西国街道は往古の山陽道でありますが、新興の町などが登場すると、その必要に応じてルートも変化したようで、西宮地域でも山陽道と西国街道が別になっているところがあります。この二つの道を同時に歩くのはちょっと無理でありますが、本日も師匠の案内で西国街道を歩いたり、外れたり、時に横切ったりする徘徊であります。
前回日没にて中断した西国街道の道標が出発点ですが、本日は門戸厄神の御縁日、ここまで人出があるとは知らなんだ。西宮北口からわずかに一駅ですが、電車も満員です。今津線が存続した理由が今にしてわかったと申す処。我々罰当たり集団のみが厄神さんに参らずに真っ直ぐ道標へ。
この道標のある辻からも厄神さんに行けるので、交通整理のガードマンが立っていますが、道標の前でワイワイとやっている集団に怪訝な顔です。
そのまま広田神社へと進みます。途中から参道の雰囲気も出てきますが、こういう形になってしまうのはいただけません。
具足塚古墳は西宮市最大の円墳ということですが、民家に囲まれていて入っていく道がありません。
具足塚古墳
広田神社は、今はちょっと大きめの地方のお宮さんという感じですが、元々は官幣大社で朝廷より幣帛を受ける二十二社の中にも入っており、かつての影響力は今日では想像もつかぬほど大きなものであったと思われます。本日最後に訪れる西宮神社も元々は広田神社の御旅であった可能性があります。その広田神社に参拝する前に、裏側の目立たぬところをゴソゴソ、「兜麓底績碑」を探します。
甲山(かぶとやま)から流れ出す水は、本来は仁川から宝塚市南部方面へと流れ、西宮には向かわない。これに関を造り西宮方面へ流すと宝塚の農民が大騒ぎをする。水争いはかつてはどこの地域でも流血を伴うものでした。この碑で顕彰されている中村某は江戸時代初期の人で、宝塚の農民をビビラセて見事に西宮に水を引いてきた人物であります。
近時、神社や寺関係の説明板に間違いが多いのを残念に思っておるのですが、あまりグチャグチャいうのも小姑みたいでいやらしい。けれども高い金をかけてプレートを作り、最後の確認をせぬ為に勿体ないことになっているのも事実です。この碑には明らかに明治二十九年建立となっているのに説明では明治二十八年、広田神社自体の説明も「西暦」を「西歴」とするなど初歩的な誤りがありました。
広田神社参拝の後、越水城趾に向かいます。
広田神社
1451年の観応の擾乱時に足利尊氏や高師直等は小清水の陣所において、足利直義らの軍勢に包囲されます。この時には、高氏一族を滅ぼすという密約が成立して尊氏と直義は和解し、師直等は武庫川の堤で殺されました。その小清水の由来となったのが「湧き水」です。越水城祉のプレートによりて推測するに平成5年までは3つの清水が残っていたようですが、今は2つです。
東の清水、今は使用されず金魚が飼われている。
西の清水、現役です。
この地域の国人領主であった瓦林正頼によって築城された越水城、細川高国の没落も三好長慶の繁栄も全ては小学校のグラウンドの下、碑のみが往時を語ります。
瓦林正頼は後に細川高国に疑われて切腹させられますが、この辺りの機微、国人層の生き残りの難しさを示しています。なまじいに大きくなって中央の権力争い(このばあい細川澄元と高国の争い)に介入したりすると、そういうことになる。けれども、ある程度の武力を有していなければハエのように叩きつぶされるのも確か。戦国時代の末期には豊臣大名によって各地の国人領主はほぼ皆殺しの目に遭いました。重武装をしているが他のことには介入しない、国でいえばスイスのような生き方が一番いいのかなあ等と考えていると「オーイ、ほっていくでぇー」。
西宮市分銅町には武庫郡と鵜原郡の郡界を示す石標と共に分銅町の名の由来となった石標があります。「一本松地蔵尊」と記された石標、実は大阪城築城の際にこの辺りに放置された「残念石」の一つでありますが、放置した犯人は堀尾氏であります。今ならば5年以下の懲役というところですが、荷から落ちた石は縁起が悪いために使わない慣習もあったそうで、そのために各地に残念石が残されたようです。この残念石を見事にリユースしたものでありますが、上の方にはお前が放置犯人だということを示す「分銅紋」、多くの残念石の刻印は△とかその他適当な印で済ましてあるものが多いのですが、初代堀尾吉晴の律儀な性格を反映してか、しっかりと分銅が刻んであります。
松の木も樹医による見事な処置がなされており、大切にされていることがよくわかります。
JRの下をくぐるトンネル、「まんぼう」と呼ぶということを初めて知りました。ポルトガル語が語源だそうですが、他にも説はあるようです。1889年に開通した東海道本線、良い仕事がしてあります。
阪神西宮駅周辺にやって来ました。この辺りでは先ず「傀儡師故跡」、幕末の頃までは多くの木偶人形使いが住んでいたところだそうです。各地に伝わる文楽人形も、この地の人が広めたといいます。現在の地名も産所町()、農業の出来ぬ荒蕪地であるために活計を求めて各地を回る人形師になったものでしょう。
今や六湛寺町という地名のみが残りますが、元々は同名の寺があったものと思われます。小さな石も道標で「右・かぶとやま 左・越木岩町」とあります。本来はもう少し山の手にあったのではと思われます。駅前の植え込みの中にまたも「残念石」、武庫郡郡役所跡を過ぎると織女伝説が残る神社です。
応神天皇の御代に漢織・呉織(アヤハトリ・クレハトリ)らの織女がやってきて、糸を染めたのが染殿池、ヌー…待てよ、これは池田市にある伝承とそっくりではないか(池田では呉織・穴織)。こちらの染殿池に対応するのはあちらの染殿井、猪名川には上陸地「唐船ヶ渕」まであるぞー。そういえば尼崎市にも同じ伝承がある。どこが本家でどこが元祖と言っても仕方がないことですが、人が移動すると同時に伝承や文化も移動する、そのうちに元々の土地での伝承だということが忘れられて、近場に新たな伝承地が作られていくのでしょう。そのもともとは村の話し好きなおっさんのホラ話かも知れないし、気の強い婆さんの思い込みかも知れない。
この伝承が各地に散らばるさま、このすぐ後でも見ることが出来ました。
津門(つと)神社と彫られた石、これは残念石どころではありません。市内最大の前方後円墳であった大塚山古墳の石棺が再利用されています。本来は、この神社とワンセットであったと考えられる昌林寺には「美女丸・幸寿丸」伝説が残り、何と両名ばかりか源頼光の墓まであります。美女丸は謡曲「仲光」における名で、北摂の伝承では美丈丸というのが本当らしいのですが、ややこしいので美女丸にしておきます。
源満仲の家来であった藤原仲光の忠義譚、主人の子に変えて我が子の首を差し出したという話ですが(いずれ満仲を扱う時に詳しく申し述べます)、この御本家は川西市の小童寺と思い込んでいましたが、同じ川西市の満願寺にも墓があり、宝塚市の中山寺に供養塔、普明寺にも墓があります。いずれも源氏縁の寺院ですが、果たして美女丸はどこに住んでいたのでありましょうか。
ご丁寧にも手前の干からびた池が幸寿丸の首洗い池とのことですが、これは多田院の酒呑童子の首洗い池の反映でしょう。
そのまま今津の方に向かいます。今回、久しぶりに今津まで参りましたが、「エッ、立体交差!」、ものすごい変わりようです。「大都会やのー。」という言葉が口をついて何度も出ます。六角堂は最初は寺かなと思っていましたが、今津小学校の旧校舎です。戦災にも震災にもよくぞ生き残ったものです。
灘五郷(今津郷・西宮郷・魚崎郷・御影郷・西郷)の一つ今津郷に入るや「大関」の大看板が輝いています。今津郷にはあと扇正宗と金鹿があります。人形浄瑠璃のCMが心に残る多聞は大関に吸収されたようですが、銘柄の名は残っていて自動販売機でワンカップの多聞が買えました(後日談、こやつは水くさいどー)。ここいらでしか買えぬ酒が結構自販機に収まっています。次回は100円玉を大量に持ってきて、片っ端から仕入れてやろう。
今津灯台は今も現役、大関が管理・運営をしていますが、今やここから江戸への下りものを出荷することはないでしょうから、まあボランティアです。試飲をするところが無いというのは致命的だけれど大関はエライ!
今津の浜がわずかに残っています。
海沿いに、西宮郷に入れば、大手は「白鹿」と「日本盛」でありますが、この近辺は完全に白鹿の城下町です。白鹿の辰馬本家の富強を知るべしと申す処。
本朝最初の洋風住宅 辰馬喜十郎邸(非公開)
白鹿記念館(美術館です)
白鹿記念館の館長さんは、師匠の知り合いの郷土史家の先生、来るまで知らなんだとは師匠も呑気な。色々と話を聞かせていただきました。本日は、西宮の好事家の蒐集した「恵比須」神像などの特別展。ご一同美術館では大きな声を出さない!
斯様な業界紙も初めて知りました。定期購読せんとあかんやんけ。
記念館の次は蔵元館、阪神大震災時の酒蔵の様子がリアルです。この酒蔵館で冷酒一合プレゼント、さて記念館の入場料金はこの代であったのか。
ご存知「黒松白鹿」
酒蔵館の横の売店では、試飲はやりたい放題。昔から白鹿ファンでありましたが、いよいよ好きになりました。最初に19度の原酒を飲んだものですから、後は全部水みたいで真に勿体ないことを致しました。
再び海の方に向かえば、住吉神社。西宮の港を個人の財産で修築した金兵衛さんの碑が建っています。現在の突堤も、この当舍屋金兵衛さんの工事が元になっています。
堤防越しに「あれは、何だべ!」と突然に姿を現すのが西宮砲台、写真で見るより遥かに巨大です。今津砲台は基礎のみが残りますが、ここは全体が残っています。幕末に攘夷を実行するために建設されましたが、外国船に向かって一発の砲弾も発射することはありませんでした。クー惜しい!ペロリ(ペリー)よ、砲台完成後に今一度来ていたら、貴様等は泣いて帰ったのに。けれども、試射時に煙が建物内部に充満してしばらくは何も見えなかったそうですから、実際は使い物にならなかったかも知れません。
浜の空気を胸一杯吸いこみ、宮水発祥地に。なるほど宮水とは「西宮の水」の謂いなるか。
辺りをよくよく見ると、何とこの辺り一帯は酒造会社の井戸だらけ。伏見のように各地に散らばっているのではないのです。
白鹿の井戸
大関の井戸
日本盛の井戸
菊正宗の井戸
沢の鶴の井戸(はるか西郷からも)
この宮水地帯で際だって目立つのは多聞ビル、現役です。
徘徊のとどめは西宮神社、「えべっさん」の総本宮です。国生み神話に於いては女神の方から声をかけたために最初に生まれた子はホネのない蛭子(ひるこ)であった。そのために最初の子は海に流したのですが、流石に神の子、この蛭子が海原で元気に育ち、恵比寿神として戻ってこられた。蛭子と書いて「えびす」と読むことがあるのも、これに由来しています。
ただ、エビスの音が多少気になるところで、エビスは「夷」に通じます。ここで思い出されるのは産所町の地名と傀儡師、今日の被差別の成因の一つには平安時代に王朝政府の虜とされた蝦夷(えみし)が集団で移住させられたところがある。本来はそういう形で此の地に住まわされたの民が祀っていた神がおられたところなのでは等とも思うのですが、果たして傀儡師集落がそこまで遡れるかどうか?白山の神と東光寺という名の寺がキーワードと聞いたことがあります。何れ詳しく調べてみたいと思います。「えべっさん」の起源については諸説紛々、蛭子=恵比寿という論は比較的新しいようです。
えべっさんの神輿が止まったという場所
道標を兼ねた燈籠 練塀は国の重要文化財
御本殿 狂気の駆けっこが行われる
瑞寶橋
前回の徘徊時に西宮北口の居酒屋で飲んでいるので、本日は阪神電車で新在家に向かい、広大なるお好み焼き屋「ひの出もり家」で一杯です。ここの休業日というのが、どうしても覚えられなくて行ったけど空振りというのがママありますが、今日は開いてる。この店、奥の席は落ち着くし、イカ焼き以外はおいしいし、おばちゃんは親切やし、良い店です。ただあれだけ灘の酒蔵地帯をウロウロして、結局飲んだ酒が伏見の月桂冠というのはご愛敬でした。
前回日没にて中断した西国街道の道標が出発点ですが、本日は門戸厄神の御縁日、ここまで人出があるとは知らなんだ。西宮北口からわずかに一駅ですが、電車も満員です。今津線が存続した理由が今にしてわかったと申す処。我々罰当たり集団のみが厄神さんに参らずに真っ直ぐ道標へ。
この道標のある辻からも厄神さんに行けるので、交通整理のガードマンが立っていますが、道標の前でワイワイとやっている集団に怪訝な顔です。
そのまま広田神社へと進みます。途中から参道の雰囲気も出てきますが、こういう形になってしまうのはいただけません。
具足塚古墳は西宮市最大の円墳ということですが、民家に囲まれていて入っていく道がありません。
具足塚古墳
広田神社は、今はちょっと大きめの地方のお宮さんという感じですが、元々は官幣大社で朝廷より幣帛を受ける二十二社の中にも入っており、かつての影響力は今日では想像もつかぬほど大きなものであったと思われます。本日最後に訪れる西宮神社も元々は広田神社の御旅であった可能性があります。その広田神社に参拝する前に、裏側の目立たぬところをゴソゴソ、「兜麓底績碑」を探します。
甲山(かぶとやま)から流れ出す水は、本来は仁川から宝塚市南部方面へと流れ、西宮には向かわない。これに関を造り西宮方面へ流すと宝塚の農民が大騒ぎをする。水争いはかつてはどこの地域でも流血を伴うものでした。この碑で顕彰されている中村某は江戸時代初期の人で、宝塚の農民をビビラセて見事に西宮に水を引いてきた人物であります。
近時、神社や寺関係の説明板に間違いが多いのを残念に思っておるのですが、あまりグチャグチャいうのも小姑みたいでいやらしい。けれども高い金をかけてプレートを作り、最後の確認をせぬ為に勿体ないことになっているのも事実です。この碑には明らかに明治二十九年建立となっているのに説明では明治二十八年、広田神社自体の説明も「西暦」を「西歴」とするなど初歩的な誤りがありました。
広田神社参拝の後、越水城趾に向かいます。
広田神社
1451年の観応の擾乱時に足利尊氏や高師直等は小清水の陣所において、足利直義らの軍勢に包囲されます。この時には、高氏一族を滅ぼすという密約が成立して尊氏と直義は和解し、師直等は武庫川の堤で殺されました。その小清水の由来となったのが「湧き水」です。越水城祉のプレートによりて推測するに平成5年までは3つの清水が残っていたようですが、今は2つです。
東の清水、今は使用されず金魚が飼われている。
西の清水、現役です。
この地域の国人領主であった瓦林正頼によって築城された越水城、細川高国の没落も三好長慶の繁栄も全ては小学校のグラウンドの下、碑のみが往時を語ります。
瓦林正頼は後に細川高国に疑われて切腹させられますが、この辺りの機微、国人層の生き残りの難しさを示しています。なまじいに大きくなって中央の権力争い(このばあい細川澄元と高国の争い)に介入したりすると、そういうことになる。けれども、ある程度の武力を有していなければハエのように叩きつぶされるのも確か。戦国時代の末期には豊臣大名によって各地の国人領主はほぼ皆殺しの目に遭いました。重武装をしているが他のことには介入しない、国でいえばスイスのような生き方が一番いいのかなあ等と考えていると「オーイ、ほっていくでぇー」。
西宮市分銅町には武庫郡と鵜原郡の郡界を示す石標と共に分銅町の名の由来となった石標があります。「一本松地蔵尊」と記された石標、実は大阪城築城の際にこの辺りに放置された「残念石」の一つでありますが、放置した犯人は堀尾氏であります。今ならば5年以下の懲役というところですが、荷から落ちた石は縁起が悪いために使わない慣習もあったそうで、そのために各地に残念石が残されたようです。この残念石を見事にリユースしたものでありますが、上の方にはお前が放置犯人だということを示す「分銅紋」、多くの残念石の刻印は△とかその他適当な印で済ましてあるものが多いのですが、初代堀尾吉晴の律儀な性格を反映してか、しっかりと分銅が刻んであります。
松の木も樹医による見事な処置がなされており、大切にされていることがよくわかります。
JRの下をくぐるトンネル、「まんぼう」と呼ぶということを初めて知りました。ポルトガル語が語源だそうですが、他にも説はあるようです。1889年に開通した東海道本線、良い仕事がしてあります。
阪神西宮駅周辺にやって来ました。この辺りでは先ず「傀儡師故跡」、幕末の頃までは多くの木偶人形使いが住んでいたところだそうです。各地に伝わる文楽人形も、この地の人が広めたといいます。現在の地名も産所町()、農業の出来ぬ荒蕪地であるために活計を求めて各地を回る人形師になったものでしょう。
今や六湛寺町という地名のみが残りますが、元々は同名の寺があったものと思われます。小さな石も道標で「右・かぶとやま 左・越木岩町」とあります。本来はもう少し山の手にあったのではと思われます。駅前の植え込みの中にまたも「残念石」、武庫郡郡役所跡を過ぎると織女伝説が残る神社です。
応神天皇の御代に漢織・呉織(アヤハトリ・クレハトリ)らの織女がやってきて、糸を染めたのが染殿池、ヌー…待てよ、これは池田市にある伝承とそっくりではないか(池田では呉織・穴織)。こちらの染殿池に対応するのはあちらの染殿井、猪名川には上陸地「唐船ヶ渕」まであるぞー。そういえば尼崎市にも同じ伝承がある。どこが本家でどこが元祖と言っても仕方がないことですが、人が移動すると同時に伝承や文化も移動する、そのうちに元々の土地での伝承だということが忘れられて、近場に新たな伝承地が作られていくのでしょう。そのもともとは村の話し好きなおっさんのホラ話かも知れないし、気の強い婆さんの思い込みかも知れない。
この伝承が各地に散らばるさま、このすぐ後でも見ることが出来ました。
津門(つと)神社と彫られた石、これは残念石どころではありません。市内最大の前方後円墳であった大塚山古墳の石棺が再利用されています。本来は、この神社とワンセットであったと考えられる昌林寺には「美女丸・幸寿丸」伝説が残り、何と両名ばかりか源頼光の墓まであります。美女丸は謡曲「仲光」における名で、北摂の伝承では美丈丸というのが本当らしいのですが、ややこしいので美女丸にしておきます。
源満仲の家来であった藤原仲光の忠義譚、主人の子に変えて我が子の首を差し出したという話ですが(いずれ満仲を扱う時に詳しく申し述べます)、この御本家は川西市の小童寺と思い込んでいましたが、同じ川西市の満願寺にも墓があり、宝塚市の中山寺に供養塔、普明寺にも墓があります。いずれも源氏縁の寺院ですが、果たして美女丸はどこに住んでいたのでありましょうか。
ご丁寧にも手前の干からびた池が幸寿丸の首洗い池とのことですが、これは多田院の酒呑童子の首洗い池の反映でしょう。
そのまま今津の方に向かいます。今回、久しぶりに今津まで参りましたが、「エッ、立体交差!」、ものすごい変わりようです。「大都会やのー。」という言葉が口をついて何度も出ます。六角堂は最初は寺かなと思っていましたが、今津小学校の旧校舎です。戦災にも震災にもよくぞ生き残ったものです。
灘五郷(今津郷・西宮郷・魚崎郷・御影郷・西郷)の一つ今津郷に入るや「大関」の大看板が輝いています。今津郷にはあと扇正宗と金鹿があります。人形浄瑠璃のCMが心に残る多聞は大関に吸収されたようですが、銘柄の名は残っていて自動販売機でワンカップの多聞が買えました(後日談、こやつは水くさいどー)。ここいらでしか買えぬ酒が結構自販機に収まっています。次回は100円玉を大量に持ってきて、片っ端から仕入れてやろう。
今津灯台は今も現役、大関が管理・運営をしていますが、今やここから江戸への下りものを出荷することはないでしょうから、まあボランティアです。試飲をするところが無いというのは致命的だけれど大関はエライ!
今津の浜がわずかに残っています。
海沿いに、西宮郷に入れば、大手は「白鹿」と「日本盛」でありますが、この近辺は完全に白鹿の城下町です。白鹿の辰馬本家の富強を知るべしと申す処。
本朝最初の洋風住宅 辰馬喜十郎邸(非公開)
白鹿記念館(美術館です)
白鹿記念館の館長さんは、師匠の知り合いの郷土史家の先生、来るまで知らなんだとは師匠も呑気な。色々と話を聞かせていただきました。本日は、西宮の好事家の蒐集した「恵比須」神像などの特別展。ご一同美術館では大きな声を出さない!
斯様な業界紙も初めて知りました。定期購読せんとあかんやんけ。
記念館の次は蔵元館、阪神大震災時の酒蔵の様子がリアルです。この酒蔵館で冷酒一合プレゼント、さて記念館の入場料金はこの代であったのか。
ご存知「黒松白鹿」
酒蔵館の横の売店では、試飲はやりたい放題。昔から白鹿ファンでありましたが、いよいよ好きになりました。最初に19度の原酒を飲んだものですから、後は全部水みたいで真に勿体ないことを致しました。
再び海の方に向かえば、住吉神社。西宮の港を個人の財産で修築した金兵衛さんの碑が建っています。現在の突堤も、この当舍屋金兵衛さんの工事が元になっています。
堤防越しに「あれは、何だべ!」と突然に姿を現すのが西宮砲台、写真で見るより遥かに巨大です。今津砲台は基礎のみが残りますが、ここは全体が残っています。幕末に攘夷を実行するために建設されましたが、外国船に向かって一発の砲弾も発射することはありませんでした。クー惜しい!ペロリ(ペリー)よ、砲台完成後に今一度来ていたら、貴様等は泣いて帰ったのに。けれども、試射時に煙が建物内部に充満してしばらくは何も見えなかったそうですから、実際は使い物にならなかったかも知れません。
浜の空気を胸一杯吸いこみ、宮水発祥地に。なるほど宮水とは「西宮の水」の謂いなるか。
辺りをよくよく見ると、何とこの辺り一帯は酒造会社の井戸だらけ。伏見のように各地に散らばっているのではないのです。
白鹿の井戸
大関の井戸
日本盛の井戸
菊正宗の井戸
沢の鶴の井戸(はるか西郷からも)
この宮水地帯で際だって目立つのは多聞ビル、現役です。
徘徊のとどめは西宮神社、「えべっさん」の総本宮です。国生み神話に於いては女神の方から声をかけたために最初に生まれた子はホネのない蛭子(ひるこ)であった。そのために最初の子は海に流したのですが、流石に神の子、この蛭子が海原で元気に育ち、恵比寿神として戻ってこられた。蛭子と書いて「えびす」と読むことがあるのも、これに由来しています。
ただ、エビスの音が多少気になるところで、エビスは「夷」に通じます。ここで思い出されるのは産所町の地名と傀儡師、今日の被差別の成因の一つには平安時代に王朝政府の虜とされた蝦夷(えみし)が集団で移住させられたところがある。本来はそういう形で此の地に住まわされたの民が祀っていた神がおられたところなのでは等とも思うのですが、果たして傀儡師集落がそこまで遡れるかどうか?白山の神と東光寺という名の寺がキーワードと聞いたことがあります。何れ詳しく調べてみたいと思います。「えべっさん」の起源については諸説紛々、蛭子=恵比寿という論は比較的新しいようです。
えべっさんの神輿が止まったという場所
道標を兼ねた燈籠 練塀は国の重要文化財
御本殿 狂気の駆けっこが行われる
瑞寶橋
前回の徘徊時に西宮北口の居酒屋で飲んでいるので、本日は阪神電車で新在家に向かい、広大なるお好み焼き屋「ひの出もり家」で一杯です。ここの休業日というのが、どうしても覚えられなくて行ったけど空振りというのがママありますが、今日は開いてる。この店、奥の席は落ち着くし、イカ焼き以外はおいしいし、おばちゃんは親切やし、良い店です。ただあれだけ灘の酒蔵地帯をウロウロして、結局飲んだ酒が伏見の月桂冠というのはご愛敬でした。
甲山は、例の園児殺しの保母が、証拠不十分で無罪になった甲山保育園のある所でしょうか。保母を犯人と断定した清水一行の「捜査一課長」が、発禁になりました。その本(初版です)を部下に貸したままになり残念です。
「残念石」の話は愉快です。昨秋、京都の堀川の流れが復活したので歩いて来ました。整備された川底の遊歩道を歩くのですが、昔の石垣の下になります。二条城前などの堀川に地方の大名が寄進した紋入りの石などがありました。落とした石ではないのでしょうが、紋入りの石が、城壁でなく川の石垣へ流用されて、寄進者は残念だったのではないでしょうか。
最後はやはり酒呑徘徊師の名に恥じず、仕上げは上々で何よりでした。白鹿は飲み放題なのですか。徘徊堂さんは、近くへ引っ越したいでしよう?
灘五郷は、結構やりたい放題の蔵元が多いです。その点、伏見は全く駄目です。
お酒の名前が沢山出てきましたね。菊正宗を週に六升飲んでいた主人が喜びそうな今日の徘徊道です^^メーカは知りませんが「剣菱」に、能勢の「秋鹿」も臨時に飲んでいました。
「えびす」の由来も「そうだったの」と楽しく読ませて頂きました。蛭子の字、長~く読めませんでした。
西宮は鳴尾浜に何度か行きました。M大学の体育祭とか、テレビでも放映された様です。
鳴尾浜は東の方ですね。砲台があるのは御前浜でした。本日は、京都市内で先ほど20度、けれどもそろそろ雨になりそうです。
ブログ記事のカテゴリーに目を移しますと、やはり洛中洛外がトップですね。そして摂津が2位。まあこれは池田方面が貢献しているのでしょうね。今回の記事は盛りだくさん、gunkanatagoさまの本領発揮ですね。勿論最後は酒に収斂されるというスタイルも含めてですが。
カテゴリー、言われてみて自分でもびっくりしたのは奈良が無いことです。ちょうど7年ほど前までは、知り合いの女性が住んでいたからか、毎週のように奈良をウロウロしていたのに。おっと、女性絡みは道草様の専売でした。この1年は、全く足を踏み入れていません。吉野、明日香、葛城、斑鳩、当麻、桜井、天理…、またちょっとウロウロしなくてはならないと思いました。
ちょうど師匠が「外で飲む酒はウマイ!」等と言って週に2度も3度もウロウロされています。週1度のウロウロでは計画ばかりが頭に浮かんできてというところです。身体が2つ3つあればいいのですが。