以前に、申し述べたこともありますが、池田市の大広寺にある牡丹花肖柏の事跡を記した牡丹花隠君遺愛碑、読み下したものは無いものかと一生懸命にネットで探したのですが(図書館とかに行かないところがヤクザ)、小生の検索下手もあるのか、一向に網にかかりません。池田市教育委員会の冊子「池田市と牡丹花肖柏」においても、写真と白文は出ているのですが、書き下し文はありません。楽はできんもんであります。やむなく不十分ながら読み下しを致しました。我と人の話のネタになればと思います。この勢いで、望海亭記もいっちょうと思ったのですが、こやつには難儀しています。大広寺に掲げられた「望海亭記が文化財として此の寺にあるぞい」という説明でも、その中身についてはまるで人ごとであります。
牡丹花隠君遺愛碑など、まあ、何とか読めたものについては、今後、間違いを訂正していき何れ決定版としたいと思います。白文も挙げておきますので、諸氏におかれましては、ここはこのように読みなさいなど、参考意見をお寄せいただければ幸甚であります。碑からおこした文は「池田市立歴史資料館」のHPより拝借しました。
大広寺
牡丹花隠君遺愛碑
裏面・撰文は1741年であるが建碑は文化年間(1804-17)
隠君肖柏姓源中書王具平之遠裔也蚤脱塵網喜讀書耽■哦曽選勢語註
而入 後土御門帝乙夜之覽 帝愛納之秘府點閲六家詠草抜其萃以献
後柏原帝抄録九代集中二千餘首教誨後学其出騎牛塗角為金観者恠笑
自若也垂老卜居於摂州池田顔曰夢庵以四時花次第栽之以弄榜其軒自
稱牡丹花性好酒愛香併花為三愛而自作記 帝夢見牡丹花乃命藤公實
隆召見便殿親唱和 帝甚悦既復帰於舊隠野服葛巾觴詠而楽後避摂之
乱徒居泉州大永七年四月四日卒年八十五元文五年池田好雅数輩胥謀
立碑於舊隠之址以余客隠于林莊咸就乞勒顛末予慕隠君之風韻也尚矣
豈敢峻拒之哉 七十三 翁桐江富逸撰
隠君肖柏は姓は源、中書王具平の遠裔なり。蚤に塵網を脱し書を讀み■哦に耽るを喜ぶ。曽て勢語の註を選して後土御門帝乙夜の覽に入る。帝これを秘府に愛納す。六家の詠草を點閲し其の萃を抜き、以て後柏原帝に献ず。九代集中二千餘首を抄録し後学を教誨す。其の出づるや牛に騎り角を塗り金と為す。観る者恠しみ笑うも自若たり。垂老居を池田の顔に卜し夢庵と曰ふ。四時の花を以て次第にこれを栽え、以て其の軒に弄榜し、自ら牡丹花と稱す。性、酒を好み香併に花を愛し、三愛と為して自ら記を作す。帝夢に牡丹花を見、乃ち藤公實隆に命じ、便殿に召見し、親しく唱和す。帝甚だ悦ぶ。既に復た舊隠の野に帰り、葛巾を服し、觴詠して楽しむ。後、摂の乱を避け、泉州に徙居す。大永七年四月四日卒す。年八十五。元文五年池田好雅の数輩、胥ひ謀りて舊隠の址に碑を立つ。余の林荘に客として隠るるを以て、咸就ち顛末を勒せんことを乞う。予の隠君の風韻を慕うことや尚し。豈に敢えてこれを峻拒せんや。七十三翁、桐江富逸撰。
と、このようになり、不十分ながら意味は取れます。自信がないのは「■哦に耽るを喜ぶ」の部分ですが、「哦」=「うた・うたう」でありますから、問題は■の部分にどの字を充てるかだけ、「吟」字を充てれば「吟哦に耽るを喜ぶ」、「愛」字を充てれば「喜びて哦を耽愛す」とでもなるのでしょう。このブログでは振り仮名というものが施せませんので、「あの字は何と読むねん?」というご質問もOKです。
大広寺境内
先ほども述べましたが、望海亭故址碑にいたっては表面の「望海亭記」、部分部分は読めても基本的にはチンプンカンプンです。室町時代の禪坊主の学識の高きを知るべしと申す処。最初の部分だけは「おっ!いけるぞ」と思わせておいて、2行目の途中ぐらいから「ゲー」。熊本城にひっかかった薩軍のようなものです。こちらの方もネットでは全くひっかりりません。小生は裏面の江戸末期の山川正宣の建碑の由来を読みましたので、何度も言いますが、「望海亭記」の方は、本当に誰か読んで下さい。テキストは「池田市史資料編」から拝借しました。「望海亭記」の筆者は室町時代の禅僧横川景三。足利義政のプレーンです。
望海亭址碑(表面)
望海亭記
※ 本来欠字であるが、こうであろうと市史編纂者が補ったものと思われる字は、どのみち其の字を使って読むので、そのまま載せた。□は欠字。
※ 〈 〉となっているのはフォントにない文字、例えば〈言辛〉はごんべんに辛いである。この字は大漢和では【読みは「シン」義不詳】とある。〈穴方十〉はあなかんむりの下に方、その下に十。この字は大漢和にも出ていない。後の字は未だ調べておりません。〈水辰〉はさんずいに辰。
表面・望海亭記
摂津池田村有寺曰大廣前総持祥禅師主之師目雲宵機呑仏祖曹洞丁老尊宿也論其俗譜則日本國管領畠山源君之葭草也可謂華矣池田筑後守藤充正風飲師風相攸創基此寺是也負山瀕海殿宇翼如而置亭山頂扁曰望海先是余等等持官寺師以集人為介求作亭記夫望海樓者白伝於唐東波宋惟肖於本朝文以振焉詩以張馬千古佳話也余未嘗身歴而目撃之縦雖髪髴其萬而小杜賦阿房也可笑随求随〈言辛〉有年于茲矣庚子之夏師適以事入洛一日訪余小補斗室話次又乃亭記□□不己於是就審之所以為望海幽亭面於西南乃滄海也而天王之浮図属出雲間住吉松風鼓動波底〈足卒〉東南者三州□紀海泉山河襟帯於欺咽喉抱欺呉綾蜀錦監鉄衝艫相逐者商賈□□也□租軍給□□□連檣不絶者行使運漕也紅粧翠盞盃盤狼籍〈竹弱〉緑簑煙而勃〈穴方十〉太守張水嬉也漁翁下釣瀬也野老謳歌不田漠漠市人言語而城府潭潭摂人之楽其也至若沙鴎翔兮渚蓮飛夜潮吹月銀山鉄〈里立木〉粉 砕乎前海市映雪珠宮貝関湧現乎上亭上四時也亭上朝暮也□之□檻上楼之□□間盖偉觀也□闇師 所説不移寸優遊亭紅塵為萬頃滄波耶滄波為十丈紅塵祁不得而知耳余有一説洞上有家上乗禪名曰 宝鏡三昧嗚呼水天無際一波不起滄海豈非一面寶鏡乎此亭豈非一箇鏡臺乎海中所有色像豈非□来 胡現漢来漢現乎師入此三昧応機接物建収曹山洞水近取永平峨山五位功動三種〈水辰〉〈水属〉皆従鏡中〈水辰〉出而盖天盖地使四來學者□光影同證三時不□大□言未既師超欽□曰亭記成矣文明十二年六月吉旦書前前持横川叟景之
裏面 建碑の由来
望海亭廃既久矣而記亦失其原本星霜再移則名勝無復由伝焉故拠旧図求故趾建石勒記以要不朽云
以爾志倍志廼美耶麻乃以保廼 止乎之毛知與万泥美与登能古寸伊志布三
天保十二年辛丑六月
邑人 山川正宣誌 大阪 呉 策 書
裏面
天保の文字が読める
恥ずかしながら何とか読める裏面の読み下しのみ下に載せます。
望海亭廃れて既に久し。記亦其の原本を失う。星霜再び移らば則ち名勝も伝ふるに由無からん。故に旧図に拠り故址を求め石を建て記を勒し以て朽ちざるを要む。
いにしへしのび やまのいほの とをしもちよまで みよとのこすいしぶみ
古へ偲び 山の庵の 遠しも千代まで 見よと残す碑
天保十二年は1841年、水野忠邦による天保の改革が始まった年。
現在までの作業は以上であります。諸兄の援を得て全て読めるようになれば書き下し文として確定したいと思っております。皆々宜しくお願い致します。勿論、牡丹花隠君遺愛碑の方も、まだまだぎこちない読みだと思います。ご教示いただければ嬉しいです。望海亭記の次は田中桐江墓碑銘などもありますよ。
望海亭址・文明年間には文人・禅僧等が集った
牡丹花肖柏没後450年記念の歌碑(大広寺境内)
追記
望海亭記の冒頭の部分ですが、「摂津池田村に寺有り。曰く大広と。前総持祥禅師之に主たり。」、前総持祥禅師を1つの固有名詞としていいのかどうか分かりませんが、先へ進めます。「師目雲宵機呑仏祖曹洞丁老尊宿也」、この部分が非常に厄介なのですが、丁老は長老と考え、前の部分はエイヤッ!とまとめてしまい、「師目雲宵機呑仏祖曹洞丁老尊宿なり。」と読んでしまいます。「尊宿」は「立派な坊さん」という意味です。「師目」には何らかの意味があるかも知れませんが、ひとまず置いておきます。次のフレーズは容易で「その俗譜を論ずれば則ち日本国管領畠山源君の葭草なり」で、この坊さんの出自が室町幕府管領家の畠山氏であることを示しているのでしょう。葭草は葦の出たてのものということですから、この一族から芽吹いたということで、出身ということを意味しているのでしょう。その次が「華と謂うべし。」で、この坊さんが畠山一族の花と言うべきだと考えるか、畠山氏が出自だと言うことが麗しいととるか未だ不明です。
次の池田筑後守藤充正は池田充正のこと。藤の字、姓が藤原氏であることを示すと思われますが、一般には摂津池田氏は紀氏、または清和源氏とされていますから、この藤の字は不明です。風飲は「吸風飲露」の略かと思われます。俗界を離れ仙人のような生活をおくること、師風は普通に考えれば師の流儀、「風飲師風」の部分はどう読めばよいか解りませんが、、相攸は「ところを相す」で地を撰ぶの義と考え、ちょっと苦しいですが「池田筑後守藤充正風飲するに師風もて攸を相し基を創く。」と仮に読んでおきます。
次は快調で「此の寺や、山を負い海に瀕[せま]り、殿宇翼の如くして山頂に亭を置き、扁して曰く望海と。」と読めそうです。又は如何にも禪坊主らしく「此の寺や負山瀕海[ふざんひんかい]、殿宇翼如[でんうよくにょ]にして山頂に亭を置き、扁して曰く望海と。」と読んでもいいかも知れません。山は五月山、海はオーバーで、現在の池田市の体育館のすぐ南を流れる細い川か、その川に比べればはるかに大河である猪名川のことでしょう。さて、ここから先が迷宮であります。
牡丹花隠君遺愛碑など、まあ、何とか読めたものについては、今後、間違いを訂正していき何れ決定版としたいと思います。白文も挙げておきますので、諸氏におかれましては、ここはこのように読みなさいなど、参考意見をお寄せいただければ幸甚であります。碑からおこした文は「池田市立歴史資料館」のHPより拝借しました。
大広寺
牡丹花隠君遺愛碑
裏面・撰文は1741年であるが建碑は文化年間(1804-17)
隠君肖柏姓源中書王具平之遠裔也蚤脱塵網喜讀書耽■哦曽選勢語註
而入 後土御門帝乙夜之覽 帝愛納之秘府點閲六家詠草抜其萃以献
後柏原帝抄録九代集中二千餘首教誨後学其出騎牛塗角為金観者恠笑
自若也垂老卜居於摂州池田顔曰夢庵以四時花次第栽之以弄榜其軒自
稱牡丹花性好酒愛香併花為三愛而自作記 帝夢見牡丹花乃命藤公實
隆召見便殿親唱和 帝甚悦既復帰於舊隠野服葛巾觴詠而楽後避摂之
乱徒居泉州大永七年四月四日卒年八十五元文五年池田好雅数輩胥謀
立碑於舊隠之址以余客隠于林莊咸就乞勒顛末予慕隠君之風韻也尚矣
豈敢峻拒之哉 七十三 翁桐江富逸撰
隠君肖柏は姓は源、中書王具平の遠裔なり。蚤に塵網を脱し書を讀み■哦に耽るを喜ぶ。曽て勢語の註を選して後土御門帝乙夜の覽に入る。帝これを秘府に愛納す。六家の詠草を點閲し其の萃を抜き、以て後柏原帝に献ず。九代集中二千餘首を抄録し後学を教誨す。其の出づるや牛に騎り角を塗り金と為す。観る者恠しみ笑うも自若たり。垂老居を池田の顔に卜し夢庵と曰ふ。四時の花を以て次第にこれを栽え、以て其の軒に弄榜し、自ら牡丹花と稱す。性、酒を好み香併に花を愛し、三愛と為して自ら記を作す。帝夢に牡丹花を見、乃ち藤公實隆に命じ、便殿に召見し、親しく唱和す。帝甚だ悦ぶ。既に復た舊隠の野に帰り、葛巾を服し、觴詠して楽しむ。後、摂の乱を避け、泉州に徙居す。大永七年四月四日卒す。年八十五。元文五年池田好雅の数輩、胥ひ謀りて舊隠の址に碑を立つ。余の林荘に客として隠るるを以て、咸就ち顛末を勒せんことを乞う。予の隠君の風韻を慕うことや尚し。豈に敢えてこれを峻拒せんや。七十三翁、桐江富逸撰。
と、このようになり、不十分ながら意味は取れます。自信がないのは「■哦に耽るを喜ぶ」の部分ですが、「哦」=「うた・うたう」でありますから、問題は■の部分にどの字を充てるかだけ、「吟」字を充てれば「吟哦に耽るを喜ぶ」、「愛」字を充てれば「喜びて哦を耽愛す」とでもなるのでしょう。このブログでは振り仮名というものが施せませんので、「あの字は何と読むねん?」というご質問もOKです。
大広寺境内
先ほども述べましたが、望海亭故址碑にいたっては表面の「望海亭記」、部分部分は読めても基本的にはチンプンカンプンです。室町時代の禪坊主の学識の高きを知るべしと申す処。最初の部分だけは「おっ!いけるぞ」と思わせておいて、2行目の途中ぐらいから「ゲー」。熊本城にひっかかった薩軍のようなものです。こちらの方もネットでは全くひっかりりません。小生は裏面の江戸末期の山川正宣の建碑の由来を読みましたので、何度も言いますが、「望海亭記」の方は、本当に誰か読んで下さい。テキストは「池田市史資料編」から拝借しました。「望海亭記」の筆者は室町時代の禅僧横川景三。足利義政のプレーンです。
望海亭址碑(表面)
望海亭記
※ 本来欠字であるが、こうであろうと市史編纂者が補ったものと思われる字は、どのみち其の字を使って読むので、そのまま載せた。□は欠字。
※ 〈 〉となっているのはフォントにない文字、例えば〈言辛〉はごんべんに辛いである。この字は大漢和では【読みは「シン」義不詳】とある。〈穴方十〉はあなかんむりの下に方、その下に十。この字は大漢和にも出ていない。後の字は未だ調べておりません。〈水辰〉はさんずいに辰。
表面・望海亭記
摂津池田村有寺曰大廣前総持祥禅師主之師目雲宵機呑仏祖曹洞丁老尊宿也論其俗譜則日本國管領畠山源君之葭草也可謂華矣池田筑後守藤充正風飲師風相攸創基此寺是也負山瀕海殿宇翼如而置亭山頂扁曰望海先是余等等持官寺師以集人為介求作亭記夫望海樓者白伝於唐東波宋惟肖於本朝文以振焉詩以張馬千古佳話也余未嘗身歴而目撃之縦雖髪髴其萬而小杜賦阿房也可笑随求随〈言辛〉有年于茲矣庚子之夏師適以事入洛一日訪余小補斗室話次又乃亭記□□不己於是就審之所以為望海幽亭面於西南乃滄海也而天王之浮図属出雲間住吉松風鼓動波底〈足卒〉東南者三州□紀海泉山河襟帯於欺咽喉抱欺呉綾蜀錦監鉄衝艫相逐者商賈□□也□租軍給□□□連檣不絶者行使運漕也紅粧翠盞盃盤狼籍〈竹弱〉緑簑煙而勃〈穴方十〉太守張水嬉也漁翁下釣瀬也野老謳歌不田漠漠市人言語而城府潭潭摂人之楽其也至若沙鴎翔兮渚蓮飛夜潮吹月銀山鉄〈里立木〉粉 砕乎前海市映雪珠宮貝関湧現乎上亭上四時也亭上朝暮也□之□檻上楼之□□間盖偉觀也□闇師 所説不移寸優遊亭紅塵為萬頃滄波耶滄波為十丈紅塵祁不得而知耳余有一説洞上有家上乗禪名曰 宝鏡三昧嗚呼水天無際一波不起滄海豈非一面寶鏡乎此亭豈非一箇鏡臺乎海中所有色像豈非□来 胡現漢来漢現乎師入此三昧応機接物建収曹山洞水近取永平峨山五位功動三種〈水辰〉〈水属〉皆従鏡中〈水辰〉出而盖天盖地使四來學者□光影同證三時不□大□言未既師超欽□曰亭記成矣文明十二年六月吉旦書前前持横川叟景之
裏面 建碑の由来
望海亭廃既久矣而記亦失其原本星霜再移則名勝無復由伝焉故拠旧図求故趾建石勒記以要不朽云
以爾志倍志廼美耶麻乃以保廼 止乎之毛知與万泥美与登能古寸伊志布三
天保十二年辛丑六月
邑人 山川正宣誌 大阪 呉 策 書
裏面
天保の文字が読める
恥ずかしながら何とか読める裏面の読み下しのみ下に載せます。
望海亭廃れて既に久し。記亦其の原本を失う。星霜再び移らば則ち名勝も伝ふるに由無からん。故に旧図に拠り故址を求め石を建て記を勒し以て朽ちざるを要む。
いにしへしのび やまのいほの とをしもちよまで みよとのこすいしぶみ
古へ偲び 山の庵の 遠しも千代まで 見よと残す碑
天保十二年は1841年、水野忠邦による天保の改革が始まった年。
現在までの作業は以上であります。諸兄の援を得て全て読めるようになれば書き下し文として確定したいと思っております。皆々宜しくお願い致します。勿論、牡丹花隠君遺愛碑の方も、まだまだぎこちない読みだと思います。ご教示いただければ嬉しいです。望海亭記の次は田中桐江墓碑銘などもありますよ。
望海亭址・文明年間には文人・禅僧等が集った
牡丹花肖柏没後450年記念の歌碑(大広寺境内)
追記
望海亭記の冒頭の部分ですが、「摂津池田村に寺有り。曰く大広と。前総持祥禅師之に主たり。」、前総持祥禅師を1つの固有名詞としていいのかどうか分かりませんが、先へ進めます。「師目雲宵機呑仏祖曹洞丁老尊宿也」、この部分が非常に厄介なのですが、丁老は長老と考え、前の部分はエイヤッ!とまとめてしまい、「師目雲宵機呑仏祖曹洞丁老尊宿なり。」と読んでしまいます。「尊宿」は「立派な坊さん」という意味です。「師目」には何らかの意味があるかも知れませんが、ひとまず置いておきます。次のフレーズは容易で「その俗譜を論ずれば則ち日本国管領畠山源君の葭草なり」で、この坊さんの出自が室町幕府管領家の畠山氏であることを示しているのでしょう。葭草は葦の出たてのものということですから、この一族から芽吹いたということで、出身ということを意味しているのでしょう。その次が「華と謂うべし。」で、この坊さんが畠山一族の花と言うべきだと考えるか、畠山氏が出自だと言うことが麗しいととるか未だ不明です。
次の池田筑後守藤充正は池田充正のこと。藤の字、姓が藤原氏であることを示すと思われますが、一般には摂津池田氏は紀氏、または清和源氏とされていますから、この藤の字は不明です。風飲は「吸風飲露」の略かと思われます。俗界を離れ仙人のような生活をおくること、師風は普通に考えれば師の流儀、「風飲師風」の部分はどう読めばよいか解りませんが、、相攸は「ところを相す」で地を撰ぶの義と考え、ちょっと苦しいですが「池田筑後守藤充正風飲するに師風もて攸を相し基を創く。」と仮に読んでおきます。
次は快調で「此の寺や、山を負い海に瀕[せま]り、殿宇翼の如くして山頂に亭を置き、扁して曰く望海と。」と読めそうです。又は如何にも禪坊主らしく「此の寺や負山瀕海[ふざんひんかい]、殿宇翼如[でんうよくにょ]にして山頂に亭を置き、扁して曰く望海と。」と読んでもいいかも知れません。山は五月山、海はオーバーで、現在の池田市の体育館のすぐ南を流れる細い川か、その川に比べればはるかに大河である猪名川のことでしょう。さて、ここから先が迷宮であります。
肖柏は、何だか名門らしい出であることと、酒を大いに好んだ(!)という点と、85歳で亡くなったことだけは分かります。牡丹花の雅号の由来は、牡丹の花が大好きだったのか、牡丹をを詠んだ句が評判になつたのか、どちらなのでしょう。「春咲かぬ花のこころやふかみ草」。
遺愛碑の方は長いこと放ってあったのですが、道草様やmfujino様の池田逍遥までには何とかと思い、やっつけ仕事ですが読み下しました。そうでもなかったら、勉強しませんから機会を与えていただき感謝しております。
牡丹花肖柏、水無瀬三吟百韻で有名です。酒と香道と花が大好きだった大先達ですが、やはり牡丹の花が好きだったのではないでしょうか。大広寺も望海亭址も池田逍遥のルートに入れております。御光来、楽しみにしております。
徘徊堂さん、もの凄いですね!私など全く手も足もでません。>蚤に塵網を脱し書を讀み■哦に耽るを喜ぶ。■の所は「愛」の字がいいかな?愛碑だから^^なんて意味もわからず手前勝手なことを言っています。
望海亭記のこと、昨日から3図書館に問い合わせしましたが、大広寺までは出るらしいですが、それ以上該当するものが全く出ない、との返答でした。今ひとつ問い合わせているK図書館の返答が来週の月曜日だとか、遅いなー!待って待ってしても何も出ないかも?
それにしてもただただ降参するばかりですみませんです。
体調がよくなられたら、大広寺も望海亭跡もいつでも御案内します(その前に信貴山ですね)。今、遺愛碑の方は「勢語=伊勢物語」等の注を付けていますので完成版が出来たらお送りします。ちょっと何時になるかは判らないですが。
でも行かないのがヤクザと自分で読み下しされるところが良いっすね(^_^)
こういった事は背景知識がないとなかなか出来ないもので、gunkanatagoさんの博識ぶりがよく分かりました。池田徘徊楽しみが出てきましたね。
あ、そうだ思い出しました。わざと間違った情報を書き込んでその上方がネット上どの様に流れていくか、実験しても面白いのではって考えたことがあります。まあこんなこと社会学者は既にやってるか。
歴史学者gunkanatagoさま、一つ教えてください。大嘗会は新しい天皇による最初の新嘗祭だと思うのですが、ということはその年号一年か、前の天皇の崩御があるから次の年としてもその年号の二年には行われるのではないでしょうか?それこそ自分で検索しろよ、と叱られそうですね。実は昨日外へ出るとゾクゾクっときまして、こりゃ風邪だ、と直ぐ薬を呑んでなんとか抑えていますがまだ気力が湧かず風邪をひくかどうか綱引きをしてましてどうも気力が充実しないもので。それと知っている人に聞くのが一番早いものですから(^_^)
けれども「調べものには先ず図書館」、一度ゆっくりと時間を取って行ってこようと思います。それには池田に着いたらすぐに酒を飲む悪癖を改めねばなりませんね。
いずれ、大広寺の和尚さんにも(会ったことはありませんが)、尋ねてみようと思います。
大嘗祭については、殆ど知識を持ち合わせておりません。申し訳ないです。基本的にはmfujino様が仰っておられますように、その年のうちか翌年には行われたのではないでしょうか?ただ、それこそ遺愛碑に出てくる後柏原天王や後土御門上皇の時代には費用が集まらなくて即位後何十年もしてから大嘗祭が行われたと今谷明さんの本「戦国大名と天皇」に出ていたように思います。
今、「日本後紀」http://www013.upp.so-net.ne.jp/wata/rikkokusi/kouki/kouki.html
で「大嘗祭」を検索すると幾つか出てきます。ただ、これも今すぐ分かるというものではないので、一度調べてみたいと思います。
風邪の方は大丈夫ですか?ゾクッときたとしたらやはり風邪だと思います。頭が重くて異様に肩が凝ったりしたら「花粉症」デビューの可能性もあると思います。お大事になさって下さい。
ごめんなさい、気を持たせただけで役たたずで終りました。
徘徊堂さんの勉学の成果をお待ちするのみです。