花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

大和二山

2012年09月24日 | 徘徊情報・大和国
 このところ、町歩きばかりが続きました。本日は、絶対に「山!」と決めていたのですが、早起きができません(悲)。ここは一つ昼前から出てもOKということで「二ノ瀬ユリ」に出かけようと家を出ました。あわよくば魚谷山に登ろうという算段です。けれども空を見るとどんよりとした雲が山を覆っています。小生はかつて樋ノ水谷で落雷と豪雨にあったことがありますが、あの時はすごかった。ということで好んで危地に入ることもあるまいと思い、行き先を久しく訪れていない奈良に変更しました。
 電車が奈良県内に入ってから、「おー、そうぢゃ!大和三山ならば、山登りもできるではないか!」と思いつき、再度の行き先変更です。奈良の東向商店街の「おかる」の明石焼きには未練が残るけど、明日香も久しぶりだしと申す処。本日も地図はありません。京都北山の地図を持って大和路の徘徊です。
 出発は近鉄八木駅、ちょうど昼時で飯屋はどこも満員。まあ何なとあるやろうという軽い考えが後で餓えを呼びました。八木駅から東に向かって歩くとすぐに耳成山が姿を見せます(トップの写真)。登山道は神社の参道。この登山口のところに綺麗なシャム猫のノラがいました。


耳成山登山口

 山頂(139m)付近に山口神社。既に登山口で60mの高さがありますから比高80m、ケンケンでも登れます。山の口というけれど、神社から山頂が見えています。その山頂には三角点もありました。


山口神社


三角点

 山から駆け下りました。山頂で、やっぱりシャム猫を保護してやろうと考えたからですが、既に姿はありませんでした。小生が山に入った時に、後ろにお婆さんがいて、シャムはそのお婆さんの方に鳴きながら歩いていきましたから、エサをもらったのかも知れません。
 代わりに別の茶トラ、こやつは近づいたら逃げるので捕まえられません。さらに池の近くに別の白黒、「何ぢゃー?猫だらけやんけ!」とよく見たら、お決まりの「猫に餌を与えないで下さい。」というケチ臭い張り紙。どの猫もやせ衰えているとか、そういうことはなかったので、どなたかがエサを与えているのでしょう。後は避妊・去勢手術のみ。ガンバレ、猫ボラ!ということで、次に進みます。
 南の池からは畝傍山と葛城山、この時は畝傍山にも登るつもりだったので、「待っとれよー。」という感じです。



 万葉歌碑には「耳無(みみなし)の 池し恨めし 我妹子(わぎもこ)が 来つつ潜(かづ)かば 水は涸れなむ」という歌。くらー、「オレの彼女が飛び込んだ時には池の水は涸れんとあかんやんけ」という意でしょう。飛び込む前に何とかせんかい!というか、飛び込む原因を作ったのもお前やろー。乙女が飛び込んだ池というのは、現在の池ではなく、この山の東にあった池だそうです。



 そのまま南下します。畝傍山の向こうに金剛山も見えてきました。東を見ると香久山も見えています。




 
 史跡藤原宮址にやってきました。持統天皇の694年から710年の平城京遷都までの都です。詳しくは知らないのですが、何か調査の度に彊域が広がってきた感じです。各官衙も発掘の度ごとに何やかやと新しく発見され、どうせ臨時の都という扱いから本格的都城へと評価が変わってきたように思います。



 内裏は池の向こうにあったということです。持統女帝は池の向こうの木々のある辺りにおられて、有名な「春過ぎて夏来るらし白妙の衣乾したり天の香具山」という歌を詠まれたのでしょう。





 幾つかの建物は柱址が赤い柱で示されています。写真は大極殿院閤門跡のものです。朝堂院と大極殿のつなぎの門ですが、つなぎの門が30m×15m、朝堂院や大極殿はどれだけ大きいねんという感じです。




耳成山を振り返る

 さて、ここからは南東に見えている天の香久山へ、これは迷いようはないわいと油断していたら、途中にある環濠集落で少し迷いました。この藤原宮から香久山へという時は何故か一度は迷います。



 それでも奈良国立文化財研究所にたどり着き、そのまま畝尾都多本神社に。「哭沢の森」として知られるお宮さんです。伊弉冉尊が火之神を生んで亡くなられた時に夫である伊弉諾尊が涙を流された、その涙に成りませる神を祀ったお社です。



 この入り口のところでボーとしていたら、宮司さんがいらっしゃって「ここの神さんはなあ、国に不幸があった時に真っ先にみんなと一緒に泣いて下さる神さんやねん。」と声をかけてきて下さいました。となると東日本大震災以来は泣きづめの神さんでしょうね。よい神さんです。今日は講の神事があるということで、しばらく祝詞を聞かせていただきました。



 万葉歌碑は「哭澤の神社(もり)に 神酒据(みわす)ゑ 祈れども わが大君は 高日(たかひ)知らしぬ」という檜隈女王による高市皇子への挽歌。「哭澤の神社に御神酒を据えて祈ったけれど高市皇子はお隠れになられた」という意味、これもクライやんけ。高市皇子は天武天皇の皇子で、壬申の乱に際しては天武軍の総司令官であった人です。母親の身分が低いために皇太子にはなれませんでしたが、持統天皇の下で太政大臣ともなり、準天皇とも言える扱いを受けた人物です。子の長屋王が時に長屋親王と表記されるのはそのためでしょう。



 ここから香久山の登山口に向かう途中、田んぼ一面に名を知らぬ花が咲いていました。





 本日は日役というか、そんな日らしく麓から頂上までたくさんの人が出ておられて掃除をされています。みなさんが「こんにちはー。」と挨拶をして下さいます。


舒明天皇歌碑

 この舒明天皇の歌、「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば国原は 煙立ち立ち 海原は 鴎立ち立つ うまし國ぞ 蜻蛉島 大和の国は」は特に有名ですね。
 聖徳太子の子である山背大兄王と皇位を争ったといわれる田村皇子が即位して舒明天皇。ただ最近の研究では皇位争いという点では、山背大兄王は全く問題外だったようです。規定方針であった皇位継承にクレームを付けたことが山背大兄王の命取りになりました。舒明天皇は推古天皇と奥さんの皇極・斉明天皇という2人のやり手の女帝に挟まれ、印象としては地味な方ですが、この歌によって「ああ、大和の王者だったのだ。」と再認識させられます。


佐々木信綱歌碑

 「久方の天の香具山神代よりきよく尊き天のかく山かく山の淨きはに土よき年の御祭の具の科の埴土」


もう少しで頂上


國常立神社・ここが頂上

 香久山は殆ど眺望がありませんが、一方面だけ開けたところがあり、そこからは畝傍山が見えます。



 本日は多数の人が登り、大量の二酸化炭素が放出されたためか、山内はものすごい蚊です。山行きのフル装備でウロウロしていますから、虫除けも持っていたのですが、それでも5箇所ほどやられました。南へ斜面を駆け下りたところに伊弉冉神社。この辺りでは蚊との競争でした。



 ここからはひたすらに南下、明日香を目指します。適当なところで東進し橿原神宮前、そして畝傍山という算段です。


蚊具山を振り返る

 この付近は大官大寺址です。皇室の氏寺ですから、かつては香久山の高さを超える九重の塔もそびえていたといわれています。現在は奈良の大安寺が法統を受けついでいます。久しく謎の寺と言われていましたが、現在は聖徳太子の熊凝精舎から百済大寺、高市大寺、そして大官大寺という線はつながるようです。




塔跡

 明日香へは延々と続く一本道。右手には畝傍山と二上山。そろそろ右折しなくてはなりませんが、ここまで来たら明日香もチョットというスケベ根性が出てきます。


明日香へ


畝傍山と二上山

 石神遺跡を経て、水落遺跡。斉明~文武朝にかけて、ここいらにはたくさんの建物が建っていたのでしょう。


石神遺跡


水落遺跡

 水落遺跡の前に明日香村の文化財展示室、ここで学芸員の方が牽牛子塚古墳について詳しい説明をして下さいました。この古墳は巨石を刳り抜いた二つの墓室、八角形の構造などから斉明天皇と間人皇女(孝徳天皇母)の合葬墓である可能性が高いのですが、その塚の前から今ひとつの古墳が発掘され、日本書紀の記述に従うと大田皇女(大津皇子母)の墓であろうとのこと。日本書紀の記事にピッタリ一致する訳です。

[天智天皇]六年の春二月の壬辰の朔戊午天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)と間人皇女とを小市岡上陵に合せ葬せり。是の日、皇孫大田皇女を陵の前の墓に葬す。



 とにかく、お奨めのお奨めですから「それでは牽牛子塚に行きます。」と返事をしたのですが、今だから分かるけど、この時小生は大きな勘違いをしていたのです。
 牽牛子塚古墳は近鉄飛鳥駅から10分ほどのところ、そこへ行くのならちょっと明日香をぶらぶらしていこうというところです。


明日香の集落

 昔、明日香をよくウロウロしていた頃には見向きもしなかった道標、明治時代のものです。



 飛鳥坐(あすかにいます)神社は高松塚古墳を発掘された網干先生のご実家、大昔に境内を散歩する網干先生を見かけたことがありますが、それ以来のご無沙汰です。あの発見を機に関大史学は一挙に勢いづきました。京大何するものぞ、言い換えたら数学や理科ができるヤツは嫌いだー、という一種の熱気がありましたね。



 石段を登ったところにかわいらしい力石、片手用のようです。昔はこんなのも全部無視していたなあ。何を見ていたのだろう。



 拝殿は建て替えられていました。架けられている絵馬は子宝祈願ばかり、ということで思い出しました。このお社の祭は別名を「御田のエロまつり」、子供にはなかなか見せられぬ田楽が行われます。ポルノ映画より艶めかしい。


拝殿

 万葉歌碑は大伴御行の「大君は神にしませば赤駒のはらばふ田居を都となしつ」で、刻まれているのは万葉仮名です。揮毫は犬養孝先生で、「孝」の文字がはっきりと読めますから分かりやすいですね。



 遥かに甘樫丘、蘇我氏の邸宅跡です。「あー、あそこも登らんとあかんかったんや。」等と思いながら行くと板葺きの宮址です。蘇我入鹿暗殺の舞台。万葉歌碑は志貴皇子の「采女の袖吹きかへす明日香風 都を遠みいたずらに吹く」、藤原京に遷都してからの歌ですね。好きな歌ですが、揮毫が大嫌いな平山某(あれ?死んだかな?)だったので、写真はやめました。





 この付近から右折して、駅へ。川原寺跡の前を通る頃から急にお腹が空いてきました。もう此処で殺された藤原吉子と伊予親王の悲劇なんかも心に浮かびません。「えさや、えさ!」、2、3軒店はあるのですが、どいつもこいつもハーブティーとかの店、草っぱの茶なんか飲めるかい!もっと身になるものを食わせろ。ということで、ここで飢えるとは思いもしませんでした。ハーブティーにシフォンケーキというのが、最近の起業の流行のようです(明日香だけで何軒あるやら)が、世の中そんなに甘くはありまへんでー、うどん屋にしなさいうどん屋に。


川原寺跡

 そして、大間違いに気がつきました。近鉄飛鳥駅に着くと思っていたのが、実は間にある岡寺駅の存在をすっかり忘れていたのでした。飛鳥駅前にはカレーとかを食わせる店がありますが、岡寺駅前は悲惨です。高一の時に1杯2千円の水割りを飲んだスナックは未だあるようですが、シャッターは閉まっています。とにかく飯屋がありません。
 幸い、阿部野橋行の急行がすぐに来たので、これに乗ってしまいました。牽牛子塚古墳は宿題です。橿原神宮前駅でも降りるのを忘れて、そのまま阿部野橋まで乗ってしまいましたから、畝傍山も宿題となりました(あほやー)。
 阿部野橋から京橋は10分程度、本日も「やまげん」でちょいと一杯です。「島らっきょう」、確かにビールにピッタリです。カイワレと混ぜて鰹節をふり、醤油をかけて食います。これはmfujino様ご推奨の食べ方、そう、このらっきょうは普通のラッキョウのように酢漬けにしてはもったいないです。盛りつけがちょっと乱れているのは小生の責任。らっきょうが見えないので、かき混ぜたからです。



 イカ焼きもさることながら、さすがにイカに関してはたいしたものだ。今のところ、スルメの天ぷらに関しても、この店がナンバー1です。マヨネーズに、七味、ちゃんと醤油が入っているのも素晴らしい。これは他の店ではできそーでできてまへんでー。マヨネーズすら出さん店もたくさんあります。



 思いつきの徘徊でしたが、やっぱり明日香もいいなあと改めて思いました。もう少し、まめに大和を歩こう。そうすれば「スルメの天ぷら」超弩級もたくさん食えるというもんだ。



10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
懐かしいところ (mfujino)
2012-09-24 20:25:45
gunkanatagoさん、ふふふ、天香具山から南下したのがそもそもの間違い。明日香に足を踏み入れたら、ここもあそこもちょっと寄って行こうとなり、もうそこから抜け出せないでしょう。三山を目指すなら香具山から薬師寺跡を目指すべきでしたな。
天の岩戸の写真がありませんけど、、、。飛鳥坐神社の写真は力石だけじゃないですか。ど~んと載せたらええのに(^_*)
そうそう、畝傍やら牽牛子塚古墳へ行かれるときは益田岩船へも行ってレポートして下さいな。私は明日香の石造物でここが未探訪なんで、行こう行こうと思いながらという状態です。
私が大和三山を巡ったとき、畝傍の山頂のど真ん中で瞑想に耽る青年に出逢いましてこちらは静かに山頂の広場をぐるっとしたことを思い出しましたね。その時は畝傍から始めましたので耳成山がゴール、ということは歩いた後の一杯には全く問題なしでございましたね(^_*)
返信する
了解です (gunkanatago)
2012-09-24 20:50:28
 mfujino様、コメントをありがとうございます。そう、南下したのが間違いでした。明日香に行ってしまうとあれやこれやでなかなか橿原神宮前に戻れないですね。
 益田岩船、了解いたしました。松本清張はゾロアスター教の拝火壇といいましたが、残念ながら清張氏は牽牛子塚の発掘前に亡くなりました。この古墳の石室の写真を見ると岩船は石室を掘り抜こうとして、途中で捨てられたものであることが歴然とします。
 実は、この岩船付近に気になるところがあります。近いうちに登ってこようと思っています。今までは、飛鳥といえば東に向かうばかりでしたが、西に向かって御所などに向かうのもおもしろそうです。
 飛鳥坐神社、拝殿と万葉歌碑の写真もありますよー。品がよいことが売り物の小生ですから、他の写真なんかよう載せません(爆)。この神社の裏手が大原の里で鎌足のお母さんの出身地です。
返信する
Unknown (Unknown)
2012-09-25 00:37:23
飛鳥坐神社の裏が鎌足の母上の出身地ですか。山田寺の発掘復元が飛鳥資料館にありますね。その東は安倍氏の里だそうで、昔談山神社から安倍の文殊さんまで歩いたことや、高家で柿の葉寿司作り体験をしたのを思い出します。明日香の東の高台に上がると二上山や葛城山系、畝傍などの三山、遠くは城陽あたりまで見えるそうです。東もいいですが、仰る様に西もよさそうです。御所市などの重伝建もありますし、古墳もいっぱい。あ、それに巨勢街道もお忘れ無く。
明日香の里の彼岸花は咲き誇っているのでしょうか?今年の彼岸花は遅咲きだそうですがどうなんでしょう。もう遅いかしら?案山子ロードから稲渕から栢森へと男綱・女綱を見て昨年行かれた紅葉の頃の高取城を目指してのハイキングも心惹かれます。
牽牛子塚はいかねばなりませんねこの地にはまるとなかなか抜け出せませんね。
返信する
地図なしの旅こそ佳けれ大和か (道草)
2012-09-25 06:48:31
例によって、徘徊心がムズムズの無図徘徊を楽しまれて何よりです。耳成山は昔からよく耳にする名称ですが、意外と低い山なのに驚きました。これならケンケンどころか逆立ちで登れそうですが、奈良で一番低い山ですか?猫の名所の様ですが。
「耳無の池し恨めし~」は作者不詳ですけど、何でも3人の男に言い寄られて、女性は迷って池へ飛び込んだとか。昔の女性は純真でした(いや、今もそうです)。私など、何度上桂川へ飛び込みたいと思ったことか。この大川の水が涸れることなどありませんし・・・。

それにしましても、畝傍山~香具山の見える辺りは長閑な風景です。稲も穂を出して緑一色に点景を添えて、今の季節が奈良盆地では最高かも知れません。藤原宮跡も広々として人の影も見当たらず(撮影技術?)、gunkanatagoさん独り占めの贅沢な眺めではないですか。
ただ、大極殿跡を示す門柱のレプリカですか。沢山の赤い柱は奇異な感が否めませんが・・・。徘徊名人のgunkanatagoさんでも、藤原宮から香久山へという時は何故か一度は迷われるのは、やはりそのタタリなのかも。

「哭沢の森」とは言い得て妙ですが、この次はこの〝よい神さん〟の泣き声を聞いて来てください。ただ、この神さんはお酒はお嫌いなのかも。とすれば、gunkanatagoさんとは相性がワルイかも・・・。
山内からの畝傍山の眺望は中々のものですが、大量の蚊に刺されたのは、やはり沁みついた体臭のせいでしょう。ただ、アルコールは殺菌作用がありますから、幾ら刺されても大丈夫だと思いますから安心してください。

飛鳥坐神社の「采女の袖吹きかへす明日香風~」の揮毫者平山某画伯は既に死んでいます。清張の作品は「球形の荒野」でしたか。私は彼の作品では短編ですが「万葉翡翠」が2番目に好きです。1番は「絵はがきの少女」です。

コメントは横へ反れましたが、長閑な大和の国の徘徊録を堪能させて戴きました。最後の2枚の写真が、一段と精彩を放っています。
それにしても、高一で1杯2千円の水割りとは絢爛豪華ではないですか。私など、1カ月の小遣いがそれくらいでしたのに。
返信する
またのお楽しみ (ささ舟)
2012-09-25 10:45:53
こんにちは~、朝晩はすっかり涼しくなりました。
今回は「大和二山」ですね^^。私は高松塚古墳の壁画がまだ発掘されない時、学生時代にずらずらと明日香、斑鳩、初瀬などを歩きました。また10数年まえからただの観光とお参りで(これはバスで)3,4回訪れ大和三山を眺めるだけで登ったことはありません。
実はじつは平成10年12月のgunkanatagoさんのブログを何故か保存していまして、そこに発掘の事など書かれていました。こちらもあわせて見せて頂きました。
写真のお花はホテイアオイではないかしら?
確かにお上品なブログでございます(笑)  四国巡礼でも数回陰陽の像がありました。涎掛けの下に隠されたり。パッと見るのと撫でなでするのと心の葛藤は如何なものかと?(笑) 

返信する
確かに (gunkanatago)
2012-09-25 15:47:43
 mfujino様、本当に飛鳥周辺ははまってしまうと大変です。大学時代の知人に1週間連続で明日香に行った男がいました。民宿に泊まればいいのに等と言っていたものですが、やはり電車賃の方が安かったのでしょう。ここにはまるといつまでも「おかる」の明石焼きが食えない(爆)。
 昨年、道を間違えて登りかけましたが、談山神社への道もいいですね。小生は反対に明日香から談山神社に登り、そこから安倍文殊院まで歩いたことがあります。
 牽牛子塚、行こうと思っていた日に大学の同窓会が入りました。けれども、近いうちに必ず行きます。先日、塚の西の山を登っている夢を見ました(爆)。曾我川流域は蘇我氏のそもそもの発祥地のようです。
 栢森、今から30年以上も前に、缶ビールを手にしっかりと握りしめて、出してくれた茶店のお婆さんは生きてるかどうか?
返信する
乙女が飛び込む話 (gunkanatago)
2012-09-25 15:58:41
 道草様、コメントをありがとうございます。耳成山の池にまつわる伝説も恋愛に絡んで乙女が自殺する話だったのですね。そういうのですぐに思い出すのは、神戸の乙女塚の葦屋の菟原処女の伝説ですね。1つの伝説が各地で変容していったと取るべきか、いやいや昔の乙女は優しかったのだと取るべきかですね。
 松本清張が益田の岩船を取り上げたのは「火の路」だったと思います。小生は「時間の習俗」が好きな作品の一つで大宰府の都府楼から話が始まっているのがいいです。
 明日香のスナック、民宿で友人からバクチで巻き上げた金で行きました(時効・時効)。アテに何を取ったかは忘れましたが、最初の突き出しが「たにし」だったので閉口しました。もう一人の友人と二人で水割りを2杯ずつ飲み、8千円ぐらい払って出ましたから、高校生としてはボロ勝ちしたのですね。
返信する
高松塚以前! (gunkanatago)
2012-09-25 16:08:46
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。高松塚以前の明日香、いいでしょうね。残念ながら小生が徘徊するようになったのは高松塚以後でした。それでも石舞台や入鹿の首塚などはまだ田んぼの中にあり、川原寺も大規模に発掘される前で、随分とほんわかした風景でした。
 斑鳩はそのころからウロウロし始めましたが、初瀬は随分後のことで、司馬遼太郎も嘆いた建て売り屋の跳梁以後のことです。それでも、今でもウロウロするとのんびりした雰囲気が味わえますね。
 花は、ホテイアオイでしたか。名前は聞いているものの、何がそれなのかわかりません。ありがとうございます。群落もいいのですが、1つ1つの花が本当に綺麗でした。一生懸命に育てているみたいですから、やがては人に来てもらえるような大群落になるのかも知れません。
返信する
文字脱落。 (道草)
2012-09-25 16:44:09
地図なしの旅こそ佳けれ大和かな

でした。なぜか一字落ちていました(トシです)。
返信する
Unknownは (mfujino)
2012-09-25 21:45:27
3つめのコメント、名前もタイトルもUnknownになってしまいました。
私mfujinoが書きました。gunkanatagoさんはお分かりだった様でほっとしました。
不注意ごめんなさいm(. .)m
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。