「わしらの徘徊に雨天中止の文字はない」と以前にも書いたような気がしますが、雨の日の外出もまた一興であります。勿論、晴れていて涼しいことに越したことはないのですが、雨が降っている風景などは雨が降っていないと味わえない(当たり前)。
雨が瀟々と降る景色は遺跡などがもっとも似合うものです。本当は大宰府の都府楼址辺りに行ってその景色を楽しみたいけれども、大宰府はちと遠い。ということで、久方ぶりに近江国衙址を訪ねてきました。
出発は東海道線の石山駅から、いきなり土砂降りで駅前の芭蕉翁も何となく暗い顔をしています。ところで「翁」というけど芭蕉の享年は51、今だったら壮年ですね。ここの芭蕉像が色々と見る中では最も若々しい。
歩き始めて5分で全身ずくたんぼ、けれどもこうなるともう怖いものがありません。車の泥ハネでも何でもいらっしゃいの世界。すぐに瀬田川に出ます。
幾多の戦いに於いて重要な戦略拠点であった瀬田の唐橋、古代の唐橋は今の橋よりもやや下流に架かっていたとのこと、足利健亮氏の著作に「碑がある」というようなことが書いてあったので、それを探します。
右岸を少しだけ南下すると竜宮神社、龍神と俵藤太・藤原秀郷を祀ります。よく知られている「三上山のムカデ退治」、俵藤太にムカデ退治を依頼したのは龍神でした。これが源満仲あたりになると逆に龍が退治する対象になる。
竜宮神社
このお宮さん付近のものは「後ほど見るべし」で、どんどんと下流に向かって歩きました。けれども瀬田の唐橋旧橋碑などはどうも無さそうです。新幹線も名神高速道路も超えて進みましたが、「この辺りにはないどー」と引き返しました。
この大雨の中に人が…?、まさしく龍女ならんか、「すみません、古代の唐橋の架橋地点というのはどこですかぁ?」と尋ねたところ、即座に「竜宮神社の辺りですよー。」と教えてくださいました。中世には石山の辺りに架かっていたそうで、これは今日は諦めねばならぬ。となるとあの大きな石碑が、旧橋の架かっていたところを示していて、足利先生が書いている碑なのかな。
地蔵さんの説明をよく読むと旧橋の発掘調査の折に橋の土台から出土した石仏を祀ったものとあります。「読んでから行けー」と言われそうですが、最初は目に入らなかった。
読めぬ石標、師匠、ピコピコピー
それでもしばらく歩いたのもムダではなくて、南下していく途中に瀬田城址がありました。本能寺の変の時に安土に赴く明智光秀に対峙したのが山岡秀隆、けれども多勢に無勢、橋を焼き落として抵抗したのですが、結局は古里の甲賀に落ち延びることになりました。
本来ならば、それ一事を以てしても数万石の大名として残らねばならぬのですが、山崎の合戦後に柴田勝家と手を組んだのでオジャン。城跡全体は大きなマンションの敷地となってしまっています。
神社の近くの寺はその名も「龍光山雲住寺」、藤原秀郷の菩提を弔っています。藤原秀郷は言うまでもなく平将門の乱を鎮圧した武将ですが、数多くの武家の遠祖とされています。九州の少弐氏や龍造寺氏、立花氏などもそう称していたと言うことで、「あれぇ?ということはうち(我が家)もかなあ?」。そういう意味では平安時代の武士=源氏・平氏という単純な図式は間違いです。それと同じように貴族=卑弱でひいひいと逃げ回るというイメージも誤っています。江戸時代まで下ればともかく平安時代の貴族は結構粗暴です。清少納言の兄なども領地争いで人を暗殺し、その後自分も仕返しで殺されています。貴族というよりも渡世人。閑話休題。
雲住寺
古代の架橋点あたりから対岸を見る
考えてみれば、右岸の探索は全くしていませんから、向こう岸に何かあるのかも知れません。次回にウロウロして調べることとして、唐橋まで戻ってきました。たもとには句碑。
調べたら山崎茶酔という人の句で「松風の帆にはとどかず夕霞」と読むそうです。この人がどんな人なのか全く解りませんが、雅号から考えると友達みたい(笑)。それとも茶で酔うから下戸かな?
橋から東に近世の東海道をしばらく行くと交差点に不動寺道標、さらに進むと近江一宮である建部大社です。
「タケル」の音が通じるところから「日本武尊」が御祭神で、大己貴命(現在では大国主の別名)も祀られています。「建部」は上古の名代で日本武尊の名を後代に残すために設けられた農民集団(純粋な農民ではないけど)ということになるのでしょうが、そのうちの有力なヤツがやがて子孫を標榜するようになります。近世大名の建部氏などもその一つでしょうが、摂津尼崎藩の初代藩主ですね(その後播磨に転封)。
ところが伊豆に流されていく源頼朝の故事を記す平治物語には建部明神=八幡神となっていますから、かつては八幡神社であったのかも知れません。今は日本武尊の御眷属がずらーと摂社に並んでおられますから、「もともとから日本武尊だったのだろうか?」等と言うとしばかれます。
茅の輪、ここでも造られていました。別にどーでもいいけど、牛頭天王系でないお宮さんにとっては自殺行為やなあという感じもします。懇切丁寧にくぐり方まで記されていますが、「だれが決めてん?」と申す処。融通無碍な中世であれば、新たに神話を創ることもできるけれど、今の世にあっては「お宅の神さんと茅の輪、何の関係もおまへんやん。」と言われたらおしまい。けれども宮中の行事にも取り入れられていたみたいですから、ウチはそれが起源でんねんと押し通すこともできるかな。以前は茅の輪の神事をやっている神社も少なく、それがニュースになるぐらいでしたが、ここ10年ほどの間に爆発的に広まっています。まあ、曹洞宗の坊さんがしきる葬式で「白骨のお文」を聞いたこともありますから、「何でもあり」でいいのかな。そのうちにクリスマスも祝うようになったりして…。
さて、近江の国の国衙(国の役所)は半分整備され、半分ほったらかしの様な状態で雨にけぶっていました。流石に一国を統括するだけあって、あったり前といえば当たり前ですが、郡衙よりだいぶと広い。
予想していたように、だーれもいません。雨は小降りになり少し明るくなってきました。平安時代の中ごろまでは、国司に任じられた者がきちんと赴任して、一国の行政を司りましたが、やがてはその国の上がりを中央政府に納めるためだけの役割となり、遥任等といって現地には赴任せずに目代のみを派遣する者もいたことは高校の日本史などにも出ていましたね。
そのうちに例えば近江守に任じられることは任期中の近江国の上がりを一定分サラリーとしてもらえるというふうになって行き(知行国)、現地でそんな中央から来る役人の世話や、現地の細かい行政を行う者を「在庁官人」等と言うようになります。これには現地の武士が多く任用されました。源頼朝の舅である北条時政なども伊豆国の在庁です。そうなると、いわば地方公務員の職が世襲化されていきますので、今日風に言えば「あの家は代々出納係長の家」、「こちらは県警次長まで出世できる家」とかになっていく訳です。
この近江の国府については、最近は奈良時代の藤原仲麻呂に関連して語られていますね。藤原仲麻呂は平城京を脱出した後にこの近江国府で態勢を立て直そうとしたのだけれども、結局瀬田の橋が落とされていて国府には入れず、琵琶湖の西を敗走するうちに高島で討ち取られたという話です。
けれども、この国府に仲麻呂が期待するだけの勢力が存在したならば、国府と橋とはごくごく近いのですから、橋を焼いた勢力を国府の軍で駆逐して仲麻呂を迎えることも出来たはずです。まあ、仲麻呂が近江まで逃げてきたときには既に国府は反仲麻呂で固まっていたと考えるほうがいいでしょう。国衙に辿り着けなかったことを以て仲麻呂の敗因とするのは間違っていると思います。
いにしえを偲ぶには周辺のマンションなどがどうも邪魔ですが、贅沢を言ってはいけません。これで鐘などがゴーンと鳴ってくれると「都府楼は纔かに瓦色を看、観音寺は唯鐘声を聴く」てな感じでもったいなくも天神さんの気分になれるのですが。
遠く国衙を見る
国衙から見えていた森は御霊神社、どなたが御祭神かな?と思って見ると「大友皇子(弘文天皇)=壬申の乱に敗れて自殺」です。なるほど資格十分ですね。えらい古いゴリョンさんです。
ここから、瀬田駅まではほぼ真っ直ぐでした。駅前の飲み屋は未だ閉まっている時間です。草津に行くべきか京都に行くべきか一瞬悩みましたが、このままJRで高槻まで行けば季節がら「ゴーヤの天麩羅」が食えることを思い出しました。従って本日もまた「おかえりなさーい」の例の店です。が、これから7月・8月と怒濤の飲み会が続きます。徘徊も思うように出来ないかもしれません。
雨が瀟々と降る景色は遺跡などがもっとも似合うものです。本当は大宰府の都府楼址辺りに行ってその景色を楽しみたいけれども、大宰府はちと遠い。ということで、久方ぶりに近江国衙址を訪ねてきました。
出発は東海道線の石山駅から、いきなり土砂降りで駅前の芭蕉翁も何となく暗い顔をしています。ところで「翁」というけど芭蕉の享年は51、今だったら壮年ですね。ここの芭蕉像が色々と見る中では最も若々しい。
歩き始めて5分で全身ずくたんぼ、けれどもこうなるともう怖いものがありません。車の泥ハネでも何でもいらっしゃいの世界。すぐに瀬田川に出ます。
幾多の戦いに於いて重要な戦略拠点であった瀬田の唐橋、古代の唐橋は今の橋よりもやや下流に架かっていたとのこと、足利健亮氏の著作に「碑がある」というようなことが書いてあったので、それを探します。
右岸を少しだけ南下すると竜宮神社、龍神と俵藤太・藤原秀郷を祀ります。よく知られている「三上山のムカデ退治」、俵藤太にムカデ退治を依頼したのは龍神でした。これが源満仲あたりになると逆に龍が退治する対象になる。
竜宮神社
このお宮さん付近のものは「後ほど見るべし」で、どんどんと下流に向かって歩きました。けれども瀬田の唐橋旧橋碑などはどうも無さそうです。新幹線も名神高速道路も超えて進みましたが、「この辺りにはないどー」と引き返しました。
この大雨の中に人が…?、まさしく龍女ならんか、「すみません、古代の唐橋の架橋地点というのはどこですかぁ?」と尋ねたところ、即座に「竜宮神社の辺りですよー。」と教えてくださいました。中世には石山の辺りに架かっていたそうで、これは今日は諦めねばならぬ。となるとあの大きな石碑が、旧橋の架かっていたところを示していて、足利先生が書いている碑なのかな。
地蔵さんの説明をよく読むと旧橋の発掘調査の折に橋の土台から出土した石仏を祀ったものとあります。「読んでから行けー」と言われそうですが、最初は目に入らなかった。
読めぬ石標、師匠、ピコピコピー
それでもしばらく歩いたのもムダではなくて、南下していく途中に瀬田城址がありました。本能寺の変の時に安土に赴く明智光秀に対峙したのが山岡秀隆、けれども多勢に無勢、橋を焼き落として抵抗したのですが、結局は古里の甲賀に落ち延びることになりました。
本来ならば、それ一事を以てしても数万石の大名として残らねばならぬのですが、山崎の合戦後に柴田勝家と手を組んだのでオジャン。城跡全体は大きなマンションの敷地となってしまっています。
神社の近くの寺はその名も「龍光山雲住寺」、藤原秀郷の菩提を弔っています。藤原秀郷は言うまでもなく平将門の乱を鎮圧した武将ですが、数多くの武家の遠祖とされています。九州の少弐氏や龍造寺氏、立花氏などもそう称していたと言うことで、「あれぇ?ということはうち(我が家)もかなあ?」。そういう意味では平安時代の武士=源氏・平氏という単純な図式は間違いです。それと同じように貴族=卑弱でひいひいと逃げ回るというイメージも誤っています。江戸時代まで下ればともかく平安時代の貴族は結構粗暴です。清少納言の兄なども領地争いで人を暗殺し、その後自分も仕返しで殺されています。貴族というよりも渡世人。閑話休題。
雲住寺
古代の架橋点あたりから対岸を見る
考えてみれば、右岸の探索は全くしていませんから、向こう岸に何かあるのかも知れません。次回にウロウロして調べることとして、唐橋まで戻ってきました。たもとには句碑。
調べたら山崎茶酔という人の句で「松風の帆にはとどかず夕霞」と読むそうです。この人がどんな人なのか全く解りませんが、雅号から考えると友達みたい(笑)。それとも茶で酔うから下戸かな?
橋から東に近世の東海道をしばらく行くと交差点に不動寺道標、さらに進むと近江一宮である建部大社です。
「タケル」の音が通じるところから「日本武尊」が御祭神で、大己貴命(現在では大国主の別名)も祀られています。「建部」は上古の名代で日本武尊の名を後代に残すために設けられた農民集団(純粋な農民ではないけど)ということになるのでしょうが、そのうちの有力なヤツがやがて子孫を標榜するようになります。近世大名の建部氏などもその一つでしょうが、摂津尼崎藩の初代藩主ですね(その後播磨に転封)。
ところが伊豆に流されていく源頼朝の故事を記す平治物語には建部明神=八幡神となっていますから、かつては八幡神社であったのかも知れません。今は日本武尊の御眷属がずらーと摂社に並んでおられますから、「もともとから日本武尊だったのだろうか?」等と言うとしばかれます。
茅の輪、ここでも造られていました。別にどーでもいいけど、牛頭天王系でないお宮さんにとっては自殺行為やなあという感じもします。懇切丁寧にくぐり方まで記されていますが、「だれが決めてん?」と申す処。融通無碍な中世であれば、新たに神話を創ることもできるけれど、今の世にあっては「お宅の神さんと茅の輪、何の関係もおまへんやん。」と言われたらおしまい。けれども宮中の行事にも取り入れられていたみたいですから、ウチはそれが起源でんねんと押し通すこともできるかな。以前は茅の輪の神事をやっている神社も少なく、それがニュースになるぐらいでしたが、ここ10年ほどの間に爆発的に広まっています。まあ、曹洞宗の坊さんがしきる葬式で「白骨のお文」を聞いたこともありますから、「何でもあり」でいいのかな。そのうちにクリスマスも祝うようになったりして…。
さて、近江の国の国衙(国の役所)は半分整備され、半分ほったらかしの様な状態で雨にけぶっていました。流石に一国を統括するだけあって、あったり前といえば当たり前ですが、郡衙よりだいぶと広い。
予想していたように、だーれもいません。雨は小降りになり少し明るくなってきました。平安時代の中ごろまでは、国司に任じられた者がきちんと赴任して、一国の行政を司りましたが、やがてはその国の上がりを中央政府に納めるためだけの役割となり、遥任等といって現地には赴任せずに目代のみを派遣する者もいたことは高校の日本史などにも出ていましたね。
そのうちに例えば近江守に任じられることは任期中の近江国の上がりを一定分サラリーとしてもらえるというふうになって行き(知行国)、現地でそんな中央から来る役人の世話や、現地の細かい行政を行う者を「在庁官人」等と言うようになります。これには現地の武士が多く任用されました。源頼朝の舅である北条時政なども伊豆国の在庁です。そうなると、いわば地方公務員の職が世襲化されていきますので、今日風に言えば「あの家は代々出納係長の家」、「こちらは県警次長まで出世できる家」とかになっていく訳です。
この近江の国府については、最近は奈良時代の藤原仲麻呂に関連して語られていますね。藤原仲麻呂は平城京を脱出した後にこの近江国府で態勢を立て直そうとしたのだけれども、結局瀬田の橋が落とされていて国府には入れず、琵琶湖の西を敗走するうちに高島で討ち取られたという話です。
けれども、この国府に仲麻呂が期待するだけの勢力が存在したならば、国府と橋とはごくごく近いのですから、橋を焼いた勢力を国府の軍で駆逐して仲麻呂を迎えることも出来たはずです。まあ、仲麻呂が近江まで逃げてきたときには既に国府は反仲麻呂で固まっていたと考えるほうがいいでしょう。国衙に辿り着けなかったことを以て仲麻呂の敗因とするのは間違っていると思います。
いにしえを偲ぶには周辺のマンションなどがどうも邪魔ですが、贅沢を言ってはいけません。これで鐘などがゴーンと鳴ってくれると「都府楼は纔かに瓦色を看、観音寺は唯鐘声を聴く」てな感じでもったいなくも天神さんの気分になれるのですが。
遠く国衙を見る
国衙から見えていた森は御霊神社、どなたが御祭神かな?と思って見ると「大友皇子(弘文天皇)=壬申の乱に敗れて自殺」です。なるほど資格十分ですね。えらい古いゴリョンさんです。
ここから、瀬田駅まではほぼ真っ直ぐでした。駅前の飲み屋は未だ閉まっている時間です。草津に行くべきか京都に行くべきか一瞬悩みましたが、このままJRで高槻まで行けば季節がら「ゴーヤの天麩羅」が食えることを思い出しました。従って本日もまた「おかえりなさーい」の例の店です。が、これから7月・8月と怒濤の飲み会が続きます。徘徊も思うように出来ないかもしれません。
今回の徘徊はどの辺やろうかと地図を見ながら読みましたけど、一つ一つがなかなか見つかりませんでした(*_*)まあ、おたく、の徘徊やから我々とはレベルが違いすぎる。というのはこの辺りは何回も通っているんです。
石山駅から洗堰を通り湖南アルプスから信楽までの東海自然歩道歩きを思い出しますが、シジミの看板ばっかし気にしながら歩いていました。しかし湖南アルプスの木の生え方を見ていると、ここ山国荘が平安京造営の為に禁裏御料になった訳が分かる様です。余談ですがかの藤野斎さんの官位は確か近江守やったと思います。
またまた余談になりますが先日京都市内に行ったついでに日野町の綿向山の麓まで行きました。大学の同級生が退職後ここで田舎暮らしをしてまして毎月「月ごよみ」と称してガリ版印刷みたいな私新聞を送ってくれているんです。6月30日号は、ヒメボタルが山桜の木に光っていたとか、飼い猫がネズミを咥えて帰って来て、、などほのぼのとした記事を届けてくれています。どんなところやろうとついつい車を走らせてしまいました。本人には会っていません。時間もなかったし突然訪問するのも失礼ですしね。でも山あり田圃有りの長閑で豊かなところでした。帰りにちゃっかり中野城跡(日野城、蒲生城とも)をちらっと見て来ましたけど。
近江は豊かな地ですね。白洲正子じゃないけれど、この泥沼にはまったらなかなか抜け出せない様な気がしないでもない。それにしてはここでは記事は三つしかないですなあ(^_・)よだんばっかし失礼m(. .)m
この徘徊の日は不明ですが、かなりの降りっ振りだったのでしょうか。いきなり水も滴る男の子になられた様ですが。それにしても、芭蕉などは蓑と笠だけでいつも濡れていたのでしょう。
それを思えば、今の徘徊はラクなものではないですか。それに、没年当時の芭蕉と同年代のgunkanatagoさんは青年みたいなものですから。
まぁ、そんな余談はさて置き、雨情たっぷりの徘徊録を雨の懸らない所でのんびり読ませて頂いております。
瀬田の唐橋は近江八景の一つですけど、改築された橋は人工的過ぎてそんな風情は皆無に見えます。遊覧の和船も造られ過ぎ見たいですし・・・。古代の唐橋はどんな姿だったのでしょう。茶酔の句は中々のものではないですか。弟子の酒酔さんも、記念に一句詠んでください。
この竜宮神社は陸上ですが、乙姫の居る竜宮城は何故海底深くに在るのでしょう。この辺りは龍光寺など龍関係が多い様なのは当然として、龍造寺も僧侶の出ですか?
〝造〟に何か意味があるのですか?それて「竜」と「龍」は使い分けされているのでしょうか。奴素人の質問で申し訳ありません。ついでに、かの時代の貴族が渡世人なら、坊主は稼業人かも。
「日本武尊」関係の神社は、日本各地に沢山存在するのでしょう。ここが大社と名乗るのなら本家なのですか。それと、茅の輪を扱う資格のある神社は限定されているとは、初めて知りました。
私の母が亡くなって教会で葬儀(本人がクリスチャン)をして、その後、菩提寺へ骨納めをしました。その節、牧師にも坊主にも別に文句は言われませんでした。それなりのお布施を納めたからでしょうか。
国衙跡はさすがに雄大なものですネ。往時の権勢が忍ばれます。霧雨に煙って一段と雰囲気が感じられたのではないですか。最後は落ち着く処に落ち着いて、大成果のあった一日何よりでした。真夏の徘徊は血圧にご注意ください。
考えてみれば、遷都1300年の人出が煩わしいということで、奈良にも2010年から行ってない訳(ということは「おかる」のお好み焼きも3年も食べていない(爆))ですから、もうアッという間に月日が過ぎていく感じです。
おっしゃる通り、近江は、湖北、湖西、湖東、甲賀、どこに行ってもハマリますね。神社もすごく立派な神社が失礼な言い方ながらゴロゴロありますね。日野は蒲生氏の発祥地ですね。一度ゆっくりと歩いてみたいと思っているところです。
藤野斎さん、近江守に任ぜられていたのですか?たいしたものですね。考えてみれば、中央での栄達も思いのままでしたでしょうから、当然かなというところですね。けれども、キッパリと栄達の道を断たれたところが好きな訳ですが。
龍造寺は肥前の地名です。藤原のなにがしかが下向して土着し、それを苗字の地としたのですね。龍造寺氏については、一時期ハマッタときがありましたが、何か殆ど忘れています。龍造寺隆信の爺さんがとても偉い人だったと記憶しています。竜は龍の簡略字だったと思います。
日本武尊を祭神とする社では、堺の大鳥神社も大社だったと思います。神社の祭神が変化することについては、つい最近も小戸神社の白竜大神の社が祭神を換えた(旧に復した)のを目の当たりにしました。
今われわれがたどれる東海道や中山道は近世のものですが、それでもまたブラブラとしたくなってきました。
この官位の為に相当な金を使ったようですよ。4人が官位を拝しています。何の守かはわすれましたけど。宮中もしっかり商売していたのでしょう。ただ理由がないと乱売出来ませんしね。でもそれだけ金があったんや、というのは驚きです。
莫大な借金までして仙台まで出かけて行ったおっちょこちょいのおじいちゃんと嘆く山國隊の子孫(女性)もインターネットで読んだ様な(^_・)
それにしても、その後は明治政府は何等報いることをしていないようですね。けれどもそれが値打ちかも知れませんね。それにしても公家さんて…(呆)。
近江から離れた話題で済みませんm(. .)m
昔は唐橋を制するというのは戦略的に重要だったのでしょうね。
唐橋、守った側は大抵負けています。