近鉄吉野線飛鳥駅周辺の変貌ぶりは2年ほど前に束明神古墳を見学した帰りに十分に驚きましたが、20年ぶりに降り立った岡寺駅周辺の変わりようには本当にたまげました。明日香でも○○台というようなニュータウンが幾つも造成され、年々懐かしい風景は消え失せつつあるのですが、この岡寺駅前などは到底明日香の入り口とは思えぬ状態になっていました。はるか昔、高校2年の夏に明日香村中心部の村落にあった民宿から、真っ暗な道をテクテクとあるいて裏わびしい岡寺駅前のスナックに入ったのが、小生のスナックデビュー、ウィちゃんダブルの水割りを2杯飲みましたが、付出しの田螺には閉口しました。その店もどの建物であったやら、全く解らないほどに駅前は立て込みました。最初の写真を見ても「どこが明日香やねん」という感じ。
岡寺駅前から真っ直ぐに東に進む道、最大規模の円墳である丸山古墳(多分本当の欽明陵)も住宅の陰になり、ほとんど見えません。グチグチ文句を言いながらも先ずは明日香の蔵元「脇本酒造」で試飲であります。この醸造所に行く前に先ずは道を間違え、ニュータウンの中をウロウロしました。天武・持統合葬陵のすぐそばにまで宅地開発が押し寄せているのですね。
3日の後に新酒を絞るということで、「今日は種類が少のうて」と恐縮されますが、それでも3種類の酒を飲ませていただきました。面白かったのは2年ほど寝かせた「強酸酒」、味わいは完全に白ワインです。伏見の「月の桂抱腹絶倒」等と同じ味がします。店の人は「たまたまできたので、次に同じ味が出せるかどうか」とおっしゃっていました。伏見の話をすれば良かったのですが、言いそびれました。何にしても純米大吟醸「飛鳥京」が切れていたのは残念なことであります。この脇本酒造は「亀石」のすぐ近くにあり、このあたりまで来ると、「ああ明日香に来たなあ」という感が強くなります。
西を振り返れば葛城山。
亀石どす。
やたらに立派になった橘寺。
昔昼寝をした弘福寺(川原寺跡)
本日は、飛鳥川を遡行して栢森まで行き、そこから高取城祉に登る予定ですので、明日香主要部の観光スポットは全てパスです。石舞台古墳周辺は多くの棚田が潰されて公園敷地になっていました。その一画ではどこぞの会社が運動会などをやっているようで、拡声器から嬌声がギャンギャン聞こえます。ええかいな。
さて雑音に心眼が曇ったのでしょう。飛鳥川支流の冬野川を本流と勘違いして、随分と冬野の奥深くまで歩いてしまいました。栢森は本流を遡っていかねばなりません。石舞台古墳周辺まで戻って再び歩き始めます。まあ、その御陰で普段見ることのない「都塚古墳」を見ることが出来ました。冬野から多武峰への道は今までに2度歩いているのですが、すっかりと忘れていました。冬野はその昔に作家の五味康祐が籠もって「柳生武芸帳」などを書いた所、そういうことを何も記さないのはゆかしいですね。五味君、死ぬならば柳生武芸帳を完結させてから死んでね。三巻を読み終えて途中でブツと切れていたのでズッコケた覚えがあります。閑話休題。
都塚古墳
淵は瀬になる飛鳥川、この川に沿った栢森への道は古い街道です。大海人皇子を始めとする多くの人たちがこの道を芋ヶ峠に向かい、吉野へと歩きました。
稲淵の集落の中にあるのが南淵請安の墓です。この地まで中大兄皇子や中臣鎌足等が大陸の新知識を学ぶために駒を進めました。請安は蘇我氏へのクーデター(乙巳の変)までには亡くなっていたようですが、存命ならば国博士に任じられたでしょう。
墓には金比羅さんも祀られている。
大正時代の顕彰碑。
栢森の入り口、飛鳥川上坐宇須多岐比賣命神社(あすかかわかみにいますうすたきひめのみことじんじゃ)です。皇極天皇が雨を乞う儀式を飛鳥川の上流で行ったことは有名ですが、その儀式が行われたのはこの辺りではないかと言われています。その前に蘇我蝦夷が雨乞いに失敗していますから、皇極帝の乞雨によって雨が降ったことは、皇室の支配の正統性を示す話にもなっています。写真では判りませんが、ここからいきなりディエーと急勾配の階段が続きます。飛鳥川の水の神様を祀るお社は拝殿のみです。その拝殿は随分と綺麗になっていました。
拝殿
このお社で遅い飯を食ったときには午後2時をまわっておりましたから、ここから芋ヶ峠まで行って高取城祉に向かうと山中で真っ暗になる可能性が出てきました。こういうこともあろうかと本日はライトも持参しましたが、なかなかスリリングで面白いやんけと思っていましたら、カンジョ掛縄が飛鳥川に張られたところから高取城祉に直登できる道がありました。極めてラッキーであります。
30分ほど谷をつめて登ると早くも高取城祉に。東口の番屋があったところらしい。ところが、ここからが長い長い、いつも壺阪寺の方からしか登らなかったため、本丸辺りをウロチョロしているのみだったのですが、今回はこの城の長大さを思い知らされました。この城を描いた小説では司馬遼太郎の「おお、大砲」が知られています。幕末に天誅組がこの城を攻撃する話です。こうして東から登っていくと天誅組程度の人数では到底占領・維持することが不可能であることがよく分かります。
猿石
猿石を経て、城の中心部に。この高取城祉で自分たち以外の人を見たのは今回が初めてです。そういえば、今までは夏のクソ暑い日にしか登らなかったからなあ。本日は、全く予想外に見事な紅葉を見ることも出来ました。柴犬やポメラニアンも登っていましたが、ノーリードはよくないよ。無礼をはたらいた人間にかぶりつくぐらいはご愛敬ですが、急に何かケモノを追い始めて、そのまま行方不明ということはよくあることです。世の飼い主これを心得よ。
眺望、煙っているのが残念です。吉野方面はくっきりと見えたなら蔵王堂も確認できるはず。
下りは壺阪寺へ。途中に五百羅漢があります。梵字の彫られた道標はこの五百羅漢への道しるべでしょうか。
五百羅漢
壺阪寺の上に出る。
壺阪寺は、ちょっとハコものに力を注ぎ過ぎている感がありますが、しっかりと人々の信仰を支えていこうという気概のある寺だと思います。この壺阪寺からバスに乗るつもりでしたが、バスは既に終わっており、近鉄壷阪山駅まで4㎞を歩きました。途次、高取城の城下町である土佐の町を通ります。この町も5時を過ぎると真っ暗。けれどもいつ来てもしっとりとした良い町です。暗闇の中で壺坂霊験記のお里沢市の墓に詣で、暗闇の中で道路元標を見つけました。お里沢市の話の原形は既に9世紀に成立していたということと、『日本感霊録』なる書物の存在を初めて知りました。写真は全く駄目ですが、空には煌々と満月が光り、土佐の町を照らしています。大昔に地酒を買い求めた店は見つけました。既に店じまい。
近鉄壷阪山駅からは阿部野橋までは小一時間、吉野は蔵王権現のご開帳で賑わったはずですが、この時間にはもう人の波も引いたと見えて、吉野から来る電車も空いていました。7時前には新世界の串カツ屋にゴールです。本日、ビールの安さに惹かれて入った店は串カツの方はちょっとハズレだったように思われます。串カツの後、同じく新世界のうどん屋でうどんを食いました。ここの蕎麦は、更科風の白い蕎麦で、師匠は小躍り、ところが一口すすって「△やな」、蕎麦は良いのですが、出汁が全然アカンということでありました。ただ、店の雰囲気は大変昔風で趣がありました。賀茂鶴の熱燗を飲むうちに新世界の夜は更けてというところでしょうか。飛鳥川上坐宇須多岐比賣命神社の森厳さと新世界の雑駁さを一日のうちに味わうことができました。
岡寺駅前から真っ直ぐに東に進む道、最大規模の円墳である丸山古墳(多分本当の欽明陵)も住宅の陰になり、ほとんど見えません。グチグチ文句を言いながらも先ずは明日香の蔵元「脇本酒造」で試飲であります。この醸造所に行く前に先ずは道を間違え、ニュータウンの中をウロウロしました。天武・持統合葬陵のすぐそばにまで宅地開発が押し寄せているのですね。
3日の後に新酒を絞るということで、「今日は種類が少のうて」と恐縮されますが、それでも3種類の酒を飲ませていただきました。面白かったのは2年ほど寝かせた「強酸酒」、味わいは完全に白ワインです。伏見の「月の桂抱腹絶倒」等と同じ味がします。店の人は「たまたまできたので、次に同じ味が出せるかどうか」とおっしゃっていました。伏見の話をすれば良かったのですが、言いそびれました。何にしても純米大吟醸「飛鳥京」が切れていたのは残念なことであります。この脇本酒造は「亀石」のすぐ近くにあり、このあたりまで来ると、「ああ明日香に来たなあ」という感が強くなります。
西を振り返れば葛城山。
亀石どす。
やたらに立派になった橘寺。
昔昼寝をした弘福寺(川原寺跡)
本日は、飛鳥川を遡行して栢森まで行き、そこから高取城祉に登る予定ですので、明日香主要部の観光スポットは全てパスです。石舞台古墳周辺は多くの棚田が潰されて公園敷地になっていました。その一画ではどこぞの会社が運動会などをやっているようで、拡声器から嬌声がギャンギャン聞こえます。ええかいな。
さて雑音に心眼が曇ったのでしょう。飛鳥川支流の冬野川を本流と勘違いして、随分と冬野の奥深くまで歩いてしまいました。栢森は本流を遡っていかねばなりません。石舞台古墳周辺まで戻って再び歩き始めます。まあ、その御陰で普段見ることのない「都塚古墳」を見ることが出来ました。冬野から多武峰への道は今までに2度歩いているのですが、すっかりと忘れていました。冬野はその昔に作家の五味康祐が籠もって「柳生武芸帳」などを書いた所、そういうことを何も記さないのはゆかしいですね。五味君、死ぬならば柳生武芸帳を完結させてから死んでね。三巻を読み終えて途中でブツと切れていたのでズッコケた覚えがあります。閑話休題。
都塚古墳
淵は瀬になる飛鳥川、この川に沿った栢森への道は古い街道です。大海人皇子を始めとする多くの人たちがこの道を芋ヶ峠に向かい、吉野へと歩きました。
稲淵の集落の中にあるのが南淵請安の墓です。この地まで中大兄皇子や中臣鎌足等が大陸の新知識を学ぶために駒を進めました。請安は蘇我氏へのクーデター(乙巳の変)までには亡くなっていたようですが、存命ならば国博士に任じられたでしょう。
墓には金比羅さんも祀られている。
大正時代の顕彰碑。
栢森の入り口、飛鳥川上坐宇須多岐比賣命神社(あすかかわかみにいますうすたきひめのみことじんじゃ)です。皇極天皇が雨を乞う儀式を飛鳥川の上流で行ったことは有名ですが、その儀式が行われたのはこの辺りではないかと言われています。その前に蘇我蝦夷が雨乞いに失敗していますから、皇極帝の乞雨によって雨が降ったことは、皇室の支配の正統性を示す話にもなっています。写真では判りませんが、ここからいきなりディエーと急勾配の階段が続きます。飛鳥川の水の神様を祀るお社は拝殿のみです。その拝殿は随分と綺麗になっていました。
拝殿
このお社で遅い飯を食ったときには午後2時をまわっておりましたから、ここから芋ヶ峠まで行って高取城祉に向かうと山中で真っ暗になる可能性が出てきました。こういうこともあろうかと本日はライトも持参しましたが、なかなかスリリングで面白いやんけと思っていましたら、カンジョ掛縄が飛鳥川に張られたところから高取城祉に直登できる道がありました。極めてラッキーであります。
30分ほど谷をつめて登ると早くも高取城祉に。東口の番屋があったところらしい。ところが、ここからが長い長い、いつも壺阪寺の方からしか登らなかったため、本丸辺りをウロチョロしているのみだったのですが、今回はこの城の長大さを思い知らされました。この城を描いた小説では司馬遼太郎の「おお、大砲」が知られています。幕末に天誅組がこの城を攻撃する話です。こうして東から登っていくと天誅組程度の人数では到底占領・維持することが不可能であることがよく分かります。
猿石
猿石を経て、城の中心部に。この高取城祉で自分たち以外の人を見たのは今回が初めてです。そういえば、今までは夏のクソ暑い日にしか登らなかったからなあ。本日は、全く予想外に見事な紅葉を見ることも出来ました。柴犬やポメラニアンも登っていましたが、ノーリードはよくないよ。無礼をはたらいた人間にかぶりつくぐらいはご愛敬ですが、急に何かケモノを追い始めて、そのまま行方不明ということはよくあることです。世の飼い主これを心得よ。
眺望、煙っているのが残念です。吉野方面はくっきりと見えたなら蔵王堂も確認できるはず。
下りは壺阪寺へ。途中に五百羅漢があります。梵字の彫られた道標はこの五百羅漢への道しるべでしょうか。
五百羅漢
壺阪寺の上に出る。
壺阪寺は、ちょっとハコものに力を注ぎ過ぎている感がありますが、しっかりと人々の信仰を支えていこうという気概のある寺だと思います。この壺阪寺からバスに乗るつもりでしたが、バスは既に終わっており、近鉄壷阪山駅まで4㎞を歩きました。途次、高取城の城下町である土佐の町を通ります。この町も5時を過ぎると真っ暗。けれどもいつ来てもしっとりとした良い町です。暗闇の中で壺坂霊験記のお里沢市の墓に詣で、暗闇の中で道路元標を見つけました。お里沢市の話の原形は既に9世紀に成立していたということと、『日本感霊録』なる書物の存在を初めて知りました。写真は全く駄目ですが、空には煌々と満月が光り、土佐の町を照らしています。大昔に地酒を買い求めた店は見つけました。既に店じまい。
近鉄壷阪山駅からは阿部野橋までは小一時間、吉野は蔵王権現のご開帳で賑わったはずですが、この時間にはもう人の波も引いたと見えて、吉野から来る電車も空いていました。7時前には新世界の串カツ屋にゴールです。本日、ビールの安さに惹かれて入った店は串カツの方はちょっとハズレだったように思われます。串カツの後、同じく新世界のうどん屋でうどんを食いました。ここの蕎麦は、更科風の白い蕎麦で、師匠は小躍り、ところが一口すすって「△やな」、蕎麦は良いのですが、出汁が全然アカンということでありました。ただ、店の雰囲気は大変昔風で趣がありました。賀茂鶴の熱燗を飲むうちに新世界の夜は更けてというところでしょうか。飛鳥川上坐宇須多岐比賣命神社の森厳さと新世界の雑駁さを一日のうちに味わうことができました。
それはそうとして、天にも認められた好天の下で、見知らぬ土地を徘徊し得た喜びは何事にも代え難いものでした。歴史の数々に関しましては、私は頭初から門外漢を宣言しておりますので、ご容赦下さい。右から左前から後ろ上から下へ状態ですが、「知らない事を知る」。この喜びでご十二分に明日香(の一部)を堪能させて戴きました。
徘徊堂さんのブログにより、当日の充実した(+αを含め)一日を改めて嬉しく反芻しております。高取城の夕陽に染まった紅葉の凄い光景は、死ぬまで忘れられないと思います。有難うございました。串カツの賞味にご一緒出来ず、申し訳ありませんでした。それだけが心残りです。「高取の城のモミジは赤く燃え千年の歴史夕陽に写す」道草。
高取城の紅葉は、小生も初めて見ました。全く予想外だったので本当にびっくりしました。高見山が近くに見えるというのも発見でした。
次回は春の明日香をブラブラしたいと思っております。藤原宮から香久山、飛鳥寺に甘樫丘、浄御原宮跡などなどです。その時には宜しくお願いします。阿部野橋経由になると確かにお帰りが遅くなりますね。新世界を便利なところに持ってくるのも難しいし、大和西大寺あたりで良い店があればいいのですが、今までの経験では思い当たりません。
多武峰の談山神社まで歩くとその標高が実感出来て面白いし、その後地名は忘れましたけど一旦南へ下がって飛鳥に戻るコースも歩きましたね。秋の飛鳥はなんといっても彼岸花が似合いますね。柿の木も良し。松本清張の「火の路」は楽しく読みました。
壺阪寺も思い出があります。一度自転車で行ったのですが、ハイキングコースを案内していたら途中から自転車を担いで階段を上がらなくなってしまい難儀したこともありました。確かに箱物に金をかけすぎではと思いますが宗教活動をしておられるが伝わってきますね。ただあそこまで箱物で人を呼び込まないと人を引きつけられないのかしら、と複雑な気持ちになります。
飛鳥というか明日香は飽きることはありませんね。水の都をテーマに歩いてみたい気もします。明日香を歩いていると日本と朝鮮や大陸との交流まで考えさせてくれるものがあり楽しいですね。松本清張などは我々をペルシャまで連れて行ってくれますしね。
高取城は立派な石垣ですね。お城の石垣と言えば和田山の竹田城へ行きませんか。雲海に浮かぶ竹田城を見てみたいという切なる思いがあります。
明日香は飽きないですね
ここ10年ほどの間に、随分と発掘が進んだこともあって明日香は来るたびに変貌しています。小生も飛鳥大仏が好きですが、その西にある入鹿の首塚など以前は田んぼのなかにポツリとあったものが今は周りが整備されています。甘樫丘も、ここはどこだというぐらい遊歩道ができました。やむを得ないことかも知れませんが、昔を偲ぶのにはどちらが良かったのか疑問です。
壺阪寺には壺心会というのがあり、何年間か会費を払っていました。目の不自由な老人のための施設を運営するなど立派だと思ったからですが、インドで造った大仏、大観音像、涅槃仏等巨大なモニュメントをどんどんとこさえていくのに呆れて壺心会はヤメにしました。仏像は御本尊様だけでよいと思うのですが。
和田山も面白そうですね。28日に高橋さんにお話を伺ったときにも出ていたのですが、春日の黒井城とセットで行きましょうか?赤井悪右衛門も好きな武将の一人です。
大和三山巡りも良いかも。明日香から談山神社に上がり安倍文殊さんというルートもあります。酒舟石などの石造物巡りもロマンを感じます。それぞれにいろんな思い出があります。
明日香近辺は、本当に色々な計画が考えられますね。明日香から多武峰、安倍文殊院は皆様にかなり足を鍛えておいてもらってからですね。さしあたり、次回は山は香久山だけ(できれば甘樫丘も)、藤原宮から香久山までがちょっとですが、大官大寺跡付近から明日香に侵入するコースを考えております。酒舟石近辺、ゲーが出そうなほど変わりましたよ。
大和は文章からも写真からも、神々しいと云うか霊気を感じる所があるように思いますが・・・それに飛鳥川に渡してある「カンジョ掛縄」て云うのを初めて見聞きしたのですが、これはまた神がかりな物なのでしょうか?注連縄にも見えますが?
高取城の紅葉が見事ですね!それに堂々たる石垣が綺麗に残されているのにはびっくりしました。南法華寺では「壷坂霊験記」の説話をバスガイドさんから聞きました。盲目の沢市の目を治すため、妻の里が14丁の山道を詣でて、壷坂の観音さまに千日の願かけしてやっと開眼する。このようなお話だったと思います。
上がりの荘厳さと雑駁さ。この味を占めるために徘徊なさっているのでは(笑)失礼しました!
壺阪寺、お守りが売られているところのすぐ下が沢市が飛び降りたという谷なのですが、昔、お守りを買ってお釣りを財布にしまおうとしていたときにサッと風が吹いてきて千円札を一枚、谷の方にさらわれたことがあります。まあ壺心会の入会金みたいなものだったのだと思いますが、10年ぐらいは壺心会に入っていたでしょうか。自然に縁が無くなりました。
そう、大和は霊気というか何かそのようなものが多く感ぜられるところだと思います。