本日は、師匠の案内で富田林から河内長野への徘徊です。河内シリーズもいよいよ深南部に至ったと申す処。先ずは寺内町煎餅を売る和菓子屋へ。
寺内町にいたる細い道は巡礼街道、西国三十三所の観音さんをつなぐ道です。この地点は第4番槙尾山施福寺と第5番藤井寺の間になります。
寺内町の入り口には大抵お地蔵さんがおられるのですが、ここにもやはりおられました。この地蔵さんから少し東に進んで、パッと右折するといきなり美しい寺内町が開けます。
この富田林寺内町、来る度にそれらしくなっている感じで、街の景観維持にすごく努力をされている様子がわかります。ただ中心の興正寺別院が開いているのを見たことがないのが残念です。興正寺派は閉鎖的なのかな?
以前は杉山家住宅の近くに交流センターがあったのですが、さらに立派な交流センターが造られ、その中には師匠好みの「蕎麦打ち」の店も。ここでは「赤猫」と称するきなこ餅もセットで食うことができます。欠食児童なので、蕎麦や餅の写真は取り忘れました。きなこ餅はうるち米も突き込んだものでなかなかに美味でありました。蕎麦の方も師匠曰く「合格ー」と。
興正寺別院・締めこんだらアカン。
重要文化財に指定されているのは杉山家住宅、歌人石上露子の生家でもあります。鉄幹五大弟子の一人です。師匠曰く「与謝野鉄幹はホンマは山川登美子が好きやったんやー」と。そうでしょうね。晶子は鉄幹を暗闇で襲ったのでしょう(笑)。石上露子は文学とは何の縁も無い人(ある意味健全)と結婚し、婚姻後は創作活動を断ちました。彼女の詩歌では明治40年に「明星」に載った「小板橋」という詩が特に有名です。
石上露子は長谷川時雨が書いた「近代美人伝」にも取り上げられたのですが、現在手に入る岩波文庫版では何故か省かれています。「こらぁ!岩波書店、何の恨みで露子ちゃんを省くんぢゃー、えーこんじょーしとるやないけ!」と富田林の同志は立ち上がらなくてはなりません。他に長谷川時雨の書いたものでは何年か前に「旧聞日本橋」を悪戦苦闘して読んだことがあります。おもしろかったけれど。
杉山家住宅1
杉山家住宅2
写真には撮れませんでしたが、中庭ではきれいな猫が3匹、のんびりと過ごしていました。近づくとさっと逃げますからノラかも知れません。まあこの中ならば車にはねられる心配も無いし、良というところです。
杉山家住宅3
杉山家住宅4
南の端までやってくると「くわえ煙管で歩くなよー」と火の用心を記した道標、さらに南に向かうとPLの塔が姿を見せます。PL学園、一時期は校歌を覚えるほどに高校野球に出てきていたものですが(今でも歌える・爆)、最近はご無沙汰ですね。花火大会でも知られています。それはさておき、寺内町としての姿を今に残すという点では、この富田林と奈良県橿原市の今井町が双璧でしょう。
南に向かう道に沿った民家、家の前の植え込みのサボテンに花が咲いています。これは珍しい。霜が降りたり、雪が降ったりしたら、その都度覆ってもらったりして大切に育てられているのでしょう。
東高野街道であるこの道、東には水越峠を挟む葛城山と金剛山が見えています(写真ではちょっと遠いのですが右が金剛山です)。同行の方(山登りに関しては大先達)が「私が唯一ヘバッタのは、葛城金剛縦走。葛城山から一旦水越峠に下りて、また金剛山を登らんとアカン。」と言っておられましたが、その通りで、小生が未だに金剛葛城縦走をやらない理由はそこにあります(笑)。
ワイワイと言うてるうちに養楽寺、天誅組河内勢の森本伝兵衛の顕彰碑があります。ここは数の威力でしょうか。入り口は閉まっていたのですが、騒がしくしていたら御住職が出て来られて門を開けてくださいました。
1863年の8月14日に京都の方広寺で旗挙げをした吉村寅太郎等は公卿の中山忠光を戴き船にて南下、大阪から堺に至り上陸して富田林を目指しました。富田林の道標に記してありましたが、堺~富田林は4里です。8月16日、河内狭山藩等に武器弾薬を提供させた天誅組は富田林の豪農である水郡(にごり)邸に至り、ここで水郡善之祐ら河内勢が加わります。父と共に参加した長男は未だ13歳でした。善之祐は近くの水郡神社(現在の錦織神社)の神官でもありました。天誅組への参加はその方面の関係からでしょう。この段階では、天誅組の面々は孝明天皇の大和行幸を信じ切っています。おそらく、16日の夜はこの水郡邸を中心にした辺り一帯を旅宿としたと考えられますから、心の耳を澄ませば彼らの意気揚々たる会話が聞こえてくるかも知れません。
水郡邸
翌17日、河内勢も加わった一向は千早峠から大和の五条に入ります。この時に参加した河内勢の殆どは生きて郷里に戻ることはできませんでした。そしてこの日のうちに代官所を襲撃します。一応降伏を呼びかけたようですが、幕府の代官としてはそれはできませんよね。この時に殺された鈴木源内については同情する議論も多くあります。各地で幕府の代官が農民達によって「神」として祀られていることからも理解できますが、所謂「悪代官」等というものを放置すれば、天領統治が崩壊することになりますから、幕府は良吏を代官として派遣しました。鈴木源内もそうした人物の一人でしょう。
代官退治の水戸黄門などは本当は退治する方が退治されなくてはならない悪行をいっぱいしています。ところで、変な言い方ですが天誅組は誠に勤勉です。小生ならば、千早峠を越えてきたし、今日はもう酒飲んで寝よ、代官との交渉は明日でええやろというところです。
錦織神社
しかるに、翌8月18日は所謂「8月18日の政変」がおこった日、朝廷内の尊王攘夷派は一掃されてしまいます。勿論、孝明天皇の大和行幸はご破算。天誅組はその後、8月25日と26日には高取城奪取を目指しますが失敗、そうこうしているうちに諸藩の追討軍が五条に迫ります。9月1日には、遂に朝廷からも天誅組追討の命令が発せられます。結局はこの9月中に天誅組は壊滅、生き残った水郡善之祐達河内勢は六角の獄舎に送られました。翌1964年、長州藩士を中心にした尊王攘夷派が京都奪取を企てた禁門の変、このどさくさに紛れて六角獄舎に入れられていた志士たちが処刑されるのですが、天誅組の生き残りもこの時に処刑されました。救いは13歳で参加した水郡善之祐の息子が助命されて、その後郷里に帰って活躍したことです。これまで処刑されていたら暗然たる気分になりますからね。
錦織神社天誅組顕彰碑
この家を見るまでは天誅組の参加者といっても、天から降りたか、地から生えたか今ひとつ実感として受け止めることが難しかったのですが、何やら実際に生きた人物としての彼らの行動が受け止められるようになった感じがします。まさしく徘徊の功。また、天誅組に武器弾薬を提供した狭山藩と幾つかの陣屋、全くおとがめ無しだったのでしょうか?これは宿題。
錦織神社の狛犬
社殿は重要文化財
水郡、錦織、語源は同一であろうといいながら東高野街道を南下します。浅川堤顕彰碑や大峰三十三度供養塔、昔懐かしいたばこ屋の建物などを見ながら本日一つ目の「極楽寺」に。あとで出てくる二つ目の極楽寺ともども融通念仏宗の寺です。あの平野の広大な大念仏寺が本山ですね。この寺は開いていたばかりか、我々がギャーギャー言っているその時に御住職が帰ってみえました。師匠の持論「とにかく寺は開いてんといかん」に適う寺とやっと出会えました。寺内町の御坊さん、失格ですぞー。ここで一休み、同行の方から冷たいパイナップルやみかんを恵んでいただきました。ありがとうございます。
浅川堤顕彰碑
大峰三十三度供養碑
煙草屋
極楽寺
歩いている東高野街道は下の写真のような感じ。このあたりではどこのお地蔵さんも本当に大切にされている感じです。むきだしに放置していることはまずありません。地蔵とダンジリは中・南河内の象徴。あと掲示板に町内会に寄付してもらったことを記した紙を張り出すのも。
錦織一里塚は方9メートルの一里塚自体が残っているという点では希有な存在。塚の上には宝篋印塔がありました。今は塚の前の自動車道が東高野街道ということになっていますが、本来はこの塚と石川の間に道があったものと思われます。
河内長野市に入って孝子地蔵。道標を兼ねています。三十三所巡礼の母娘がここで行き倒れ、村人が懇切丁寧なる看病をしたものの母は結局病死、けれども村人に感謝した娘が後に建立した地蔵という話が伝わっています。
この辺りに入ってくると伊勢灯籠も目立つようになります。師匠曰く「おかげ灯籠やったら、その旨を刻むんやけどなぁ。」と。おかげ参り流行時のものではないのかもしれませんが、年代が刻まれていません。
千代田神社は街道から少し外れていて、元気に街道を進むうちに通り過ごし、戻ることになりました。けれども、そのおかげで「オリンヒック」を見ることが出来ました(爆)。本当に人間の運命は全てに意味がある(爆・爆)。
千代田神社の名は新しく、近隣の神々を合祀してからのもののようです。元々は天神さんだったのでしょう。菅原道真が筆頭の祭神に挙げられていました。今は、住吉さん、八幡さん、えべっさんと何でもあり。ここではワンコが出迎えてくれました。写真は、頭を撫でてもらっていたのにいきなり吠えたので、「こらっ!」と叱られて反省中のものです。
天神信仰を伝えた人々というのはどのような人たちなのでしょうか。江戸時代後期にはちょっとした村には必ず国学をかじった人がいるのですが、そういった人たちが好んで勧請したのでしょうか?それにしては各地の天神さん、起源がもう少し古いような気もします。藤原氏関係の地には春日さん、源氏だと八幡さん、けれども菅原氏がそんなに広範囲に領地を有していたとは思えません。
反省中
珍しい道標を見て本日二つ目の極楽寺に。ここには大きな大仏様がおられました。この寺の墓場で師匠は同行の皆さんを「墓マイラー亜種」の世界に引き込もうとされています。小生は身の危険を感じて避難しましたから何の墓があったのかは分かりません。そういえば墓の中にビリケンさんみたいなのが座っていたような気が…。
三笑橋は今は鉄道の線路をまたいでいます。碑の揮毫は藤沢南岳ということです。この人の関係した碑はあちこちで見ますね。
咲いていた花
さて河内長野で京都府八幡市からの東高野街道と堺からの西高野街道が合流します。お地蔵さんのあるところで右側が東高野街道、左側が西高野街道です。堺までは四里ですから、歩いてみたら面白いかも知れません。
合流点
河内長野駅に近づきます。近鉄はここが終着ですが、南海はここから高野山に向かいます。うー旅情が湧くぜー。目に浮かぶのは高野山の向こうの龍神温泉。この付近は膳所藩の飛び地だったということで、代官所もあったようです。
高野山まで九里であることを示す道標、九の字が少しおかしく、師匠は廃物利用と違うかと疑っておられます。道標の横は地蔵さんでした。ここで「ふーん」と気付きましたが、この辺りの車のナンパーは「和泉」なんですね。そういえば「河内」ナンバーて無いぞ。
駅前にはなかなか立派な「高野街道」の碑と少し凝った地図。平野から狭山までは「中高野街道」、三角形の石に地図が刻まれています。
長野神社に行く途中の旧家には大きなクスノキ、長野神社の御神木の根元からは青々とした葉が吹き出しています。主祭神は牛頭天王、天児屋命、菅原道真です。最近、中世の出雲大社は祭神が素盞雄命であったことを知りました。牛頭天王=素盞雄となっていく過程でも中世神話というものが大きな役割を果たしたようです。
長野神社
考えてみると河内長野は金剛山や観心寺に行くときの通過点としてしか意識していませんでした。昔、金剛山によく登っていたときとは駅前は一変していますが、ウロウロとすると何かとおもしろいものがあるように思われます。師匠お奨めの「天野酒」も駅のすぐ近くにありました。この辺り、杉玉をつるした旧家が多く、今は酒造をやめているにしても、かつては一大酒造地帯であったのかも知れません。日を改めてウロウロすることを考えねばなりません。ここからさらに高野街道をたどるのもおもしろそう。
河内長野から阿部野橋まで、直通電車が走っているのも嬉しいですね。天王寺に出たあとも師匠執念の徘徊「阿倍寺跡」、この辺りに広大な阿倍氏の氏寺があったということです。このあと恵美須町まで歩く謀略も巡らしていたのですが、河内長野の段階で同行の方の万歩計が二万八千を超えていたということで断念。本日はmfujino様関連施設「明治屋」の閉まったシャッターをアテにたこ焼きで一杯であります。「茶虎」なるこの店、昨年に明治屋が閉まっていたため緊急避難で入った店ですが、メニューもますます充実していました。まあ、たこ焼き居酒屋ですね。前回はイカ焼き、今回はタコ焼きときたから、次回はドテ焼きかな?
寺内町にいたる細い道は巡礼街道、西国三十三所の観音さんをつなぐ道です。この地点は第4番槙尾山施福寺と第5番藤井寺の間になります。
寺内町の入り口には大抵お地蔵さんがおられるのですが、ここにもやはりおられました。この地蔵さんから少し東に進んで、パッと右折するといきなり美しい寺内町が開けます。
この富田林寺内町、来る度にそれらしくなっている感じで、街の景観維持にすごく努力をされている様子がわかります。ただ中心の興正寺別院が開いているのを見たことがないのが残念です。興正寺派は閉鎖的なのかな?
以前は杉山家住宅の近くに交流センターがあったのですが、さらに立派な交流センターが造られ、その中には師匠好みの「蕎麦打ち」の店も。ここでは「赤猫」と称するきなこ餅もセットで食うことができます。欠食児童なので、蕎麦や餅の写真は取り忘れました。きなこ餅はうるち米も突き込んだものでなかなかに美味でありました。蕎麦の方も師匠曰く「合格ー」と。
興正寺別院・締めこんだらアカン。
重要文化財に指定されているのは杉山家住宅、歌人石上露子の生家でもあります。鉄幹五大弟子の一人です。師匠曰く「与謝野鉄幹はホンマは山川登美子が好きやったんやー」と。そうでしょうね。晶子は鉄幹を暗闇で襲ったのでしょう(笑)。石上露子は文学とは何の縁も無い人(ある意味健全)と結婚し、婚姻後は創作活動を断ちました。彼女の詩歌では明治40年に「明星」に載った「小板橋」という詩が特に有名です。
石上露子は長谷川時雨が書いた「近代美人伝」にも取り上げられたのですが、現在手に入る岩波文庫版では何故か省かれています。「こらぁ!岩波書店、何の恨みで露子ちゃんを省くんぢゃー、えーこんじょーしとるやないけ!」と富田林の同志は立ち上がらなくてはなりません。他に長谷川時雨の書いたものでは何年か前に「旧聞日本橋」を悪戦苦闘して読んだことがあります。おもしろかったけれど。
杉山家住宅1
杉山家住宅2
写真には撮れませんでしたが、中庭ではきれいな猫が3匹、のんびりと過ごしていました。近づくとさっと逃げますからノラかも知れません。まあこの中ならば車にはねられる心配も無いし、良というところです。
杉山家住宅3
杉山家住宅4
南の端までやってくると「くわえ煙管で歩くなよー」と火の用心を記した道標、さらに南に向かうとPLの塔が姿を見せます。PL学園、一時期は校歌を覚えるほどに高校野球に出てきていたものですが(今でも歌える・爆)、最近はご無沙汰ですね。花火大会でも知られています。それはさておき、寺内町としての姿を今に残すという点では、この富田林と奈良県橿原市の今井町が双璧でしょう。
南に向かう道に沿った民家、家の前の植え込みのサボテンに花が咲いています。これは珍しい。霜が降りたり、雪が降ったりしたら、その都度覆ってもらったりして大切に育てられているのでしょう。
東高野街道であるこの道、東には水越峠を挟む葛城山と金剛山が見えています(写真ではちょっと遠いのですが右が金剛山です)。同行の方(山登りに関しては大先達)が「私が唯一ヘバッタのは、葛城金剛縦走。葛城山から一旦水越峠に下りて、また金剛山を登らんとアカン。」と言っておられましたが、その通りで、小生が未だに金剛葛城縦走をやらない理由はそこにあります(笑)。
ワイワイと言うてるうちに養楽寺、天誅組河内勢の森本伝兵衛の顕彰碑があります。ここは数の威力でしょうか。入り口は閉まっていたのですが、騒がしくしていたら御住職が出て来られて門を開けてくださいました。
1863年の8月14日に京都の方広寺で旗挙げをした吉村寅太郎等は公卿の中山忠光を戴き船にて南下、大阪から堺に至り上陸して富田林を目指しました。富田林の道標に記してありましたが、堺~富田林は4里です。8月16日、河内狭山藩等に武器弾薬を提供させた天誅組は富田林の豪農である水郡(にごり)邸に至り、ここで水郡善之祐ら河内勢が加わります。父と共に参加した長男は未だ13歳でした。善之祐は近くの水郡神社(現在の錦織神社)の神官でもありました。天誅組への参加はその方面の関係からでしょう。この段階では、天誅組の面々は孝明天皇の大和行幸を信じ切っています。おそらく、16日の夜はこの水郡邸を中心にした辺り一帯を旅宿としたと考えられますから、心の耳を澄ませば彼らの意気揚々たる会話が聞こえてくるかも知れません。
水郡邸
翌17日、河内勢も加わった一向は千早峠から大和の五条に入ります。この時に参加した河内勢の殆どは生きて郷里に戻ることはできませんでした。そしてこの日のうちに代官所を襲撃します。一応降伏を呼びかけたようですが、幕府の代官としてはそれはできませんよね。この時に殺された鈴木源内については同情する議論も多くあります。各地で幕府の代官が農民達によって「神」として祀られていることからも理解できますが、所謂「悪代官」等というものを放置すれば、天領統治が崩壊することになりますから、幕府は良吏を代官として派遣しました。鈴木源内もそうした人物の一人でしょう。
代官退治の水戸黄門などは本当は退治する方が退治されなくてはならない悪行をいっぱいしています。ところで、変な言い方ですが天誅組は誠に勤勉です。小生ならば、千早峠を越えてきたし、今日はもう酒飲んで寝よ、代官との交渉は明日でええやろというところです。
錦織神社
しかるに、翌8月18日は所謂「8月18日の政変」がおこった日、朝廷内の尊王攘夷派は一掃されてしまいます。勿論、孝明天皇の大和行幸はご破算。天誅組はその後、8月25日と26日には高取城奪取を目指しますが失敗、そうこうしているうちに諸藩の追討軍が五条に迫ります。9月1日には、遂に朝廷からも天誅組追討の命令が発せられます。結局はこの9月中に天誅組は壊滅、生き残った水郡善之祐達河内勢は六角の獄舎に送られました。翌1964年、長州藩士を中心にした尊王攘夷派が京都奪取を企てた禁門の変、このどさくさに紛れて六角獄舎に入れられていた志士たちが処刑されるのですが、天誅組の生き残りもこの時に処刑されました。救いは13歳で参加した水郡善之祐の息子が助命されて、その後郷里に帰って活躍したことです。これまで処刑されていたら暗然たる気分になりますからね。
錦織神社天誅組顕彰碑
この家を見るまでは天誅組の参加者といっても、天から降りたか、地から生えたか今ひとつ実感として受け止めることが難しかったのですが、何やら実際に生きた人物としての彼らの行動が受け止められるようになった感じがします。まさしく徘徊の功。また、天誅組に武器弾薬を提供した狭山藩と幾つかの陣屋、全くおとがめ無しだったのでしょうか?これは宿題。
錦織神社の狛犬
社殿は重要文化財
水郡、錦織、語源は同一であろうといいながら東高野街道を南下します。浅川堤顕彰碑や大峰三十三度供養塔、昔懐かしいたばこ屋の建物などを見ながら本日一つ目の「極楽寺」に。あとで出てくる二つ目の極楽寺ともども融通念仏宗の寺です。あの平野の広大な大念仏寺が本山ですね。この寺は開いていたばかりか、我々がギャーギャー言っているその時に御住職が帰ってみえました。師匠の持論「とにかく寺は開いてんといかん」に適う寺とやっと出会えました。寺内町の御坊さん、失格ですぞー。ここで一休み、同行の方から冷たいパイナップルやみかんを恵んでいただきました。ありがとうございます。
浅川堤顕彰碑
大峰三十三度供養碑
煙草屋
極楽寺
歩いている東高野街道は下の写真のような感じ。このあたりではどこのお地蔵さんも本当に大切にされている感じです。むきだしに放置していることはまずありません。地蔵とダンジリは中・南河内の象徴。あと掲示板に町内会に寄付してもらったことを記した紙を張り出すのも。
錦織一里塚は方9メートルの一里塚自体が残っているという点では希有な存在。塚の上には宝篋印塔がありました。今は塚の前の自動車道が東高野街道ということになっていますが、本来はこの塚と石川の間に道があったものと思われます。
河内長野市に入って孝子地蔵。道標を兼ねています。三十三所巡礼の母娘がここで行き倒れ、村人が懇切丁寧なる看病をしたものの母は結局病死、けれども村人に感謝した娘が後に建立した地蔵という話が伝わっています。
この辺りに入ってくると伊勢灯籠も目立つようになります。師匠曰く「おかげ灯籠やったら、その旨を刻むんやけどなぁ。」と。おかげ参り流行時のものではないのかもしれませんが、年代が刻まれていません。
千代田神社は街道から少し外れていて、元気に街道を進むうちに通り過ごし、戻ることになりました。けれども、そのおかげで「オリンヒック」を見ることが出来ました(爆)。本当に人間の運命は全てに意味がある(爆・爆)。
千代田神社の名は新しく、近隣の神々を合祀してからのもののようです。元々は天神さんだったのでしょう。菅原道真が筆頭の祭神に挙げられていました。今は、住吉さん、八幡さん、えべっさんと何でもあり。ここではワンコが出迎えてくれました。写真は、頭を撫でてもらっていたのにいきなり吠えたので、「こらっ!」と叱られて反省中のものです。
天神信仰を伝えた人々というのはどのような人たちなのでしょうか。江戸時代後期にはちょっとした村には必ず国学をかじった人がいるのですが、そういった人たちが好んで勧請したのでしょうか?それにしては各地の天神さん、起源がもう少し古いような気もします。藤原氏関係の地には春日さん、源氏だと八幡さん、けれども菅原氏がそんなに広範囲に領地を有していたとは思えません。
反省中
珍しい道標を見て本日二つ目の極楽寺に。ここには大きな大仏様がおられました。この寺の墓場で師匠は同行の皆さんを「墓マイラー亜種」の世界に引き込もうとされています。小生は身の危険を感じて避難しましたから何の墓があったのかは分かりません。そういえば墓の中にビリケンさんみたいなのが座っていたような気が…。
三笑橋は今は鉄道の線路をまたいでいます。碑の揮毫は藤沢南岳ということです。この人の関係した碑はあちこちで見ますね。
咲いていた花
さて河内長野で京都府八幡市からの東高野街道と堺からの西高野街道が合流します。お地蔵さんのあるところで右側が東高野街道、左側が西高野街道です。堺までは四里ですから、歩いてみたら面白いかも知れません。
合流点
河内長野駅に近づきます。近鉄はここが終着ですが、南海はここから高野山に向かいます。うー旅情が湧くぜー。目に浮かぶのは高野山の向こうの龍神温泉。この付近は膳所藩の飛び地だったということで、代官所もあったようです。
高野山まで九里であることを示す道標、九の字が少しおかしく、師匠は廃物利用と違うかと疑っておられます。道標の横は地蔵さんでした。ここで「ふーん」と気付きましたが、この辺りの車のナンパーは「和泉」なんですね。そういえば「河内」ナンバーて無いぞ。
駅前にはなかなか立派な「高野街道」の碑と少し凝った地図。平野から狭山までは「中高野街道」、三角形の石に地図が刻まれています。
長野神社に行く途中の旧家には大きなクスノキ、長野神社の御神木の根元からは青々とした葉が吹き出しています。主祭神は牛頭天王、天児屋命、菅原道真です。最近、中世の出雲大社は祭神が素盞雄命であったことを知りました。牛頭天王=素盞雄となっていく過程でも中世神話というものが大きな役割を果たしたようです。
長野神社
考えてみると河内長野は金剛山や観心寺に行くときの通過点としてしか意識していませんでした。昔、金剛山によく登っていたときとは駅前は一変していますが、ウロウロとすると何かとおもしろいものがあるように思われます。師匠お奨めの「天野酒」も駅のすぐ近くにありました。この辺り、杉玉をつるした旧家が多く、今は酒造をやめているにしても、かつては一大酒造地帯であったのかも知れません。日を改めてウロウロすることを考えねばなりません。ここからさらに高野街道をたどるのもおもしろそう。
河内長野から阿部野橋まで、直通電車が走っているのも嬉しいですね。天王寺に出たあとも師匠執念の徘徊「阿倍寺跡」、この辺りに広大な阿倍氏の氏寺があったということです。このあと恵美須町まで歩く謀略も巡らしていたのですが、河内長野の段階で同行の方の万歩計が二万八千を超えていたということで断念。本日はmfujino様関連施設「明治屋」の閉まったシャッターをアテにたこ焼きで一杯であります。「茶虎」なるこの店、昨年に明治屋が閉まっていたため緊急避難で入った店ですが、メニューもますます充実していました。まあ、たこ焼き居酒屋ですね。前回はイカ焼き、今回はタコ焼きときたから、次回はドテ焼きかな?
しかし、富田林のここは実に静かで落ち着いた佇まいが残(遺)って居て凄いものです。保存に町を上げて取り組んでいるのでしょうか。それにしては、興正寺と言うのですか、門を閉ざしてしまって仏心に遠く悖る行為ではないのですか。この名の寺は方々に在る様ですが、全てがそうではないでしょうけど・・・。
それにしても、人気の皆無の街並みですねぇ。猫や犬は居るみたいですが。石上露子は晶子と違って控え目な性格だった(誰かさんの様に)のかも。ただ、旦那は彼女に文学を禁じ、挙句に外国で死んだとか。息子にも先立たれて不幸ながらに長生きしているみたいですので、精神力は強かったのでしょう。まぁ、それなりにビジンでしょう(好き嫌いはありますが)し、文中にある「小板橋」はしんみりと心打つよい詩です。それにしても、彼女を削除するなど岩波は悪質ではないですか。不買同盟結成ですネ。
話は南下して、PLの塔は違和感があり過ぎではないですか。私達の頃は浪商と平安でしたけど、どちらも今は凋落(野球では)しています。PLもその歴史を辿っているのかも知れません。
天誅組は名前だけは聞いていますが、所謂、尊皇攘夷の一派でしょうが、学校の歴史では殆ど習いませんでした。何故なのでしょう?
更に南下して河内長野は地蔵の町ですか。今も大切にする住民の気持ちが伝わって来る樣です。それにしても、人影は見られないのですねぇ。避けられた?三笑橋は落語家と縁がありそうですが。
写真の黄色い花は未央柳(びようやなぎ。美容柳は当字)です。いつでしたか、本石楠花を勘違いしてご迷惑をお掛けしましたが、これは間違いございませぬ。それもそうですが、ここは一大酒造地帯だった可能性があるとか。「天野酒」なるものはご賞味されておられないのですか?
当日の2万8千步の後は、たこ焼きの成果でしたか。ドテ焼はよく知りませんけど、蟹焼きや蛯焼もかなりイケるのでは・・・。
「小板橋」 石上露子
ゆきずりの わが小板橋
しらしらと ひと枝のうばら
いずこより 流れか寄りし。
君まつと 踏みし夕に
いひしらず 沁みて匂ひき。
今はとて 思ひ痛みて
君が名も 夢も捨てむと
なげきつつ 夕わたれば
あゝうばら あともとどめず
小板橋 ひとりゆらめく。
興正寺、西本願寺の西に本山があります。本来仏光寺派であったものが、その門主が蓮如に帰依、けれどもその後に、やはりやりにくいのか一派を興して離脱したものですね。仏光寺派は仏光寺派で存続しています。
三笑橋は藤沢南岳、その娘、娘を預かっていた寺の住職の3人の笑いからきているみたいです。寺内町は主として浄土真宗の寺を中心に結束した町をいいます。蓮如さんがたくさんの子を残し、その子や孫達が各地に教えを広めに散りましたからあちこちに寺内町があります。それに対して、京都といい尼崎といい、寺町というのは為政者が寺を集中させたところに付けられているようです。
石上露子、昔来たときに杉山家住宅はパスする予定でしたが、門前の写真に釣られて入った覚えがあります(爆)。
師匠の持論「とにかく寺は開いてんといかん」。これまさに「御意!」と申し上げ、くお伝え下さい。師匠節は今回も名調子な様子と伺いました。羨ましい生き方だなあというのが我が憧れであります。
河内長野へ行かれたら、次は岩湧山ですね。その名の言われたる岩が地から湧いているところがありますので行ってみて下さい。北山や六甲とはまたひと味違う雰囲気があります。秋が良いかな。
富田林や河内長野と聞けば我が心は高野街道や紀見峠へと飛んでしまいます。これを書き出すと長くなってしまいますが、人知れずひっそりと佇む石に思いを馳せての町歩きにロマンを抱く一人として今回も楽しく読ませて頂きました。
あ、書き忘れてました。天誅組についてですが、どうも心動かされるところがありません。まあ今の小沢がらみの政局の様な印象を抱いてしまうのですが、どうなんでしょうね。
岩湧山は未だ登ったことがありません。昔は南海電車がしきりにCMを流していましたが、最近は見ませんね。秋の登山計画-そんなたいそうなものではありませんが、に是非とも組み込みたいと思います。ありがとうございます。
天誅組、やはりやったことも末路もラジカルだからではないでしょうか。小生もこの河内勢の参加を知るまでは各藩でつまはじきにされた過激分子の集団ということで連合赤軍みたいなのを思い浮かべていました。
水戸の天狗党なども同じようにとらえていましたが、いずれもごく普通の人たちもたくさん参加していたみたいです。どちらもちょっとしたことで歯車が狂ってしまったようです。
小沢って、実行した政策て何も無いですよね。政争に明け暮れるのは体質なんでしょうね。放射能は怖かったようだし、嫁さんにも完敗したようだけれど(爆)。
岩湧山と聞いて、ああん、33観音まいりを思い出しました。
西国観音札所の中で施福寺ほどしんどかったところはありませんでした。巡礼には1つや2つの難所はあって当たり前ですがここだけはもう息も絶え絶えでした。やっとたどり着いた境内からは忘れもしません、岩湧山を中心とした連山の眺めはまたこの世のものとは思われない美しさでした。(山の名前はお寺さんから聞きました)。登りの辛さも吹っ飛んだ記憶があります。
それにしてもタイムスリップしたような美しい町並みが残っているのですね。皆様のお元気な徘徊姿に触れ、参加出来なかったのが悔やまれます。
同じように紀泉山脈は全くの盲点です。金剛山より向こうとなるともう高野山とか吉野になってしまいます。そういえば和歌山も所謂観光地以外はウロウロとしていません。
富田林の寺内町は行く度に整備が進んでいます。こういうところは「今のうちに行っておかねば」というところが多いのですが、富田林に関してはその点は安心です。気候のいいときにまた計画したいと思いますので、是非ご参加ください。次回は、南下せずに北上することになると思います。
二上山近くから葛城山、金剛山、紀見峠、岩湧山へと続くダイヤモンドトレイルも一度歩いて見られたら如何でしょう。
80才で二上山から金剛山へと一気に歩くおばあちゃんもおられます。葛城から西行ゆかりの弘川寺へ降りるも良し、また犬鳴山もなかなかのものです。
この山系も味がありますよ~。
紀見峠でかの幸村さんに思いを馳せるのもいいものです。
この話を聞かせていただいた方は、この間のうちの頭巾山、長老山にも参加された方ですよ。
金剛山系では「高天再訪」が目下の宿題です。ロープウェーで金剛山頂、そこから高天に降りるという軟弱な計画を練っています。練るほどのものではないのですが(笑)。