先だって亀岡市並河の大井神社に詣でた時に、その御祭神の一柱が月読命であることを知りました。並河から駅一つ北の千代川付近で保津川にに架かる橋は月読橋、当初はこのお社との関係で命名されたものと思っていましたが、千代川には千代川で月読神社というお社があり、さらにその月読神社は対岸の小川月神社を勧請したものでした。
この神社については、ちょくちょくとコメントを下さる「携帯点脳」様に初めて教えていただきました。そのコメントでは、昔は丹波でも一、二を争うお社だったとのこと。それにしても、いつかは行かねばと思っていたところに、このように早く訪ねることになったのは、やはり御縁ですね。mfujio様にいただいた情報と携帯点脳様にいただいた情報がつながった。ありがとうございました。
ただ本日はあいにくの雨、小川月神社の位置を考えると車で行かざるを得ません。午後からのそーと出かけました。
千代川駅から月読橋を渡り、南丹高校の前辺りで南を見ると、広い広い、田畑がずうっと広がる中に早くも神社が見えています。
今はこじんまりとした感じになっていますが、式内社です。位置的に保津川の氾濫原にありますから、度重なる洪水で社地が失われていったようです。
並河の大井神社が松尾大社を勧請したものであるように、ここに月読命が祀られたのは現在は松尾大社の摂社となっている月読神社が勧請されたものと考えることも出来ますが、そもそも松尾の月読神社が秦氏による開発以前の伝承を伝えているかも知れぬことを考えると、この大堰・保津川水系には当初から月神を祀る習慣があったのかも知れません。
出雲大神宮の甘南備山を見る。
神社は今も神さびて素晴らしいのですが、すぐ横に鳥獣捕獲用の檻が設置され、カラスが3羽これに入って哀れな声をあげているのには閉口しました。これには神も怒っておられるように思いました。檻の中にはえさとして食パンのミミがばらまかれていますが、もうまもなくすれば腐って臭うようになるでしょう。清浄を重んじなくてはならぬ神域に対して不敬であります。
ここを南下すると遠山家住宅などがある集落なのですが、これはまあ次回のことにします。昔、その辺りで狭い道を車で「えーい、メンドーだ」と切り返しをせずに無理矢理曲がったときに左のスポイラーが外れてしまったことがあります。注意一秒3万円でした。本日は何となくほの暗いので注意注意、君子危うきに近寄らずであります。陳腐やなあ。
さて、次はどこに行くべえということで、しばらく405号線を快調に走ります。平の沢池は水鳥のみち公園として整備されていますが、この時期にはやはり多くの水鳥が来ています。ただ、写真に撮るにはコンデジでは難しい。かといって一眼レフをぶら下げてくるのもゾッとするしなあと申す処。この近辺の坊主塚は本日はパス。
続いていったのは南丹市の旧八木町の氷所というところです。今年は登ろうと思っている紅葉山の登山道の下見を思いつきました。ところがところが、ここには幡日佐神社というお社があり、当初は「まあ小さい祠だろう」などと考えながら近づいていくと、ものすごく立派なお社で、ここにお参りするうちに紅葉山への登り口の確認を忘れる始末(笑)。
祀られているのは応神天皇ですから、基本的には八幡さんですが、この地に幡がひらひらと舞い下りたという伝承があり、宇佐八幡から手向山、男山八幡につながるものではなく、独自のものなのだということを強く強調しているような気もします。幡は秦にもつながるので、本来は秦氏の信奉する原初的な八幡神が祀られてあったものが、中世以後に宇佐八幡から東遷した現在の八幡信仰につながる神と習合したのかも知れません。
この地からは紅葉山の向こうになる神吉は古来から「氷室」で知られた里であったようで、その地の氷室明神を合わせて祀っているので、このお社も別名を氷室神社というそうです。そのことがまた逆にこの地を氷所と呼ぶようになる基となったようです。ただ、ささ舟様に教えていただいたのですが、神吉とこの氷所はそんなに親密でないばかりか、ささ舟様の子供のころは実は仲が悪かったとのこと。してみると、この氷室明神の合祀も実は神吉の人にしてみれば「わしらの神さん」を盗られてしまうような思いがあったのかも知れません。現在でも神吉には多くの家があります。衰微して祀る者がいなくなってという合祀でないことはあきらかです。
それにしても、このお社の立派さには、「ぬぬぬ、丹波、畏るべし」の感を深くします。境内には何か分からぬ石も祀られていて、これは宿題となりました。影向石(ようごういし)のようなものなのかな?等とも考えましたが、わかりません。人に尋ねるにも、文字通り人っ子一人いません。
家に帰って調べたら、ここのすぐ近くの大送神社との関係も深いとのこと。このお社に参拝するということも宿題となりました。
神楽堂
ものすごく大きな燈籠が乗っていたであろう台座があります。何故燈籠が取り払われているのかも分かりません。それとも台座では無くて全く別のものなのでしょうか?
ある意味、今ここで、これだけの素晴らしい空間を独り占めしていると言うことにしみじみとした幸せと贅沢さを感じます。これで社前に茶屋か何かがあって熱燗なんかを飲ませていたりしたら最高…、「今日は車やし」、「かましまへんがな、私が運転して送ってあげますがな。」等々、おっとこれは妄想でした。
境内の石灯籠も古いものでしたが、年号はメモするのを忘れました。記憶力抜群も怪しい(笑)。
繰り返しになりますが、「丹波畏るべし」。当初の目的(といっても当日思いついたものだけど)を忘れて、ただただ感嘆の念が湧く始末にやはり自分は神風連なのだという認識を強くしました。これからは電線の下を通る時には頭を防御して通らねばなりません(笑)。
この神社については、ちょくちょくとコメントを下さる「携帯点脳」様に初めて教えていただきました。そのコメントでは、昔は丹波でも一、二を争うお社だったとのこと。それにしても、いつかは行かねばと思っていたところに、このように早く訪ねることになったのは、やはり御縁ですね。mfujio様にいただいた情報と携帯点脳様にいただいた情報がつながった。ありがとうございました。
ただ本日はあいにくの雨、小川月神社の位置を考えると車で行かざるを得ません。午後からのそーと出かけました。
千代川駅から月読橋を渡り、南丹高校の前辺りで南を見ると、広い広い、田畑がずうっと広がる中に早くも神社が見えています。
今はこじんまりとした感じになっていますが、式内社です。位置的に保津川の氾濫原にありますから、度重なる洪水で社地が失われていったようです。
並河の大井神社が松尾大社を勧請したものであるように、ここに月読命が祀られたのは現在は松尾大社の摂社となっている月読神社が勧請されたものと考えることも出来ますが、そもそも松尾の月読神社が秦氏による開発以前の伝承を伝えているかも知れぬことを考えると、この大堰・保津川水系には当初から月神を祀る習慣があったのかも知れません。
出雲大神宮の甘南備山を見る。
神社は今も神さびて素晴らしいのですが、すぐ横に鳥獣捕獲用の檻が設置され、カラスが3羽これに入って哀れな声をあげているのには閉口しました。これには神も怒っておられるように思いました。檻の中にはえさとして食パンのミミがばらまかれていますが、もうまもなくすれば腐って臭うようになるでしょう。清浄を重んじなくてはならぬ神域に対して不敬であります。
ここを南下すると遠山家住宅などがある集落なのですが、これはまあ次回のことにします。昔、その辺りで狭い道を車で「えーい、メンドーだ」と切り返しをせずに無理矢理曲がったときに左のスポイラーが外れてしまったことがあります。注意一秒3万円でした。本日は何となくほの暗いので注意注意、君子危うきに近寄らずであります。陳腐やなあ。
さて、次はどこに行くべえということで、しばらく405号線を快調に走ります。平の沢池は水鳥のみち公園として整備されていますが、この時期にはやはり多くの水鳥が来ています。ただ、写真に撮るにはコンデジでは難しい。かといって一眼レフをぶら下げてくるのもゾッとするしなあと申す処。この近辺の坊主塚は本日はパス。
続いていったのは南丹市の旧八木町の氷所というところです。今年は登ろうと思っている紅葉山の登山道の下見を思いつきました。ところがところが、ここには幡日佐神社というお社があり、当初は「まあ小さい祠だろう」などと考えながら近づいていくと、ものすごく立派なお社で、ここにお参りするうちに紅葉山への登り口の確認を忘れる始末(笑)。
祀られているのは応神天皇ですから、基本的には八幡さんですが、この地に幡がひらひらと舞い下りたという伝承があり、宇佐八幡から手向山、男山八幡につながるものではなく、独自のものなのだということを強く強調しているような気もします。幡は秦にもつながるので、本来は秦氏の信奉する原初的な八幡神が祀られてあったものが、中世以後に宇佐八幡から東遷した現在の八幡信仰につながる神と習合したのかも知れません。
この地からは紅葉山の向こうになる神吉は古来から「氷室」で知られた里であったようで、その地の氷室明神を合わせて祀っているので、このお社も別名を氷室神社というそうです。そのことがまた逆にこの地を氷所と呼ぶようになる基となったようです。ただ、ささ舟様に教えていただいたのですが、神吉とこの氷所はそんなに親密でないばかりか、ささ舟様の子供のころは実は仲が悪かったとのこと。してみると、この氷室明神の合祀も実は神吉の人にしてみれば「わしらの神さん」を盗られてしまうような思いがあったのかも知れません。現在でも神吉には多くの家があります。衰微して祀る者がいなくなってという合祀でないことはあきらかです。
それにしても、このお社の立派さには、「ぬぬぬ、丹波、畏るべし」の感を深くします。境内には何か分からぬ石も祀られていて、これは宿題となりました。影向石(ようごういし)のようなものなのかな?等とも考えましたが、わかりません。人に尋ねるにも、文字通り人っ子一人いません。
家に帰って調べたら、ここのすぐ近くの大送神社との関係も深いとのこと。このお社に参拝するということも宿題となりました。
神楽堂
ものすごく大きな燈籠が乗っていたであろう台座があります。何故燈籠が取り払われているのかも分かりません。それとも台座では無くて全く別のものなのでしょうか?
ある意味、今ここで、これだけの素晴らしい空間を独り占めしていると言うことにしみじみとした幸せと贅沢さを感じます。これで社前に茶屋か何かがあって熱燗なんかを飲ませていたりしたら最高…、「今日は車やし」、「かましまへんがな、私が運転して送ってあげますがな。」等々、おっとこれは妄想でした。
境内の石灯籠も古いものでしたが、年号はメモするのを忘れました。記憶力抜群も怪しい(笑)。
繰り返しになりますが、「丹波畏るべし」。当初の目的(といっても当日思いついたものだけど)を忘れて、ただただ感嘆の念が湧く始末にやはり自分は神風連なのだという認識を強くしました。これからは電線の下を通る時には頭を防御して通らねばなりません(笑)。
最初の小川月神社。私は月の名のつく神社はあまり知りませんでしたが、保津川流域あるいは、松尾神社の勢力圏にはあるのですね。写真により、小さな神社ながら周りの広大な田畑から、かつての神社領の広さがうかがえます。
そして幡日佐神社は予想外の立派さであったとか。ふと迷い込んだら、神さびた建造物に出会った。そういうことは私も経験ありですが、得をしたようでうれしいです。二つの神社をつなぐ途中の池、山、道路の冬景色も渋いですね。
神主や宮司にあらかじめ段取りをしておいて意見を聞くのが小説家などのやり方ですが、自分で案内板、古文書、資料で類推を重ねる、時に再訪する。手作りの小旅行にいつもながら、執念を感じます。今回は、*さ*の話と*こ*きの話がなくてちょっとさびしですね。(笑)
小川月神社は、今や田んぼの中の小さな社となってしまっていますが、その風景がまた、とても素晴らしい風景になっています。これは周りが宅地化されていないからでしょうね。
今回小生が幡日佐神社に突然出会ってしまったような体験を浮舟様もお持ちなんですね。本当に今回は予想もしてなかったので、驚きました。大送神社もなるべく早いうちに訪ねたいと思っています。
ここら辺りでは、今や宮司さんは幾つかの神社を掛け持って担当されているようです。しかも、神社のすぐ近くではなく結構遠いところに自宅がある人も多いようです。今度訪ねた時に誰か人がいたら、正体不明の岩については尋ねたいと思っています。
それにしましても、八木町に幡日佐神社の如き立派な神社があったことなど、まるで知りませんでした。初詣は、駅の向こうの本郷になるのか、その辺りの小さな春日神社ばかりでした。
紅葉峠を挟んで神吉と氷所の仲が悪かったのは、歴史的な背景があるのでしょうか。神吉には分限者が多くて、それを氷所の在人が妬ましく思っていたとか・・・。
私らは、宇津村から八木町へ遠足に行く時は渋坂峠を越えていましたので、氷所は通過しませんでしたけど。
仮に通っても、僻地の餓鬼など問題にされなかったかも知れません。“氷所”の地名は、私には高槻の方が懐かしく思えますが・・・
今回は極めて真面目な徘徊だったとか。丹波の奥深さを知る為に、一度地元の女顔役にご案内戴くのも有意義かも知れませんネ。
紅葉山への道ですが、幡日佐神社の南東120mが取り付き野ようです。gunkanatagoさんなら神社から東へ斜面をよじ登られたら道に出逢うことでしょう。ただこれは地理院の地図を見ての情報です。車でなら神吉から紅葉峠を通り富栄池へと下りてくる舗装された道があります。この峠から盆地を眺める風景はなかなかのもので、国造りの気分を味わえます。
そうそう、船井神社ではお世話になりました。宮司の松本さんをgunkanatagoさんにご紹介頂いたお陰でゼミの講座で皆さんを案内したときは、宮司さんが正装姿で待ってて下さっていて説明頂いたり社務所に上げて頂いてお茶の接待や畑で採れたかぼちゃまでお土産に頂いたり、参加者された皆様ご満足と解しました次第です。
氷所ですが、以前我がブログのコメント欄で触れたことがありますが、宇多野の福王子神社に三つある社の一つにこの氷所から都へ氷を運んで倒れた人が祀られています。氷所や氷室といえば加賀藩から江戸迄氷を運んだとも聞きますけどまあ昔の人は逞しかったんだなあ、なんて事まで思いが馳せてしまいます。
この辺りは、馬路村がありますが、ここから旗本杉浦の代官、人見団五郎が我が里へやって来ていました。藤野斎さん宅へ来たときの様子などが描かれていますが彼がどの道を通ってきていたのかは我が興味をかき立てます。出雲大神宮の存在も、周山中学校裏、縄野坂近辺で発掘された方墳などとの関連でみると我が山里の歴史ロマンをかき立ててくれます。河原林町というのもあり我が里の河原林さんと関係あるのって聞いたりしてますがこれは勘ぐりすぎかしら。船井神社の東側にある木喰上人縁の清源寺は訪れたいと思っていますが、この盆地の東裾野をじっくり歩いて廻りたいなあと駆り立てさせて貰いました。師匠はこの辺りはどうなんでしょう?
二つの神社ではなく、その位置から我が思いのコメントになってしまいました(ゴメン)
神吉と氷所の仲、今は仲良くやっているかも知れませんから、火のないところに煙の論かも知れませんが、やはり氷室権現の遷座をめぐるゴタゴタがあったようですね。一度、亀岡辺りの図書館に出向いてじっくりと調べてみたいと思います。と言って、そういう純粋に勉強めいたことには、ついつい億劫になってしまいますが。
幡日佐神社、小生も小さな祠を予想していただけに、突然ドーンとすごい社殿が現れたのでビックリしました。始めの小川月神社は今やそのような小さな祠になっていますが、かつては丹波で一、二のお社だったとのこと。その壮麗さが想像できます。今、地図を見てみると、そのまま紅葉山に上っても良かったのかなと思います。
丹波の非合法地帯は未だ発見できていませんから、真面目にやらざるを得ません(笑)。昔、人を馬にして売っていた連中はどの辺りにいたのでしょう。
師匠がウロウロとされるには、ちょっと交通の便の問題があると思います。また、泊まるにしても宿もない感じですから、やはり車で案内して来てもらう形になると思います。
宇多野の福王子神社は、今は宇多天皇の皇女のお一人を祀る形になっていますが、やはりその起源は、塞の神だったのでは等と思っています。あそこは確か五叉路になっていますね。そこに氷を運んできて、道で息絶えた人を祀るということは「さもありなん」という感じですね。
代官の人見団五郎、小生はちょっと同情的です。別の土地の代官だったら波風も立たず、平穏に維新を迎えられたかも知れないのに、馬路村を担当していたのは不運でした。それにしても、あの辺りは「人見さん」と「中川さん」だらけですね。
本文にちょっと書きましたが、河原林には遠山家住宅というのがあり、小生もメチャメチャ世話になっている桂飴を売っている方の御本家に当たります。もともとは美濃の郷士が、どうして丹波にというのは未だ聞けていません。河原林さんも何名か存じ上げていますが、その中には、丹波の河原林が苗字の地であるという人も必ずおられると思います。
舩井神社の宮司様、何と「正装」ですか。小生もお参りするたびに何か土産を下さるので恐縮しています。大送神社からは近いので、また訪ねようと思います。
それと大送神社へ行かれたら貞任のなんとかが、という言い伝えが残っていないか聞いてみて下さい。
ナナナ!、大送神社にも貞任伝説!必ず聞いてみます。ただ、人がいるかどうか(笑)。行事の日は大丈夫でしょうから、綱引きを見に行かないとあきませんね。
河原林町河原尻の大庄屋・代官であった遠山家。現在は国の重要文化財です。gunkanatagoさんはすでに行かれましたか?
小川月神社は私は行ってないですが、わが本箱の「亀岡百景」に書かれていますので、次の徘徊時に持ってまいります。(忘れなかったら・・・)
昨日、近くのスーパーで願ってもない方に偶然出会いました。中学3年時の担任の先生で、(生まれも育ちもK村で現在85歳のお爺さんです)。ラッキー!そうだ先生なら氷室と氷所の関係を知っていられるかも?と、とっさに浮かびました。「先生聞きたいことがあるのですが・・・」「じゃーお茶でも飲みながら・・・聞こうかな」
肝心の氷室が氷所に行った理由ははっきり判らないが、2,3問題があり、ひと悶着あったことは聞いている。そのひとつは個人所有の山の境界。どのような話だったかは聞いていないが、石まで持っていかれたらしい。ええ!あの石?幡日佐神社に謎の石がありましたね。たぶんそれかな?K村から大堰川を筏に乗せて新庄村まで流し、そこから氷所まで運んだそうです。石はもっと大きかったらしいですが、筏に乗せるために小さく割って運んだと聞いている。
K村には氷室という小字名もあり、幡日佐神社の南向きと違って北向きで氷室の役目に適しているのだが・・・。と先生は言われました。
ほかに村の塚の話などしてくださり気が付けば2時間もお喋りしていました。
そしてまた、ぴったりとタイムリーに中学の時の先生に話を聞いていただき、ありがとうございました。ささ舟様に聞かせていただいたことをもとに、何かもめたのかなとは思っていましたが、やはり何かあったのですね。おっしゃるように山の向き一つをとっても神吉に氷室がある方が合理的なのですが、『「石」まで持っていかれた。』という表現に、神吉側の残念な気持ちというか、そのようなものが感じられます。しかもわざわざノミを入れて小さくしてということですから、強引です。
氷所の側として、何故に氷室明神を我が村に勧請しなければならなかったのか、神吉が廃絶したとか、そういうことは無かったし、神吉の人々の感情を傷つけ、両村の子供たちの間にまで何か不穏なものを生じさせてまで、遷座を実行した理由は何か等、またまた宿題が浮上しましたね。
本当にいろいろな人に話をうかがうことは大切ですね。小生も最近は厚かましくなって仕事をしておられる方の手を止めることも多いのですが、これからもやかましく尋ねて行こうと思いました。