花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

空覚さん最初の托鉢

2012年03月06日 | 茶話
 兵庫県宝塚市の釣鐘山の山頂近くに白亜の空堂が完成し、池田から迎えた釈迦如来像を安置して供養が行われたのが昭和11年の11月11日。その1週間後、空覚さんは初めての托鉢に出られました。

 山を下りてすぐに花屋敷荘園、托鉢姿の空覚さんを見た知り合いの方が「あっ!」と声を漏らし、続いて涙を流しながら「…よう、ここまで捨てられました。」と声をかけます。空覚さんは、「…私を見て泣くことはありません。私は喜んでいるのです。…」と返事をされますが、やはり涙が自然に出てきます。

 先ず「夫」の家に。この「夫」たる人は、仏の世界に妻(空覚さん)を取られ、やがてはその空覚さんに深く帰依していった人です。その「夫」のところに最初に行くというのは何かかいらしい(失礼ながら)ですね。夫たる人は2銭喜捨されたのですが、空覚さんは「随分少ないんですねえ。」と笑いながら文句を言ってしまったと反省されています。
 その後、花屋敷荘園を開発された方の家の前で、その家の奥様に出会い。奥様がはらはらと涙を流されるのを見て、空覚尼さんもまたまた涙、けれどもしっかりしなくてはと気を取り直して火打村へと下って行かれます。

 火打村は皮革業で財を成した村、今は工場も整理され、広い跡地が残るばかりですが、当時は数えきれぬ枚数の皮革がつり下げられていました。勿論、これらはもともとは生きていたものです。空覚さんは、これらの生き物の魂の浄化を祈りつつ多田街道に入られます。


右が多田街道

 ところで、最近でも霊能力があると称する人が毛皮を身にまとっているのを見ましたが、婦人用の毛皮は勿論動物の毛皮で、しかもこれを生きながらにして剥がし取るものもあるということです。悲痛なる痛みに叫ぶ動物たちの声が聞こえぬのであれば、その霊能力はニセモノですね。毛皮は心優しき大和なでしこには最も似合わぬものです。閑話休題。

 現在、火打の集落はバイパスによって真っ二つにされている感じです。多田街道もこやつを越えていくことになります。下の写真がバイパスを越えたところの多田街道入り口、もちろん空覚さんの頃は多田街道はきちんとつながっていました。




 多田街道を萩原村まで進むと、そこからは山道。今は広大な萩原台という住宅地が広がり往時の名残は全く見られません。その山道で空覚さんは一人の老婆に出会います。老婆は、山道に入ってきた尼さんにビックリしたようですが、やがてうち解けていろいろな話をするようになります。老婆が言うには一人息子は極道者で、その嫁とも気が合わぬ。孫娘に自分の最後を見とってもらいたいと思っているのに、その娘が病気になってしまった。
 空覚さんは「…私が治してあげます。そやけど、おばあさん、今をうらんでも何にもなりませんよ。…」とキッパリ。老婆はここで、空覚さんが最近噂になっている尼さんであることに気付きます。「あんたが、花屋敷にいてる病気を治す尼さんかいな?30か?40か?」、この時空覚尼さんは50歳です。会いたかったなあ。


萩原


常夜燈

 萩原からは萩原台という新興住宅地に入ります。空覚さんの頃は森林に覆われ、大きな池も5つありました。多田街道はその森の中を細く続いていたと思われますが、今は住宅地の造成で完全に失われている感じです。ここは適当に進みます。萩原台で振り返ると空堂が見えるところがありますが、空覚さんの頃は木々に覆われていたため見えなかったでしょう。

 地名は萩原台から鴬台、矢問[やとう]へと変わっていきます。矢問は源満仲が住吉さんから矢を放ち、矢が飛んでいった先を尋ねたという多田荘園開発説話に由来した地名です。




伏尾台方面


向陽台方面

 矢問の集落の鎮守は八幡宮、空覚さんは持っている2銭のうちの1銭をお賽銭にしてお参りをされました。まさに貧者の一灯(笑)。矢問から西多田に向かって歩かれます。
 そこに1頭の牛がつながれています。牛は空覚尼さんの顔を見て、いきなり暴れ出し、畦道の横の井路に落ち込んでしまいます。空覚尼さんは、この牛をかつての知人の生まれ変わりと話されています。

 等々というと、近代的な知性の持ち主は「ハハハ、所詮は頑迷な迷信の徒だ。」と笑うと思います。けれども、現代の我々は実はこういう世界については実際は何も知らないのです。信じてもいいし、信じなくてもいい。けれども、小生の気持ちとしては、こういう転生も有りだとしておくほうがいいと思います。かの行基菩薩は山鳥の鳴き声に亡き両親の声を感じられました。山奥で鹿を殺しまくっているオッサン、その鹿はもしかしたら親の生まれ変わりかも知れぬぞよ等とたしなめることができたら痛快だと思うからであります。またまた閑話休題。


矢問の庚申塚


多田街道名残の灯籠


何故かいきなり写ったパトカー

 今現在は、八幡宮から川までは間に工場などもあり通行できませんが、空覚さんは一旦川まで出られて、川沿いの道を西進されたようです。多田神社のことは、やはり「満仲(まんちゅう、まんじゅう)さん」と表現されています。多分、残りの一銭は多田神社のお賽銭にされたのでしょう。




拝殿


奥が本殿(最近入れてくれない)


石で囲まれているのは首洗い池

 現在の能勢電車多田駅から神社までの参詣道を歩いて多田駅に着いた空覚さん、疲れていたけどお金がないので電車には乗れませんと述べておられます。そのまま線路に沿って歩き、鼓滝の辺りで自分も能勢口に向かって歩くという方と一緒になって能勢口の方に戻ってこられました。
 托鉢という点では、全く目的を果たせませんでしたが、本来ならば会うこともない人々と話すこともできて、空覚さんの気分は爽やかであったのでしょう。空堂に戻られたら仏が祝福されている証しに「天香」、何とも言えぬすがすがしい香に空堂が包まれていたということです。

 空覚さんには申し訳無いながら、電車賃を持っている小生は多田から電車に乗りました。今、鼓滝から鶯の森、滝山へと歩いていく道は歩行者にとっては大変危険な道です。この後は、絹延橋で降りて池田に行き、たこ焼きとビール、さらに梅田で串カツとビール。罰当たりな後追いをやった天罰覿面、次の日にはまたまた車をガリガリとやりました。今回は「注意1秒5万円」(泣)というところかな?


多田御家人の子孫が文化5年(1808)に建てた灯籠


多田神社が寺であった名残


揮毫は何と徳川家達

 小生は、墓参りなどにも一向行かないし、ごくごくまれに法事に出ても坊主に「はよ読経を止めて帰れ!」と心の中で叫んでいるし、爺さんの葬式の時には鏡を使って坊主の頭に反射光をあてて遊んでいて叱られたし、所謂「信心深い」人間ではありません。けれども、この空覚さんの托鉢の「ささやかさ」というか「かいらしさ」はどうだ!と思います。空覚さんは結局は金銭的には宗教者としては自立できなかったようです。そら、そうでしょう。
 30万円以上のお布施で奥の院ご招待と公言する新興宗教、「1回200円ね。」と鐘をつかせる京都の観光寺院、坊主どものそういうエゲツナサを見る今、こういうささやかな話にほっこりしたものを感じるのは小生だけでありましょうか。
 文中、空覚さんの言葉は随分と削りました。というか記憶だけで書いたので削らざるを得なかったのです。本当に空覚さんが世の人に伝えたかったことは伝えられていないと思いますが、またボチボチ。


6 コメント

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生きとし生けるものへ春の雨。 (道草)
2012-03-07 08:48:41
gunkanatagoが空覚尼を登場させられるのは、これで3度目でしたか。質素で謙虚で清貧を絵に描いた菩薩の如き美貌の聖尼が生存しておられたら、今回の東北の大被害にどれだけ喜捨されたでしょう。おそらく、J聴尼さんもさぞ恥じ入るばかりだったかも知れません。
gunkanatagoさんがもし空覚さんに出逢っておられたら、きっと弟子入りしされたのではないですか。それともプロポーズしておられた・・・(坊主にはイタズラされますが)。

心洗われる物語(実話)を読ませて戴きました。ただ、動物に対する人間の所業はどうなのでしょう。火打村では、動物から取る毛皮で生業をしていたのでしょうし、空覚さんもその事は容認されていたのでは・・・。
私の子供の頃は、食用にするために鶏や兎や豚などを飼っていました。牛でも農耕用と食肉用があったと思います。女の子は兎や狐の襟巻きをしていましたし、山行きの大人は尻に毛皮の携帯座布団をぶら下げていました。

百姓は冬場は収入が無いので、猟師になって鹿や猪を捕獲していました。一度だけでしたが、川原で串焼きにしてもらった鹿の肉は、私には生涯最高の美味として残っています。unkanatagoさんが串カツをお好みなのも、よく理解出来ます。いずれにしましても、生きとし生けるもの共の関係は、程度の問題でしょうけど。空覚さんはどう思われていたのか・・・。

万物の生命にふるや春の雨(道草)
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楽しみや趣味で (gunkanatago)
2012-03-07 13:57:59
 道草様、コメントをありがとうございます。さて、空覚さんを妻にしたかというと、「???」というところです(笑)。実際に、実業家であったご主人もある意味振り回されておられたようですし、最後は実業への妄念を切り捨てるように迫られていますから。
 今は、「あえて鹿を殺さねば生きていけない」という人は日本のどこにもいないでしょうし、まあ趣味や好みで動物を殺すのはよくないですね。毛皮も同じでしょう。牛や豚や鶏などは「経済動物」で、我々は感謝しながらその命をもらっていますが、飼い方・殺し方については色々と議論があります。
 役牛や役馬などに対して、エゲツナイ仕打ちをする人をいさめるために「親が牛に生まれ変わる」というような考えが広まったのでしょうね。空覚さんは因果による回来を信じておられましたから、あまりなことをしたら次の世ではブロイラー用の鶏などに生まれ変わって負債を払うことになると思っておられたのでは。
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釣鐘山続編を期待します。 (mfujino)
2012-03-08 21:27:42
gunkanatagoさま、お、また池田だ。今回は空覚さん托鉢行脚の再現ですね。私も地図ソフトを開けてフォローしてみました。

地図を開けて、お、団地ばっかしやんか、団地が出来ると何とか台とか聞こえの良いネーミングで昔の名前が消えて味気ないんと違う?と思いましたが、読み進むにつれてちょっと認識を改めました。火打、萩原、鶯台、、、 矢問、この伝説は面白い。工場のすぐ南に八幡さんがあり川への道を遮っていますね。

>今、鼓滝から鶯の森、滝山へと歩いていく道は歩行者にとっては大変危険な道です。
と書かれていますが、今回は電車で通られたのですね。私は大阪へ出るとき、一の鳥居から南下してこの斜面を右に見ながら走ります。家が多くて見過ごしてしまいますが、地形図を注意深く見ると高度差が分かりますし、実際車から見るとこんな斜面によう家を建てるなあと思っているのですが。危険ということは古道はこの斜面を通っていて、実際に歩かれたのですね。猪名川を避けてユリ道をつくったのでしょうね。

この托鉢ルートは空覚さんのお話しを聞かれた記憶で再現されたのでしょう。

多田から釣鐘山へと空腹に耐えて歩けば本物。池田のたこ焼き、梅田の串カツへと進まれたのは、そして後で板金屋さんへの売上協力されたとのこと。空覚さんの無言のお教えと捉えるべきでしょう(^_*)

托鉢の姿はこちらではとんと見かけません。大阪でもその姿を見た記憶にはありません。京都市内では見かけられるのでしょうか?これは聞いた話で真偽の程は分かりませんが、今は亡き元薬師寺管長の高田 好胤さんは托鉢してもなかなかお布施が集まらない、これでは我々は食っていけないとお師匠さんに訴えると、「ほんなら死ぬしかないなあ。他人様の為に修行してたら自然に集まる、集まらないのは修行が足らんからや」という意味の答が帰って来たそうです。

一期一会、空覚さんの心はgunkanatagoさまに深く入り込んでいるようですね。
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托鉢僧など (gunkanatago)
2012-03-09 13:52:10
 mfujino様、コメントをありがとうございます。一の鳥居から大阪に出る時に見ておられるのは「鴬台」の端っこでしょうね。小生もいつも「ようあんなところに家をたてるわぁ」と思っています(笑)。
 薬師寺の高田好胤さんの話もありがとうございます。お師匠さんは橋本凝胤さんでしょうね。子弟の会話が見えるようで面白い。薬師寺は、入っていっても坊さんは親切だし、話も上手だし、京都の観光寺院とはちょっと違う感じですね。今後、寺が完全復興した後も、今の姿勢を崩さないようにしてもらいたいですね。
 托鉢僧、本当に見ません。何か大昔に妙心寺の雲水が列を成して歩いていくのを見たように思いますが、個人の坊さんに喜捨を求められたことは一度もありません。四条大橋の上などでたまに坊さんが立っているのを見ますが、あの場所ではチョット鉢にお金を入れるのは恥ずかしいです。
 この話、釣鐘山慈光会に怒られるのではとビビリながら書いています(笑)。板金修理、イタイですが、考えてみるとやはり運転に慢心があるときにやっています。書いていただいたように「空覚さんの無言のお教え」と捉えることにします。
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托鉢僧 (ささ舟)
2012-03-12 09:55:35
gunkanatagoさま、こんにちは。三寒四温、今朝から牡丹雪が降り続いています。のんびりだったり気ぜわしく降ったりで、いましばらくこのなごり雪を楽しもうとコーヒーを入れて眺めていました。
空覚尼の托鉢行脚の道をたどられたのでしたか。この辺り(我が家)は托鉢僧、たまに見かけます。店を開いていたころは、しょっちゅう店頭に立たれましたが、今は玄関まではこられません。子どものころは、ご飯食べてすぐ横になると牛になる、とか夕方に水辺に行くとスッポンが足を引くとか、よくいわれました。食事に感謝すること、また池などに落ちて過ちが無いように近づくな、と、全て戒めの言葉だったのでしょう。
あの白亜の空堂、大阪行きの車窓から見えるのがそうでしょうか?
私、8日から土佐須崎から宇和島、松山へと別格霊場のお参りに行って来ました。西日本一番の石槌山(1982m)はガスがかかったまんま姿を見せません。4月にはその華麗な雄峰に逢えるといいんですが。

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宇和島 (gunkanatago)
2012-03-12 13:17:38
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。釣鐘山の空堂は阪急電車の川西能勢口と池田の間で北西側に見えます。以前(といっても30年以上も前ですが)には近くの山の山頂にサンテ・ド・花屋敷なるリゾートもありました。夏はプールサイドでトニー谷などが来て「あなたのお名前なんてえの?」等とやっていました。
 宇和島、うらやましいです。司馬遼太郎がここの「じゃこてん」を絶賛していたので取り寄せたことがあります。
 昨日、瀬戸内の海賊衆の本を読んでいると松山、道後の湯築城が出てきました。伊予の守護であった河野氏の根拠地ですが、実は空覚さんの遠祖はこの河野氏で、湯築城には荒れ果てた城跡を悲しんだ空覚さんが建てた石碑がありました。今度、史跡公園として整備されましたが、その石碑がどうなっているか心配です。等と考えていると、もう四国への憧憬というかそんな感じのものが一杯心に湧いてきました。
 昔からの戒めを「迷信」と片づけてしまうと、もうヒドイことになるでしょうね。
 
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