本日は、師匠の案内で主として芦屋市の徘徊であります。出発は阪急甲陽園駅、ここいらの秀才校にもキリシタン校にも縁の無かった小生は夙川から2駅しかないこの支線に乗るのは初めてです。駅前は閑散としていますが、駅から50メートルほどのところにあるケーキ屋「ツマガリ」はめちゃくちゃ繁盛していました。
そういうのを一切無視して、ひたすらに坂を上り、先ずやって来たのは越木岩神社。本日は「泣き相撲」が行われています。
拝殿
泣き相撲興行は朝8時から夕方5時まで。えー!何という長い間やってんねんと思いましたが、想像していたよりもはるかに多くの力士たち(赤ちゃん)が集まってくるようで、全員に参加してもらうには、それぐらい時間がかかるようです。
見ていて気付いたのですが、全ての勝負は「行司預かり」の引き分けです。人生最初の勝負に「負け」となれば、親御さんにしたらけったくそ悪いからでしょう。「この勝負、あずかりー!」の声ばかりが響きますが、見ていて不思議と飽きません。同じ赤ちゃんでも、土俵に上がる前からビービー泣いている子、いかに揺すぶられても口を真一文字に結んで決して泣かない子、さまざまです。ここでも、力士の親御さんしか入れぬところに堂々と入ってシャッターを切る素人カメラマンのマナーの悪さが目立ちました。
駐車場(笑)
この神社は今は「えべっさん」を祀る神社です。恵比須神社には事代主を祀るところも多いのですが、こちらは蛭子大神。本来は名前の由来にあった磐座たる甑岩(こしきいわ)を祀る場であったのでしょう。えべっさんを勧請したのは江戸時代といいます。甑岩そのものは市寸島比売命とされていますが、この神様は厳島神社の御祭神で弁財天と習合している神様です。
この大きな岩も、大阪城築城時には石垣用の石材として目を付けられ、危うく切り出されるところだったとのこと、のみを入れた石工が変死した等の怪異譚が伝わります。この大阪城築城は太閤さんの城ではなく、大阪の陣後に徳川氏によって為されたものです。少なくとも1898年の三百年忌までは古今無双の大英雄であった豊臣秀吉も戦後は随分と貶められました。何でも悪いことは朝鮮征伐の太閤さんということで、ここでの大阪城築城も太閤さんの時代とされているようです。
これは韓国や北朝鮮に過度に配慮する人々が教育関係者に多かったことも原因となっているのですが、今回の竹島騒動やロンドン五輪などで韓国の行儀悪さを十分に学んだでしょうから、もはやそういういじけた配慮は無用です。太閤さんが再評価される日も近い。韓国の外務大臣が厚かましくも「歴史を正視せよ」と国連で演説したとか。何でもかんでも韓国起源をいう、捏造大好きのこの国にそっくりそのまま、お返しできる言葉です。もはや騙される日本人は変態だけでしょう。現に某高校などでは、そういう媚韓教育を行なっている教員を生徒は心の底から軽蔑しています。
刻印は備中松山藩池田氏
神社入り口の残石
かつて山崎宗鑑もこのお社を訪ね「照る日かな蒸すほど暑き甑岩」という句を詠んだとのこと。また、甑岩の頂上には梵字が彫られているとも言います。50年ほど前に、これを確かめた小学校の先生は、やはり二週間ほど両足がしびれて起き上がることができなかったとのこと。
この越木岩神社から一瞬山道を抜けて苦楽園へ。抜け出ると高級住宅地の雰囲気がそこはかとなく。
どこか(思い出せない)の社員寮
苦楽園4番町に残石と下村海南の歌碑、「眼ざむれば松の下草を刈る鎌の音さやに聞ゆ日和なるらし」、有名なジャーナリストだったとのことですが、小生は初めて知りました。
堀江オルゴール博物館(予約制)の前を通り、芦屋市に入ります。そのまま芦屋大学の敷地内の残石に。ここら辺りはお屋敷の石垣の中にもかなりの量の残石を見つけることができるそうです。残石は巷間残念石と表現されていますが、この表現は感情移入が強いので、残石の方が表現として妥当であると思います。
オルゴール博物館
芦屋大学
この辺りが日本で一番有名なお屋敷町である六麓荘です。お屋敷の規模が半端ではないので、道も広い。
邸宅の門が移築されているところにも残石がありました。毛利氏の刻印です。
岩園天神は天神さんと金比羅さんと、チョット珍しい秋葉神社を合祀しています。境内にはむき出しの古墳の石室があります。さらに役行者像、大峰講もあったようです。
平安第一のスケコマシ、在原業平のパパは阿保親王、親王の父は平城天皇です。薬子の乱により、平城天皇は奈良に逼塞、嵯峨天皇の系統が皇位の後継者になっていきましたから、阿保親王も在原業平も皇位には無関係になってしまいました。この阿保親王の屋敷がこの辺りにあったという伝承が濃厚に残っていて、業平なんかもこの辺をブラブラしていたとのこと。そういえば潮見桜も初代のものは業平の手植えという伝説が残っていますね。師匠によると、いろいろな史料を検討していくと、この辺りにいたということはかなり確かなようです。
ただし阿保親王墳は現在宮内庁の管理となっていますが、これはここらにあった適当な古墳を指定したもの。百歩譲っても昔の古墳に葬ったものです。毛利氏の先は大江氏、この大江氏は本来は菅原氏などと同じく土師氏から出たものですが、どうしても皇族と結びつけたいということで、平城天皇の子孫を名乗りましたから、江戸期には毛利氏が丁重に管理したとのことです。
阿保親王墳
近くの公園に大楠公戦跡碑、此処での戦いは京都で北畠軍に敗れ、敗走する足利尊氏への追撃戦です。尊氏をみごとに九州まで追い落とします。これが1336年の1月、けれども5月には九州から東上する足利軍と湊川で戦い、楠木正成は戦死します。
この近辺は平安期には打出浜として知られたところ、町名はその名も打出小槌町です。一寸法師の話から町の名前が来ているというよりも、本来この辺りに伝わっていた打出の長者伝説を御伽草子の方が取り入れたものでしょう。一寸法師は住吉に住んでいたお婆さん(この時40歳・爆)が神に祈って授かった子(にしてはかなりの悪党ですが)、この芦屋周辺も紛れもなく住吉信仰圏ですから、伝承される様々な説話が御伽草子のネタとして取り入れられていったものでしょう。
その打出の長者伝説、長者が小槌を振れば、金銀玉楼、牛馬、ごちそう、衣類、そして妻までもが立ちどころに出てきたと言います。この小槌は聖武天皇に献ぜられたと言いますから、今も正倉院の何処かにあるのかも知れません。
打出天神社
しばらく西国街道をウロウロします。何やら師匠は見るべきものを見失ったと言っておられますが、十分十分。
西国街道
徳本上人は、18世紀後半からから19世紀初めごろまでの念仏僧、一種のカリスマだったのでしょうね。大名から大奥の女中、一般庶民にまで厚く尊崇された坊さんです。その名号碑は独特の字体が特徴です。写真ももう少し大きく撮ればよかったですね。徳本上人の念仏、ムチャクチャにぎやかな念仏だったようです。
徳本上人名号碑
阿保天神社には、見事な力石がならんでいます。付近には知る人ぞ知る富田砕花旧居。小生は「知る人」ではありませんでした。兵庫県の教育関係者にはよく知られているようですし、芦屋ではカリスマだったようです。
力石
富田砕花旧居
ここで谷崎潤一郎が3番目の妻である松子と婚礼をしたとのこと。富田砕花は県下の多くの学校の校歌の作詞も手がけているそうです。旧居には遺品などが陳列されています。
芦屋市の文化ゾーンに向かいます。谷崎の記念館や美術館・図書館があります。埋め立て地にこういうのが集められているのは珍しいですね。その手前に残石(笑)。
何とここに芦屋廃寺の塔の礎石も移されていました。よーく見ると刻印、こいつも大阪に持っていこうとしたのでしょうね。
この文化ゾーンの庭には、残石を使ったオブジェ。意味不明のものばかりです。そのまま残石を並べておく方がいいと思います。
堀尾氏の分銅印
西に向かい、深江に入ると深江文化村の名残、明治期以後ににたくさん外国人が集住したとのことで洋館(といっても洋館を期待して行ったらガッカリかな)が幾つか残っています。山田耕筰なども出入りしたとのことです。この近所に高浜虚子の記念館。今回は何故か立ち寄りませんでした。
滋賀県草津市の酒造会社の蔵がここにもあります。太田酒造でその名も道灌正宗など。太田という姓でも分かるように実際太田道灌の子孫であるとのことです。かつて草津で買った清酒「道灌」は実は灘の生一本だったという次第。
その太田酒造の迎賓館がまたまた当時の洋館で、今もゲストハウスとして使用されています。やあ、芦屋の端の端に来たなあ。
ここからは芦屋川に沿って北上します。途中にぬえ塚、源頼政に退治され、うつぼ舟に乗せて鴨川に流されたぬえの死体が流れに流れてこの辺りに打ち上げられたとのこと。舟の方は大阪の東成の方に流れ着いたそうです。但し、このぬえ塚は大正時代のものと言います。
猿丸翁頌徳碑、最初は何のことか分からず、猿丸太夫にゆかりの碑だと思っていました。まあ、当たらずと雖も遠からずで、この辺りの分限者であった猿丸家は太夫の子孫を称していたそうです。
師匠執念の発見はルナホールにある残石。ルナホールにあると聞いていてもチョット見つからぬところに、まあ、捨てられています。そう言えば、意外かも知れませんが、芦屋の文化行政というのは下の下ということをよく聞きます。超高級住宅地を抱える市が文化面ではすごく貧困というのはナンジャイナ。
石の上に首が載っていますが、これは同行して下さった方です。顔が分からぬようにしたら、逆に何か怖ーい感じになりました。心霊写真ではないのでびびらんように。あー、同行者にはどつかれるー!
高浜虚子、その子年尾、孫の稲畑汀子三代の句碑。「咲きみちてこぼれる花も無かりけり」虚子、「六甲の端山に遊び春隣」年尾、「日に慣れし花の明るさつづきをり」汀子。
最後にやってきたのが業平の墓、奥にある小さい方だそうです。公光は藤原公光のことだろうと言われています。業平の時代からはかなり下る人ですが、やはり平安時代の貴族です。この辺りには伊勢物語の大ファンであった公光の夢に業平が現れて、いろいろと語ったという伝承が残っているとのことです。
さあ、飲みに行くぞい!という途中に空襲の跡、艦載機(ムスタングかな?紫電改があと千機あればむざむざ空襲を許さなかったものを)の機銃掃射が残っているようです。これを残して、その上に新築の塀を作る。やはり、一つの見識ですね。と、師匠の意見(爆)。小生もそう思います。
てなことで、飲んだのは芦屋川駅前の居酒屋、本当に強烈でした。師匠が予め「芦屋川には松・竹・梅」と飲み屋がそろっている」と言っておられたので、「松ですか?」と伺うと「あほー、そんなもん梅じゃー!」のお言葉通り、芦屋とも思えぬおばちゃんの猥談が延々と続きます。料理は確かにうまかったのですが、何を食うたやら覚えられぬほど強烈な印象を与えてくれました。師匠がしきりに「こいつは山にもよう行きよる。」などと言ったものだから、ロックガーデンの帰りには必ず寄らないと殺されるみたいです。他のお客さんの品はメチャクチャ良かったです。
残石の御利益か、はたまた強烈婆さんのパワーか、梅田新道の遊歩道で久しぶりにお姉ちゃんに声をかけられました。「カラオケに一緒に行きましょう。飲みに行きましょう。」、酒が入っていたので邪魔くさい気持ちが先に立って断ってしまいましたが、シラフだったら危なかったかな、命も金も(爆)。
そういうのを一切無視して、ひたすらに坂を上り、先ずやって来たのは越木岩神社。本日は「泣き相撲」が行われています。
拝殿
泣き相撲興行は朝8時から夕方5時まで。えー!何という長い間やってんねんと思いましたが、想像していたよりもはるかに多くの力士たち(赤ちゃん)が集まってくるようで、全員に参加してもらうには、それぐらい時間がかかるようです。
見ていて気付いたのですが、全ての勝負は「行司預かり」の引き分けです。人生最初の勝負に「負け」となれば、親御さんにしたらけったくそ悪いからでしょう。「この勝負、あずかりー!」の声ばかりが響きますが、見ていて不思議と飽きません。同じ赤ちゃんでも、土俵に上がる前からビービー泣いている子、いかに揺すぶられても口を真一文字に結んで決して泣かない子、さまざまです。ここでも、力士の親御さんしか入れぬところに堂々と入ってシャッターを切る素人カメラマンのマナーの悪さが目立ちました。
駐車場(笑)
この神社は今は「えべっさん」を祀る神社です。恵比須神社には事代主を祀るところも多いのですが、こちらは蛭子大神。本来は名前の由来にあった磐座たる甑岩(こしきいわ)を祀る場であったのでしょう。えべっさんを勧請したのは江戸時代といいます。甑岩そのものは市寸島比売命とされていますが、この神様は厳島神社の御祭神で弁財天と習合している神様です。
この大きな岩も、大阪城築城時には石垣用の石材として目を付けられ、危うく切り出されるところだったとのこと、のみを入れた石工が変死した等の怪異譚が伝わります。この大阪城築城は太閤さんの城ではなく、大阪の陣後に徳川氏によって為されたものです。少なくとも1898年の三百年忌までは古今無双の大英雄であった豊臣秀吉も戦後は随分と貶められました。何でも悪いことは朝鮮征伐の太閤さんということで、ここでの大阪城築城も太閤さんの時代とされているようです。
これは韓国や北朝鮮に過度に配慮する人々が教育関係者に多かったことも原因となっているのですが、今回の竹島騒動やロンドン五輪などで韓国の行儀悪さを十分に学んだでしょうから、もはやそういういじけた配慮は無用です。太閤さんが再評価される日も近い。韓国の外務大臣が厚かましくも「歴史を正視せよ」と国連で演説したとか。何でもかんでも韓国起源をいう、捏造大好きのこの国にそっくりそのまま、お返しできる言葉です。もはや騙される日本人は変態だけでしょう。現に某高校などでは、そういう媚韓教育を行なっている教員を生徒は心の底から軽蔑しています。
刻印は備中松山藩池田氏
神社入り口の残石
かつて山崎宗鑑もこのお社を訪ね「照る日かな蒸すほど暑き甑岩」という句を詠んだとのこと。また、甑岩の頂上には梵字が彫られているとも言います。50年ほど前に、これを確かめた小学校の先生は、やはり二週間ほど両足がしびれて起き上がることができなかったとのこと。
この越木岩神社から一瞬山道を抜けて苦楽園へ。抜け出ると高級住宅地の雰囲気がそこはかとなく。
どこか(思い出せない)の社員寮
苦楽園4番町に残石と下村海南の歌碑、「眼ざむれば松の下草を刈る鎌の音さやに聞ゆ日和なるらし」、有名なジャーナリストだったとのことですが、小生は初めて知りました。
堀江オルゴール博物館(予約制)の前を通り、芦屋市に入ります。そのまま芦屋大学の敷地内の残石に。ここら辺りはお屋敷の石垣の中にもかなりの量の残石を見つけることができるそうです。残石は巷間残念石と表現されていますが、この表現は感情移入が強いので、残石の方が表現として妥当であると思います。
オルゴール博物館
芦屋大学
この辺りが日本で一番有名なお屋敷町である六麓荘です。お屋敷の規模が半端ではないので、道も広い。
邸宅の門が移築されているところにも残石がありました。毛利氏の刻印です。
岩園天神は天神さんと金比羅さんと、チョット珍しい秋葉神社を合祀しています。境内にはむき出しの古墳の石室があります。さらに役行者像、大峰講もあったようです。
平安第一のスケコマシ、在原業平のパパは阿保親王、親王の父は平城天皇です。薬子の乱により、平城天皇は奈良に逼塞、嵯峨天皇の系統が皇位の後継者になっていきましたから、阿保親王も在原業平も皇位には無関係になってしまいました。この阿保親王の屋敷がこの辺りにあったという伝承が濃厚に残っていて、業平なんかもこの辺をブラブラしていたとのこと。そういえば潮見桜も初代のものは業平の手植えという伝説が残っていますね。師匠によると、いろいろな史料を検討していくと、この辺りにいたということはかなり確かなようです。
ただし阿保親王墳は現在宮内庁の管理となっていますが、これはここらにあった適当な古墳を指定したもの。百歩譲っても昔の古墳に葬ったものです。毛利氏の先は大江氏、この大江氏は本来は菅原氏などと同じく土師氏から出たものですが、どうしても皇族と結びつけたいということで、平城天皇の子孫を名乗りましたから、江戸期には毛利氏が丁重に管理したとのことです。
阿保親王墳
近くの公園に大楠公戦跡碑、此処での戦いは京都で北畠軍に敗れ、敗走する足利尊氏への追撃戦です。尊氏をみごとに九州まで追い落とします。これが1336年の1月、けれども5月には九州から東上する足利軍と湊川で戦い、楠木正成は戦死します。
この近辺は平安期には打出浜として知られたところ、町名はその名も打出小槌町です。一寸法師の話から町の名前が来ているというよりも、本来この辺りに伝わっていた打出の長者伝説を御伽草子の方が取り入れたものでしょう。一寸法師は住吉に住んでいたお婆さん(この時40歳・爆)が神に祈って授かった子(にしてはかなりの悪党ですが)、この芦屋周辺も紛れもなく住吉信仰圏ですから、伝承される様々な説話が御伽草子のネタとして取り入れられていったものでしょう。
その打出の長者伝説、長者が小槌を振れば、金銀玉楼、牛馬、ごちそう、衣類、そして妻までもが立ちどころに出てきたと言います。この小槌は聖武天皇に献ぜられたと言いますから、今も正倉院の何処かにあるのかも知れません。
打出天神社
しばらく西国街道をウロウロします。何やら師匠は見るべきものを見失ったと言っておられますが、十分十分。
西国街道
徳本上人は、18世紀後半からから19世紀初めごろまでの念仏僧、一種のカリスマだったのでしょうね。大名から大奥の女中、一般庶民にまで厚く尊崇された坊さんです。その名号碑は独特の字体が特徴です。写真ももう少し大きく撮ればよかったですね。徳本上人の念仏、ムチャクチャにぎやかな念仏だったようです。
徳本上人名号碑
阿保天神社には、見事な力石がならんでいます。付近には知る人ぞ知る富田砕花旧居。小生は「知る人」ではありませんでした。兵庫県の教育関係者にはよく知られているようですし、芦屋ではカリスマだったようです。
力石
富田砕花旧居
ここで谷崎潤一郎が3番目の妻である松子と婚礼をしたとのこと。富田砕花は県下の多くの学校の校歌の作詞も手がけているそうです。旧居には遺品などが陳列されています。
芦屋市の文化ゾーンに向かいます。谷崎の記念館や美術館・図書館があります。埋め立て地にこういうのが集められているのは珍しいですね。その手前に残石(笑)。
何とここに芦屋廃寺の塔の礎石も移されていました。よーく見ると刻印、こいつも大阪に持っていこうとしたのでしょうね。
この文化ゾーンの庭には、残石を使ったオブジェ。意味不明のものばかりです。そのまま残石を並べておく方がいいと思います。
堀尾氏の分銅印
西に向かい、深江に入ると深江文化村の名残、明治期以後ににたくさん外国人が集住したとのことで洋館(といっても洋館を期待して行ったらガッカリかな)が幾つか残っています。山田耕筰なども出入りしたとのことです。この近所に高浜虚子の記念館。今回は何故か立ち寄りませんでした。
滋賀県草津市の酒造会社の蔵がここにもあります。太田酒造でその名も道灌正宗など。太田という姓でも分かるように実際太田道灌の子孫であるとのことです。かつて草津で買った清酒「道灌」は実は灘の生一本だったという次第。
その太田酒造の迎賓館がまたまた当時の洋館で、今もゲストハウスとして使用されています。やあ、芦屋の端の端に来たなあ。
ここからは芦屋川に沿って北上します。途中にぬえ塚、源頼政に退治され、うつぼ舟に乗せて鴨川に流されたぬえの死体が流れに流れてこの辺りに打ち上げられたとのこと。舟の方は大阪の東成の方に流れ着いたそうです。但し、このぬえ塚は大正時代のものと言います。
猿丸翁頌徳碑、最初は何のことか分からず、猿丸太夫にゆかりの碑だと思っていました。まあ、当たらずと雖も遠からずで、この辺りの分限者であった猿丸家は太夫の子孫を称していたそうです。
師匠執念の発見はルナホールにある残石。ルナホールにあると聞いていてもチョット見つからぬところに、まあ、捨てられています。そう言えば、意外かも知れませんが、芦屋の文化行政というのは下の下ということをよく聞きます。超高級住宅地を抱える市が文化面ではすごく貧困というのはナンジャイナ。
石の上に首が載っていますが、これは同行して下さった方です。顔が分からぬようにしたら、逆に何か怖ーい感じになりました。心霊写真ではないのでびびらんように。あー、同行者にはどつかれるー!
高浜虚子、その子年尾、孫の稲畑汀子三代の句碑。「咲きみちてこぼれる花も無かりけり」虚子、「六甲の端山に遊び春隣」年尾、「日に慣れし花の明るさつづきをり」汀子。
最後にやってきたのが業平の墓、奥にある小さい方だそうです。公光は藤原公光のことだろうと言われています。業平の時代からはかなり下る人ですが、やはり平安時代の貴族です。この辺りには伊勢物語の大ファンであった公光の夢に業平が現れて、いろいろと語ったという伝承が残っているとのことです。
さあ、飲みに行くぞい!という途中に空襲の跡、艦載機(ムスタングかな?紫電改があと千機あればむざむざ空襲を許さなかったものを)の機銃掃射が残っているようです。これを残して、その上に新築の塀を作る。やはり、一つの見識ですね。と、師匠の意見(爆)。小生もそう思います。
てなことで、飲んだのは芦屋川駅前の居酒屋、本当に強烈でした。師匠が予め「芦屋川には松・竹・梅」と飲み屋がそろっている」と言っておられたので、「松ですか?」と伺うと「あほー、そんなもん梅じゃー!」のお言葉通り、芦屋とも思えぬおばちゃんの猥談が延々と続きます。料理は確かにうまかったのですが、何を食うたやら覚えられぬほど強烈な印象を与えてくれました。師匠がしきりに「こいつは山にもよう行きよる。」などと言ったものだから、ロックガーデンの帰りには必ず寄らないと殺されるみたいです。他のお客さんの品はメチャクチャ良かったです。
残石の御利益か、はたまた強烈婆さんのパワーか、梅田新道の遊歩道で久しぶりにお姉ちゃんに声をかけられました。「カラオケに一緒に行きましょう。飲みに行きましょう。」、酒が入っていたので邪魔くさい気持ちが先に立って断ってしまいましたが、シラフだったら危なかったかな、命も金も(爆)。
泣き相撲は各地でも様々で、先に泣いた方が負けだとか、逆に勝ちだとか色々ある様です。やはり、引き分けが無難なのでしょう。赤ん坊が泣く理由など、それこそ千差万別でしょうし。
先日、娘が安産の御札と御守をもらった神社(和気)へ、御礼参りに着いて行きました。その際、御札と御守は返納する仕来りなのですが、御守を忘れたのでその旨を神主に伝えると、「皆様のお気持ち次第です。自宅に置いとかれても結構です。私も出雲大社の御守を返さずに家に置いてます」とのコトでした。神様の本質(実態?)なのでしょう。
神社の裏には大きな石(岩?)があるみたいですけど、相当な神通力を保有する石なのでしょうか。韓国起源説は、天皇家からスタートしているのではないのですか。古墳を発掘すれば、そんな疑問や謎は解明される、と思うのですが。何故やらないのでしょう。竹島や尖閣島問題なども、史実的に解決出来るのでは・・・。
芦屋の苦楽園は前から思っているのですけど、どうして極楽園と名付けなかつたのでしょうか。打出小槌町なんてソレらしき名称ですのに。
富田砕花にはこんな詩もあります。なかなか謙虚な性格の詩人の様です。
「迎秋篇」
われに親しきものとては、
烟の如き秋の大気のみ。
孤独にして冷たき言葉を囁く
秋の子の脣のみ。
形なき仇敵との闘争に
身も心も傷つきはてて
茫然と佇みつくすわれに
親しきは秋の大気、慰めむとてや寄する秋の子の脣。
いつでしたか、猿丸太夫の子孫だと言う人に出会ったことがありました。苗字も猿丸です。名乗らなくても直ぐに分かりますが。
最後に落ち着かれた「梅飲み屋」でさえ、かなり豪勢なものではないですか。ご利益改かで何よりでした。
現在の朝鮮民族のアイデンティティはやはり李朝以後に成立したとするべきで、古代の高句麗や新羅や百済が直接に今につながっている訳ではありません。土地は動かざれど人は移動します。現に支那は高句麗を支那の一地方王朝と位置づけています。
今、アナトリア半島を占有しているトルコ民族が、過去にアナトリアにいたヒッタイトは我々の先祖だとか、トロイ(アナトリアにあります)はトルコ人の都市国家だなどといったら世界中から笑われるでしょう。茫漠たる古代には朝鮮民族も成立はしていません。
従って、天皇家が韓国から分立したというのは、言い方として間違っている訳です。遠い遠い昔に分離したという過去はあっても日本文化の源流に韓国がある訳ではありません。韓国の理屈で行くと我々モンゴロイドの全ての起源を主張できるのはモンゴルになりますね。
前にも一度書きましたが、古代に活躍した帰化人は我々の先祖であって今の韓国とは何の関係もないということですね。
竹島や尖閣は史実的には解決済みです。支那や韓国が無理難題をふっかけているだけですよ。
越木岩神社の磐座はなかなか立派なものですね。磐座といえば熊野方面を旅行したときあの厳しい階段を上って神倉神社のごとびき岩を見て来ましたが、その時ようこんな急な階段を松明を持って走り下りるなあと感心したものです。花の窟など他にもいっぱいある様で一度は見に行きたいところです。。
六麓荘といえば昔の職場のフランス人社長用の社宅を物色して案内してたら、奥さんが、あらこの家にはプールが無いのね、なんて平然と言うから資産家の嫁はんをもろうたんやろうなあ、なんて不動産業者が言っていたそうです。貧乏人とは無縁の発想でございます。
芦屋での教育について書いておられますが、昔芦屋在住のビジネスマンが、公立高校は平等平等ばっかし言うとるので、みんな私立学校に通わす人が多い、と言っておられましたが、こういった風潮が全国に広がるはしりの頃だったのでしょう。渡部 昇一などは予備校でも単位をとらせた方が大学教育よりも学力が付くなんて意見を言っていた様ですが。
芦屋の豪邸「プール付が普通」、ちょっとビビル話ですね。もうあそこまで行くとウラヤマシイを通り越して別世界です。それでも例の強烈婆さんの何番目かの娘さんは、そういう豪邸の一つに嫁いだそうです。対して京都は豪邸がどんどんと無くなっています。衣笠にあったプール付の邸宅も15軒ほどの建て売り住宅になりました。
なるほど、芦屋の教育委員会が働かない理由がよくわかりました。みんな私学へ行かせますものね。そう言えばこの時も芦屋大学付属高校の送迎バス、乗っている生徒が一人でも走っていました。学校教育に力を入れなくてもいいので、社会教育も手が抜けるのですね。
泣き相撲を見たことないのですが、なるほどなるほど「行司預かり」の引き分けとされるのですか、納得しました。
芦屋には縁がなく足をつけたことはありません。電車で通過ばかりです。昔、知人が大阪から転居された時、誘拐防止のため、子どもの名札に「貧乏な芦屋の子」と書いてんねんと云っていました(笑)
石ですけれど、どうしてこんなに巨大な石がいたる所にあるのでしょうか?ロックガーデンもあるし、六甲山系で採石されたものでしょうか。それらが大阪城築城に使用された、また残石として芦屋に。どうも単純な質問で申し訳ございません。
石のことも詳しくは知らないのですが、御影石やロックガーデンの名前もありますように、六甲山全体が石の塊なのでしょうね。芦屋大学は明らかに採石場の跡に建てられています。大阪城再建当時は至る所で石が切り出され、芦屋の浜から舟で大阪に運ばれたものと思われます。極端な山中から運び出すのは大仕事ですが、六甲山は山裾が海に迫り、非常に都合のよう場所だったと思われます。
本文にも書きましたが、泣き相撲は見ていて飽きません。