花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

西宮徘徊その2

2010年11月01日 | 徘徊情報・摂津国
 灘に近く、またこの町自体も酒処であるということで歩き始めた西宮、今回は日本酒の蔵元などはひとまず置き、師匠の案内で西宮北口から武庫川にかけての徘徊であります。
 阪急西宮北口駅から線路に沿って真っ直ぐに東に向かうと日野神社があります。この神社、阪神大震災で社殿が倒壊、近年にいたって漸く再建が進められています。この神社周辺が瓦林城跡だと言われています。応仁の乱から信長の入京までの100年間のできごとは、小生にとっては宝箱のようなものです。けれども、あまりにごちゃごちゃとしているものですから、未だに時間軸に沿ってきちんと出来事を把握するには至っていません。この城の主であった瓦林正頼のことについても、あちらでチョロチョロ、こちらでチョロチョロと名前が出てくるのですが、きちんとしたイメージは形成できていません。

          
          日野神社、社叢は広い。

 群書所収の「瓦林正頼記」も読まねばならぬと思いながら放ってありますから、折角に城跡を訪ねたのに勿体ないことです。応仁の乱における一方の大将は細川勝元、勝元の子が政元、この政元が1507年に暗殺された後は細川氏の家督をめぐって二人の養子の長い長い戦いが始まりました。本来政元には澄之と澄元の二人の養子がいて、政元の暗殺は澄之を奉ずる香西氏等によって行われました。けれども澄元側は直ちに反撃し、澄之を殺します。この時点では3番目の養子であった高国は澄元側についたのですが、やがてこの両名の争いが始まります。それからはうんざりするほどに勝ったり負けたりの繰り返し、瓦林正頼は一貫して高国方で戦います。この瓦林城は正頼が西方1、2キロほどの山手に越水城を築いて移転するまでの居館であったようです。
 昨日の敵は今日の友も明日は敵で明後日の友というような目まぐるしい変転の中で1520年には瓦林正頼は高国の命で切腹させられました。澄元側と通謀したという疑いをかけられたようです。この時代の武士は、逃げられるなら絶対に逃げる。潔く腹を切ろう等ということはしませんから、もうどうにもこうにも逃げられぬ状況に置かれたのでしょう。この忠実な正頼を殺したことが後の高国の破滅にもつながってくるようですが、この話は此処までにしましょう。本日の徘徊で、元は庄屋ではなかったかと思われる瓦林さんの家もありましたから、正頼の後継者は1570年に篠原長房の攻撃によって滅亡したにせよ、その御一統さんは帰農して続いたようです。

          
          出雲大社遙拝所

 日野神社の中には出雲大社遙拝所がありました。このところ「わしらは神風連か?」と思うほど神社参りばかりしていますが、出雲さんの遙拝所は大変珍しいと思います。
 ここから武庫川の土手に出るところに徳本上人の名号碑、今やその名は埋もれてしまっていますが、江戸時代後期の僧で、人々から生き仏とまでいわれた坊さんだそうです。

             

 武庫川の川原に出ると文久年間の水位計、ナイロメーターの向こうを張るならばムコメーターであります。文字は読みやすいように新たに墨が入れられています。子供がかけっこのデンをする柱として使っているのは微笑ましい。

          

             

 本日は「歩く植物図鑑」も同行していますから、写真に「木」とか「花」とか間抜けな名を付けずに済みます。けれども一回の徘徊では花の名は3つ覚えるのが我が限界であるようです。「歩く植物図鑑」等というともの凄い優男を想像されるかも知れませんが、柔道は5段、酒は二升酒の猛者であります。小生などは同じピッチで酒を飲んでエライ目にあったことが何度もあります。現にこの日も帰路にしっかりと電車を乗り過ごしました。

          
          栴檀

          
          栴檀の実

 この10月25日に全通した山手幹線、武庫川に架かる橋もサス入りで地震対策も万全かと申す処。土手にはハナゾノツクバネウツギ。水道局の建物も近代化遺産であるとのこと。

          

          

          

 熊野神社までやって参りました。このお社の一隅に算学神社があります。祭神の毛利勘兵衛重能(しげよし)は我が国最初の和算の書である「割算書」などを著した人物で、吉田光由の師匠です。かの有名な関孝和は吉田光由の「塵劫記」の独習から学問を始めたと言われていますから、まさしく大師匠で和算の開祖と言っても良い人であります。算数・数学に悩んでいる学生諸君は必ずお参りしなくてはならぬお社です。

          
          熊野神社

          
          算学神社

          
          割り算の天下一

 ここよりは暫し西に赴きます。基本は「津門(つと)の中道」といわれる道を歩きます。道標を兼ねたお地蔵さんがありましたが、お堂が妨げして読めません。我々が去るのを待ってご婦人がきちんと手を合わせておられましたから、まあこれもよし。

          

 見事な朝顔が咲いている家がありました。ヌ、朝顔?、こやつはケープタウン朝顔というそうです。やはり花の名を知るということは大切で、ちょっと注意するとこの辺りの住宅はケープタウン朝顔だらけです。名を知らぬ時は見れども見ずというところでしょうか。その先が極楽寺で瓦林正頼の墓所があるところです。瓦林城はこの辺りであったという説もあるそうです。近年、歴代住職の墓と合わせて整理をしたようですが、不運の戦国武将の墓という雰囲気は無くなっています。

          

          
          極楽寺

 極楽寺を南に下り、瓦木村道路元標、さらに南して東海道本線の「まんぼう」です。これは本当に低くて、かがまねば通ることができません。複線ぐらいの距離ならば良いのかも知れませんが、現在は複々線化されていますから、この距離が大変長い。けれども地元の方は、この通路を自転車を押して通られていますから、何でも慣れることが肝要と言うところでしょう。

          

          

          

 甲子園口の駅までやって来ました。こういう徘徊でもしない限り決してくることのない駅です。駅前はやや寂しいのですが、百数十年の列車の重みに絶え続けた橋はなかなかに見事です。

          
          甲子園口駅前

          
          煉瓦積み

 ここより再び武庫川方面に向かいます。松山大学(旧松山商科大学)関連の温山記念館を経て、枝川の分水路へ。この枝川、現在は存在しません。かの甲子園球場(星野去りて誠に目出度し)は枝川の河川敷に造られた球場だということです。2号線から分岐する340号線が枝川の流路そのもののようです。

          
          温山記念館

          
          枝川はここから始まっていた。

 武庫川の土手を南下すること暫し、武庫川大橋が見えてきました。車で通るときは一瞬ですが、歩いてみるとなかなかに良い橋です。今回、改めて武庫川の水が随分と綺麗になっていることに気がつきました。サギやシギの類、大きな鯉なども多くいます。ここまで下流に来て、水がなお透き通っているというのは、やはり上流域の下水道建設が進んだためでしょうか。

          

          

          
          武庫川大橋から下流を望む

 武庫川大橋を尼崎市まで渡り、そこで反転して西に向かいます。最終目的地はアサヒビール西宮工場であります。

             
             メタセコイア、バックは武庫川女子大学。

          
          枝川流路、真っ直ぐ行けば甲子園。

 残念ながらこの工場は近々吹田工場と統合されるようです。ビール工場にはあまり思い入れはありませんが、多田御家人である三矢氏の名を冠したる三ツ矢サイダーの生産工場であったと聞くと残念だなあという感慨が湧いてきます。
 工場見学約50分の学習に堪えたら御褒美はビールの試飲、黒ビールも用意してあるところが泣かせます。ビールは一人3杯以内とのことですが、別に監視しているわけではありません。けれども試飲時間20分というのが大変良くできていて、その間にオネエチャンがつまみを持ってきてくれたりすると4杯目を飲むというのは時間的に難しい。

          

          
          創業者等のレリーフ

          
          工場内旭神社

 さてさて、「とりあえずビール」というのは済ましましたから、西宮北口の「笑右衛門」では、いきなり日本酒です。師匠曰く「ここは酒飲みの気持ちをよく分かってくれる店だ」と。何でも日本酒を全種類飲みたいから5勺ずつ出してくれーという面倒くさい要求にしっかりと応えてくれたとのこと。串カツとおでんもウマイ。小生などは少し飲み過ぎたと思ったのですが、植物図鑑の猛者は「第二回戦だ」と一人甲子園の方に去っていきました。

           


6 コメント

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近く遠き西宮。 (道草)
2010-11-01 15:43:40
西宮周辺は全く未知の世界です。勤務している頃に、武庫之荘の同僚の家で泊まったことがありますが、京都方面の終電が出た後の深夜で、翌朝は早くから慌しく出勤ですから、周囲の風景もまるで記憶にありません。まして、歴史や故事来歴などは、私には遠い世界の出来事に感じられます。
日野神社は、やはり天照大神がご神体ですか。全国各地に同名の神社があるようですが、やはりここが本家でしょうか。
武庫川は溝川との印象でしたが、最近は魚貝類も棲息するようになっているのですか。
2カ月間連絡が届かず先月は甥の結婚式と重なって、徘徊に同行出来ず残念でした。それにしても、植物博士がご同道されれば心強いものがあると思います。花の名前(特に外来種)はややこしい物が多くて、私も覚えるのに四十苦八十苦です。ただ、徘徊堂さんは、〝栴檀は双葉より酒に芳し〟との喩えも、「実」を持って体験されて何よりでした。
星野が甲子園を去ったことは、ご同様に祝杯ものです。ビール試飲20分はやはり短いですか。軀に水枕を巻きつけて行って流し込むくらいの創意工夫は必要なのかも。「徘徊の後こそ身に沁むビールかな」道草。
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味をしめて (gunkanatago)
2010-11-01 16:11:05
 道草様、コメント及び名吟をありがとうございます。日野神社の御祭神は天照大神です。けれども、ここの日野神社は創設は戦国期ですから、全国にある日野神社の御本家ではありません。武庫川は以前は少なくとも宝塚まで行かないときれいな印象がなかったのですが、河口に近いこのところで水が透き通っていたのには驚きました。日野神社の横の溝にもたくさんのカワニナが見られましたから、蛍も飛ぶのだろうと思います。
 アサヒビール、西宮工場は閉鎖されますが、今回に味を占めて、師匠が吹田徘徊を企画すると思いますので、その時には是非ご参加下さい。小生を含めみんな単純居士ですから、このところスーバードライばかり買っております。昔からキリンレモンよりは三ツ矢サイダーでしたが、ビールの方はキリン一番搾りが一番ウマイと吹聴しておりました。それもピタリとやめておりますから、アサヒビールは我々にビールを飲ませて正解でした。
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工場見学 (ささ舟)
2010-11-07 14:16:38
こんにちは。
アサヒビール西宮工場と明治製菓高槻?工場は高校の社会見学で行きました。既に半世紀以上経っています。工場見学は大好きで、大人になってからも、かまぼこ工場、トヨタ自動車、造幣局など見学しましたが、あの謎のような仕組みの機械からポンポンと流れてくるのを見て、その機械を製作された人の発想が凄いな~と感心ばかり。テレビ番組の「平成教育委員会」のなかの「何を作っているのでしょうか」欠かさず観ています^^
もっと小さい時に思いを馳せますと、冬の寒い時、神戸の海に軍艦を見に行った帰りに、「えべっさん」にお参りしました。何神社か全く覚えていませんが、祖父が「えべっさんは長生きで耳が遠いから板壁を叩いて「えべっさーん、えべっさーん」とお参りに来たことを知らせるのだ」とこんな事を言ったように思います。武庫川や鳴尾は娘に会いに行く時だけ通るだけでした。歴史は全くダメであります。
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吹田に行きましょう (gunkanarago)
2010-11-08 14:44:20
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。そう、試飲のことばかり言っていたらダメですね。今回一番驚いたのは缶ビールのフタで、0.1秒の間に24缶フタが出来るということで、こういうオートメーションが普及すれば、それは人間の働く場所は減るわーと思いました。
 お祖父さんといらっしゃった神社は西宮神社である可能性が高いです。正月に例の走りっこのあるお宮さんです。本当に良い思い出をたくさん持っておられますね。こういうことは本当に大切だと思います。
 「近いうち」といっても明春以降になるでしょうが、吹田周辺の徘徊があります。そのときは今回に味をしめて、アサヒビールを再訪すると思いますので是非ごいっしょ下さい。
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西宮って (mfujino)
2010-11-12 21:20:27
gunkanatagoさま、 西宮は小さい小さい会社をやっていたときの社長が西宮在住で引っ越しの手伝いに行ったこと、海清寺で座禅を組んだこと、クロードチアリさんが住んでいて連絡を取り合ったこと、あの大震災の時に歩いて灘郷まで炊き出しに行った事などを思い出す程度であまり深い思い出はありません。
西宮って何神社が西の宮なのでしょうか?こうして考えると、何で尼崎?なんで神戸?明石は?尼さんや宮、石から類推するにやはり神や仏教に関連するのではともかんがえますが、この一帯はどういう地だったのでしょうか?
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詳しくは知らないのですが (gunkanatago)
2010-11-13 13:52:05
 mfujino様、コメントをありがとうございます。西宮の由来となっているのは現在は「西宮えびす」が一般に知られているのですが、もともとは広田神社を指したものだろうと思います。そして、朝廷が奉献する22社の中にこの広田神社が入っているというのはやはり山陽道の存在が大きいのではと思います。律令体制下では京師と大宰府を結ぶこの道こそがメインストリート中のメインストリートだったと思われます。
 神戸はアイヌ語起源説もありますね。明石は海中にある赤い石からきたと以前に徘徊したときにどこかの寺の説明板に書いてありました。尼崎は海人からきていると思うのですが、大阪の懐徳堂があった辺りも尼崎で、あの辺りも昔は海に面していたのではと思います。
 西宮市は小生もほとんど知らなかったのですが、いろいろと見どころがあります。
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