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惟喬親王は文徳天皇の皇子です。母は紀名虎の娘、本来太子となるべきところ、藤原良房の娘と文徳天皇の間に後の清和天皇が誕生したので、遂に皇位に就くことなく北山や近江の山間に隠棲して生涯を終わったということです。伝承(大鏡裏書)では、親王が賢明で輿望あるを不安に思った良房が刺客を放ち、それを避けて各地を転々としたことになっているということですが、正三位相当の大宰帥に任じられたり(赴任はされていないと思います。大宰府のあがりを受け取る権利を得たということです。親王任国も同じ。)、親王任国の常陸や上野の太守に任じられて、経済的にも恵まれていたであろうことを考えると、刺客云々というのは話を面白くするための作り話と言えるでしょう。
親王の誕生は844年ということですから、842年の承和の変の記憶がまだ新しいときです。この時に失脚した橘逸勢は後に怨霊化しますが、変な表現ながらもっと怨霊になる資格があった廃太子恒貞親王は、その後に僧となって大覚寺を開いています。奈良末、平安初期の他戸親王、伊予親王、早良親王の怨霊に余程に懲りたためか皇族方に対しては藤原氏は表面上は、あまりえげつないことはしていないように思われます。このあたり藤原氏は10世紀初めに菅原道真を凄まじい怨霊にしてしまうのですが(それでも藤原忠平流は道真の怨霊を丁重に祀ることによって、その加護を受ける立場となります。転んでもただではおきないあたりは流石です。)、こと皇族に関しては、そうならぬようにかなり気を付けたのではと思います。文徳実録では857年正月に帯剣を許され、12月に元服、四品を授けられ、翌年正月に太宰権師に任じられています。僅か14歳の少年でありますが、もし赴任したとしたら、この年の8月に清和天皇が即位していますので、訳の解らぬ陰謀に親王が巻き込まれぬ為の予防措置と取れなくもありません。
後代、藤原道長は自分の孫を即位させるために圧力をかけて東宮を辞させた小一条院敦明親王には自らの娘を妻に与えていますが、これなども「すんまへん、決してお宅さんを悪いようにはしまへん!」という意思の表れでしょう。道長の如き極悪非道にして然り、良房自身も866年の応天門の変では臣籍に降下しているものの嵯峨天皇の皇子である源信(みなもとのまこと)を救っています。この変自体が良房による伴氏排斥の疑獄と見る向きもあるのですが、源信を讒言から救う際の一連の行動を見ると、まあ我が意が通っているならばという制限があるにしても、良房という人が惟喬親王にそうひどいことをしたとは思えません。
怨霊などというと、オカルトなものを想像されるかも知れませんが、これは社会現象・人間心理の面から述べているわけで、本当に怨霊の存在があるのかないのかは別にして、当時の貴族層が怨霊の存在を信じ、恐れていたことは確かであろうと思われます。何故か世間では剛毅な性格と表現される桓武天皇などは、若い頃には井上内親王・他戸親王母子の、即位してからは弟である早良親王の怨霊に恐怖しています。ですから、良房が皇子に刺客を放ち、悲惨な最期を遂げさせて怨霊化させるというような自らの一族と一族から出た天皇・皇太子の首を絞めるようなことをしたとは考えられぬのです。その養子の基経などは、寧ろ勝ち組とも言える宇多天皇を苛めていますね(阿衡の紛議)。
そうしたら、惟喬親王が各地にその足跡を残しているのは何の故かということですが、これはやはり惟喬親王を職業上の祖とする木地師集団の移動の足跡と合致するのではと思われます。各地の山に入り、木材を伐採する時にも「やんごとなき」方の名を出し、小難しい書類(実際に由来書のようなものを持ち歩いていたらしい)を見せた方が揉め事もなく仕事がスムーズにできる。山を利用される側も今日のように重機で山の皮をベロンと剥いでしまう訳でもないが、黙って入って木を切られたら文句の一つも言いたいところだが、皇室由来の書類などを見せられたら、寧ろ話の種としても面白い、「どうぞ、どうぞ。」ということになるのではと思われます。但し、これは別に小生のオリジナルの意見でも何でもなく、昔から言われていることであります。
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雲ヶ畑の惟喬神社
となると、現在、親王の伝説の残る各地の全てに実際に親王がおられたという訳ではないでしょう。これを全て史実として親王の年譜を作ったりするから親王の官職に就かれた年次にも矛盾が出るし、何か瘋癲の寅さんのようなイメージができあがったりするのです。唯、各地域の人々にとっては親王の存在は史実以上に大切なことですから、「ここには来ておられないだろう。」というような断定は避けておきましょう。
何か今回は藤原良房弁護に終始した感があり、親王のお叱りを受けるかも知れませんが、各地の親王を祀るお社にしっかりわびておきましょう。写真は、雲ヶ畑の高雲寺、高雲の宮址と説明板にはあります。
(08年5月の記事に加筆して再録)
親王の誕生は844年ということですから、842年の承和の変の記憶がまだ新しいときです。この時に失脚した橘逸勢は後に怨霊化しますが、変な表現ながらもっと怨霊になる資格があった廃太子恒貞親王は、その後に僧となって大覚寺を開いています。奈良末、平安初期の他戸親王、伊予親王、早良親王の怨霊に余程に懲りたためか皇族方に対しては藤原氏は表面上は、あまりえげつないことはしていないように思われます。このあたり藤原氏は10世紀初めに菅原道真を凄まじい怨霊にしてしまうのですが(それでも藤原忠平流は道真の怨霊を丁重に祀ることによって、その加護を受ける立場となります。転んでもただではおきないあたりは流石です。)、こと皇族に関しては、そうならぬようにかなり気を付けたのではと思います。文徳実録では857年正月に帯剣を許され、12月に元服、四品を授けられ、翌年正月に太宰権師に任じられています。僅か14歳の少年でありますが、もし赴任したとしたら、この年の8月に清和天皇が即位していますので、訳の解らぬ陰謀に親王が巻き込まれぬ為の予防措置と取れなくもありません。
後代、藤原道長は自分の孫を即位させるために圧力をかけて東宮を辞させた小一条院敦明親王には自らの娘を妻に与えていますが、これなども「すんまへん、決してお宅さんを悪いようにはしまへん!」という意思の表れでしょう。道長の如き極悪非道にして然り、良房自身も866年の応天門の変では臣籍に降下しているものの嵯峨天皇の皇子である源信(みなもとのまこと)を救っています。この変自体が良房による伴氏排斥の疑獄と見る向きもあるのですが、源信を讒言から救う際の一連の行動を見ると、まあ我が意が通っているならばという制限があるにしても、良房という人が惟喬親王にそうひどいことをしたとは思えません。
怨霊などというと、オカルトなものを想像されるかも知れませんが、これは社会現象・人間心理の面から述べているわけで、本当に怨霊の存在があるのかないのかは別にして、当時の貴族層が怨霊の存在を信じ、恐れていたことは確かであろうと思われます。何故か世間では剛毅な性格と表現される桓武天皇などは、若い頃には井上内親王・他戸親王母子の、即位してからは弟である早良親王の怨霊に恐怖しています。ですから、良房が皇子に刺客を放ち、悲惨な最期を遂げさせて怨霊化させるというような自らの一族と一族から出た天皇・皇太子の首を絞めるようなことをしたとは考えられぬのです。その養子の基経などは、寧ろ勝ち組とも言える宇多天皇を苛めていますね(阿衡の紛議)。
そうしたら、惟喬親王が各地にその足跡を残しているのは何の故かということですが、これはやはり惟喬親王を職業上の祖とする木地師集団の移動の足跡と合致するのではと思われます。各地の山に入り、木材を伐採する時にも「やんごとなき」方の名を出し、小難しい書類(実際に由来書のようなものを持ち歩いていたらしい)を見せた方が揉め事もなく仕事がスムーズにできる。山を利用される側も今日のように重機で山の皮をベロンと剥いでしまう訳でもないが、黙って入って木を切られたら文句の一つも言いたいところだが、皇室由来の書類などを見せられたら、寧ろ話の種としても面白い、「どうぞ、どうぞ。」ということになるのではと思われます。但し、これは別に小生のオリジナルの意見でも何でもなく、昔から言われていることであります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/42/9f65ee91d356bd370cdfdf8a5e4c0da9.jpg)
雲ヶ畑の惟喬神社
となると、現在、親王の伝説の残る各地の全てに実際に親王がおられたという訳ではないでしょう。これを全て史実として親王の年譜を作ったりするから親王の官職に就かれた年次にも矛盾が出るし、何か瘋癲の寅さんのようなイメージができあがったりするのです。唯、各地域の人々にとっては親王の存在は史実以上に大切なことですから、「ここには来ておられないだろう。」というような断定は避けておきましょう。
何か今回は藤原良房弁護に終始した感があり、親王のお叱りを受けるかも知れませんが、各地の親王を祀るお社にしっかりわびておきましょう。写真は、雲ヶ畑の高雲寺、高雲の宮址と説明板にはあります。
(08年5月の記事に加筆して再録)
惟喬親王の話とは無関係で申し訳ありません。木地師の名は聞いたことはありますが、山窩とはまた全く異なる職業なのですネ。昔、栃本の向いの農家に居候している時に、木挽きを見たことがあります。大鋸で太い材木を縦に切って板にする仕事です。5メートルはあるかと思われる大木から何枚も板を取るのですが、線引きもしないで真直ぐに挽いていく技は、何時間見ていても飽きないほど見事なものでした。
いつものことながら横道へ逸れました。木挽きには到底なれそうもありません。