堂々たる150万都市の真ん中を流れて、なお水清らかなる鴨川を遡れば出町以北は賀茂川と名を変え、さらに桟敷ヶ岳一帯の源流地域に至ります。祖父谷川の清冽なる流れに目を浄め、志明院内の美しい滝水を口に含むとき、よくぞこの自然を残して下さったと愚かなる賀茂川ダム計画の推進を防がれた志明院の御住職を始めとする関係者の方々への感謝の念が自然と湧き起こるのであります。
さて、伏見港にはかつての高瀬川の流路らしきところが残っており、水も流れていて濠川に合流しております。この川の上流域といっても完全に市内ではありますが、ナンチャラの泉とかいわくありげな池とか、そのようなものが水源になっているのか、とにかく見に行くべと「旧高瀬川流路」=ややこしいので旧高瀬川としますが、こやつを遡ってみました。写真は琵琶湖疎水が宇治川に流れ込む一帯で濠川と名を変えておるところです。判りにくいのですが、右手の方から旧高瀬川が流れ込んでいます。
この旧高瀬川に並行して明治以後はこちらが本当に高瀬川として利用された東高瀬川が流れています。市内一条付近で鴨川と分かれた高瀬川は鴨川右岸を流れ、途中で鴨川をよぎる形で左岸へとつながり伏見へと舟を導いていました。水は混じってしまえば皆同じでありますから、まあ一旦鴨川へ出て、そこから新しい運河に入ってという表現でもよいと思われます。鴨川に出るまでの高瀬川(こちらがよく知られるが西高瀬川ともいう)等もつい最近でも河道の付け替えが行われていますから、これらの川は幾度も幾度もその流れる道筋を変えてきました。従って今回の徘徊はあくまで現存の旧高瀬川、東高瀬川に沿ってということになります。
濠川を離れた旧高瀬川は、いきなり細くなってしまい東高瀬川の堤防に向かい(水の流れは逆ですが)、東高瀬川の堤防の下を並行して東に向かいます。
左に東高瀬川の流れがあります
堤防から旧高瀬川の流れを見下ろしつつ上流に向かうのですが、この辺りはなかなか風光明媚であります。また、彌左衛門橋などという由緒ありげな地名と思っていたら景勝町なども出てきました。上杉景勝でしょうね。けれども堤防上は草茫々の伏見のパンパであります。
酒蔵のすぐ脇を旧高瀬川が流れます。
伏見のパンパ
「伏見のアルゼンチンじゃのお。」などとのんびりと上がるのでありますが、西丹波橋でしたでしょうか右下に見えていた旧高瀬川が忽然、暗渠になってしまいます。そこから姿を現したときには既に流れはなく、やがて団地の物置で旧高瀬川は終わってしまいます。写真を撮るのもアホらしい。
旧高瀬川の源流
美しい泉が無いではないか、やむなし、東高瀬川を遡行することに致します。旧高瀬川が消えたところから少し東高瀬川を遡ると琵琶湖疎水放水路との合流点になります。東高瀬川の水量が豊かであるのはこの放水路のおかげで、これより上流になるとグッと水かさが少なくなります。
左が放水路、右が東高瀬川。
ここよりしばらくの間は道も良く整備され、親水公園なども造られているのですが、やはりこういうものは、住民がどれだけ維持に協力するかにかかっているようで、どことも問題となっている住民の高齢化のためでしょうか十分な管理がなされていません。ただこの辺りで東高瀬川に流れ込む七瀬川に関しては、最近皆で大掃除をしたことが新聞の記事になっていました。七瀬川は、完全に人工化されています。
城南宮道のところで、河川の管理者が国から府へと変わりました。川の様子を見る限り「コラ、京都府!もうちょっとしっかりと管理せい!」と申す処。水が流れさえすればそれでよいという雰囲気マンマンであります。城南宮道を24号線に出た所に本日の徘徊では初の道標です。ここらは院政期の天皇の御陵が多くあるようです。それはまた別の折に。
管理者が変わった途端にドブ川に
哀しき三面張り
伏見稲荷から真っ直ぐ西の「いなりばし」までやってきました。この先、伏見工業高校の脇を流れ、高速道路の下に一旦消えてしまいますが、ぐるりと大回りをして花卉地方市場まで入っていくと再び巡り逢うことができます。ただし、歩いている人は誰もいません。
とうとう鴨川の堤防に出ました。東高瀬川は古紙工場の横で唐突に姿を消します。この川の源流も写真の如くでありました。以前はこの先、鴨川までつながっていたようで、何かそれらしい場所が公園となって残っているのですが、何の説明もありません。鴨川の堤防に上がり、西側を見れば「オー、放流路じゃ。」、対岸に見える放流路が西高瀬川の水を鴨川に放流しているところです。舟が運航されていたときにはここらで鴨川を越えたようです。
東高瀬川最上流部南50㍍の道路の下から水有り
早速に鴨川を渡り、放流路の上流が高瀬川であることを確認しました。さてさて、旧高瀬川、東高瀬川の何れもが遡りきった所は何とも味気ないものでありました。ナンチャラの泉にはついにめぐり逢えません。両川ともに不幸な生い立ちに負けず流れゆくうちに川の体裁を整えるのであり、健気と言えば健気であります。
そういえば、本日は五山の送り火を京都駅近くのビアガーデンで見ることになっています。これはもう、ビールのサーバーからあふれ出る冷たいヤツを飽きるほど眺めて遠く鴨川の源流を偲ばねばと申す処です。
(09年8月記)
さて、伏見港にはかつての高瀬川の流路らしきところが残っており、水も流れていて濠川に合流しております。この川の上流域といっても完全に市内ではありますが、ナンチャラの泉とかいわくありげな池とか、そのようなものが水源になっているのか、とにかく見に行くべと「旧高瀬川流路」=ややこしいので旧高瀬川としますが、こやつを遡ってみました。写真は琵琶湖疎水が宇治川に流れ込む一帯で濠川と名を変えておるところです。判りにくいのですが、右手の方から旧高瀬川が流れ込んでいます。
この旧高瀬川に並行して明治以後はこちらが本当に高瀬川として利用された東高瀬川が流れています。市内一条付近で鴨川と分かれた高瀬川は鴨川右岸を流れ、途中で鴨川をよぎる形で左岸へとつながり伏見へと舟を導いていました。水は混じってしまえば皆同じでありますから、まあ一旦鴨川へ出て、そこから新しい運河に入ってという表現でもよいと思われます。鴨川に出るまでの高瀬川(こちらがよく知られるが西高瀬川ともいう)等もつい最近でも河道の付け替えが行われていますから、これらの川は幾度も幾度もその流れる道筋を変えてきました。従って今回の徘徊はあくまで現存の旧高瀬川、東高瀬川に沿ってということになります。
濠川を離れた旧高瀬川は、いきなり細くなってしまい東高瀬川の堤防に向かい(水の流れは逆ですが)、東高瀬川の堤防の下を並行して東に向かいます。
左に東高瀬川の流れがあります
堤防から旧高瀬川の流れを見下ろしつつ上流に向かうのですが、この辺りはなかなか風光明媚であります。また、彌左衛門橋などという由緒ありげな地名と思っていたら景勝町なども出てきました。上杉景勝でしょうね。けれども堤防上は草茫々の伏見のパンパであります。
酒蔵のすぐ脇を旧高瀬川が流れます。
伏見のパンパ
「伏見のアルゼンチンじゃのお。」などとのんびりと上がるのでありますが、西丹波橋でしたでしょうか右下に見えていた旧高瀬川が忽然、暗渠になってしまいます。そこから姿を現したときには既に流れはなく、やがて団地の物置で旧高瀬川は終わってしまいます。写真を撮るのもアホらしい。
旧高瀬川の源流
美しい泉が無いではないか、やむなし、東高瀬川を遡行することに致します。旧高瀬川が消えたところから少し東高瀬川を遡ると琵琶湖疎水放水路との合流点になります。東高瀬川の水量が豊かであるのはこの放水路のおかげで、これより上流になるとグッと水かさが少なくなります。
左が放水路、右が東高瀬川。
ここよりしばらくの間は道も良く整備され、親水公園なども造られているのですが、やはりこういうものは、住民がどれだけ維持に協力するかにかかっているようで、どことも問題となっている住民の高齢化のためでしょうか十分な管理がなされていません。ただこの辺りで東高瀬川に流れ込む七瀬川に関しては、最近皆で大掃除をしたことが新聞の記事になっていました。七瀬川は、完全に人工化されています。
城南宮道のところで、河川の管理者が国から府へと変わりました。川の様子を見る限り「コラ、京都府!もうちょっとしっかりと管理せい!」と申す処。水が流れさえすればそれでよいという雰囲気マンマンであります。城南宮道を24号線に出た所に本日の徘徊では初の道標です。ここらは院政期の天皇の御陵が多くあるようです。それはまた別の折に。
管理者が変わった途端にドブ川に
哀しき三面張り
伏見稲荷から真っ直ぐ西の「いなりばし」までやってきました。この先、伏見工業高校の脇を流れ、高速道路の下に一旦消えてしまいますが、ぐるりと大回りをして花卉地方市場まで入っていくと再び巡り逢うことができます。ただし、歩いている人は誰もいません。
とうとう鴨川の堤防に出ました。東高瀬川は古紙工場の横で唐突に姿を消します。この川の源流も写真の如くでありました。以前はこの先、鴨川までつながっていたようで、何かそれらしい場所が公園となって残っているのですが、何の説明もありません。鴨川の堤防に上がり、西側を見れば「オー、放流路じゃ。」、対岸に見える放流路が西高瀬川の水を鴨川に放流しているところです。舟が運航されていたときにはここらで鴨川を越えたようです。
東高瀬川最上流部南50㍍の道路の下から水有り
早速に鴨川を渡り、放流路の上流が高瀬川であることを確認しました。さてさて、旧高瀬川、東高瀬川の何れもが遡りきった所は何とも味気ないものでありました。ナンチャラの泉にはついにめぐり逢えません。両川ともに不幸な生い立ちに負けず流れゆくうちに川の体裁を整えるのであり、健気と言えば健気であります。
そういえば、本日は五山の送り火を京都駅近くのビアガーデンで見ることになっています。これはもう、ビールのサーバーからあふれ出る冷たいヤツを飽きるほど眺めて遠く鴨川の源流を偲ばねばと申す処です。
(09年8月記)
それはそうとして、この徘徊は送り火の日だったとの由。さぞ徘徊堂さんの体内の新々高瀬川は洪水に見舞われたことでしょう。
当日は、徘徊中も水分を一滴も取らず夕方に備えました。
嵐山に大悲閣があり、大阪在住時代に紅葉の頃自転車で訪れました。若い坊さんが一人寺の再興を目指し募金箱を手に立っておられる姿を目にして心打たれたのを思い出します。坊さんは人様の前に立って志を訴え、托鉢をして、、、その精神を見た気持ちです。
西高瀬川は保津川開削や西高瀬川で千本三条への木材ルートを確保してくれ我が京北にとっては切っても切れない関係にあると思いますが、我が郷里で角倉了以を語る人は殆どありません。この辺りを整理して我が郷里の人達に知って欲しい、その心はを学ぶことは我が郷里の発展のため何を為すべきかのヒントを与えてくれるのかも知れないと考えています。
元気を与えていただきました。有難うございます。
恩人了以様
本阿弥光悦なども、吉川英治の「宮本武蔵」のせいで、単なる金満家のようなイメージが植えつけられてしまいましたが、今少し評価されてしかるべき人物ではと思っております。