲荷山古墳の石室の天井石が置かれていました。
阪急の東向日駅の方に坂を下っていくと、西国街道と出会います。そこには多くの道標が集められています。
と、ここでものすごい雨と出会い、近くのスーパに閉じこもることになりました。まあたこ焼きが食えたからそれはそれでいいのですが。ビールを置いていないというのが残念でした。
雨が上がり、もう少しだけ徘徊です。少し涼しくなったし、たこ焼きは食えたし、師匠風に表現するならば徘徊の神様が恵みの雨を降らしてくださったのでしょう。東向日駅からさらに西に歩くと「物集女車塚古墳」、その前は車で時々通るのですが、このような形で寄ってみるのは初めてです。墳丘部は入れないようになっていました。
米の品種改良に尽力した人の頌徳碑。なんやいろいろとありますね。
最後は淳和天皇の火葬塚。桓武天皇の息子さんで、嵯峨天皇の弟です。承和の変で息子さんの恒貞親王が廃されたため、子孫の方はその後の皇位には就いておられません。これに連座した橘逸勢は後に怨霊となっていますね。というか、この事件では、なぜ逸勢だけが怨霊化したのでしょう。流罪地に赴く途中で死んだということが、早良親王を思わせるものがあったのでしょうか。同じように罪せられても生きていた者はその後に復権を果たした者もいます。無念の状態で死んだ者というのが怨霊の条件でしょうか。淳和天皇の御陵は別に指定されている(小塩山)のですが、火葬した場所まで宮内庁が管理しているのですね。遺詔によって火葬骨や遺灰は山中にまかれたともいいます。
そのまま、洛西口に着きました。雨宿りをしていたのが功を奏して、駅では殆ど待たずに済みました。本日は、この近くで「もんじゃ」焼きを食いました。具はこれが嫌い、トッピングの桜エビも嫌じゃとか一緒に行った人には色々とワガママを聞いてもらいました。酒に好き嫌い無いから許してちょ。
多くの道標が集められている所と言うのは、あちこちにあるものなのですね。 京街道2のとき、勧修寺のところにもありましたが、不自然に感じます。 道路を造ったりするときに邪魔になるのでしょうが、もう少し歴史を考えて行うことは出来ないのでしょうね(諦めムード)。
先回の京街道から帰宅して、一日だけ買い物に行っただけで家から出ていません。 徘徊堂さんを見習って海岸の徘徊に出かけましょうか。
我が家からは直線距離にあると思うのですが、やはり近くて遠き地域です。余談でした。
「都加母止塚」の立派な説明板がありますが、由緒は不明だとか。惜しいことです。「鶏」に何か関係があるのでしょうけど。
〝冷やしあめ〟の真紅の旗は懐かしい物です。私はどちらかと言いますと〝氷みず〟(掻き氷をこう呼んでいました)派でしたが。
「生類憐れみの令」の実態は知りませんが、新井白石がかなり誇張して伝えた、と何かで読んだ記憶があります。
綱吉の犬好きより、江戸の都市部で、野犬や飼い犬に関する問題が多かったのが政令の理由だとか。加えて、犬関連の法令以外にも、家畜として重要な牛馬や、人間の赤ん坊や老人・病人などの保護も定めていた、との由ですがどうなのでしょう。
「健康に害がある」とのタバコ規制を、〝喫煙ファシズムだ!〟〝喫煙者弾圧だ!〟と愛煙家が叫ぶ様なものでしょうか。
ただ、寺社が犬猫の散歩を規制するのは、マナーの極めて悪い愛犬家が存在するからなのも事実でしょう。実際、散歩道でも規制したほしいくらいです。マナーさえ守ってくれれば別にいいのですが、余りにも得手勝手な人間が多過ぎます。
それにしても、有名な乙訓寺でも今の時期は閑散としているのですねぇ。徘徊の穴場(期)ではないですか。
何にしても権力者という者は大変です。まあ、その御蔭で後世に名が残り祭祀されているのでしょうけど。
それはそうと、今回の徘徊の結果、新しい認識目標に「手水鉢」が加わったのは収穫ではないですか。猛暑に敢然と挑戦された成果だと思います。
やはり、歩かないと駄目ですネ。それにしても、手水鉢に穿った沢山の穴は何なのでしょう。楽しみが増えました。
最後は、暑い大向日に存在する向日神社でしたか。地方の神社としては格式が高いのでしょうか。拝殿もかなりの物ですし、相当広大な境内が広がっているみたいですが。
途中の俄か雨でスーパーに雨宿りされたとか。ビールが置いてないとご不満ですが、山ほど売っているのではないですか。しかも、よく冷えたのもありますし。
まあ、最後はちゃんと仕上げをされた様ですし、収穫も多く何よりの徘徊でした。
この駅もなかなか立派ですね。
私の知人で駅舎めぐりが好きな人がいて、JRだけですが、全国の駅の3分の2を降りたと言っていました。いずれ、私鉄もやるとのことでした。降りて駅舎の写真を撮っては、また次の駅へ、という旅行です。過疎地だと、次の電車がくるまでの待ち時間が長い。パソコンに、行った駅を写真とともに打ち込むのが楽しいらしいです。
正直、何がおもしろいの?と思ったりしましたが、私も知らず知らず影響を受けたのでしょうね。おかげで駅舎をじっくり見るようになりました。
昔の人は怨霊に悩まされる話が多いですね。早良親王、菅原道真、平将門、崇徳上皇・・・それから足利尊氏も、裏切った後醍醐天皇の霊に生涯苦しめられ、天龍寺を建立していますね。
おもうのですが、昔の人は非科学的で無知だったというより、今よりも良心を多くもっていたと言うのが正しいのではないでしょうか。とくに指導者層は、良心、いいかえれば恥を知っていたように思います。
あ、今、一人の元総理を思い浮かべつつ、比較しながら述べています。あの人は、怨霊なんかにびくともしないでしょう。
歴史散歩をする時の視認目標の数々、なるほどと勉強になります。今度、盃状穴をぜひともさがしてみます。そして最終目標は、般若湯ということで異議なし。
鎌倉の海、何ともぜいたくな散歩コースです。伊豆半島などは天気が良ければ見えるのでしょうか?
道標、道路工事のどさくさに紛れて無くなることも多いようです。固めてあるのは残念ですが、まだましだというところでしょうか。
何らかの念を込めて、多分丸い石などでグリグリとやって穴を穿っていくのだと思いますが、何らかの呪文などもあったかも知れません。今となっては、念を込めて穿った跡を見るのみですね。
スーパーでビールを買って、フロアで飲んでたら、やることの無くなった年寄りになってしまいます(爆)。大手スーパーで時々見かけますが、人生の悲哀を感じます。フロアに入っている店がコーラやジュースを出すようにビールも用意しておくべきでしょうね。
駅の写真を撮り歩くというのも面白そうですね。ただ、お書きになっておられるように一駅一駅降りて、というのはなかなか出来ませんね。一日に2本とかのローカル駅だったら、駅を一つ撮りに行くのも一日仕事になってしまいますね。
盃状穴は世界的な現象でもあるようです。
長岡京建設の為我が京北の木材が使われたと歴史書は語っていますがどうなんでしょう。ちょっと北の大原野に灰方という禁裏御料があり、御湯殿上日記に山國と一緒に登場しますのでこの辺りには親近感があるのですが、また古墳も多いと聞きますので勉強になるところとは思うのですが、、勝竜寺城趾や長岡京跡なども興味あります。この辺りは歴史を考えるに大切なところがいっぱいあるようですね。しかし今の我が関心事は向日町の激辛商店街という世俗なことでございます(^_・)
桓武天皇などの怨霊についての浮舟さんとのやりとりは興味深く読ませて頂きました。まあ国家を背負う気概というか哲学というか、その辺りの違いを感じますね。平安京については風水の考えが取り入れられているそうですね。風水とか陰陽師とか、いろいろ考えさせられるものがあります。
gunkanatagoさんの師匠を墓マイラーとすれば、gunkanatagoさんはさしずめ神マイラーではないでしょうかね。盃状穴は初めて聞きました。良い話を聞かせて頂きましたm(. .)m。地図上の神社マークを全て訪れてすごいデータを発表されている人もいらっしゃって凄いなあと思いますが、この盃状穴とか狛犬とかの考察は出てきません。いろんなアプローチがありますが、これぞ徘徊ブログの醍醐味であります^o^
今の京街道ツアーが終了したら、先ずは明智籔ですね。その後、長岡京ツアーを企画しましょうか?勝龍寺城、ここでも「大河ドラマに光秀を」てやっていますよ。
盃状穴、探すと見つかりません。前に見た八尾の神社はどこだったかなあ等と思っていました。考えてみたら、延々と石をグリグリとやってあけていくのですから、何か念が残っていそうな感じもしますね。
向日神社以外に葬送地が神聖な場所となっていったところとしては、亀岡の出雲大神宮などもそうではないかな等と思っています。
神マイラー、ありがとうございます。神仏を尊ぶ立派な人間ということで(爆)。
怨霊で思い出すのは、昨年の大河「清盛」の崇徳天皇ですね。崇徳が舌を咬むところ恐ろしい!これは演技ですが実際はどうなんでしょう?
私はK新聞の「梵語」の大フアンです。この欄の情報で少しは行動しているかも。(ちょっと大袈裟かな)笑。
嵯峨天皇が出ましたので、ある日の記事から少し引用させて頂きます。
>シダレヤナギはタカオカエデ、カツラとともに、「京都市の木」に選ばれている。素性法師や僧正遍昭もヤナギの歌を詠んだ。
中京区の頂法寺(六角堂)の本堂前には、葉が地面をこするほど垂れ下がる「地ズリ柳」がある。嵯峨天皇がこの柳の舌で妃に出会ったという言い伝えがあり縁結びの柳とされる。もうひとつの面白い故事は、平安京造営の際、寺の位置が都市計画設計の一部と重なってしまった。新しく都を移すためとはいえ、建物は取り壊したくない。桓武天皇の勅使が途方にくれていると、一夜のうちにお堂はひとりでに移動したという。あとに残されたのが「へそ石」だと伝わる。風に揺れる柳を見ていると、平安時代はそんな不思議なこともあったかも知れない思えてくる。桓武天皇は嵯峨天皇の父であり遍昭の祖父、素性法師の曾祖父に当たる。<
崇徳院は「魔王」とされていますね。明治維新後に明治天皇が崇徳院の霊を勧請して白峰神宮を造らせたという話が伝わっています。ただ、崇徳院の怨霊は具体的に何をして、敵対した人はどう対応したかということなどについては、あまり具体的なものも出てきませんから、太平記以前に本当に崇徳院が怨霊としての扱いを受けていたのかどうか疑問も残ります。
「へそ石」の話、ありがとうございます。いろいろな話が伝わっているものですね。