![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/c6/372741880faaabf2700b18aed2dfac38.jpg)
数多の土地に関わる伝説の主人公の一人は聖徳太子でしょう。全国に聖徳太子建立の寺はやたらと多く、どこが真でどこが偽などと穿鑿することは今日では既に意味のないことですが、これを全て信ずるならば聖徳太子は寺ばかり建てていた人ということになります。施主と職人は異なるのですが、「建てた」という言葉が一人歩きしてか、太秦広隆寺の釿始め(ちょうなはじめ)の儀式などでは、聖徳太子は大工の棟梁としての地位も与えられているようです。
全国区という点では、弘法大師空海も引けを取りません。ここかしこの湧き水は大師が錫杖を突き立てると滾々と湧き出でたるものが多く、全てを信ずるならば大師はダウジングばかりやっていた人ということになります。かといって大師を水道屋の祖とする話は聞きませんが。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/b9/6ecaba4282641636736414177f4fd173.jpg)
柏原市太平寺の湧き水にもまた弘法大師の伝説があります
神変大菩薩役優婆塞は、全国の山という山を開いたアルピニスト、およそ深山の行場などで開基の名を見ないことはありません。行基菩薩建立といわれる寺院は49院とされ、80年あまりの人生にその建立年代を詰め込まねばならないので、1年に何ヶ寺も建立し、しかもその合間に温泉も掘削したらしく、行基開湯の温泉も多くあります。
相模入道北条時頼は人生僅か37年、余程の早足での廻国は真に御苦労様なことですが、宗教が絡まぬと否定するのも気が楽というもので、概ねは作り話とされています。同様に年寄りのアイドル水戸黄門も全国を廻りたる徴証は無之、まあせいぜい西山荘で「うどん」を打っていたぐらいですが、気に入って見ている爺さん婆さんに「こんなんは作り話や!」などという野暮はやめておきましょう。
川西市の満願寺という寺を贔屓にしたいところではありますが、坂田金時の墓も同寺を始めとして各地にあり、和泉式部などもクローンがいたのではと思われるぐらい、随所に墓石が建っています。蓮如上人腰かけ石の類もやたらに多いのですが、まあ上人の御連枝のおられる寺ならば、上人も一度や二度は来られただろうという推測も成り立つというもの、宗教絡みでありますから「この寺のはウソや!」などとは怖くて言えませんね。
さて、メジャーなところを幾人か挙げてみましたが、後世から敬慕・或いは同情(源義経などは定めしこのあたり)された人物については話が話を呼び、時には人為の手も入り(江戸期の戯作者・講釈師等有名無名を問わず様々な話を生み出し、それが史実として定着している土地も有り)、伝説の類はどんどんと膨らんでいくようです。メジャーでない等と云えば、この方を御祭神として祀る御社もあるのですから、お叱りを受けるかも知れませんが、我が惟喬[これたか]親王(この表現で許してもらおう)、知る人は知るのでしょうが、およそ教科書にも取り上げられることの少ない人物なのですが、この方に纏わる口承・伝説も実はもの凄い広がりを持っているのです。
当初は、京都北山の各所に於いてこの親王の名をよく目にしていたのですが、その時は例えば箕面の勝尾寺を開いた開成皇子のように謎の多い人物ではなく、居られた場所も人生もほぼ定まっている人物だと思っていたのです。ところが白州正子女史(この人自身も既に伝説になりかけていますが…)が滋賀県の永源寺辺りのことであったか、油日神社のことであったかを書いておられる中に「惟喬親王」の名が出てきて、「おや」と思ったのが端緒で、ちょっと調べると各地に足跡がある。枚方市の渚辺り(京阪電車御殿山駅周辺)まで伝承がある。これはもう多くの方に知っていただいて、是非ともメジャーの仲間入りをしてもらおうと考えておるのであります。
写真は雲ヶ畑岩屋橋の惟喬神社。
(08年5月の記事に加筆して再録)
全国区という点では、弘法大師空海も引けを取りません。ここかしこの湧き水は大師が錫杖を突き立てると滾々と湧き出でたるものが多く、全てを信ずるならば大師はダウジングばかりやっていた人ということになります。かといって大師を水道屋の祖とする話は聞きませんが。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/b9/6ecaba4282641636736414177f4fd173.jpg)
柏原市太平寺の湧き水にもまた弘法大師の伝説があります
神変大菩薩役優婆塞は、全国の山という山を開いたアルピニスト、およそ深山の行場などで開基の名を見ないことはありません。行基菩薩建立といわれる寺院は49院とされ、80年あまりの人生にその建立年代を詰め込まねばならないので、1年に何ヶ寺も建立し、しかもその合間に温泉も掘削したらしく、行基開湯の温泉も多くあります。
相模入道北条時頼は人生僅か37年、余程の早足での廻国は真に御苦労様なことですが、宗教が絡まぬと否定するのも気が楽というもので、概ねは作り話とされています。同様に年寄りのアイドル水戸黄門も全国を廻りたる徴証は無之、まあせいぜい西山荘で「うどん」を打っていたぐらいですが、気に入って見ている爺さん婆さんに「こんなんは作り話や!」などという野暮はやめておきましょう。
川西市の満願寺という寺を贔屓にしたいところではありますが、坂田金時の墓も同寺を始めとして各地にあり、和泉式部などもクローンがいたのではと思われるぐらい、随所に墓石が建っています。蓮如上人腰かけ石の類もやたらに多いのですが、まあ上人の御連枝のおられる寺ならば、上人も一度や二度は来られただろうという推測も成り立つというもの、宗教絡みでありますから「この寺のはウソや!」などとは怖くて言えませんね。
さて、メジャーなところを幾人か挙げてみましたが、後世から敬慕・或いは同情(源義経などは定めしこのあたり)された人物については話が話を呼び、時には人為の手も入り(江戸期の戯作者・講釈師等有名無名を問わず様々な話を生み出し、それが史実として定着している土地も有り)、伝説の類はどんどんと膨らんでいくようです。メジャーでない等と云えば、この方を御祭神として祀る御社もあるのですから、お叱りを受けるかも知れませんが、我が惟喬[これたか]親王(この表現で許してもらおう)、知る人は知るのでしょうが、およそ教科書にも取り上げられることの少ない人物なのですが、この方に纏わる口承・伝説も実はもの凄い広がりを持っているのです。
当初は、京都北山の各所に於いてこの親王の名をよく目にしていたのですが、その時は例えば箕面の勝尾寺を開いた開成皇子のように謎の多い人物ではなく、居られた場所も人生もほぼ定まっている人物だと思っていたのです。ところが白州正子女史(この人自身も既に伝説になりかけていますが…)が滋賀県の永源寺辺りのことであったか、油日神社のことであったかを書いておられる中に「惟喬親王」の名が出てきて、「おや」と思ったのが端緒で、ちょっと調べると各地に足跡がある。枚方市の渚辺り(京阪電車御殿山駅周辺)まで伝承がある。これはもう多くの方に知っていただいて、是非ともメジャーの仲間入りをしてもらおうと考えておるのであります。
写真は雲ヶ畑岩屋橋の惟喬神社。
(08年5月の記事に加筆して再録)
別に偉人ではありませんが、山頭火の訪れた土地でさえも、ずい分伝説的な霧の中の話があるようです。そう云えば、義経がジンギス・カンになったとの説がありました。確か高木彬光の本でベストセラーになったと思います。
何百年か先には、聖徳太子は宇宙人となるかも知れませんネ。。
役行者、小角さんが抜けてますよ、と書こうとしたら、「神変大菩薩役優婆塞」とちゃんと出てますね。これは知りませんでした。ちょっと調べますと、優婆塞とは在家の男性修行者であり、神変大菩薩とは役行者千百年遠忌に際し、時の帝、光格天皇から賜った諡号だと分かりました。
「八百比丘尼」もあちこちに伝説が残っているようですね。我が家の近くで言えば、美山の板橋と日吉の四ッ谷を結ぶ海老坂にある玉岩地蔵にもこの比丘尼伝説が伝わっています。5月になると北山ではシャガの群生があちこちで見られますが、玉岩地蔵への道にもそれを見ることが出来ます。