茶呑峠
京都市北区の大森と今は右京区となった京北の山国盆地を結ぶ山道に茶呑峠(ちゃのみとうげ)があります。峠にはお地蔵さんがあり、静かに人を迎えてくれますが、昔はここに茶店があったそうです。この峠は周山に近い殿橋まで下る道(稲荷谷を通る)、鳴ノ堂を経て中江という集落に下る道、そして大森西町に下る道が交差するところで、かつては多くの人の往来がありました。これらの踏み跡も今は消え去り、大森から峠への途中にはクリンソウの群落を見ることもできます。
西の山道を分け入ると余野にも通じています。京都市内と京北とを結ぶ国道162号は比較的に新しい道で、江戸時代までは茶呑峠越えのこの道がメインストリートで、これを辿ると山国盆地のほぼ中央部に出てくることになっていました(中江におりた場合)。
山国側からの話を先にすると、今現在はこの峠から中江に下る道の途中に分岐ができ、天童山中腹のパラグライダーの滑空場への道がつながっています。山国盆地にいて、上空を何機かが旋回しているのを見ることもありますが、一時期より宣伝が減ったような気がします。施設の整備のために樹木はかなり伐採されましたから、天童山に登って、展望が全くないことに不満を覚えた方は、こちらへ回るとある程度の満足は得られるかも知れません。また、鳴の堂辺りからそのまま山国盆地に下りる林道もできています。
先述しましたが、この茶呑峠には、余野という集落から河原峠(地図にはコホロとあるも土地の人はコウロと言う)を越えて行く道もあります。余野集落のドン突きには狂気の京都国体の時に作られた射撃場がありましたが、今は閉鎖中です。この国体に行政がかけた情熱を考えると我々は北鮮のマスゲームを笑うことはできません。何もかも「国体のため」に力が注がれたのです。この事情は他県も同じらしく、かつて奈良国体にかり出された友人などは「狂気の国体」と呼んで、「あんなものは早くやめてしまえ!」と立派な国体廃止論者になりました。
余野に射撃場を作るべきか否かは土地の人にも諮られたとのことですが、それは形のみで、もはや建設は規定方針であったようです。土地の人には本当に僅かばかりの土地譲渡代が支払われました。その後、たっぷりのお土産として谷全体が鉛による土壌汚染に苦しめられることになりましたが、府からはゴメンネ程度の謝罪もないとのことです。ちょっと話は飛びますが、殿橋から上桂川に流れ込む稲荷谷川辺りにはいまも私立の射撃場がありますが、川の水など大丈夫なのでしょうかね。
汚染された土壌の改良のために大規模な客土工事がなされたとのことですが、今現在この閉鎖中の射撃場の下で大規模に果樹園(多分観光農園をやるつもりか)の造成工事が行われています。よっぽどしっかりやらないと、重金属で汚染された野菜を輸出している中国を我々は非難できなくなります。この果樹園造成地辺りには、立派なログハウスなども建てられ、別荘生活を満喫している人たちもいるのですが、最近各地で大きな被害を出している異常気象に伴う集中豪雨がここを襲うと、山の緑が全面的に剥がされてしまっているだけに、どうなることかと案じられます。
かつてはこの余野にも賑やかな山村の生活がありました。現在の余野の公民館(射撃場関連事業ではこの公民館をきれいにしただけ)は細野小学校余野分校跡で、3年生まではこの分校で勉強したのですが、今は本校の細野小学校も廃校となりました。余野近辺の滝又の滝や雲月坂、余野の知られざる名山である上野山については稿を改めてご案内します。
茶呑峠に行くには大森よりも余野の方が高度があるので、楽であろうというスケベ根性も働くのですが、道は俄然迷いやすくなっています。しかも、全般的には北山に入る人は減っている中で、ここらは特に人が少なく、道しるべのテープもあまり見あたりません。従って谷を一つ間違えて入り、「あれ、おかしいな?」となる可能性が高いのです(お前だけぢゃという声もあり)が、北山でもここら辺りなら、兎に角登りに登って尾根まで出れば、普通は必ず道が見つかります。足腰はもう鍛えた、両手も使う全身運動がしたいという方には、お奨めです。何せ、途中で止めるということができません(逆に兎に角下れば必ず里に行き着くところも北山の良さです)。
茶呑峠は天童山への尾根筋ルートの途中にもなっています。このルート、ほぼ直登という感じで、北山の他の山に比べても結構しんどい山です。「山国盆地に下りられるよー、周山のビアハウスが待っているよー。」という囁き声に負けて天童山山頂から亀の甲橋辺りへの下山ルートを採ると、これはもうインパール作戦になってしまうのでご注意下さい。トップの写真が茶呑峠。
(08年6月記)
祖父谷峠
祖父谷峠
渡辺歩京さんが『北山の道』の中で、「最も北山らしい峠はどこかと言われたら、私は即座に祖父谷峠をあげる。」と書かれてから既に20有余年、祖父谷峠付近の景色も随分と変わったようです。5本あったという大杉は、落雷によって4本になったということですし、何よりも峠の西・南・東の三方が伐採され、少し趣にかける峠となってしまっています。
それでも岩屋橋からの訳の解らぬ林道の建設が、祖父谷峠のかなり手前でストップしていることは誠に嘉すべきことで、これがために峠は僅かに昔の雰囲気を残しているのです。林道の建設では、京都の北山も多くの峠が壊されていきました。さて、その林道が使われているかというと、もはや造るために造る道と成り果て、全く林道としては使われていないのであります。林道が祖父谷峠の方に延びることが無いように祈るばかりです。
小生は、祖父谷峠の昔つまり大杉が5本会った景色を知りません。が、ここから井戸の方へと下っていく道には、その名残が残っているのではと思われます。最近はお馴染みの峠となりましたが、以前、その名を知りながら長い間、行こうとしなかった理由は特にありません。偶々としかいいようがないのです。冬は、ヒルが出ないために喜んで北山に入る人も多いようですが、この峠に至る道は言葉通りにシビアなものです。数年前に雲ヶ畑岩屋橋から雪の中、この峠を目指したことがありましたが。人蹤絶ゆとは正しくこのことで、まっさらな新雪がどこまでもどこまでも続いています。やがて、雪はさらに深くなり気温も下がり始め、これは峠に辿り着いても帰れぬ怖れがあると途中で諦めたことでした。
それでも、そんな季節でも健康的な登山家が活動する時刻には行く人もあるのでしょうが、小生の如く昼頃からのそーっとという人間につき合ってくれる人は無いようです。岩屋橋から奥は、以前には人家があったような感じなのですが、今は全く無人です。かつてこのあたりに住んでいた人が残した祖父谷由来の碑が寂しく佇んでいます。
それによると、祖父谷は「素風谷」の転訛であり、素風とは小野素風(もとかぜとでも読むのでしょうか)から来ているということで、やはりこの北山一体にかなりの伝承を残す小野氏が関係しています。碑に記す以上のことは今は聞き取りも難しいのではと思います。惟喬親王絡みで今少し詳しく調べたいとは思っていますが。
峠から岩屋橋に下らず、井戸の方に下れば「井戸祖父谷」です。道は荒れていると言ってよいでしょう。長い下りが続きます。普段は林道などは不要と目の敵にしている小生でありますが、この道は山道を出て林道が彼方に見えてくるとちょっと嬉しいです。それでも、かつてここで山鳥がひなを庇い自らは傷ついたふりをして谷を転がり落ちていく様子を初めて見ました。話には聞いていたが本当のことでした。山鳥にしてみれば、久しぶりのお客さんゆえに大サービスをして自らの生態を見せてくれたのかも知れません。母鳥は谷へ、雛は斜面を駆け上っていきましたが、それはもう訓練通りのデキでありました。
林道に出てからがまた長い。このあたりは桂川の水源地帯にもなっています。漸く集落の見える所に出ると、川沿いには何か村おこし・町おこしの努力をしたような形跡がありますが、今は虚しと申すところ。
井戸のバス停に出て、小塩の方からやってくるふるさと公社のバスにさえ乗ってしまえば、周山のビアハウスに辿り着くまで15分ほどです。バスを待つ時間が長いようなら少し歩いて常照皇寺の前に出て「山凌亭」で山菜うどんなどを食いながらバスを待つのもよいでしょう。(追記、バスの時間、以前は17時ごろに井戸を出るのがあったので重宝しましたが、今は18時ごろになりましたので、ビアハウスでは、腰を落ち着けて飲めなくなりました。)
(08年8月記)
京都市北区の大森と今は右京区となった京北の山国盆地を結ぶ山道に茶呑峠(ちゃのみとうげ)があります。峠にはお地蔵さんがあり、静かに人を迎えてくれますが、昔はここに茶店があったそうです。この峠は周山に近い殿橋まで下る道(稲荷谷を通る)、鳴ノ堂を経て中江という集落に下る道、そして大森西町に下る道が交差するところで、かつては多くの人の往来がありました。これらの踏み跡も今は消え去り、大森から峠への途中にはクリンソウの群落を見ることもできます。
西の山道を分け入ると余野にも通じています。京都市内と京北とを結ぶ国道162号は比較的に新しい道で、江戸時代までは茶呑峠越えのこの道がメインストリートで、これを辿ると山国盆地のほぼ中央部に出てくることになっていました(中江におりた場合)。
山国側からの話を先にすると、今現在はこの峠から中江に下る道の途中に分岐ができ、天童山中腹のパラグライダーの滑空場への道がつながっています。山国盆地にいて、上空を何機かが旋回しているのを見ることもありますが、一時期より宣伝が減ったような気がします。施設の整備のために樹木はかなり伐採されましたから、天童山に登って、展望が全くないことに不満を覚えた方は、こちらへ回るとある程度の満足は得られるかも知れません。また、鳴の堂辺りからそのまま山国盆地に下りる林道もできています。
先述しましたが、この茶呑峠には、余野という集落から河原峠(地図にはコホロとあるも土地の人はコウロと言う)を越えて行く道もあります。余野集落のドン突きには狂気の京都国体の時に作られた射撃場がありましたが、今は閉鎖中です。この国体に行政がかけた情熱を考えると我々は北鮮のマスゲームを笑うことはできません。何もかも「国体のため」に力が注がれたのです。この事情は他県も同じらしく、かつて奈良国体にかり出された友人などは「狂気の国体」と呼んで、「あんなものは早くやめてしまえ!」と立派な国体廃止論者になりました。
余野に射撃場を作るべきか否かは土地の人にも諮られたとのことですが、それは形のみで、もはや建設は規定方針であったようです。土地の人には本当に僅かばかりの土地譲渡代が支払われました。その後、たっぷりのお土産として谷全体が鉛による土壌汚染に苦しめられることになりましたが、府からはゴメンネ程度の謝罪もないとのことです。ちょっと話は飛びますが、殿橋から上桂川に流れ込む稲荷谷川辺りにはいまも私立の射撃場がありますが、川の水など大丈夫なのでしょうかね。
汚染された土壌の改良のために大規模な客土工事がなされたとのことですが、今現在この閉鎖中の射撃場の下で大規模に果樹園(多分観光農園をやるつもりか)の造成工事が行われています。よっぽどしっかりやらないと、重金属で汚染された野菜を輸出している中国を我々は非難できなくなります。この果樹園造成地辺りには、立派なログハウスなども建てられ、別荘生活を満喫している人たちもいるのですが、最近各地で大きな被害を出している異常気象に伴う集中豪雨がここを襲うと、山の緑が全面的に剥がされてしまっているだけに、どうなることかと案じられます。
かつてはこの余野にも賑やかな山村の生活がありました。現在の余野の公民館(射撃場関連事業ではこの公民館をきれいにしただけ)は細野小学校余野分校跡で、3年生まではこの分校で勉強したのですが、今は本校の細野小学校も廃校となりました。余野近辺の滝又の滝や雲月坂、余野の知られざる名山である上野山については稿を改めてご案内します。
茶呑峠に行くには大森よりも余野の方が高度があるので、楽であろうというスケベ根性も働くのですが、道は俄然迷いやすくなっています。しかも、全般的には北山に入る人は減っている中で、ここらは特に人が少なく、道しるべのテープもあまり見あたりません。従って谷を一つ間違えて入り、「あれ、おかしいな?」となる可能性が高いのです(お前だけぢゃという声もあり)が、北山でもここら辺りなら、兎に角登りに登って尾根まで出れば、普通は必ず道が見つかります。足腰はもう鍛えた、両手も使う全身運動がしたいという方には、お奨めです。何せ、途中で止めるということができません(逆に兎に角下れば必ず里に行き着くところも北山の良さです)。
茶呑峠は天童山への尾根筋ルートの途中にもなっています。このルート、ほぼ直登という感じで、北山の他の山に比べても結構しんどい山です。「山国盆地に下りられるよー、周山のビアハウスが待っているよー。」という囁き声に負けて天童山山頂から亀の甲橋辺りへの下山ルートを採ると、これはもうインパール作戦になってしまうのでご注意下さい。トップの写真が茶呑峠。
(08年6月記)
祖父谷峠
祖父谷峠
渡辺歩京さんが『北山の道』の中で、「最も北山らしい峠はどこかと言われたら、私は即座に祖父谷峠をあげる。」と書かれてから既に20有余年、祖父谷峠付近の景色も随分と変わったようです。5本あったという大杉は、落雷によって4本になったということですし、何よりも峠の西・南・東の三方が伐採され、少し趣にかける峠となってしまっています。
それでも岩屋橋からの訳の解らぬ林道の建設が、祖父谷峠のかなり手前でストップしていることは誠に嘉すべきことで、これがために峠は僅かに昔の雰囲気を残しているのです。林道の建設では、京都の北山も多くの峠が壊されていきました。さて、その林道が使われているかというと、もはや造るために造る道と成り果て、全く林道としては使われていないのであります。林道が祖父谷峠の方に延びることが無いように祈るばかりです。
小生は、祖父谷峠の昔つまり大杉が5本会った景色を知りません。が、ここから井戸の方へと下っていく道には、その名残が残っているのではと思われます。最近はお馴染みの峠となりましたが、以前、その名を知りながら長い間、行こうとしなかった理由は特にありません。偶々としかいいようがないのです。冬は、ヒルが出ないために喜んで北山に入る人も多いようですが、この峠に至る道は言葉通りにシビアなものです。数年前に雲ヶ畑岩屋橋から雪の中、この峠を目指したことがありましたが。人蹤絶ゆとは正しくこのことで、まっさらな新雪がどこまでもどこまでも続いています。やがて、雪はさらに深くなり気温も下がり始め、これは峠に辿り着いても帰れぬ怖れがあると途中で諦めたことでした。
それでも、そんな季節でも健康的な登山家が活動する時刻には行く人もあるのでしょうが、小生の如く昼頃からのそーっとという人間につき合ってくれる人は無いようです。岩屋橋から奥は、以前には人家があったような感じなのですが、今は全く無人です。かつてこのあたりに住んでいた人が残した祖父谷由来の碑が寂しく佇んでいます。
それによると、祖父谷は「素風谷」の転訛であり、素風とは小野素風(もとかぜとでも読むのでしょうか)から来ているということで、やはりこの北山一体にかなりの伝承を残す小野氏が関係しています。碑に記す以上のことは今は聞き取りも難しいのではと思います。惟喬親王絡みで今少し詳しく調べたいとは思っていますが。
峠から岩屋橋に下らず、井戸の方に下れば「井戸祖父谷」です。道は荒れていると言ってよいでしょう。長い下りが続きます。普段は林道などは不要と目の敵にしている小生でありますが、この道は山道を出て林道が彼方に見えてくるとちょっと嬉しいです。それでも、かつてここで山鳥がひなを庇い自らは傷ついたふりをして谷を転がり落ちていく様子を初めて見ました。話には聞いていたが本当のことでした。山鳥にしてみれば、久しぶりのお客さんゆえに大サービスをして自らの生態を見せてくれたのかも知れません。母鳥は谷へ、雛は斜面を駆け上っていきましたが、それはもう訓練通りのデキでありました。
林道に出てからがまた長い。このあたりは桂川の水源地帯にもなっています。漸く集落の見える所に出ると、川沿いには何か村おこし・町おこしの努力をしたような形跡がありますが、今は虚しと申すところ。
井戸のバス停に出て、小塩の方からやってくるふるさと公社のバスにさえ乗ってしまえば、周山のビアハウスに辿り着くまで15分ほどです。バスを待つ時間が長いようなら少し歩いて常照皇寺の前に出て「山凌亭」で山菜うどんなどを食いながらバスを待つのもよいでしょう。(追記、バスの時間、以前は17時ごろに井戸を出るのがあったので重宝しましたが、今は18時ごろになりましたので、ビアハウスでは、腰を落ち着けて飲めなくなりました。)
(08年8月記)
一時の開発ブームで至る所に林道が造らた後遺症で、山の風情が台無しの所が多々あるのでしょう。先日連れて行ってもらった長老ガ岳にも、山頂にトラクターが置いてあるのには目を覆いたくなりました(開けていましたが)。単に山の頂上に立ちたいだけなら全く簡単になってしまいましたが、本当に山を愛する人には許し難い現実だと思います。
それにアクセスのバスなども減ってしまい、昔と比べて完全に不便極まりません。徘徊堂さんの最後の仕上げにも多大な支障を来たしている実情に、他人事ならずご同情申し上げます。こうなれば、余裕を持って徒歩ででも(夏に私はそうしましたが)H酒造へ到着する方法を執るしかありません。ビア樽は担いで歩けませんし。それにしても、1000メートル近い頂上で冷たいビールが飲めれば、天国の気分が味合えることでしょうけど・・・。不謹慎でした。謝々。
H酒造への道、井戸から8㎞ほどあるので、山から下りてきて歩くとなるとなかなか大変ですし、やはり着くころには閉まっているということも考えられます。不便になりましたが、井戸17時のバス、乗るときは結局最初から最後まで乗客は小生一人でしたから仕方がないのかなというところです。
頂上でのビールは、いつも頭のどこかにあります。寒い日に登って熱燗ならむしろ簡単なのですが…。
祖父谷も交差点ですね。林道は砂防ダム直前で止まってくれていますね。まさか峠まで伸ばすほどの図々しさはないと思うのですが甘いですかね。この峠にも江戸時代の石仏がありますし、井戸側の数百メートルは旧道の雰囲気がのこっています。植林されたところの道は風情はなし。林業の効率化も必要でしょうが、せめて峠を挟んで両側は自然林を残し旧道も残して欲しい気持ちです。祖父谷あたりの祖父・小野素風(?)・惟喬さんがらみの伝説が沢山ありますが、史実的にはどうなのでしょう。まあ伝承は大切に心して読まないといけないのでしょう。
我が生誕の地山国荘にとっては京の都への窓口であったわけで、この二つの峠を語り出せばきりがありません。我が祖先がどんな思いでこの峠を越えたか、何が背負われていたか、地名にまつわる話、峠に残っているお地蔵様にいろいろ聞いてみたい気持ちですし、興味ある奥深い研究課題がいっぱいの峠ですね。
gunkanatagoさまの様に色々歴史を語りながら北山を歩かれる人が少なくなって来ているのでしょう、6月に祖父谷を歩いた時には土曜日なのに出逢ったハイカーは数人だけでした。
長老登山からまだ1週間もたっていないのですが、どうも山づいた感じで明日もナッチョへ登ろうかな等と思っております。小生の母方の母方は宇治の上林一族につながり、さらにそれは綾部につながっていると思われます。長老ヶ岳周辺で何か懐かしい感じがしたのも遠祖の血が原因かも知れません。京北の方々にとっても茶呑峠や祖父谷峠は様々な思いを胸にご先祖が必ず越えられた峠ですね。